第14話
数日後、晴れた日の夜だった。
私と藍原はパスタを食べていた。
私はフォーク一本でコンビーフを入れたボロネーゼのパスタを食べ、彼女はトマトソースのパスタをスプーンとフォークで食べている。
彼女には、どこかから足音がしたらすぐに隠れるようにと言っておいた。ペンダントはデスクの下の金庫に入れておいた。
その時はすぐにやってきた。
停電が起こった。
「え!?何ですか!」
「隠れろ」
「まさかあいつが?」
「かもしれない」
晴れの日の夜だ。落雷でもないのにそうそう停電するわけがない。
私は非常用の電源に切り替えた。彼女を物置に押し込めて、蛇腹式の扉を閉めた。
取り付けておいた監視カメラの映像は途切れている。固定電話も携帯電話も繋がらない。奴が来たのだ。中が見えないようにブラインドを下ろす。
引き出しを開けてスタンバトンを取り出した。
両手に二つのスタンバトンを握り締め、デスクの下の、矢を装填したボウガンをちらりと見た。ブーツで階段を踏みつける音がする。一階の扉には鍵を閉めておいたし、シャッターも下ろしてあったはずだが、音がしなかった。
イギリス製のレザージャケットを着て奴は現れた。
ぎらぎらした目、少し右に曲がった大きく高い鼻、小さい口。奴は笑顔で入ってきた。ほうれい線が顎までくっきりとしている。髪の毛は脂ぎって光っている。風呂に入っていないように見える。ベンチで座っているだけで、警官に取り囲まれるような見た目の男だ。両手に黒いグローブを、右手にはアイスピックを持ち、サングラスをかけている。おまけにジーパンと、それ自体が武器になるような軍用のブーツを履いていた。三浦だった。
「よう、遠路はるばる会いに来たぜ。女優さんはいらっしゃるので?」
マシンピストルのように早口で、人をあざけったような声だった。
「知らないね。何のことだかわからない。ここに女などいない」
「とぼけるなよ。願い事はたった二つだ。一つ目は例のあのビデオだか音声だかヤクの粉だか知らないがそいつを全てよこせ。んまぁ、データなんて複製されてるだろうけどよ。社長さんはそこまで頭が回ってないらしい。二つ目は藍原ちゃんの女優引退だ。アンタが叶えなかったら星にでもお願いしなくちゃな」
三浦は天を指さした。手振り身振りの多い奴だ。
「流れ星にでも願ってろ。それに、ペンダントが本当の狙いだろう」
「知ってるのか。盗み聞きしてりゃあ当たり前か。そいつは話が早いな」
三浦は、長テーブルの上の皿を見て、両手を広げながら言った。私は皿を片付けていなかった事を後悔した。
「おたくらパスタとか食べてんの?やめときなよ、地球の資源の無駄遣いだ」
相当パスタが嫌いだとみえる。
「そして二皿ってこたぁは、二人だ。おまけにパスタを食べるときにスプーンを使うのが好きな奴は女って相場が決まってる」
「何を、どの皿でどういう風に食べようと私の勝手だろう」
「パスタ食べるときにわざわざ二皿に盛りつけてフォーク二本スプーン一本で食べるのか?飲み物はグラス二つで飲むのか?えらく行儀がいいんだな」
「私の勝手だろう」
「しかもグラスに口紅が残ってる。俺は口紅をつける男を人生で一度も見たことがないぜ。あんたは女装癖なんてないだろう」
ネズミのように良く気がつく男だ。
「私の勝手だと言ったはずだ」
「そう!私の勝手だ。私の勝手、私の勝手、俺のかって・・・・・・つまり、俺が何をしようと勝手だっていうことだ。お願いを聞いてくれないって事は。悲しいね。俺は藍原ちゃんのファンなんだが、好きすぎて殺しちまうかもしれないぜ」
「ファンなんだったら、もうちょっと自制するんだな」
私はスタンバトンを数回放電させた。奴は肩をすくめておどけた。
「分かってないな。ファンである事とお仕事は別だ。ここを使いなよ、こ・こ・を」
キツツキ男は左手の人指し指でこめかみを三回ノックすると、蛇腹式の扉をパーティ会場の扉のように両手で押し開けた。三浦の背中には金属を焼き切るためのハンドトーチがあった。
「じゃぁーん!ご開帳でぇ〜す!藍原ちゃ〜ん。ファンなんだけど、会いに来たぜ?ハリウッドにも今度行くんだって?サインしてくれない?辞職届に!」
壊れたように笑った後、キツツキ男が鼻をひくひくと動かした。
「香水の匂いだ。女の香水。ごめんねアイスピックで刺しちゃってぇ。仕事だったんだよ。藍原ちゃんも仕事でキスしたりするだろ?それと同じだ、かわいいかわいい売女ちゃん」
私は奴の背中にスタンバトンを叩き込む準備を始めた。
奴は音楽プレイヤーをいじって、ダブステップを選曲し、頭を揺らし始めた。
「戦闘にはこれに限る。ところでお前の名前なんだった?」
「今すぐ階段を下りて事務所の表札でも見に行けば良い」
「つれないね」
私が右手のスタンバトンを振り下ろそうとすると、奴は振り向きざまにバトンのグリップを掴んだ。奴が右手のアイスピックを私の腹に突き刺したが、防刃チョッキに阻まれた。私は左手のスタンバトンを奴の脇腹に押しつけ、私はスイッチを押した。
だが、奴にはスタンバトンの放電が効かず、私の腹を蹴り飛ばした。軍用ブーツの金属板が腹に食い込んだ。そのままよろめいた私はデスクに腰をぶつけた。
奴は私の右手にあったスタンバトンを奪い、空中に放り投げ逆手から順手に持ち替えた。
「おいおい、そんなちゃちな電圧で俺の革ジャンの上から効くと思ったのか?教えてやるが、そのバトンは30万ボルトだ。俺の愛用のアール・ニューボールドのジャンパーを抜きたければ、50万ボルトを持ってこい」
私は立ち上がり、嫌みの一つでも言うことにした。
「そんなちゃちなアイスピックで私のチョッキの上から効くと思ったのか?」
「お互いエモノを交換したら世の中上手く回りそうだな」
奴の左手にはスタンバトンが握られ、私の防刃・防弾チョッキにはアイスピックが刺さっていた。
「じゃあ、こういうのはどうだ?」
私はポケットの中からダーツを取り出し、サングラスの隙間から覗く瞳に向かって投げた。三浦は手で目を隠し、奴の左手の甲に刺さった。
「目に刺さったらどうする、危ないだろ?」
奴はぼやいて、ダーツを抜いて投げ捨てた。
「仕事の前には鎮痛剤をたっぷり飲むって決めてるんだ。痛みとかあんまり効かないんだよな」
三浦は長テーブルの上のリンゴを右手で拾いあげた。
「罪の果実っていうらしいが、神様って奴は一体何様気取りなんだ?一口人間が食っただけで、自分は一口も食ったことないような顔して楽園から叩き出すなんて、心の狭い奴だぜ。きっとカルシウムが足りてないんだろうな」
奴は右手でリンゴを握り潰した。私はアイスピックを投げ捨て、スタンバトンを握り締めた。
「お前はリンゴを食べようと食べなかろうと、地獄に堕ちる」
「地獄ごときが俺を縛り付けられるとでも?」
私と奴の、スタンバトンでのチャンバラだ。30才近くになってもこんなことをするとは涙が出る。
「スター・ウォーズみたいだな」
私が奴の減らず口を黙らせるためにバトンを振ると、奴もバトンで受け止めた。
三浦が私の右膝の皿に蹴りを入れた。奴の顎に左の掌底を叩き込んだ。
「もうちょっと腰をいれたらどうだ、探偵さん」
「そんな蹴りより、日和山を登る方が膝を痛めるぞ」
こうは言ったものの、私の膝はえぐられるような痛みを感じていた。
奴は足から先に痛めつけていくタイプなのかもしれない。性格の悪い奴だ。
スタンバトンの電撃を喰らわすには、レザージャケットのない下肢に叩き込むしかない。鎮痛剤をもし沢山飲んでいるなら、どれだけ殴っても奴は倒れないだろう。
三浦がスタンバトンを私の顔に向かって突き出した。私は頭を右に傾け、それを掴んで、奴の足に向かってバトンを突き出した。奴は左手で振り払い、私の右膝に蹴りを入れた。
三浦の手が私の手を中心にうねるような動きをした、バトンが奪われた。二の腕に三浦がバトンを振り下ろしてきて、肘を肘で打ちあげられた。手が痺れる。バトンが落ちた。三浦が離れた。
「拾えよ、早く」、三浦が笑った。私は拾った。
何度も何度もバトンとバトンがぶつかり合う音が響いた。相手は八の字を描くような軌道で何度もバトンを打ち込んできた。遊びでもしてるつもりか。また膝に蹴りを入れてきた。あのやろう。同じ場所ばかり狙ってきている。やはり武器を使えばあいつのが強い。左足で金的をしたが、奴はファウルカップを付けていた。
バトンをこめかみに向かって振った。手首を受け止められて、手の甲にグリップを振り下ろされた。私のバトンが落ちた。
奴が左足を一歩踏み込み、体を沈めた。
まずい。左アッパーだ。私は肝臓にまともにその一撃を食らった。激しい痛みと共に呼吸が一瞬止まった。次に右の掌で顎へのアッパー。右手を掴まれた。そのまま顎を押され、首が伸びた。奴は私の足を引っかけ、そのまま押し倒した。残った左腕を床にすんでで押しつけて、後頭部は打たなかった。奴は私の右腕を思いっきり踏みつけた。腕の骨にヒビが入ったような錯覚に陥った。
「そんなチョッキ着込んじまってよ。動きが重くなる。エモノなんて使わなくたって、俺のパンチはキくぜ」
奴が私のみぞおちにスタンバトンを接着させて、放電した。
全身にアイスピックを刺されたような痛みだった。数分はきっと動けないだろう。三浦はスタンバトンを遠くに放り捨て、当初の目的を果たすべく、物置の方に近づいていった。
背負ったハンドトーチを左手に持ち、物置の扉に向けた。
「女優の蒸し焼きか、いったい幾らで売れると思う?」
奴は金属の扉を軽く炙った。
「出てきてくれ、女優さん。俺はおたくのファンなんだ。だから傷つけたくない。えぇわかるだろ?ペンダントを渡すだけさ」
金属の扉が軽く蹴られた。
「じゃあないと、そのご自慢のかわいい顔でローストビーフを作っちまうぞ?えぇ?それともケバブがお好み?こんがり焼いて削いだ頬肉を、ピタパンに挟んでヨーグルトソースで食べてやろうか?」
三浦が金属の扉を強く蹴った。
「ハニー、世の中は常にうまくいかないもんさ。これもその一つだと思って諦めろ」奴は肩を竦めてハンドトーチの火を消しピッキング用具を取り出したが、ポケットにしまった。そしてドアをブーツで蹴りつけた。
十回目で扉は大きな音を立てて倒れ込んだ。
「こ、こないで」
藍原の恐怖に震えた声が聞こえる。
「踊ろうぜ?藍原ちゃん、ダブステップ好きだろ?」
奴に藍原が引きずり出されてしまう。
藍原の手首を三浦が掴んで、引きずり出した。
「お前、ペンダントをつけていないな」と、冷たい声で三浦が言った。
「誰があなたなんかに渡すものですか!」と、藍原が叫んだ。
「そうか。じゃあ体に聞こうか」
三浦が藍原の右目に左手の親指を優しくあてて、軽く曲げた。
「美しい目だ。黒くて美しい目だ。硝子みたいだよ。その目の輝きを奪うのは心苦しいことだが」
「教えません。片目ぐらいなんですか。彼はあんなに私のために戦ってるのに。どうせ聞いたら彼を殺す気でしょう」
三浦が溜息をついて、大きく首を横に振った。
「愛の力って奴か。あんたの愛は重すぎる、そんな気がするね。吐き気がするね。愛だとか恋だとか、性だとかそういうのが大嫌いなんだ。女も男も皆死んじまえ。そいつが真の男女平等って奴さ」
三浦は目から指を離し、首筋に手を強く当て、藍原に顔を近づけた。長いキスだ。藍原は三浦の胸に手を当てて押したが、逃れられない。
口を離した。彼女は顔を真っ赤にして、ひどく息を切らした。声を出す暇もないほどのようだった。扇情的だった。
「キスしながら息を吸って、頸動脈を押さえると、意識が飛ぶ。快楽で気絶しちまうか、酸欠で気絶するかどっちが早いかって奴だ。それを続ければ死ぬ。気持ちよく死なせてやるよ。二回目いくぜ」
三浦が社交的な微笑を浮かべ、もう一度唇を重ねた。
藍原の恐怖に震えた表情がなくなって、蕩けるような顔になった。そのうちに、白目をむいた。体に力がなくなって、腰から崩れ落ちた。三浦はそれを見ると、満足げな顔で顔を撫で、藍原の目を閉じた。ゆっくりと、硝子細工を扱うように床へ下ろした。
「俺はEDでね。誘われたときは気を失わせて、なかった事にする。性的な物があまり好きじゃないんだが。凄く気持ちいいらしいぜ。殺しの方が好きなんだが」と、頭を掻いた。
その後、少し気持ち悪そうな顔をして、唇を腕で拭った。
「やっぱり性的な接触は好きになれないな」と、三浦は言った。
そういう男なのだろう。
「安心しろ、探偵。まだ殺してない。もしやるなら、お前が死んだ姿を良く見せてから殺る気だ」
私は予想より早く動くようになった体に鞭を打ち、スタンバトンを拾い、右手に持った。放電音を響かせて、こちらに注意を向けさせる。
「お前の相手は私だ」
「かわいい女の子が目の前にいるのに、野郎とワルツを踊る趣味は俺にはない」
奴は立てた人差し指を左右に振ると、ハンドトーチを投げ捨て、歩き始めた。
私は距離を詰め、左手を出した。左手で弾かれた。その左手で、三浦の左手を掴んだ。三浦が目を細めた。右手を突き出し、デニムへ突き刺した。スイッチを押した。三浦は唸りながら、右の指先で私の目を突いた。
激痛が走る。私は離れた。
「ご自慢のハイキックを俺のテンプルにぶち込んでみろよ。そうすれば少しはマシになるかもしれないぜ。ビリビリ棒なんて使わないでな」
三浦が指でこめかみを叩いた。ダブステップのキックが鳴り続けている。
「饒舌なんだな」と、私は言った。
「今日はな」と、三浦が言った。
電撃を流そうとすることをやめた。これを警棒代わりに使ってチャンスがあるときに、電撃を流すほうが効率的だ。
三浦が腰をかがめ、肘を曲げ、指をぴんと伸ばした。
私は顔へ左の拳を伸ばした。三浦は避けた。左足で腹へ蹴りをすると、三浦は右肘で止めた。足を下ろし、振り返って、右足のかかとを突き出した。三浦は腹に喰らった。そのまま私は回転に任せてバトンを振った。
三浦が前に出て、バトンを持った腕を弾いて、右の掌を突き出した。
私は掌を払って、膝を腹へ叩き込んだ。三浦が右手で私の左手の指を折ろうと思って掴んだ。私は手を引いた。するとすぐに手首を掴んできた。左肘を側頭部に喰らった。三浦は肘で私の右手を弾き、右手首を掴んだ。手首の骨がきしみ始めた。いかれた握力だ。
「手首を折ってやろうか」
三浦は、小動物をかわいがる少年のような顔で囁いた。
手首の骨が曲がりかけている。手首を動かして、バトンの先を、三浦の頭へつけた。
私がスイッチを押す前に、三浦は両手を離して頭につけ、私を肩で突き飛ばした。壁に背中が当たった。三浦が突っ込んできた。左足で顎を蹴ろうとした。三浦は体を反らした。私は右足で側頭部を叩こうとした。左手で防御された。バトンの先で左肋骨を突いた。三浦が顔をゆがめた。左手で弧を描くようにして、三浦の顎を殴りつけた。
三浦が少しよろめいた。私は右手のバトンを三浦のジーパンへ押しつけ、放電した。
十秒ほど、放電し続けた。三浦は低い悲鳴を上げながら、倒れ込んだ。私はバトンをはなした。馬乗りになって、手でジャケットを掴みながら交差させて、襟で首の動脈を絞めた。
「お返しだ」と、私は言った。
三浦は私の口に左手の指を入れ、思い切り引っ張った。頬の肉がえぐれそうだった。そしてそのまま、私は転がされた。
二人とも立ち上がった。素手で戦うこととなった。
三浦が手を開き、左手を顔の高さで、右手をみぞおちの高さで構えた。私も構えた。
私は左の拳を出した。三浦は左手で巻きつくように払い手首を取って、捻ろうとした。私が耐えると、急に逆に手首を捻って、私はお辞儀させられる事になった。そこに三浦が逆関節になった腕に、肘を振り下ろそうとした。すぐに三浦の膝を思い切り蹴り飛ばすと、腕を放したものの、三浦が私に飛びついて、両腕で私の左腕を固定した。私の腰を曲げさせて、膝をぶつけてきた。一発、二発。脳が揺れた。三浦が位置を変えて、股間に蹴りを打ち込もうとした。腕で止めた。そして、相手の股間を掴んだ。これならファウルカップも関係ない。三浦は飛び退いた。
私はジャブを打った。三浦が弾いた。
私は右足を直線的に伸ばした。右手で払われた。右膝の裏をかかとで踏まれた。膝をついた。私の顔が左手で掴まれ、のけぞらせられた。三浦が手刀を私の喉仏に叩き込もうとした。これを食らったら、一撃で死ぬ。手刀をすんでで、左手で受け止める。私は右手の指を揃えて、三浦の首に突き刺した。三浦の短い悲鳴が聞こえた。体勢を立て直し、三浦の顎に連続でフックを叩き込んだ。三浦はふらふらと揺れた。次のフックは、三浦の左肘で止められた。そして、三浦の掌での右アッパーを顎に喰らった。次に来た左肘を私は肘で受け止めた。右の拳を顔に打った。三浦は外へ弾いた。腕に抱きついてきて、投げようとしてきた。私は耐えた。
すると三浦が後ろへ回った。右腕の下から通した腕で首を絞めてきた。頸動脈が締まっている。つま先を何度も踏み付けた。ブーツの金属で、ダメージがない。目に親指がきた。避けたが、頬が切れて、血が出た。ナイフみたいだ。あと数秒で落ちる。
なんとかしろ!左肘を思い切り後ろへぶつけて、金属の無い場所を踏んだ。三浦は離れた。しかし、首の後ろに手をやられて、後ろに引きずり倒された。
地面に仰向けに叩き付けられたが、なんとか受け身を取った。三浦が足で私の頭を踏み付けようとした。私は避けた。次が来た。手で受け止めた。三浦が笑い声を出した。声がかすれている。
私は倒れたまま、右のつま先で三浦の顔を蹴りつけた。三浦が離れた。そのまま転がって、左で顎を蹴った。四つん這いになった私は立ち上がって、そのままかかとを後ろに叩き込んだ。相手の腹に食い込んだ。
私は右足で頭を蹴ろうとした。避けられた。タックルを喰らった。壁にぶつかった。三浦は私を離して、右肘を胸に叩き込んできた。心臓が飛び上がるかと思った。ジャブが顔へ飛んできた。頬に食らった。右の、指を曲げた掌が迫ってきた。目を狙っている、弾いた。右手が伸びてきた。人差し指と親指が曲がっていた。弾ききれなかった。喉仏を指で挟まれた。潰される前に、腕を思い切り弾き飛ばして、ジャブを顔に食らわせた。
左足で三浦の太腿をきつく叩いた。代わりに、左のアッパーが飛んできた。かわした。
ジャブを食らわせようとしたが、弾かれた。右を打ったが、左手で弾かれ、次に下から来た右手で弾かれた。手首を掴まれた。左肘が、肘の逆側に飛んでくる。腕を下に下げて、肘を避けた。腕の下を回り込まれて、左肘が顎の下から飛んで来た。ぎりぎりで避けた。右肘が飛んで来た。左肘で受け止めた。左の掌を顔に食らって、鼻が痛んだ。思い切り両手で押し飛ばしてやって、距離を取った。
三浦は両手を頭につけた。私が右の掌を打ち込むと、腕で弾かれた。飛び込んでくる。インファイトは勘弁願いたい。見たこともない気味の悪い動きが多すぎる。ボディに右のフックが飛んできた。左腕で弾いた。三浦が左腕を取って、私を前に引っ張った。私は前のめりになった。三浦が私の首の後ろに、手をやって、体を回転させようとした。私は回転している途中に、スネを蹴り飛ばした。そのまま右の裏拳を三浦に打ち込もうとすると、払われると同時に掌を脇に食らった。右ストレートが顔に向かってくる。避けた。
左膝を三浦の腹に打ち込んだ。体を浮かされて、あまりダメージが入らなかった。
三浦が私の足の上に足を踏み込もうとしてきた。足を反らす。足の甲を折られるところだった。指先が目に飛んで来た。交わして、左の拳を三浦に入れた。三浦はぐらついた。そしてきゅうに振り返って、左肘を打ち込もうとしてきた。肘で受け止めて、腎臓に右の拳を入れた。右の指を曲げた張り手が、鼓膜に向かって飛んで来た。後ろに引いたら、目か喉を引き裂かれる。しゃがんで避けた。いきなりつま先が下から恐ろしい速度で登ってきた。金属で頭蓋を砕かれかねない。ぎりぎりで避けた。こちらの右とあちらの右でクロスが入った。
ここで倒れたら、殺されるぞ、と私は自分に言い聞かせた。
私と三浦は離れた。三浦の膝が上がった。金属の蹴りを食らえば、まずい。だがいきなり飛んで、殴ってきた。ぎりぎりで避けた。左が飛んで来た。その前にジャブを食らわせた。左は腕で弾いた。
三浦が少し距離を取って、ボクシングのように構えた。ワン・ツーを弾くと、右ストレートが飛んできた。腹に突き刺さった。間髪入れずに二回の軽いジャブ。顔と胸に喰らった。機関銃のようだ。右フックが来た。肘で弾く。私は右を出した。三浦はかがみ、私の顎に強烈な右のアッパーを食らわせた。視界が揺れた。パンチドランカーになりそうな気がした。頭突きか肘が飛んで来そうだ。私は足を飛ばした。三浦は上に気を取られすぎていて、もろに喰らった。そのまま押した。三浦は唾を吐いて、下がった。下がったなら私の距離だ。右足を、三浦の横っ腹へと振った。三浦はガードしようと両手を頭につけて、体を斜めに下げた。私は足の機動を変えて、靴を三浦の側頭部へ叩き込んだ。ブラジリアンキック。三浦が腰をかがめた。
私は振り返った。そして、振り返るままに、かかとを側頭部へ叩き込んだ。
三浦は地面へ倒れ込んで、動かなくなった。
心臓が爆発しそうなほど早い脈拍と、ひどい息、酷い痛み、胸が大きく動いた。
「お前を警察に突き出してやる」と、私は言った。
ボウガンを取りに行って、突きつけようと思った。私は後ろを向いて、デスクへ向かった。何かが突撃してきた。両足を腕で掴まれて、前へうつぶせに倒れた。
仰向けになってそれを見ると、三浦だった。
三浦が私に馬乗りになって、喉に手を伸ばした。路地裏の時と同じだ。腕は膝で押さえ込まれている。唇を反時計回りに舐めまわし、下唇を二回、上の前歯で弾いていた。
「今度は本気でやらせてもらう」と、嗤った。
今度は誰も助けてはくれない。アイスピックにも、あと少しで手が届かない。
三浦が私の首を絞め始めた。首がへこんだ。吐き気がする。脳が悲鳴を上げる。息が出来ない。指が、届かない。あと少しで、アイスピックに届く。
しかし届かない。あと数センチなのに、動きを止められている。
「地獄で会おうぜ、探偵」
視界が赤黒く染まっていく。その端で、藍原が立った。彼女の両手が銀色に煌めいていた。藍原が走って、三浦にそれをぶつけた。
包丁だった。
三浦の目が見開かれ、口が歪んだ。痛みではなく、怒りの表情だ。
三浦は私の頬を肘で殴りつけ、立ち上がった。
金属音。包丁は刺さっていなかった。分厚いレザージャケットに阻まれたのだ。三浦が足で包丁を蹴り飛ばした。転がるような音がした。
「包丁は人を刺す物じゃなくて、食い物を切る物だと家庭科の授業で習わなかったか?」と、三浦は言って、藍原の手首を思い切り掴んで、私から遠ざからせた。藍原の顔が苦痛に歪んだ。三浦が片方の手で、藍原の小指を取って、そのままへし折った。甲高い悲鳴が聞こえた。私は立ち上がろうとした。しかしまだ、動けなかった。
「女に手を上げるな」
「男も女も同じ原子で出来てるぜ?」
三浦が右の拳で藍原の顔を殴りつけた。左肘を腹に突き刺した。藍原が前屈みになった所を三浦が押し下げて、顔に膝を入れようとする前に、藍原は嘔吐した。団子状のものと、パスタの形をしたものと、トマトソースと、胃液が混ざって、床に広がった。三浦の靴とズボンにかかって、三浦は顔をしかめた。
「今のは流石にトサカに来たぞ」
殺し屋が首に手を伸ばして、持ち上げた。藍原の首を締め上げた。
私はデスクの方へ這っていった。デスクにたどり着いた。デスクの裏に隠したボウガンを取って、三浦に照準を合わせた。
「手を離せ」と、私は言った。
こちらを向いて、藍原から手を離した。獣のような表情をしていた。
「両手をゆっくりと上げて、後ろを向け」
三浦は両手を挙げた。
「嫌だと言ったらどうする」
「脳天を矢でぶち抜いてやる」
「過剰防衛で逮捕されるぜ」
「知ったことか」
三浦が飛んだ。ボウガンは部屋の壁に当たっただけだった。そして三浦は瞬時に藍原を引き寄せた。私は別のボウガンを取り出した。
ジャンパーの下から小さいリボルバーを一瞬で抜いて、私に向けた。私が照準を付けるより早かった。早すぎた。とても普通の殺し屋には思えなかった。そして一発三浦が天井に向けて撃った。轟音とともに、天井に弾痕が穿たれた。
「今度は本物だぜ。コルトのデティクティブだ」と、三浦が言った。
藍原の肩の横から三浦が顔を出し、右手で藍原の首を掴み、左手で拳銃を構えていた。38スペシャル弾を六発装填する。三浦が撃鉄を起こした。円形弾倉が勢い良く回転した。
「ボウガンを捨てろ」と、三浦が言った。
溜息が出た。私はボウガンを捨てた。
藍原が足をそろりと伸ばした。藍原の靴の下にはアイスピックがあった。藍原は足を振った。三浦の靴の横にアイスピックが突き刺さった。
三浦は短い悲鳴をあげて、銃を落とした。
「このくそアマが」と、三浦は言って、両方の掌で思い切り藍原の腹を打って、押し飛ばした。彼女は吹っ飛んで、壁に背中をぶつけた。咳の音が聞こえた。
私はその隙にボウガンを拾って、三浦に向けた。
「動くな。銃を捨てろ」
三浦は顔をゆがめたまま手で頭を掻いた。銃を落とし、そして両手をあげて、窓にもたれかかった。口の片方を釣り上げて、苦笑いをしていた。
三浦がブラインドを上げて、窓を開けた。そして暗い外を見つめはじめた。
肘を窓枠に乗せて、頬杖をついていた。
「今日は雨が降っていない。珍しい日だ。梅雨なのにな」と、三浦が言った。
「おとなしくしていろ」
「俺は夏が嫌いだ。冬が好きだ。寒くて、冷たい夜が。天使も凍えるような夜が」
「詩人のつもりか?」
「そうなりたかったもんだ。だが、そうなれなかった」と、言って笑った。
「俺はジャズも好きなんだ。辻は歌が上手かったな」と、三浦は続けた。
「この世で最も犯罪的な音楽はジャズだ。売春婦の街で生まれた音楽だ。予想が付かない演奏をして、次にどうなるかも分からない。性器を砂糖菓子で包んでいるようなものさ。皆そうだ。どんなに美しく見せかけた愛や恋も、結局は性欲が元で、欲望の象徴さ。辻はそれを体現している。性的で犯罪的で刹那的な人間が歌う方がいい。シナトラなんてその権化だっただろう。神がいない街、犯罪的な街にもよく似合う。東京で彼女のような人間が取り繕ってジャズを歌うことこそが真のイエロー・ジャズだ」
「お前の音楽論を聞く必要は無い」
「そうかい。音楽のお話はお嫌い?現代美術とアンディ・ウォーホルの関係性についてがいいか?それともドストエフスキーとロシア文学?チャンドラーとアメリカ文学の関係性?フィルムノワールがアメリカ映画に与えた影響がいいか?それとも、お堅く刑法や、日米と中国とロシアの対立が与える世界経済への影響の講義が聴きたいか?それともゴシック建築とバロック建築の話がいいか?」
「どれにも興味がないな」
三浦が膝を曲げた。そして飛んだ。
私は駆けよって、窓から外を見た。三浦はうまく転がりながら着地していたものの、足を引きずっていた。アイスピックはもう靴から抜かれていた。
私はコルトのリボルバーを手にとって、事務所の階段を駆け下りた。三浦を見失った。しかし、血痕が街灯に照らされていた。それはまばらだが、道しるべとなった。
それを追っていった。三浦は袋小路へと入っていったようだ。ここの地理に詳しくないのか、三浦は逃げる場所を間違ってしまったようだ。
「袋小路だぞ!お前はもうお終いだ。諦めろ」
私は38口径を奴に向けた。三浦は振り返って、私に顔をみせた。
「俺は諦めるって言葉が一番嫌いなんだよ」
両手を挙げた、三浦は左上を向いている。奴の視線の先には隣の建物へのハシゴがあった。そこから逃げる気だろうか?私は38口径を構えながら近づいた。
「世の中は常に上手くいかない物だ。これもその一つだと思って諦めるんだな」と、 三浦の言葉を使って言い返した。
「まさか自分が上手くいくとでも思ってるのか?」と、三浦が返した。
奴が西部劇のように抜き撃ちを始めるかどうかを注視していた。それが間違いだった。私はワイヤーに脚を引っかけてしまった。金属音の後に景気がよすぎる音が聞こえた。全てが白く染まり、全ての音が消えた。
閃光手榴弾のワイヤートラップだ。奴にまんまと嵌められたのだ。私は死を覚悟した。だが、私は死ななかった。しかし奴は消えていた。
逃げられたのだ。私は奴の血の跡を追った。私の後ろにはない。梯子に続いていた。
私は梯子を登って奴を追いかけようとした。だが登ったその向こうに血の跡はなかった。私は気付いた。奴はハシゴから逃げたわけじゃないと。私は上から道を見下ろした。一つの円形の金属板が気になった。
マンホールだ。奴はマンホールから下水道に逃げたのだ。アイスピックが刺さって出血している状態で下水道に入った。普通その状態で下水道のような雑菌だらけの環境に行く人間はいないと私は考えた。だが奴は普通ではなかったのだ。ワイヤートラップに私を誘導させ、視線ではしごを私に印象づけさせ、マンホールから逃げる。頭のキレる奴だ。職業犯罪者は皆、頭がキレる。
ハシゴを下り、蓋を開けて奴を追って下水道に入ろうとした。
しかし、考えた。
もし私が奴を逃しても、奴の負けだ。
奴は私の持っている証拠も、ペンダントも持っていけなかった。
あいつのクライアント、水江社長は刑務所に送られる。
私の勝ちだ。
私は深追いするのをやめて、路地から引き返そうとした。どんな罠が仕掛けられているかわからない。
しかし、路地の向こうに二人の男が立っていた。背中から街灯に照らされて、二人の男の顔はわからなかった。しかし、背格好でわかった。
「銃を捨てろ、探偵」
煙草の火が見えた。赤い点が浮かんでいるようだった。
金属が短い歯ぎしりをした。両手を合わせて伸ばし、近寄ってきた。
七メートルほどの距離に近づいた。顔が見える。
菊知と三木だ。両手には、M360拳銃を持っている。なぜか、二人とも手袋をはめていた。
「次はない、と言ったはずだぜ」菊知の声がした。
菊知が咥えていた煙草を左手に持ち、右手だけで拳銃を構えていた。左手は力なく垂れ下がり、冷たい目をしていた。
三木は両手で拳銃を構え、眼鏡の奥から鋭い眼光を放っている。
「警棒はなしか」
「銃に勝てる棒があるとでも思ってんのか?」三木が言った。
「私を撃ち殺すのか?」
私はリボルバーの撃鉄を起こした。刑事を撃ち殺してしまったら、最悪のお尋ね者だ。それは知っていた。
「場合によっては、だぜ。抵抗しないなら、命は保証してやる。菊知と違って、俺はあんまり人殺しをしたくないんだ」
私は眉をしかめ、二人を見つめた。信用の出来ない二人だ。
「銃を捨てろ」
三木が撃鉄を起こした。
「銃を捨てろと言ってるんだ!早く捨てろ!」三木が叫んだ。
「これが最後だ」と、菊知が呟いた。
拳銃を捨てた。捨てるしかなかった。
「そのまま後ろに下がれ。そして後ろを向いて、壁に手をつけろ」
私は下がって、壁に両手を付けた。
「今日、刑事を殴ったら、公務執行妨害と暴行罪と銃刀法でしょっ引くぜ。それか、こいつで撃ち殺してやる。冗談じゃないぜ、本気だ」
留置所に入ることなど、どうでもよかった。しかし、後頭部を銃のグリップで力の限り殴りつけられた。二回、三回。
意識が遠のいていった。
私は路地に倒れた。
菊知が、無線で「異常なし。銃声は住民の聞き違いだったようだ」と言った。
三木は私が持っていた、三浦の拳銃を拾ってビニール袋に入れて、大事そうに懐にしまった。
私はその行為の意味を理解した。嵌められた。全て計画通りだったらしい。
二人はゆっくりと、どこかへ消えていった。
私の意識もゆっくりと、どこかへ消えていった。
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