第19話 XYZ
藍原は泥酔して、机に突っ伏していた。
私はあの時、ペンダントを渡したくはなかった。しかし、どうにもできなかった。もし私がペンダントを捨てれば、三浦が私達だけでなく、私の知り合いも皆殺しにしただろう。菊知と三木がそれを隠蔽して、水江がカネで揉み消す。渡すしかなかったのだ。私は意地を張って、ぎりぎりまで渡さなかった。もし渡していれば、ボディガード達が病院送りにされることもなかったし、藍原が小指を折られることもなかったし、辻が死ぬ事も無かったかもしれない。しかし、ペンダントを渡せば、そのまま三浦が始末しに来ていた可能性も否定出来なかった。
なぜこんな事になったのかを考えていた。
水江に脅されていた藍原が、三浦に襲われ、私の事務所に駆け込んだ。
私は彼女を悪徳医師の元に運悪く連れて行って、私が高岸を呼んでバーに行った。
高岸は辻のことを知った。バーの帰りにボウガンを撃ち込まれ、そのあと街に出た。新宿で三浦に殴られ、刑事に殴られた。バーで辻と高岸は会った。辻は希望を抱いた。ナイトクラブで加藤と殴り合った。辻は絶望した。帰りに三浦と加藤に釘を打たれた。私の事務所に三浦が来て、殴り合った。拳銃を拾って逃げる三浦を追いかけた。菊知と三木が来て、私を殴り倒して、拳銃を奪った。そして港へ行った。
辻は私のせいで高岸と会い、希望を抱き、絶望した。そして銃を持った。
藍原は私のせいでここに来た。
高岸は私のせいで辻と会って、そういうことになった。
なんだ、私のせいじゃないか。
溜息をついて、首を振った。
確かに疫病神かもしれない。
空のグラスを置いて、デスクの引き出しから、四角い容器のバーボン・ウィスキーを取った。
キャップを回して、直で飲んだ。
少しは気持ちを紛らわせることが出来た。ボトルを机において
そうしていると、扉が叩かれた。そちらを見ると、痩せた長身の男が立っていた。
高岸だ。
「二人とも、シャンソンに行こう」と、彼は言った。
高岸は藍原の腕を肩に回し、。引きずった
私達は黙って、事務所を出て、階段を下りた。壁は、地中海の港町に並んでいる家を思い出す色だった。目が痛くなるほどの水色から目を背け、つまづきかけながら降りた。高岸の車に乗った。
高岸が車を出した。私は藍原の横に座って、窓の外を眺めていた。
同じような景色が続いていた。コンクリートが並んでいた。雨が降っている。
シャンソンについて、車を降りた。
ドアを叩いて、三人で入った。今度は私が藍原を引きずっていた。すぐにずぶ濡れになった。
店内は台風が通ってから三日あとのように荒れていた。みずなは壁に背中を預け、膝を折り曲げて座っていた。肘を曲げて腿にのせ、両手を顔に当てていた。
「辻さんのためにティー・リキュールのカクテルを作ってくれるね?」
高岸が聞いた。怖がりの小学生のようだった。
「あんたのせいよ。あんたが余分な事をいうから!」
みずなは高岸に、手元のグラスを投げつけた。
高岸は避けずに、そのまま立っていた。
「そんなことはわかってる」と、彼は呟いた。
彼は歩いて行って、彼女を掴んで、立たせた。
「しっかりしてくれ。君が言いたいことも、僕がどんなことをしたのかもわかってる。だけど、君まで死のうとしたら、僕は一体どうすればいいんだ。二人も殺したことになる。僕に教会のてっぺんの十字架で首を吊れとでも言うのか。しっかりしてくれ」
私は黙って見ていた。
「あたしは、あたしが、あたしの、あんたが現れなければ桃香は死ななかったのよ。だめ、自分が何を言いたいのかわからないわ。ほっといてちょうだい。あんたを殺しそう」
みずなは高岸の胸を押して、離れた。
そのまま歩いて行って、カウンターを乗り越えた。彼女は綺麗なグラスを取った。ミントの葉を入れて、炭酸水とレモンジュースを入れた。ミントを棒で潰し、ティー・リキュールを入れた。氷をアイスピックで砕き、棒でかき混ぜた。
「ティー・モヒートよ。これを飲ませてあげようと思ってたの。ダージリンの香りがする、檸檬の味がするカクテルよ。これが、これが」
高岸はグラスを持って、小さなステージに置いた。そのまま音楽プレイヤーをアンプに繋いで、何か選び始めた。
音楽が流れ始めた。辻の歌だった。
私は藍原を席に座らせた。机と、壁に固定されたふかふかの長いす。私も座って、黙って聞いていた。
綺麗な歌だった。しかし、もう本当の声を聞くことは出来ないのだ。美しい声だった。歌だけは変わっていなかった。彼女が歌っていた姿を思い出した。また、人が死んだ。さよならも言わずに、また人が死んだ。
藍原が閉じていた目を開いて、「辻さん」と、言った。
焦点が定まっていない。藍原は立ち上がろうとして、足をもつれさせて、床に倒れ込んだ。彼女は手をついて、「ちょうちょ」と言った。そして、目を瞑って、寝息を立て始めた。
蝶など、どこにもいなかった。
藍原の視線の向こうには、紫陽花の花があった。鮮やかな紫色だった。
「ちょうちょですよ、辻さん」と、藍原は寝息を立てながらささやいた。
「蝶なんていない」と、私は呟いた。
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