第2話
あれから月日がたった。
梅雨前線が敗走に次ぐ敗走を重ねて、押し込まれ、首都を陥落させて降伏した。
銀杏の葉が、金色の織物を織る季節がやってきた。
藍原は映画の撮影を急ピッチで行っているらしい。大変だと、電話で伝えてきた。もう水江は何もしてこないと。水江にとって40億円が失われたのは相当ショックだったようだ。白髪が数週間で増えて、髪の二割をしめる程になったらしい。しばらくは再起不能だろう。
高岸は前と同じくらい忙しく、蜂のようにそこら中を飛び回っているらしい。彼に人間ドックに行く事を進めておいた。しばらくは行けそうにないな、と彼は言った。
みずなは、シャンソンの店主に頼み、しばらく店を閉じておいてほしいと言った。店主は代わりを連れてこいと言った。そしてみずなによって、エルパソにいた酒井が連れてこられた。みずなは、故郷の名古屋に戻って、休んでいるようだ。いつ帰ってくるかは知らない。
辻の墓が出来た。また今度行かなくてはならない。
私はいつものように客を相手にしていた。
あれから来た客のうちの一人は、米軍と自衛隊の電磁波兵器の脅威を私に切に訴えた。私は、電波兵器よりあなたの方が私にとって脅威だと言って、彼にお引き取り願った。電磁波兵器が本当にあったところで、私にはどうにもしようもない。
もう一人は猫を捜してくれと言った。三日で見つかった。私が猫の写真を見つめて途方に暮れている間に、家に帰っていったらしい。飼い主が喜んで猫を私に見せると、猫が私に向かって飛びかかってきた。手首にひっかき傷が出来たが、それだけだった。なぜそんな仕事を請けたかというと、気分がささくれ立っていたからだ。
今相手にしているのが、また新しい客だった。
彼は私の事務所を訪問せず、電話を掛けてきた。
私は水を飲んだあと、電話を取った。
「はい、こちら探偵事務所です。依頼をどうぞ」
「そちらは探偵だと伺っております」
落ち着いた、貫禄のある声だった。
「そのようですね」と、私は言った。
「私は渋谷区で病院をやっています。家は渋谷区の松濤1丁目です。頼みたいことがあるので、ぜひこちらに来てくださいませんか」
住所を聞いて、東京でも最高級の住宅街に住んでいることが分かった。金持ちの依頼は複雑な事が多い。彼らは金も弾むが、たいてい頭痛の種をしばらく共有し合うことになる。
「いいでしょう。家の方にお伺いすればよろしいですね。一丁目のどの辺りに?」
私はボールペンを手に取り、くるりと回した。コーヒードリッパーが、私にコーヒーができたぞ、とランプの点滅で告げた。
「はい。家の方に。コートジボワール大使館のすぐ近くです。来て頂ければ、おわかりになられるかと」
「申し訳ありませんが、お名前は?」
「木村と申します」
「直ちに向かいましょう」
私は電話を切って、コーヒードリッパーの下からガラスの器を取って、マグカップに注いだ。ドリッパーのそばに、ダージリンの紅茶パックがあったが、見なかったことにした。わざわざ気分をささくれ立たせる必要は無い。そして、直ちに向かうつもりもない。
マグカップを握った。熱さが指まで伝わって、匂いがした。
コーヒーには砂糖もミルクも入れない。もともとは眠気覚ましのつもりだったが、今ではそんな効果はない。一口含む。香ばしい匂いが広がった。味覚での苦みなど、心で感じる苦みに比べれば羽根のように軽い。
それを飲みながら、ノートパソコンを開いた。素早くタイピングをした。
渋谷区、木村、病院と検索すると、大きな病院の名前が出てきた。そこのサイトをクリックし、彼の顔を調べた。
木村忠征、58才。写真が載っていた。厳格そうな老人、といった風貌だ。医者はいつも疲れたような顔をしている。高岸のような顔だ。金はあるのに、時間がなく、疲れている人間は雰囲気が似ている。紙幣が貯まっていく度に、皺が増えていく。
この程度の情報で充分だ。
机の上に散らばったやりかけのフリーセルを終わらせようとしたが、失敗した。
スペードのエースに邪魔をされた。スペードのエースには死という意味がある。葬式に出たばかりで、またこいつに邪魔をされるとは。
私は眉をしかめた。
やり直そうかと思ったが、そんなことをしているよりは車を走らせた方が気が楽になると考えた。途中で近所のコーヒーショップに向かって、サンドイッチを食べよう。なじみの店員もいるかもしれない。
私は熱いコーヒーを飲み干して、上着を取った。電気を消した。机の引き出しから取り出した車のキーを人差し指で回して、事務所の扉を閉めて、鍵を回した。
辻の歌が入ったCDが目に入った。まだ聞く気にはなれなかった。
ドアに掛けた札をくるりと回した。
札にはこう書いてあった。
あなたのお探しの探偵は、ただいま外出中です。
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