~東京は涙を信じない~ 第1話

すすり泣きの声が聞こえていた。オニキスのような黒い服が並んでいた。何人かの腕にはオニキスのネックレスがついていた。ほんの少しの黒い輝きが、美しかった。 

 ほんの少し甘い、香の匂いがそこを包んでいた。頭を丸めた男が正座をして、お経を読み上げていた。見知った顔は五人。女が三人、男が二人。眉を下げた女優が一人、疲れ切ったマネージャーが一人、泣き続けているバーテンダーが一人、顔をしかめたままの用心棒が一人。藍原と、みずなと、高岸と、加藤が座っていた。

 全員、少し離れた場所にいた。それに、退屈そうにしている女がいた。

 祭壇には黄色の菊が並んでいた。目を背けたくなるほど鮮やかな色ではなく、優しい色をしていた。その中に一つ、マリーゴールドが刺さっていた。

 私は立ち上がって、祭壇へと近づいていった。香をつまみ上げて、額に当てた。辻の写真を見た。写真は遺影になってしまっていて、その事実がたまらなく私を苛立たせた。彼女の笑顔はもう色を失って、モノクロームになってしまったのだ。雨の日の空のように。香を燃やした。振り返ると、女と目が合った。辻の妹だ。辻と似た顔をしていたが、髪の毛が短かったし、赤い縁の眼鏡をかけていた。そして、彼女は私を睨んで、目を反らした。

 実の姉が死んでも、顔色を変えない氷のような女だった。

 この街のようだった。彼女は涙を信じない。そして人のために流す涙も持ち合わせていない。

 そのうちに、式は終わった。冠婚葬祭のうち、一番よく行ったのが葬式だったような気がした。辻はそのうちの一回だったが、最も心が渇く一回だった。

 私は椅子から立ち上がって、式場の外へ行った。そして壁にもたれかかった。

 煙草を取り出し、ジッポーを取り出した。煙草をくわえて、左の中指と薬指の間に挟み、ライターを振った。カバーが音を立てて開いた。右の親指でライターの火打ち石を回した。火がついた。右手だけを動かして、煙草に火を付けた。

 咥えていると、煙がゆっくりとのぼっていった。

 黒のスーツを着た大男が私の横を通り過ぎた。

 彼は振り向いて、私に何か言いたげな顔をした。

 私は煙草を口から離して、手に持った。

「探偵、後悔するなよと言ったはずだ」

「ああ、知っている。そのことを何度も頭の中で繰り返した」

「後悔してるのはお前だけじゃない」と、寂しそうな顔で言った。

「三浦や菊知はどこへ行った?」

「三浦はもうアメリカへ帰ったよ。菊知は新宿にいるだろう。あいつらに復讐しても意味はない。辻が先に撃ったんだ」

 加藤はゆっくりとどこかへ歩いて行った。

「始めて本気になった女だった」と、男は言い残して去って行った。重たい足音がゆっくりと遠ざかっていった。

 もう、二度と会うこともないだろう。

 加藤の背中から、煙草の煙に目を移した。そして、窓の向こうを見た。雨が降っていた。空は灰色だった。いつも雨が降っている。

 すぐ横の、黒く大きな扉が開いた。藍原と高岸がうなだれて歩いていた。

 高岸は私のほうを向いて、口を開こうとした。閉じた口がゆっくりと開かれて、またゆっくりと閉じられて、一文字になった。彼はそのまま歩いて行った。

 また会うかもしれない。二分後かもしれないし、死んだ後かもしれない。

 藍原は私の隣にやってきた。

 黒い瞳に涙を貯めながら、私を見上げていた。

 人間らしくない人間に飽き飽きして東京を出たくなった時、こういう人間らしい人間を見る。私はまだこの職業をしなければいけないという気になる。しかし、出た所で私を受け入れる場所も無いことは知っていた。

 タフガイと呼ばれる割にはずいぶんと感傷的な男だと、自分のことをそう思った。しかし、感傷をなくした結果が菊知や三浦のような男だ。

「あの、なんて言っていいかわかりませんが、気を落とさないで下さい。あなたのせいじゃありません。不幸な事故だったんです」

「不幸、か」と、私は呟いた。

「ふざけた不幸だ」

 私は首を横に振った。

 菊知に対する怒りが湧いてきた。しかし、先に撃ったのは辻だ。菊知は撃ち返しただけだ。

「いつも運命っていうのはふざけてます。私も認めたくありません。だけど、運命のせいにしなければ、彼女の死は自業自得になってしまうじゃありませんか」

 私は何も言わなかった。私は黙って、煙草を吸った。灰の塊が床に落ちて、砂時計から落ちる砂のように広がった。さぁ踊りましょう、灰の王子様。ああ、どうして君は砂なんだい。ああ、あなたはどうして灰なのですか?君が砂であることと同じ理由さ。どうしてそんなに儚いのですか。儚いから灰と言うのさ。

「また会いましょう、探偵さん。今のあなたは、ひとりでいたいんでしょう?」

 藍原はオニキスのネックレスの位置を戻して、離した。

「さよなら、探偵さん。また今度会いましょう」

 私は頷いて、彼女を見送った。何に対して頷いたのか、よくわからなかった。

 雨に濡れた子犬のような足取りで、私の隣から歩いて行った。随分とこたえているようだった。

 なぁ、探偵。私は一体何をやっているんだ?私は辻を撃った菊知をしょっ引かせたいのか?少女を殺した罪で首を吊らせたいのか?あいつは刑事だ。刑事を捕まえる警察などいない。それとも何人も殺した罪で三浦に首を吊らせたいのか?あいつは国外に行った。水江を刑務所に?奴は警察と繋がっている。辻は犯罪者として人に記憶された。彼女は私達の窮地を救った。

 しかし、犯罪も確かにした。鍵を横取りもしようとした。そんなこと、誰も知らないまま、彼女はただの犯罪者として記憶される。そして忘れ去られていくのだ。

 彼女の名前が新聞記事に載って、テレビに映って、そのまま消えていく。いささか感傷的すぎるような気がした。しかし、人が死んだのだ。これぐらい思ったって罪にはなるまい。

 罪になるべき人間など他にいくらでもいるのだ。

 そっと、死者を起こさないような速度で扉が力なく開いた。

 次に出てきたのは、みずなだった。

 俯いて、千鳥足だった。悲しみは人を酔わせるのだ。深い酩酊状態で、前も後ろも分からない。少し躓いて、転びそうになっていた。私は左手を出して、彼女が転ぶのを防いだ。

「ありがとう」と、みずなは言った。

「旅に出たくなったわ。東京を離れて、どこか遠くへ行くの」

「それもいいかもしれないな」と、私は言った。

「故郷の名古屋にでも戻ろうかしら。この街を離れることが出来るなら、どこでもいいわ」

「シャンソンはどうする?」

「さぁ?桃香が死んだら歌なんかないのよ。もう、歌なんてないのよ」

 歌がそこからなくなってしまったら、確かに客足も遠のくだろう。しかも、みずなもいなくなってしまえばほとんど休業したほうがましなのかもしれない。

 彼女は目を優しく閉じて、溜息をついたあとに口をつぐんだ。力ない笑顔を浮かべて、窓の外を眺めた。雨が降っていた。

 私も、外を眺めることにした。埠頭での事が思い出される。流れ出した血が雨に混じる。

 彼女の血が排水溝へ吸い込まれていった。死はいつも誰かのそばで佇み、隙を見せた人間から、もしくは単純に気分で殺されてしまうのだ。

「さよなら」と、みずなは呟いた。

「シャンソンにはまた戻ってくるのか?」

 彼女は答えずに歩き出した。十秒ほどあとに、「さぁ、どうかしら」と呟いた。

 私は彼女を見て、何か声を掛けようかと思った。しかし、そう思っただけで、何かを言おうとはしなかった。

 煙草をまた口にくわえて、吸い続けた。煙が肺を満たし、また去っていった。

 煙を吐き出すと、また空へのぼっていった。

 誰かと会っても、彼等彼女らはいつもどこかへ去って行く。

 二度と会えない別れは、死んでしまうことと同じだ。

 私の中で誰かが生まれ、誰かが死んでいく。顔を合わせたときから人は生まれ、二度と会えない別れの時に死んでいく。

 次に現れたのは、冷血な女だった。

 彼女は私の横を黙って通り過ぎようとした。

 私は声を掛けた。八つ当たりしたかったのかもしれない。

「おい」

「何です?探偵さん」

「君は藍原の事務所の事務員をやってるらしいな」

「それがどうしたんですか。私の時間を取らせないで頂けますかね」

 辻の妹は立ち止まって、振り返らず言った。

「君は本当に、君の姉さんが死んで何とも思わないのか」

「ええ」

 彼女は短く告げて、私を打ち砕いた。

 くそったれ、と私は呟いた。

 彼女はピンヒールを鳴らして、私の前から消えた。

 コンビニのコーヒーより薄い人情で、世の中は作られている。

 煙草の火が薬指と中指を焼きそうになって、私は煙草を離した。

 短くなった煙草が地面に落ちて、灰と混ざった。

 私はこの葬儀場を出ることにした。

 辻の死に顔を見て、立ち去った。生きているときと変わらない顔をしていた。しかしもう彼女は死んでしまったのだ。

 確認できたのはそれだけだった。

 死の香りはもううんざりだ。

 外に出ると、ソドムを焼き尽くした硫黄の火のように、激しく雨が降っていた。

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