第18話

 藍原のスマートフォンでタクシーを呼んだ。

 タクシーを拾って事務所に帰ると、花束が階段の下に立てかけてあるのが見えた。

 三浦から、辻へのものだった。

 マリーゴールド。挟まれたカードには、汚い手書きの文字でこう書いてあった。

  俺から彼女への手向けだ。俺は芸術が大好きなんだ。歌、映画、アート、文学、詩、漫画、アニメ、そういうのが大好きなんだ。だから偉大な芸術家の死についてはほんの少しだけ悼む。彼女の歌は素晴らしかったよ。彼女のジャズ・ナンバーをもっと聞きたかった。ポップスだってなんだってよかった。しかし、彼女は死んでしまった。人間いつか皆死んでしまうものだ。誰にでもそれは訪れる。可能であれば、という話だが、この花を彼女の葬式で使ってくれ。

  追申、菊がなかった。だからメキシコで墓に使うマリーゴールドを選んだ。

 そう書いてあった。それに、俺は芸術が好きだと言ったが、現代アートだけは専門外だ。あれの価値だけは、いまだにわからない。

 殺し屋が死者を弔うとは、ふざけた話だ。

 藍原のスマートフォンが私のポケットで揺れた。私はそれを取った。高岸からだった。

「やぁ」

 低く、抑揚がなかった。こたえているのだろう。

「あぁ」

「みずなさんが辻のライブの音源を録音していた」

「沢山あるんだろうな」

「あぁ。もし、あの演奏者達や、遺族に許可が取れれば、CDを出したいと思う。彼女への、遅すぎる謝罪の代わりに。君はどう思う?」

「是非そうしてやってくれ。葬式に間に合うように」

「きっと、売れるだろうな。彼女が生きていれば、きっと喜んでくれたんだろうな」

「天国があるなら、きっと辻は喜んでいるだろう。天国で天使の楽団と一緒に歌っているに違いない」

 天国があるかなんて私は知らない。しかし、私は高岸のためにそう答えた。

「君にもそのCDを送るよ」

「頼んだ」

「それじゃあ、僕はまたやることがあるから、切らせてもらうよ。もう全ては終わったから、藍原にも復帰してもらわないといけない。水江達はもう何もしないらしい。給料は僕の会社から君の口座に振り込まれる。もう、終わったんだ。終わってしまったんだ」

「待て。辻の妹を見たことがあると言ったな。どこで見たんだ?」

「彼女、僕の会社にいるんだ。たぶん事務員だったと思うが、自信はない。そこまでの情報は必要じゃないだろう?それじゃあ」

 高岸は電話を切った。

 私はスマートフォンをしまって、マリーゴールドを掴んだ。

 事務所の階段をゆっくりと昇って、事務所のドアを開け、デスクに腰掛けた。

 電気がつくかどうか。ついた。

 藍原は何も言わずに、立ち尽くしていた。死人のように、外を見つめていた。外を見たって、雨が降っているだけだ。

 私は机の引き出しからメモ帳を取り出して、番号を調べた。

 辻の妹に電話をかけた。

 コールが三回なった後、電話が繋がった。

「誰ですか?」

「君の姉さんの知り合いだ。辻桃香の知り合いで、君の姉さんが歌っているバーのシャンソンに通っている探偵だ」

「ああ、あなたの話は聞いたことありますよ。姉さんがやたら入れ込んでる人ね。プライドだけは高い姉さんが本気で好む男なんて、探偵さん、中々色男なんでしょう」

 彼女は言葉を切った。だけは、という言葉が鼻についた。

「でもね、今何時だと思ってるんですか?探偵さん。明日も仕事があるんです」

 辻の声に似ている。彼女は顔も辻によく似ている。しかし性格は全く違った。

「いいか、心して聞いてくれ」

「何です、一体」

「君の姉さんが、死んだ」

 返事はあっけらかんとしたものだった。

「はぁ、そうですか。自殺ですか?事故ですか?まぁ、どっちでもいいんで寝させてもらいますよ」

「冗談じゃない。本当の話なんだ」

「本当だからって何ですか。姉さんが死んだって私には関係のないことです。高卒でふるさとを飛び出して27にもなってバーで歌ってるバカなんて知りませんよ。私はちゃんと大学出て会社員やってますから」

「なんだと!?君の姉さんが死んだんだぞ!」

 私は語気を荒げて、スマートフォンを握った。ひびが増えた。

「心の中では勘当ですよ。葬式ぐらいには出てあげますけどね」

「姉が死んでもその態度か。冷たい女だ」

「友人は選べますが、兄弟姉妹は選べません。いつも地球のどこかでは人が死んでます。姉さんもその一人だっただけですよ。それでは」

「君を選ばざるをえない友人なんて、君が妹になってしまった姉ぐらいに可哀想だ」

 電話が切れた。

 冷たい女だ。氷のように冷たい女だ。水江や三浦、加藤、菊知や三木、あの医者のように冷たい女だ。いや、殺し屋よりも、悪徳社長よりも、汚職刑事よりも誰よりも冷淡で冷酷な女だ。

 この街にはこんな人間ばかりなのか、と私は呟いた。

「非道い人ですね。辻さん、いい人だったのに」

「いつもあの妹に馬鹿にされて、頭に来ていると辻は言っていた。しかし、何かがあれば妹を助けてくれと言っていた。非道い話だ」

 独り言のように、自分の声が聞こえた。

 スマートフォンを机に叩き付けた。

 濡れたカッターシャツが肌に張り付いた。ネクタイをほどき、捨てる。

「シャワーを浴びてくる」と、私は言った。

 シャワーを浴びた。

 上がって、煙草を点けて、デスクの回転椅子に腰掛けた。

 藍原がシャワーを浴び始めた。

 私は煙草を吸いはじめた。

 朝の四時だった。日も出ていなければ、雲も切れておらず、雨だけが降り続いていた。リモコンを押して、テレビをつけた。

 白いスーツの下に水色のシャツを着た女がニュースの解説をしていた。

「今日未明、東京港の大井コンテナ埠頭で、発砲事件がありました。女性が、車に乗りながら散弾銃を、埠頭に居合わせた二人の刑事に向かって発砲。刑事は発砲し、女性と車体に命中しました。女性は車をスリップさせ、トラックと衝突し、死亡しました。トラックの運転手も死亡。女性は辻桃香さん二十七才、運転手は男性で、北川誠一郎さん四十五才です。監視カメラは落雷で故障しており、映像は存在しないようです。警視庁はこれ以上のコメントについては控えています」

 映像が存在しない。きっと水江や、菊知と三木が揉み消したのだろう。

 リモコンを机に置いた。机が割れるような音だった。

 警官が嫌いになった。昔からだったが。

 社会ニュースから、エンターテイメントのニュースへと切り替わった。

「次のニュースです。女優の藍原早麻理さんが突然休業した件についてですが、藍原さんが一般の男性の家に泊まっているという報道がありました」

 私の最も嫌いな種類のニュースだった。

 番組のセットの中にいる男が、「休業して、映画のスケジュールに穴を開けて、熱愛発覚だとしたら、プロ意識が問われますね」と、言った。

 私はテレビにリモコンを投げつけた。

 テレビがひび割れて、爛れた藍色を発した。藍色が涙のように画面の上から下まで伝った。

 またスマートフォンを取った。

 みずなに電話をかけた。

 コールが二回。

「辻が死んだ」

「聞いたわ」

 泥水に浸かった、平坦な道のような声だった。

「彼女が死ぬとは」

「他の奴等はどうしたのよ」

「三浦は右腕を撃たれた。他の奴等は全員無事だ」

「捕まることは無さそうなの?」

「駄目だ、あいつらは捕まらない」

 みずなは黙った。長い時間がたった。永遠のように思われた。

「なんで、なんでそんなことになったのよ。彼女が死ぬ必要なんてなかったのに」

 震えた声。鼻にかかった声、すすり泣き。

「高岸の注意と、彼女の妹に馬鹿にされたことに彼女は怒った。それで、加藤の家から銃を持ち出して、三浦を撃って、ペンダントを手に入れた。それで、港を出ようとしたら、刑事達に撃たれた」

「許せないわ」と、彼女は言った。

「君は、檸檬の香りがする、ダージリンの紅茶のリキュールでカクテルを作ってくれ。それを彼女の、ステージに置いてくれ。そして彼女のCDをかけて」

 私の言葉は遮られた。

「あたしはあいつらを殺したい」

「しかし、もしあいつらを殺せば、君は絞首刑になる。刑事を殺せば、警察は躍起になって君を捕まえにいく。日本中の警察が君を追う。三浦を君は殺すことは出来ない。君は逆に殺される。刑事も銃を持っている。加藤はタフだし、水江だって君を捻りつぶすぐらいできる。やめるんだ」

「男なんて大嫌い」と、彼女は言った。

「すぐ何でもかんでも殺したり、撃ったり、殴ったりして、殺せばいいと思ってるのかしら」

 私は何も言わなかった。

「警察なんて、マスコミなんて、医者なんて、芸能界なんて、人間なんてもう皆死んじゃえばいいんだわ」

 床に何かが落ちる音、鈍い音が電話の向こうから聞こえた。彼女が膝から崩れたのだろう。金属音。

「彼女は親友だったわ。私が水江の事務所を辞めた後、仕事がなかったあたしを拾ってくれた。家も半分わけさせて最初は住ませてもらったし、バーの店長にもかけあってくれた。なんでこういうことになるのよ。なんでよ、なんでよ」

 彼女は電話を切った。

 私はスマートフォンを持ったままだった。カバーを外したくなって、外してみた。意味は無い。

 紫陽花が窓辺にひっそりと、生えていた。紫色をしていた。私は紫陽花を撫でた。

 藍原がシャワーから上がって、私を見た。まぶたが赤く腫れていた。

「ブランデーを飲みましょう、彼女のために」と、彼女は言った。

「ああ」と、私は答えた。

 藍原が冷蔵庫からブランデーを取り出した。変わらない琥珀色だった。外では、変わらず雨が降っていた。

 それがテーブルに置かれて、ブランデーグラスが二つ出てきた。彼女が手に持っていたかもしれないが、見えなかった。

 藍原は手を滑らせて、グラスを落とした。グラスは破片になった。蛍光灯のライトを反射させていた。その手は中毒患者のように震えていた。

 彼女は唇を震わせて、「ごめんなさい」と、言った。

 私はトラックの運転手の事を考えた。

 私にコーヒーを奢ってくれた。それだけだった。しかし、彼は死んだ。そのことを、それだけだった、の一言で片付けることは私には出来なかった。

 藍原は私の目の前にブランデーグラスを持ってきて、デスクに置いた。

「飲みましょう」

「ああ」

 私達は天に向かって酒を呑んだ。飲み過ぎるほど飲んだ。喉が灼けるようだった。

 ブランデーをそそぎ続けた。味など感じられなかった。

 しかし、空は見えなかった。

 雨に包まれている街だけが佇んでいた。天使も神も、どこにもいなかった。

 私は呟いた。

「さよなら、私の天使」

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