16話


 小雨がひどくなってきて、雨が涙のように降り注いでいた。空の顔から血の気が引いているような音がする。

 私はノートパソコンに活動記録を纏めていた。記録を読み返すと、色々な仕事があったことを思いだした。

 何度も何度も殺されかけている。今回も、またその記録が増えるだろう。

 パソコンをタイプしていると、部屋の片隅から鳴き声が聞こえた。

 小さな灰色のネズミだ。私は指で銃を作って、狙いをつけた。

「助かりたければ、三つ数えろよ」と、演劇のような動作で言った。

 ネズミが鳴いて、どこかへ行った。チュウ。部屋の外で猫の鳴き声が聞こえて、ネズミの断末魔が聞こえた。

 外まで歩いて行って、見ると猫がネズミをくわえていた。そしてどこかへ走り去った。

「おやすみ」と、私はネズミに言った。

 時計を見ると、もうそろそろいい時間になっていた。私は浅井に電話をかけた。

「はい、浅井です。あなたは誰ですか?」と、澄んだ声が聞こえた。

「魔法使いだ」と、私は言った。

「え?どういうことですか」、戸惑った声色。

「探偵だよ。覚えてないか?」

「ああ、探偵さん。でも、どうして?教えてないはずなんだけど」

「ちょっとしたマジックを使ったんだ。必要だと思った。君に話したいことがあるんだが、佳奈ちゃんに関係ある事だ。どうやら話が危険な方向に向かっていて、そのことを話しておきたいんだ。時間はあるか?」

「うん。どこで待っていたらいいの?」

「オリヴィアで、コーヒーでも飲んでてくれ。好きな物を頼むといい。全部払っておこう。たぶん、私の方が先に着くだろう」

「うん。わかった。でも部活があるんだけど・・・・・・」

「今日はちょっと休んでみたらどうだ?」

「うーん。わかった。休むよ。佳奈ちゃんに何かあったら心配だし」

 私は目を瞑った後、天井を見上げた。コーヒーポットから冷めたコーヒーをコップに入れて、バターを入れて、飲み干した。

 顔をしかめて、「まずいな」と、私は言った。バターを入れてコーヒーを飲む人間の気が知れない。

 そして、猫に殺されたネズミの姿を思い出した。

 パソコンの画面を落として、ゆっくりと立ち上がった。

 今日は雨だったが、傘は持っていかないことにした。少しぐらいなら濡れても構わない。私は何も言わずに歩き出した。事務所の電気を落とし、鍵をかけ、外出の札をかける。

 外に出ると、雨が私に降り注いだ。空は暗くなっていた。私は雨に打たれるまま、そのカフェまで歩いていった。

 硝子の向こうに、顔なじみの店員がいた。マスターと、彼は皆から呼ばれていた。ここの本当のオーナーは、数年前から体調を崩している。

 ドアを開けると、鈴の音がなった。

「コーヒーを一つ」と、私は人差し指を立てて言った。クーラーで中は冷えていた。

 録音されたピアノの音。クレオパトラの夢。

 木製の椅子がカウンターの前に並べてあった。カウンターの木は落ち着いた茶色で、その上には小物入れが置いてある。男の向こうにはコーヒー豆やミルなどがあった。中年のタキシードを着た男は頷くと、動作をゆっくりと始めた。

「今度は何をしてらっしゃるんです?」、抑揚のない、落ち着いた低い声だ。

「派手なことをしなくちゃならないみたいだ」、と私は言って、椅子に座り込んだ。

「派手なこと、ですか。切った張ったが出来るのは、そうそう長くはありません。いつかやめる日が来ます。藪医者に縫われると、傷が疼く。こんな雨の日にね」

男は腹をさすった。

「酒場で刺されたんだろう?」と、私は言った。

「本当に昔、ちびっこいナイフですがね、腹をやられました。おかげで、自衛隊を首になりましたよ。銃のが得意なんで」

 この男は自衛隊で狙撃手をやっていたことがあり、今は狩りを趣味としている。

 豊和の30カービン、ウクライナの7.62×39ミリのセミオートライフル、大口径のボルトアクションライフル、ショットガンなどを合わせて7丁ほど持っているらしい。私には到底所持許可はおりそうにない。辻は彼ではなく加藤から銃を盗んだ。

 つきあいが長く、狙撃手と狩猟をやっているほど洞察力の高い人間から盗みをするのは、難しいものだ。加藤はそこら辺の経験が浅かったか、それとも前が見えなくなっていたのかもしれない。熱をあげすぎてしまうと、そんなものだ。

 私は彼の動きを見て、コーヒーが出来るのを待った。

「酒井はうまくやってるのか?」と、私は聞いた。

 老人にも見える、老けた顔を持つ男は挽いた豆に湯を入れている。表情には変わりなかった。

「みずなさんよりは下手ですが、そのうちよくなるでしょう。時々は、私が出てます。それよりも大事なのは、辻さんが殺られたことです。彼女の代わりは、そうそういませんからね」

 マスターは溜息をついて、目を瞑った。

「代わりのいる人間なんていない」と、私は首を振った。

 男は呟いて、「悔しくてしようがありません」と言った。

「もう終わったことだ」、私はそのことが気に入らなかった。

「彼女の死に顔は、見ましたか」

「目を瞑っていた。安らかだったよ」

「それはよかった」と、男は眉をしかめて、目を瞑った。

「銃は、恐いですからね。おもちゃみたいなのでも、殺せますから。辻さんは、撃たれた」

 私は頷いた。

「クレオパトラの夢だ」、私は言った。流れていた曲の名前だ。

「ええ、毒を選んだ、哀れな女の儚い夢の唄ですよ」と、男は言った。

「こっちのクレオパトラは、ちびっこい蠍に殺された」

「拳銃を蠍という人は、初めて見ましたよ。良い表現だと思いますよ。昔は、詩をやっていたんで」、老人は私に熱いコーヒーを出した。金属のマグカップに入れられていたので、カップに店内の景色が、この街のように歪んで映り込んでいた。

 儚い夢の唄は、銃声で終わりを告げた。

 私はコーヒーをそのまま飲んだ。

「酒井さんは、実家でゆっくりしてますよ。好きなときに戻ってこいと言っておきました。ほんのたまに、店に藍原さんや高岸さんも来るようになりました。あとあのでかい刑事が、時々来るようになったようです。それに山根も、時々来ているようですが」

「追い出さないのか?」

「デカややくざとは仲良くやった方が、商売は楽ですよ。本当はね。ああいうのは、要求を通すために暴力を振るうんですよ。殺しが目的じゃありませんから。あなたのおかげで、ここもみかじめを獲られなくなりましたし」

「ああ、シャンソンのオーナーなのに、オリヴィアで店員をやってるのはわからなかったもんだよ」

「カフェも好きな物でね。人手が足りないと頼まれたもので、手伝ってみたら結構気に入りましてね」

 私は頷いて、水を飲むように、何も入れていないコーヒーを飲み干した。

「貴方は、結構淡泊な所がありますね」

「何の話だ?」

「見ず知らずの人間のために命を賭けても、身の回りの女性に対しては反応が薄い」、男はにやりと笑った。

「愛の言葉を囁くのが、性に合わなくてね」と、私は苦笑いをした。

「悪者に殴られるよりかは、よっぽどマシでしょうに」

「かもな」

 男は私のカップにまたコーヒーを注いだ。雨の音が聞こえ続けた。

 店内には何かの本を読んでいる白人の男がいた。

 私に背を向けて、座っている。白い男の机には銀色のカップが置いてある。カップにスマートフォンが立てかけてある。スマートフォンのカメラがこちらを見ていた。

「そういえば、週刊誌は見ましたか。貝木という記者が、辻さんに関わった事件のことを色々書いてますよ。貴方のことも」

 白人の男の反応を見た。そちらを見続けると、野球帽を被った白人の男は立ち上がった。私よりも更に大きい男で、筋肉もつきすぎている。190cmはあり、100kgは越えている。民間軍事会社、傭兵会社の男達に風貌が似ている。サングラスを掛けていて、ジーパンをはいている。

 Tシャツの上にジャケットを羽折っていた。日本では推奨されない尾行の格好だ。

 白人の男はカウンターに代金を置いた。

 そして、男は私を見続けていた。男のズボンの中から、拳銃の黒くて角張ったグリップが少しのぞいていた。隠匿性を重視したインサイドホルスター。中に入っているのはグロック社の拳銃だ。ポケットから黒くて長いクリップとノッチ、それに突起が飛び出ている。折りたたみナイフだ。男の目は海のように青く、金色の体毛と短い頭髪を持っている。歴戦の兵士の風格を持っている。

「デティクティブ、ギャンブリングは推奨できないな」と、男は日本語で言った。流暢だが、英語を話す人間の訛りがある。低く、がさつな声だ。

「この国には自由がある。君の母国の、アメリカのようにな」と、私は言った。

「俺の国を旧植民地と一緒にするな」、白人は言って、その後舌打ちをした。ミスをしたのに気が付いたようだ。

「落ちぶれ国家のイギリス人か。ファッキン・ジョンブル。ろくでなしの人殺しめ。殺人以外出来ない、白ゴリラめ。何がしたい?」と、私は相手を怒らせることにした。こういうタイプはやりやすい。イギリスに特に恨みはないが。

 白人は左の掌を顔面に打ち込もうとしてきた。右手で払う。白人は右でホルスターに手を伸ばして、グロックを取り出した。男が右手を突き出しながら、スライドを左手で引こうとする。拳銃に思い切り拳の底を食らわせて、たたき落とした。白人が右手をポケットに伸ばして、ナイフを取り出そうとした。刃をはじき出す前に手刀で吹っ飛ばした。男は飛び退いて、距離を取った。

「おもちゃで遊ぶのは終わりか?」と、私は笑った。

「このイエローモンキーめ!イラクかイエメンだったら撃ち殺していたぞ!大使のカジノに来るなよ!クソ野郎」、白人の手は怒りに震えていた。

「私からも忠告を三つやろう。怒りは余計なミスを引き起こすことと、この距離で銃やナイフを抜くのは推奨できないということだ。喉にチョップを食らうぜ。その体格があれば、殴った方が早いだろう。私が殺す気なら、今ので三回死んでいた。テロリストとの撃ち合いの経験は多いが、やり手との喧嘩の経験は少ないんだろう?」

 白人の男は顔を真っ赤にして、自分のミスにまた、気が付いた。白人は息を荒げて、武器を拾った後、出て行こうとした。

「どこの民間軍事会社にいたんだ?イエメン内戦にイギリス軍は参加していないはずだ。お前はブラックウォーターにいたのか?」

悪名高い民間軍事会社だ。テロリストも沢山排除したが、銃を持っていない人間も沢山殺した。

「イギリス軍の後、ブラックウォーターに入った。それでXe社、次にR2社だ。ずっとイラクで、最後にイエメンで戦っていた」

「戦争犯罪をしたことがあるだろう?」、直感だった。

 白人は大笑いをして、頷いた。

「あぁ、沢山殺ったぜ。中東だったら、ここごとお前をAT4ロケットランチャーでぶっ飛ばしてた」

「じゃあ持って来いよ。私をロケットランチャーたった一発で殺せると思わない方がいい」

「だったら迫撃砲がいいか?死なない人間などいるものか」、白人は口元に笑みを貼り付けた。

 そして白人は出て行った。

 どこから情報が漏れたのかわからないが、たぶんやくざの連中の内部問題だ。ねずみがいるのだろう。白人は私のあだ名を知っていた。

 私は話の続きをすることにした。白人の男の存在感に話が頭から吹き飛びかけていた。

「週刊誌は見てない。どんな内容だった?」

「辻さんの過去、家庭環境と当時の状況、それに貴方の現在と過去のほんの少し、藍原さんについて、それにあの刑事二人のことと、クラブハウスでの乱闘の事も」

「忠告はしたんだがな、奴はきっと殺される」と、私は溜息をついて言った。

「記者のことを知っているんですか?」

「私にコンタクトを取ってきた。だから忠告をした。品は無かったが、だからと言って死んでいいわけじゃない」

「誰に殺されるんです?」

「でかい刑事とコンビを組んでた痩せた方だよ。あいつは天性のサイコパスだ」

「記事に少しだけ載ってましたよ。記者も踏み込み所があるんですがね、加減を間違えると足を食われる」

「文字通り、生きたまま食われるだろう。週刊誌の名前は?」

「週刊レターですね。規模は小さいですが、過激なタブロイドですよ。飛ばしと思われるだけでしょう」

 そう願うよ、と私は呟いた。呟きはどこかへ消えていった。

 貝木という男にもう一度会って、高飛びを勧めるべきなのかもしれない。

 勧める前にもう海の底にいるかもしれない。

 雨の音をずっと聴いていると、カップに少女の姿が映った。少し遅れて、扉が開いた。

「傘がなくて、濡れちゃった」

 浅井は濡れた体をはたいていた。男が彼女のためにタオルを用意した。

「お嬢さん、体をこれで拭きなさい」、男は柔らかい笑顔を浮かべて、手渡した。

「ありがとうございます」、少女はそう言って、タオルを受け取って、柔らかそうな茶色の髪を拭いていた。

「何か食べるか?」、私は短く言葉をかけた。

「んー、別にいいや。探偵さんはどのぐらい待ったの?」

「あまり時間については気にしないようにしてる。だいたいいつも暇だ」

 私はコーヒーを飲んだ。

「お飲み物はいかがなさいますか」

「紅茶がいいかな」、彼女は呟いて、私の隣の席に座った。

「それで、話って?」

「君のいとこの男は、スリっていうのは知っているな」

「うん」

「彼の名前は小鳥遊という。簡単に言うと、小鳥遊はスリの組織に属している。その組織のトップは凶悪な犯罪者で、人を殺したことがあり、素手でも一撃で人を殺せる男だ。韓国から来て、軍で殺人術を学び、台湾で人を蹴り殺し、日本へ逃亡した」

 色々な国を逃げ回っている。権力を敵に回すとはそういうことだ。捕まれば、拳銃で心臓を撃ち抜かれる。台湾の死刑は銃殺刑だ。

「言っておきますがね、お嬢さん。軍人全員が人を一撃で殺せるわけじゃありませんからね。特殊部隊か空挺みたいなエリート連中か、それとも別途で訓練してた奴でしょう。私には素手で一撃なんて無理ですから。ただの狙撃兵でしたもので」、マスターは口を挟んだ。自分がそう思われるのが気に入らなかったらしい。

「ライフルが上手いなら、充分だ。たった一人で戦争ができる」と、私は答えた。最高のスナイパーなら、二人で200人の兵隊を足止めできる。

「そして小鳥遊は警察にも使われている。その警察は普通の人間が想像するような清く正しい組織ではなく、悪魔城みたいなものさ。そこの刑事兼連続殺人鬼にも使われている。そいつはドラキュラみたいな奴だ。少女の生き血を文字通りすする、化け物だ。牙の代わりにナイフで人を切り裂いて、肉を食らって、血をすする。奴のお仲間は奴が殺した人数を数人と見積もって高をくくってるが、多分二桁は殺している。そしてそいつはやくざとも繋がっていた。そのやくざにも、人を何人も、あるいは二桁殺している男がこの街にいる。そして私が小鳥遊を解放するための手順を踏んでいるうちに、ある国の大使とそれの手下のアフリカ系ギャングともやりあうはめになるかもしれない」

 浅井は黙って聞いていた。少しだけ間をおいて、「警察が、そんな風になってるの?大使ってどういうこと?」と言った。

「東京の警察全体がそうなのかはわからない。しかし、新宿署はそうだった。君を殴りつけた男はその化け物と同僚だった。そして、コートジボワール大使。木村家のすぐ近くにある大使館だ。連中が経営している闇カジノに、私は乗り込んで、カジノロワイヤルをやらなくちゃならない。君も気をつけた方がいい。君も佳奈ちゃんも巻き込まれるかもしれない」

「そんな、気をつけるって言ったって・・・・・・」、浅井は言葉を切った。

「無理だよ、そんなの。そんなのが襲ってきたら、私どうにも出来ないよ」

「痩せた日本人と背の高い韓国人と黒人と目が青く金髪の大きな白人に気をつけろ。夜が来る前に、家に帰るんだ。そして、外で危ないと思ったらすぐに逃げるんだ。後ろを振り返らずに。絶対に家に帰るまで安心しちゃ駄目だ。そして家の鍵をしっかりと閉めるんだ。化け物が入ってこないように。何か起こったら、家からもすぐに逃げ出せるようにしてほしい。家族のことを考えずに、逃げろ。もし君の父親と母親の悲鳴が聞こえても、真っ直ぐ逃げ出して、私の所に来てくれ。もし、私がいなかったら」、私は言葉を切った。

 面倒事を引き受けることができる人間は、この世に数多くはいない。だいいち、日本で最も危険な男達に関わらせるのは気が引ける。

「いなかったら?」

「高岸という男か、藍原という女を頼ってくれ。私の事務所の近くにあるはずだ。もしくは、シャンソンというバーまで駆け込んでくれ」

「ここでもいいですよ」、マスターが呟いた。

「まるで、都市伝説みたいだね」、浅井の顔には現実感がなかった。まるで夢のような話を聞いているような顔をしている。だが、それは悪夢だ。

「ああ。だがこいつは本当だ。幽霊なんかと違って、現実なんだ。そこら中に人を殺しそうな連中がうろついてる。そいつ等どうしが今、線でまた繋がって、小鳥遊を取り囲んでいる。私もその鳥かごに関わった。君も遅かれ早かれ、その鳥かごに入るだろう。鳥のつがいの片割れと、君は深く関わっている。そしてその片割れも、気が付かないうちにかごの中に入っている」

 もし私が銃を握れば、もっと多くの人間が死ぬ。そして銃を握る事態が必ず起こる。そのことには触れなかった。私はとりかごの扉のようなものだ。鳥を外へ放ってやることが出来る。その代償に、自分が砕け散るかもしれない。

「いったい、いつまでそうすればいいの?」、震えてか細くなった声が聞こえた。

「わからない。だがその血をすする殺人鬼は18才以下を好むらしい。もし目をつけられたなら、18まで逃げ切ればいい。他の奴等は、きっと君には目をつけないだろう」

「私、あと1年も気をつけてなきゃならないなんて無理だよぉ」、目に涙が溜まっていた。仕方の無いことだろう。

「少なくとも、今回の仕事が終わるまでは手を出さないだろう。私とそいつらとで契約を結んだ。悪魔と取引をしたのさ。鳥を放つために、私は二つのことをする。その二つが終わるまでは、奴等は何もしないはずだ。そのぐらいの分別はあるから、まだ捕まってないんだ。青空に飛び立った後の方が、危険かもしれない。天気はいつも変わるものだ」

 脅えて震える一人の哀れな少女。

「できる限りは、頑張るよ」と、私は言った。

「できる限りじゃなくて、約束して。守ってくれるって」

 目に照明の光が映っていた。声は震えながらも力強さを増している。救いを求めてすがる少女がいた。しかし、私は神ではない。そして、この世に神などいないことを知っている。

「わかったよ。約束する」と、私は確信を持てなかったが、そう言った。それは優しい嘘だったのかもしれない。

 彼女は深い溜息を吐いた。

「籠の中の方が心配なく、楽しくくらせるのかな?」

「かもしれないな。私はそんな生き方をしたくないがな」

「変な人なんだね。すごく、変な人」

「いつか、わかるさ。だが、知らない方が幸せだろう。自由は麻薬みたいな物さ」

 真の自由を手に入れるためには、命をレイズに出さなくてはならない。オールインと言った方がいいかもしれない。特に現代社会では。まるでいかれたポーカーだ。

「そっか。ハムスターだって、回し車の中じゃなくて、草原を駆け回りたいよね」

「まぁ、そういうことだな。ペットはお断りということだ。猫に食べられようとも」

 浅井の前に紅茶のカップが、男のしわのついた手によって置かれた。それが少女のみずみずしい手によってもたれると、そのまま口にそっと流し込まれた。

「あつい、なぁ。はぁ、なんで私が巻き込まれなくちゃならないんだろう」

 私は黙っていた。

「お嬢さん、それが人生なんですよ。いきなり椅子から蹴落とされることがある。蹴落とされたことが無い人間は痛みを分からない。そっちのが幸せですがね」

「知らなくていいよ、そんなこと。なんでそんなことしらなくちゃいけないの?」、お嬢さんと呼ばれた少女は顔を俯かせてそう言った。両手で包んだコップを弄んで、またカウンターに置いた。

「その通りですね」

「あーもう。やになっちゃうよ」

 彼女が紅茶を飲み終わるまで待った。私は軒先に出ようとした。煙草を吸おうと思ったからだ。手に煙草を持っていた。外は土砂降りの雨。灰色の空が東京を包んでいた。息も出来ないほどの雨だ。

「待って」、と彼女は言った。私は振り向いた。

「煙草って、おいしいの?」、彼女は首を傾けた。

「旨いとは思えない」

「じゃあ、なんでなの?」

「弔いかもしれない。何に対してかもわからない弔いだよ」と、私は答えた。

 全てに対するやりきれなさがふくれあがってきた。希望に対する弔いなのかもしれない。彼女の茶色の瞳は、私の煙草を見つめていた。

「こいつに興味があるのか?」、私は煙草をつまみ上げた。

「寿命を縮めるだけだ。やめておいた方がいい。肺が真っ黒になってしまう」

「吸ってるの、見たいな」

 私は頷いて、煙草に火をつけた。紫煙が空へ上っていった。彼女は目を輝かせて、私を見続けていた。口角が上がっていた。

「楽しいか?」、私は聞いた。

「うん。でも、失礼かな。弔いなんだよね?」、彼女は少し眉と声のトーンを下げた。

「自己満足だ。気にしないでくれ」と、私は言った。墓には焼かれた骨しか入っていない。無神論者にとって、祈りも弔いも全て自己満足だ。

 私のポケットが震えた。電話がかかってきている。小鳥遊からだった。スマートフォンを耳に当てた。

「着いた。待ってるよ」

「もうすぐ、そっちに向かう。いいな」

「ああ。最近、ユンの機嫌が悪くてな。困ってるんだ」

「ユン?」、初めて聞いた名前だった。アジア人の名前のように聞こえた。

 私は煙草を吸って、離した。

「ボスの韓国人の名前だ。奴は気分屋だから、気分が悪い日は撃ち殺されそうで心配なんだ」

「銃を持ってるのか?」、嫌な気分になった。銃持ちの相手はうんざりだ。浅井の笑顔が引きつっていた。

「いいのをな。マグナムも持ってるよ。でかすぎなくて、古くて高そうな奴を。人を撃つためのマグナムと言っていた」

 人を撃つためのマグナムなら、357マグナムだろう。

 私の持っているボディアーマーなら、357マグナムの回転弾倉6発全てを至近距離で叩き込まれても、パンチよりキツイだろうが止められる。

「名称は分かるか?」

「パイソンって言っていたような気がする。銃は知らないんだ」

「ああ、古いがいい銃だ。ロールスロイスみたいに」、私は電話を切った。

 銃撃戦を生き延びたとしても、死体の処理について頭を悩ませる必要が出る。銃撃戦にならないことを祈った。

 私は立ち上がって、少女をちらりと見た。彼女は紅茶を飲み干して、カップを置いていた。そしてスマートフォンを取り出して、なにか指を動かしていた。

 私は金を取り出して、千円札を二枚置いた。

「さぁ、行こう」

「うん、いこっか」、と浅井は言った。立ち上がって、あくびをした。

 私は外へ向かって歩き出した。

「あんまり無茶はやらんほうがいいですよ。言っても聞かんでしょうがね」と、マスターが言った。銃が気にいらなかったらしい。

 私は何も言わずに頷いただけだった。

 煙草を吸って、息を吐き出した。

「そういえば、ズボンが破れてるね。膝の上が切れてるし、血も出てるよ」

浅井は私の膝を指さして、抜けたようなトーンで疑問の声を上げた。

「野良猫に引っかかれただけだ」と、私は言った。危うく、ネズミにされるところだった。このぐらいの綺麗な切り傷なら、放っておいても数日で跡もなく治る。

 硝子の扉を押すと、外は酷い雨だった。また雨だ。

 車を出してくる、と私は言って、歩き出した。

 少し歩いて、インプレッサのエンジンをかけた。そして相棒をオリヴィアの前まで連れていった。

 浅井が車まで駆け込んできて、助手席に乗った。

「かっこいい車だね。私もいつか欲しいな。誰かに運転してもらって、それで。その後は、思いつかないや」

「乗せてもらうのが好きなのか?」

「私じゃこんなの動かせないと思うから」

「やってみれば、簡単だ。いつかしてみるといい。君が免許を取れる年になったら貸してあげよう」

「乗せてもらう方が嬉しいかな」

「そうか」、と私は言って、黙り込んだ。

 雨が酷い。ワイパーを動かした。まるで霧がかかったようだ。霧の都ロンドン、華の都パリ、雨の都東京と言ったところか。

 浅井はスマートフォンを持って、何かのゲームをやっていた。

「詳しいことは、その木村佳奈の男の方と会って話をしよう」

「うん」と、浅井は言って、また下を見た。

 私はアクセルを柔らかく踏んだ。

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