第三章 奪胎換骨 編
第二十六夜 憂患
【Ⅰ】
夜からの開店準備の為、料理の仕込みやテーブル、床といった清掃を慌ただしく行う中、ジーパンの後ろポケットに入れていたスマホがブンブンと鳴り出した。
こんな忙しいときに誰なのだろう?
無視してやろうかとも思ったが、その選択をしなくて心底よかったと、
その男、角谷八馬は相手を確認して思った。
「─はい、もしもし?」
雑巾臭い湿った手でスマホを操作し、耳と肩に挟んで電話に出た。
まだすべてのテーブルを吹き終わっていないので、新しい布巾を棚から出して水道水を含ませる。
電話口からは、低いバリトンの美声。
『忙しいときに悪いな、八馬。今しか時間がとれん』
常々思うが、この人の声は相変わらず怖い。
出会うすべての人間を制圧しなければ気が済まないのかとすら思わせるほど。
自分も割とそういうカテゴリにいる人間だとは思うが、
この人にだけには敵う気がしない。
そんな電話の相手は半年以上連絡をとっていなかった。最後に見たのも同じ時。八馬にとってとても久しい相手だった。
とは言え、連絡をとっていたと言っても、お店に酒を飲みに来る時に事前告知される程度の大した用もない通話だが、
今はどうやら割と重大な事を抱えているらしい。
相手のいる場所がハッキリとわかるようなアナウンスが聴こえ、八馬は『今しか時間がとれない』という旨の言葉を現実的に理解した。
「......もしかして、今空港です?」
『ああ。今の時間帯お前が忙しいのはわかるが、今から三週間日本には居ないからな』
聞こえたアナウンスは搭乗口の案内だった。
恐らく、国内でのやり取りと、国外への移動とのほんの少しの空いた時間で電話を掛けたのだろう。
そう考えると、この状況はかなり珍しい。
というより初めてだ。
八馬は声に出さないものの、かなり驚いていた。
時間を考えずに掛けてきたというのも引っ掛かる。
そうまでして連絡をとろうとするなんて。
まさか何か面倒なことに捲き込まれるんじゃあないだろうな......俺......
八馬は布巾を固く絞り、せっせとテーブルを吹きながら言った。
「それで......日本を離れる間俺に何をしてほしいんですか?要はそういうことですよね?」
どうせ貴方には逆らえませんよ、と一人呟く。
此方から受け入れる姿勢を取ってくれたことに満足したのか、「助かる」という安堵の溜め息が聞こえた。
『此処最近、お前の弟から変なウワサとか、変わった事とか耳にしてないか?』
「......えっ?いきなり九一の事ですか?何でまた......」
『申し訳無いが、疑問を抱く前に質問に答えろ』
............こっわ。
八馬は聞こえないように、ふーっと息をつく。
テーブルを拭き終った布巾を洗いながら此処何日かの変化をぼんやりと思い出す。
弟─つまり、九一からの情報を欲しているあたり、西地区の現状が知りたいといった所だろう。
そう言えば、と八馬はポツポツ断片的に話始めた。
「槙............あ、今の西の頭なんですけど、ソイツがわりと暴力に陶酔するような典型的なタイプで、最近はとくに毛が逆立ってますね、後は誰かの正体を暴く............というか、探そうともしてます。誰を探してるのかまではわかりませんし、何のために探しているのかもわかりませんが。それと、西に限った情報ではないんですが、どうやら東もわりと忙しない様ですね」
直ぐに返答が返ってこない。
電話なので相手の表情が見えないのが不安を煽る。
案の定、相手の機嫌はかなり悪くなっていた。
『そもそもがおかしいってことに気が付かねぇのかテメェは』
バリトン通り越して地響き......?
言葉遣いがあの頃に戻ってますってば!
八馬は泣きたくなった。
仕込みの牛スジの様子も見ないといけないのに......
心は完全に縮み上がってご機嫌を伺うようにそろそろと尋ねた。
「そもそもって..?」
が、舌打ちが聞こえる。
駄目だ、俺には永遠に貴方には敵いません。
そんな八馬に追い討ちをかけるかの如く言葉が耳に刺さって行く。
『すっかり平和ボケしてるな。いいか、この時期はもう三年はチームから殆どの脚を洗い始める。目立つほどの規模でざわつくなんてことは先ずないんだ。
だが、そんな冬眠しかけの熊が目を覚ますような何かが起きたのだとすればそれは放っておけん。
しかもこのタイミングで......!』
ああ、やばい。怒りが、怒りが......
八馬は自分が何かを忘れているような気がしてきた。
そうだ、この人の本来の目的はなんだった?
八馬はひぃふぅみぃ、と指折り年を数える。
「......あ、まさか」
『なんだ、まだなにかあるのか?吐け』
「い、いいえ、そうではなく。思い出しました。貴方の目的。全てはそれが起因してるんですよね?」
またもや沈黙。
そして、静かな声が聞こえた。
「そうだ。......このまま何もなければ俺は安心できたのに......
クソ、何故だ。その為に俺は全てやってきたのに」
悔しさと歯痒さが滲むような声だ。
忘れていた。そう。この人は、この人の全てはあの子に捧げられていたのだということを。
確かに自分は平和ボケしていたかもしれない。そして、不謹慎かもしれないが、再びこの人の為に役に立てるのであればそれでいいと思えてきた。
当時の自分が少し宿りつつある。
八馬は意を決した。
「俺は、貴方に救われた。
今、役に立てるのであれば動きましょう。
──燈也さん」
【Ⅱ】
ビジネスクラスの座席に座り、スマホの電源を落とさなくてはならない時間が迫る。
燈也は発信履歴を睨んで、内心毒づいた。
履歴には、一番上に弟の卓弥の番号。二番目には角谷八馬の番号。
その下に続く番号は全て─卓弥。
かけた電話は繋がらない。
電源が切れているならいい。だが、もし何かがあったら─?
燈也の脳裏にこびりついて離れない光景。
愛しの弟のその頸部につけられた手形の痣。
スマホが僅かにミシリ、と音を鳴らす。
あの夜の翌朝、燈也は放って置く訳もなく、山霧の部屋に行き問い詰めた。
無表情で頸を擦る弟。
『ああ』と思い出したように言ったのは。
『球技大会で転けました。バスケットの競技中、相手のボールを無理に取ろうとしたら相手と縺れながら転倒しまして。丁度手が僕の頸に乗ってしまった状態で床に倒れてしまったんです。
頸は血管が多いですから、僕はどちらかというと皮膚も薄い方ですし。少し目立って痕が残ってしまっただけですよ。
大したことありません。
それこそ─兄さんが気にすることじゃない』
最後の一文が、重く燈也にのし掛かった。
まるで、俺を避けるような、そして欺こうとでもするようなその言葉。
赦せない。
アイツは嘘をついている。
根拠はまだ無いが、兄弟だからわかる。
何故嘘をつくんだ。
俺は心配しているのに。
何故平気な顔をして嘘をつく?
「.....」
燈也は歯軋りした。
俺を、不安にさせてくれるなよ。
今、弟の側から発たねばならない状況に歯痒さを通り越して行き場の無い怒りを覚える。
平静などでは最早なかった。
だから、角谷に連絡をとってしまったのかもしれない。
自分が過去にしてきた事が、無駄になるかもしれぬその危機が、
燈也のこころを髄まで蝕む。
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