第17話

 埠頭の出入り口まで走ると、傘をさした二人の男が、車のわきに立っていた。

 男達の手には傘と拳銃。小型のリボルバーだ。二人の男は私の車に近寄ってきて、窓を下げろというジェスチャーをした。

 菊知と三木だ。

「よう探偵」

 二人とも、私達に銃は向けず、銃を持った腕を重力に任せて下げていた。

「やめとけと言ったのにな。手打ちで済んでよかったじゃねえか」と、三木が呟いた。菊知は眠たげな濁った瞳で、私を見ていた。

「お前のせいで、首の骨を痛めた。お前をいつかパクってムショにぶち込んでやるからな」

 菊知が目を細めて言った。幽霊のようだ。

「出来たらいいな」と、私は言った。

「そう願うよ」と、菊知は呟いた。

「お前、幼女を犯して埋めたらしいな」

「ああ。9才だったかな。夜道を歩いているところを捕まえた。犯して、満足したらバラした。遺体はやくざに頼んで溶かしてもらったよ。代わりに証人を消した。18才より上は萎えるんだ」

 眠たげな瞳で、顔色一つ変えずにそう言った。

 私は何も言わなかった。

「皆いつか死ぬ。俺は代わりに死期を早めただけさ」

「ならお前がすぐに死んでみろ」

「時が来るまで待つ。皆いつか首を吊られる。生まれたすぐは皆意識がない。何にも覚えちゃいない。まともに考えられるようになったら学校にぶち込まれて、気が付いたら20年が終わる。そのあと45年は働いて、気が付いたら65才。もうじいさんだ。残り十年は何も出来ず終わる。皆、奴隷のように生きて、いつか運命に首を吊られる。早いか遅いか、それだけだ」

 菊知はリボルバーを自分のこめかみに向けて、撃つふりをした。銃声の口まねが聞こえた。三木が手の甲をひらひらさせた。行けということだろう。

 私はアクセルを踏んだ。

 二人の男達は遠く、小さくなった。

 どこか遠くからやってきたコンテナ達が、またどこかへ運ばれるのを待っている。

 大きい貨物船が並んでいた。荒れ狂う海が見えた。潮の匂いと、雨の匂い。

 VERRAZANO、見当たらない。三隻目で、VERRAZANO・BRIDGEと書かれている貨物船を見つけた。

 私は車を止めた。

 コンテナが並んでいる。赤、青、赤。英語、中国語、ドイツ語、タイ語。

 コンテナの脇から三浦が松葉杖をついて現れた。ケガなど全く気にしていない歩きぶりなのに、杖をついていた。障害者の真似をして歩く、趣味の悪い道化師に見えた。同じ服を着ている。革ジャンにジーパン。お気に入りか、仕事服らしい。片耳にイヤホンをつけていた。お気に入りの歌でも聴いているのだろうか。

 私達は車を降りた。三浦にボウガンを向けながら、車を降りた。

 三浦は杖をこちらに向けた。

「よう、三人揃ってこんばんは、だな」

 三浦は私に照準をつけたまま言った。私も高岸も、ボウガンを三浦に向けた。全く気にしていないそぶりだった。

「俺を殺したいんなら、第七艦隊を持って来いよ」

 よく見ると、杖の先に穴が空いていた。

「別に俺にボウガンを向けたけりゃあ好きに向けとけ。ついてこい」

 三浦は杖のボタンを押した。ばらばらになり、黒い自動拳銃が出てきた。消音器付きだ。筒の下にグリップを付けたような外観をしている。銃口の先と、右側面に申し訳程度の穴。丸いトリガーガード。スタームルガーのMk2だ。22口径弾を弾倉に10発。反動も、発砲音も小さい。

 この銃で発砲しても、誰も聞こえない。白昼の街中で撃ったとしても、巨漢が荒く息を吐いた程度としか思われないだろう。動脈や急所を外せばそうそう死なない。しかし急所を撃てば死ぬ。三浦のように射撃の腕が良ければ、人を殺すことも生かすこともできる銃だった。

 それを私に向けたまま、左手をしゃくった。

 私達は三浦の後をついていった。三浦はこちらを見ながら、後ろ歩きをしていた。

 拳銃がこちらを睨み付けていた。三浦はおどけた手振りをしていた。私達は三浦に向けたボウガンを下ろさなかった。雨と汗が入り交じって、シャツを濡らした。何度もボウガンを握り直した。

 建物が見えた。

 三浦が後ろ手で扉を開けた。

「連れてきたぜ。ボウガン付きみたいだが、よかったのか」

 こういう場所でよくあるように、味気のない打ちっ放しのコンクリートで作られている建物だった。照明こそあるものの、中は薄暗い。水江と加藤が、金属製のバケツのような物を囲んでいた。その後ろの壁はガラスで作られていて、ベンツが止まっているのが見えた。ろくに障害物もない。撃ち合いになったら不利だ。

 人一人の背丈ほどの長さと、肩幅ほどの細さを持った長方形のテーブルが一つあった。その上に、ビニール袋に包まれた拳銃が置いてあった。

 あのリボルバーだ。

「ペンダントを見せろ」と、水江が言い終わる前に、雷が鳴った。近くで落ちたようだ。

 藍原が、ペンダントを見せた。

「しかし、そのリボルバーが本物である証拠がどこにあるんです」と、藍原が言った。

「そこら辺は信用問題だな。もしお前等のが偽物なら、三浦が活躍する。もし俺達のが偽物なら、どうするんだろうな。わからん。麻薬の証拠があるかもしれないが、俺達は警察とも仲がいいし、せいぜいあの医者が捕まるだけだ。ゲロっても俺は捕まらん。俺達のが有利だな」

 水江は、豆のフライを口へ運んで、笑った。

「だが安心しろ。俺は嘘はつかない。はっきり言おう。数十億と藍原が手に入れば、わざわざお前に構うような暇が惜しい。惜しすぎる。もうとっとと終わらせたいんだ。カネなんて使っても使い切れないぐらいあるが、俺のスコアみたいなもんさ。札束を使って喜ぶんじゃなく、眺めて喜ぶんだ。藍原ちゃんのことは眺めて喜ぶだけではすまなさそうだが」

 水江が笑顔を口に貼り付けた。顔が少し赤くなって、肉付きのいい頬が盛り上がった。私は舌打ちをした。

「ふざけるな。君は恥ずかしくないのか。カネ、女、権力、全てを汚い手段で手に入れて、それでいいのか」

 高岸が叫んだ。彼の叫び声を聞ける人間は少ないだろう。

「うるせえ奴だな。恥ずかしいも汚いもありゃしねえぜ。どんな本能も感情も、理性と呼ばれる奴も、全部脳味噌の化学物質と電気回路が勝手に判断してる。脳を切っちまえば、そんなこと考えも出来なくなる。魂も心もありゃしねえよ」と、三浦は口を挟んだ。

 三浦はテーブルの上に座って、自分のスタームルガーを愛おしそうに見つめていた。高岸は唾を吐き捨てた。三浦は銃を持った右手を掲げて、天井の照明から降ってくる光にかざしていた。

「そろそろ取引を始めようか」

 三浦はそのやりとりには興味が無いらしい。しかしそこはいざというときにテーブルを倒して、盾に出来る位置だ。場慣れしている。

 加藤は黙っていた。目を見開いているわけでもないし、眠っているわけでもない。水江の横で腕を組んでいた。

「ペンダントとスマートフォンを投げろ」と、水江が言った。

 藍原が投げた。私もスマートフォンを投げた。落ちたのはバケツと私達の位置の間だった。

「テルミットを」と、水江が言った。

 加藤が金属製のバケツから出る金属製のテープのようなものに、火をつけ、三浦が加藤にビニール袋入りの拳銃を投げた。加藤はバケツから離れて、それを受け取った。轟音。バケツが燃えさかった。加藤は顔をしかめ、袋と携帯を投げ込んだ。

 そして私達の方に歩いてきて、ペンダントを拾った。

 そのとたん、雷が響いた。しかし、本当の雷ではなかった。

 三浦の拳銃が吹き飛ばされた。三浦の右の手首が、左肩にぶつかるまで回った。血が噴き出して、ご自慢のレザージャケットが花開くように破れていた。穴は二個。

 彼の拳銃は散弾を喰らっていた。壊れて、地面に転がっていた。

 歯から漏れ出るような悲鳴が聞こえた。すぐに左手で傷口を押さえて、音がした方向を向いた。予想外だったのか、テーブルを倒すことはなかった。銃の威力から、それを盾にしても無駄だと思ったのかもしれない。拳銃も壊れたそれ以外に持っていなかったのかもしれない。しかし、三浦が銃を一丁しか持たないとは思えなかった。

 音の方を見ると、女がガラスを乗り越えてやってきた。顔には影がさしていた。

 長い黒の髪、蒼いジャケットとデニム。長い筒と短い筒が縦に並んでいて、その後ろに四角の金属、その後ろに木製のストック。べレッタのA400ショットガンだ。引き金を引くだけで撃てる。肩にしっかりとストックを当てて右目で狙いを付けていた。

 女はすぐに左手で一発、チューブマガジンに補充していた。

 顔の影が消えた。辻だった。

「武器を捨てて、ペンダントを寄越しなさい」

 燃えさかる火の向こうに、彼女が見えた。

 辻以外の誰もが同じ、間抜けた顔をしていた。

「お前、俺のショットガンを」

 加藤が呟いた。口と目を間抜けに開けていた。きっと私も同じ表情だっただろう。

「ペンダントをこちらに投げて、撃つわよ」

「わかったよ」

 加藤は力なく呟いて、彼女に投げた。辻は腰をかがめて、膝を曲げた。目線と銃口は切らず、拾った。熊のような大男ですら、散弾は一発で始末してしまう。

「辻さん、助けに来てくれたんですね!」と、藍原が目を輝かせた。

 辻は小首をかしげ、心から笑った。笑いすぎて目から涙がこぼれていた。

 火が彼女の涙に反射して、涙が赤くなっていた。

「何を言ってるの?私はカネをもらいに来ただけよ。笑わせないで」

 辻の瞳に火が映っていた。

「はやく二人もボウガンを捨てて」と、辻が天使のようなソプラノで言った。

 私も高岸も捨てた。

「どういう、ことですか」

 藍原が目を細めて、声を震わせた。

「藍原さんや高岸さんに気付かされたのよ。私がどうやってもデビューできなくて、どうせ売れなくて終わり、ってこと」

「そんなこと」

「わかったような口を聞かないで。どうせ私は27で、まだバーの歌手をやっていて、後はパートして、男に縋って金をせびるだけの女よ。妹が電話を掛けてきて、私に言ったの。姉さん、あんたはデビューできない。どうせ売れないんだからやめなさいってね」

 辻がショットガンの銃口を三浦に向けた。

 三浦が手にカランビットナイフを持っていた。ジャケットを切り裂いて、腕に巻いていた。鎮痛剤がテーブルの上にあった。もしこのナイフが銃だったら、辻はもう死んでいた。加藤が投げナイフの事を言っていたから、三浦はナイフを投げて人を一瞬で殺すことが出来るかもしれない。

「ナイフを置きなさい」

「止血していただけだ。俺も女に撃たれるなんてな。運が悪い」

 三浦はナイフを捨てた。金属が転がるような音が聞こえた。喫茶店のドアを開けたときの音に似ていた。

「こっちに向かって蹴りなさい」

「はいはい。だから近寄ってくる美人には気をつけろと言ったんだ。なぁ加藤」

 三浦はナイフを蹴って、加藤に向かって笑顔を見せた。

 加藤はうなだれていた。闘牛には似つかわしくない姿だった。

「私はエルパソで、水江の話を聞いた。それを思い出したの。水江と寝て、場所や全てを聞き出したわ。そのあと加藤と寝て、銃を手に入れたのよ」

「俺はお前を愛してたんだ。なのに、裏切りやがって」

 加藤は拳を強く握っていた。

「愛の告白ならよそでやってよ。私は貴方のこと何とも思ってないわ」

 三浦は笑っていて、加藤は哀しそうな顔をしている。水江は心臓が止まったような顔をしていて、高岸は両手を頭にやり、藍原は口を振るわせていた。

「僕はその、君を注意しただけのつもりだったんだ」

「もう、遅いわ。遅すぎるのよ」

 辻はゆっくりと、反芻するように首を横に振った。

「馴れないことはするもんじゃないぜ、辻ちゃん。銃を置いて、ペンダントを置いて、ベンツでゆっくり帰るんだ」

 三浦が笑いながら言った。

「世の中はじめは皆馴れない物よ」

「それにしたって急すぎやしないか?いきなり強盗はハードルが高いな」

「あんたに何が出来るのよ」

「何でも出来るぜ。その気になればお前を殺すことも出来る。銃を向けられたぐらい何回やられたと思ってるんだ。お前は俺のお情けで生きてるんだぜ。何もする気は無いが、やめといた方がいい。今日は天使も機嫌が悪い日だ」

 辻は鼻で笑って、三浦の言葉には何も返さなかった。

「ようやく器用な生き方ができたわ。これで数十億円をもらっておさらばね。後は勝手に殺し合いでもしてなさい。全員車の鍵を出して」

 三浦がゆっくりとジャケットに手を突っ込んで、ゆっくりと出した。

 水江のベンツの鍵だ。

 私もゆっくりと鍵を出した。

 辻は私と高岸のボウガンに散弾を撃ち込んだ。そしてそのまま左手で装填し、私の車の鍵を壊した。

 辻はベンツの鍵を、同じような動作で拾った。

 私達に銃口を向けながら、ガラスの窓を乗り越えていった。

 辻は水江のベンツのドアを開けた。ショットガンは変わらずこちらに向いていた。三浦は腕を押さえていた。血は流れ続けていた。水江はこの世の終わりの五分前のような顔をしていた。加藤は辻を睨み付けていた。高岸は悔やんだ顔をしている。藍原は口を開けていた。私は辻に声を掛けた。

「気をつけろ。今日は雨だ。ハンドルを滑らせるなよ」

 皮肉でも脅しでもなかった。本心のつもりだ。

「この期に及んで私の心配?あなたって本当にお人好しなのね。今まで三年間ありがとう。私は結構貴方のこと好きだったのよ。いいわ、今度どこかで会ったら、カクテルの一杯ぐらいは奢ってあげる」

 辻は霊柩車のように黒いドアを閉めた。

「東京は涙を信じない」と、三浦が呟いた。どういう意味だろうか。

 アクセルを踏んで、ベンツは雨に打たれながら進んでいった。遠くに行って、見えなくなってしまった。

 遠くに行ってしまった。本当に遠くへ。

 遠くで大砲のような音が一回聞こえた。ショットガンだ。

 そして軽く、弾けるような音が六回した。拳銃だ。蠍の声だ。黒く、小さな殺人者の声だ。重なるような銃声だった。発砲した者は二人だ。

 ハンドルを急に切ったのだろう。タイヤが割れるような音がした。

 その後、クラクションが聞こえて、重いなにかと重いなにかが激しく衝突する音が聞こえた。

 私はその方角へ向かって走った。走り続けた。

 クラクションが鳴り続けていた。まるで人を嘲っているようだった。

 他の面子も後を追った。

 ベンツがトラックとぶつかって、潰れていた。プレス機にかけられた牛よりも悲惨だった。トラックの運転手は、フロントガラスから飛び出していた。十メートルは吹っ飛んで、血の線が地面に描かれていた。シートベルトをしていなかったのだろう。体はうつぶせになっているのに、その顔は空を見上げていた。見たことがある顔だった。私を心配して、缶コーヒーを奢ってくれた人間だ。せめてもの救いは即死だったことだ。

 ベンツの車体は原形をとどめていない。

 エアバッグは作動していない。そこの部分には弾痕が残っていた。きっとそれでバッグが破れて作動しなかったのだろう。彼女の持っていたショットガンは真っ二つに折れていた。折れたハンドルの一部が胸に突き刺さっていた。血が流れ続けていた。胸から膝まで真っ赤になっていた。肩には銃弾を受けた後があって、そこからも血液が流れ出し続けていた。左手がだらりと下がっていて、血がしたたっていた。

 奇跡的に顔には、何の外傷もない。目を閉じて、口を閉じたままだ。眠っているようだった。永遠の眠りだった。

 傍らには右手でリボルバーを持ってたたずむ菊知と、スーツを左手で開き、右手でリボルバーを脇にしまおうとしている三木がいた。菊知は無表情で、三木は眉を下げていた。菊知は瞳の色一つ変えずに呟いた。

「この女、死んだぜ」

 私は掴みかかった。

「ふざけるな。何が死んだぜだと?お前を殺してやろうか!」

 右手で菊知を力任せに殴った。

「こいつが目に入らないのか?」

 黒い蠍を私に向ける。それが尾をもたげる前に私はそれをはじき飛ばした。拳銃が水たまりに落ちて、滑っていった。

「俺が悪いのか?あいつが銃を撃ってきた。だから俺と三木でタイヤを撃った。二発はタイヤに、二発は外れて、残りの二発があの女の肩とハンドルに当たった。そうしたらスリップして走ってたトラックとぶつかった」

 菊知は右の唇を釣り上げて、「運命に首を吊られただけさ」と笑った。不気味で眠たげな瞳を動かして、私を見上げた。瞳が冬の湖のように光っていた。

「38口径弾の値段を知ってるか?一発二十円だ。六発で死んだ。あの女の価値は百二十円だ。ファーストフードみたいな人生だったな」

 菊知が大声をあげて、地獄の底から響くような声で笑った。

 私は殴った。また殴った。菊知は失神して、水たまりへと倒れた。

「落ち着け探偵!落ち着けよ!もうこれ以上事態を悪化させるのはやめろ!」

 三木が私を羽交い締めにした。

「ふざけるな!こんな、こんな結末認められるか!」

 激しく降り注ぐ雨が私を責め続けた。

 水江はベンツに駆け寄って、中を探った。

「ペンダントも全部壊れてる。俺の、俺の四十億円が」

 血まみれになった水江は膝から崩れ落ち、加藤が支えた。

「嘘だろ」と、三木が叫んだ。私の鼓膜が痺れた。

 絞められている力が少し弱くなった。

「全部僕のせいだ。僕があんな事を辻さんに言ってしまったから、こんな事に。ただ注意するだけのつもりだったんだ」

 高岸は膝をついて、手を地面に投げ出した。藍原は、手で顔を覆っていた。

 後頭部を三木の鼻にぶつけ、足を踏みつけた。手をふりほどき、水江に向かって私は走った。

 そのままの勢いで水江を殴りつけた。水江にまたがった。

「お前のせいだ!お前のせいだぞ!」

 私は殴りつけた。加藤の太い指が私の首を掴んで、投げ飛ばした。

 水江は血で塗装されたドアにもたれかかった。

 私は立ち上がった。

 加藤は私を殴った。私も加藤を殴った。何も考えられなかった。獣のようだった。

 加藤も、何か技を掛けられるほど冷静ではなかった。私もだった。

 ただ殴り合った。右、左、右、左、右、左、右、左、右、左、右、右、左、右、左。

 私と加藤は最後にクロスし、倒れた。

 私は立ち上がろうとした。しかし、立ち上がれず、地面に顔をぶつけた。

 高岸が水江へ掴みかかっていた。高岸と水江も殴り合いを始めた。

「加藤!」

 ようやく立った私は力の限り叫んで、加藤を殴った。しかし、加藤のがタフだった。加藤の右をもろに喰らった。

 私は仰向けになった。加藤は息を切らして座り込んだ。

 雨の空が見えた。どす黒い雲が見えた。どこかで雷が落ちた。雨は激しくなっていった。息が詰まるほどの大雨だった。

 死人に口がないというなら、彼女も歌えないだろう。もう彼女の歌声を聞くことは出来なくなってしまった。彼女の微笑みもどこかへ行ってしまったのだ。善人ばかりが先に死に、悪人だけは生き残る。それが世界の摂理だ、とでも言われている気分だった。

 彼女は空へ行った。しかし、雲は彼女を隠した。彼女の後ろ姿一つも見えなかった。何も、見えなかった。

「三浦がいないんです」

 藍原の声が聞こえた。私は気が付いた。その声が聞こえた後、レザージャケットを着て、右腕から血を流している男が乗ったバイクが近くを通り過ぎていった。まんまと逃げられたのだ。

「人殺しめ」

 もう何を言っても遅かった。

 遅すぎた。車で追うことも出来なかった。車の鍵は、粉々に砕けた。

 加藤が高岸に向かっていった。

 加藤が高岸を引き離した。紙ふぶきのように飛んでいった。

 藍原と三木は立ち尽くしていた。私は立ち上がって走り出した。加藤を後ろから殴りつけた。高岸はまた水江に向かっていった。私達は殴ったり殴られたりを繰り返していた。鳴り続けるクラクションの音に混じって、救急車とパトカー達のサイレンが聞こえ始めた。沢山の警官が降りてきて、少しの救急隊員が降りた。救急隊員は辻を引っ張り出して、運転手を担ぎ、救急車に乗せた。三木が意識を取り戻したかのように、叫んだ。

「こっちだ!取り押さえろ!警棒は使うなよ」

 警官達はこちらに走ってきた。私と加藤は責任を押しつけ合うように殴り合っていた。

 背中からタックルを食らった。私は倒れ込んだ。それと同時に警官達が私の手足を押さえつける。

 私は五人の警官に押さえつけられた。

 三木がゆっくりと、私の顔の前へ歩いてきた。

 三木が私に言った。

「忘れろ。忘れるんだ」

「そんなことはできない」と、私は言った。

「勝手にしろ」と三木が言った。

「離してやれ」と続けた。

 少しの間の後、警官達が力を緩め、私を立たせた。三木はうつむいていた。人の心は残っているらしい。

 私は胸のポケットを探り、煙草とライターを取り出した。煙草を口にくわえ、ライターの蓋を振った勢いだけで開けた。火打ち石を回した。煙草はしけていて、火は点かない。そのまま指で弾いて投げ捨てた。

「もういい。もう知ったこっちゃない。全て無駄になった。探偵、お前さえ、お前さえいなければ、もっとまともな結果だった。四十億円が吹っ飛ぶこともなかった。もう終わりだ、俺はもうお前に関わらない。だから二度と俺に関わるな。疫病神め」

 水江は振り向いて、呪詛を私に言い終わった。

 煙草が欲しくなった。しかし、吸える煙草は一つもなかった。

 水江と加藤はタクシーを拾って、帰っていった。後ろ姿は濡れたネズミにそっくりだった。

 私は高岸を立たせ、自分のコートを藍原の肩にかけた。

 三木の口添えで、私達は逮捕されることも拘留される事もなく、その場で解放された。

「こんな終わり方って、ありですか」と、藍原が言った。

 私と高岸と藍原はクラクションとサイレンを背に、雨の中を歩き続けた。

 歩き続けるしかなかった。

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