第13話

 それから二日後の昼下がり、私は場所を特定されないように公衆電話から社長に電話をかけた。ほとんど意味はないが。

「いい加減にしろ」

「あぁ、探偵か。俺が何したっていうんだ?俺が月でもぶっ壊したか?それともアフリカでガキが死んでる事に対する人道的犯罪でしょっぴくのか?ん?」

 とぼけたようなふざけた、薄汚れた声だ。

「とぼけるな。牢にぶち込んでやる。こっちには証拠が揃ってる」

「探偵さん。こっちがいい加減にしてくれ、だよ。藪から棒に、前もいきなり人を犯罪者扱いして」

「二日前に記憶はないか?」

「おいおい、嘘だろう?ミスタ。もしやそれで逮捕させようって言うんじゃ無いでしょうね。お人が悪い」

「ああそうだ。パーティでヤクを捌いてるのも証拠ありだ」

「ゆすりか?いくらでその証拠を買えて、お前が手を引く?」

「私が金を気にするタチだったら、探偵なんかやってないさ」

「おお、怖い怖い。泣いちゃうぜ。その前に証拠を全部ぶっ飛ばしてやる」

「ペンダント」

「何?」

「ペンダントのことを知っている。遺産の鍵だと。どうして藍原に持たせた?そっちが本命なんだろう」

「酔ったときに間違えたのさ。似てたんだ。馬鹿みてぇな話だ。そんなことしてなけりゃ、藍原に手を出す必要も無かったかもな。どっちにせよ、俺の女にしたいから、手を出す事は変わらなかったがな」

 水江は電話を切った。どうやら奴は諦める気は無いらしい。

 きっとキツツキをよこしてくる。最終決戦だ。

 私が奴に電話をかけたのは、社長か、キツツキ男が慎重すぎるということを知っているからだ。奴がすぐに動くタイプであれば、私達はもう襲われている。

 一度撃退すれば、やってくるのはまた遠い未来になるだろう。

 その時は、社長はもう捕まっている。

 不透明なアクリルの扉を開けて、私は外に出た。

 東京の空気は、排ガスで汚れている。

 いつか肺まで、その汚れた空気に染められそうだ。

 煙草を吸っている私が言うことではないのだろうが。

 歩き出した。

 道のそばの自販機に150円を入れて、コーヒーを飲んだ。缶を捨てて、インプレッサに向かって歩いた。

 視線を感じて振り返ったが、誰もいなかった。気のせいなのか、心配のしすぎか、それとも本当に誰かが尾行してきているのかはわからなかった。

 高岸の車を借りたのだが、その助手席には藍原がいた。40万円の中古のカローラだ。高岸はカローラだけでなく、イギリスの高級車メーカーのジャガーも持っていた。私のインプレッサの修理代は、経費で出ることとなった。

 私は運転席に乗り込んだ。

「なんて言ってたんですか」と、藍原が私の目を見て言った。

「きっと三浦をよこしてくる」

 藍原が俯きながら目を細めて、瞬いた。

「これが有名税って言うんだったら、取り立て屋は悪魔の手先かなにかなんでしょうね」

「悪魔は契約を守る。あいつらは契約も何も守らない」と、私は言った。

 カローラのアクセルを踏んで、走り出した。

 バックミラーを見ると、黒の大きくも小さくもない普通の車がずっと着いてきていた。

「なぁ」と、私は言った。

「なんです」と、彼女は言った。

「着けられているらしい。飛ばしてもいいか?」

 彼女は頷いた。

「聞く必要も無いことです」

 ミラーをよく見ると、その車の運転席にはやはり三浦がいた。三浦は私に向かって、二本指で敬礼のような行為をした。

 しつこいな、と私は言った。

 アクセルをきつく踏んだ。三浦もそれに合わせたようだ。

 メーターの目盛りが上がっていく。信号なんて知ったことか。

 ハンドルを左に切った。タイヤが叫ぶ。これは高岸の車だが、そんなことは気にしていられない。三浦も必死に食いついてきていた。20メートル程引き離した。

 赤信号、知らないな。クラクションを鳴らす。沢山のクラクションが聞こえる。ハンドルを強く握った。

 車体が隣の車と擦った。ふらついたハンドルを必死に戻し、離れる。藍原の押し殺した悲鳴が聞こえた。まだ三浦は離れない。

 交差点のあたりで、車は往来していた。まずい。

「捕まってろ!」と、私は叫んだ。

 横断している車の隙間を縫って、滑り込んだ。歩行者を避けた。

 交差点を抜けたが、まだ三浦は食らいついてきている。

 ハンドブレーキを掛け、軽くブレーキを踏み、ハンドルを右へ切った。人をはねかけた。メーターの目盛りは下がらない。ハンドブレーキを戻した。

 まだ三浦は着いてきている。藍原は震えている。

 また左へドリフトをした。まだ引き離せない。しかし、少し差を付けた。

やってやる。

 他の車が左右へ避けていく。モーセの十戒を思い出す。

 三浦はまだ食らいついてくる。

「いい加減に諦めろ」と、私は舌打ちをした。

 警察のサイレンがはるか後ろで鳴り始めた。一難去らずにまた一難だ。三浦の車が後ろで左へ曲がった。サイレンは私だけを追ってきている。

「止まれ、探偵!スピード違反と信号無視だ!車を降りろ!」

 覆面パトカーのスピーカーから三木の叫び声が、音割れしながら聞こえた。

 三浦の目的ははじめからこれだったのだ。

 そのサイレンは菊知と三木が乗っていた車から放たれていた。すぐに増援が来て、私達は囲まれるかもしれない。増援は来ないかもしれない。

 私はハンドルを左手で軽く叩いた。コンクリートのジャングルが流れていく。私はハンドルもアクセルも離さない。

 また車の流れを真っ直ぐ突っ切った。

 菊知が運転手のようだった。着いてきている。

 左へ曲がった。刑事は後ろでアクセルを踏んでいる。

「今から事故に近い事を引き起こす。歯を食いしばっててくれ」

「え?」と、震えた声が聞こえた。

「いいからそうしてくれ」と、私は言った。

 藍原は両手で自分の体を抱きしめて、頷いた。

 前は赤信号だった。勝負はこの一瞬だ。アクセルを踏んだ。

 横断する車の、ぎりぎり前を通り過ぎた。その車はブレーキを踏んだ。私はハンドブレーキを掛けて、左にハンドルを傾けた。車を半回転させて、後ろを向かせて止まった。もう一方の横断する車がブレーキを掛けた。私は車をバックさせながら、二人の顔を見た。

「くそっ!次は必ず捕まえてやる!」と、三木が叫んだ。

 菊知は何も言わず、顔色も変えず、空洞のような顔でこちらを見ていた。

 封鎖が完了した。バックのまま走らせた。交差点で、車の向きを直して、左折して、直進した。

 もうどの車も着いてこなくなった。スピードを保って、飛ばしていた。もう誰も本当についてこなくなったのを確認して、スピードを落とした。

 撒いたのだ。

 長い溜息が聞こえた。

「撒きましたね?」と、藍原は頭を掻いて、眉をしかめた。

「随分と派手なストーカーだった。しかし、三浦はどこへ行った」

 周りを見回しても、黒の車は私達を追ってきてはいなかった。連携していると思っていたのだが、こちらに砕けた敬礼をしてくることもなかったし、釘や矢を飛ばしてくることもなかった。

「きっと飽きたんじゃないんですか?そう願います」

「飽き性だったらいいんだが」と、私は言った。

 高岸の車に傷がついたが、中古車なので気にする必要も無いだろう。傷付けてしまったのは私だが、しょうがない。彼は傷を直すより買い換えることを選択するはずだ。使い道のないみじめな金を沢山持っているのだから。

 もし私が彼に進言できることがあるのなら、仕事を辞めてバカンスにでも行く事だ。

 そうすれば使い道を見つけられる。それとも、そのような状態になってすら使い道を見つけることが出来ないほど、この世に飽き飽きしているのかもしれないが。

 ビルが建ち並び、車が街を走り、人が街を歩く。風がビルの谷間をのろのろと通り過ぎ、日差しは街を焼こうとしていた。

 車の窓を開けて、風を作り出した。湿度が高い。

「まるで映画みたいなことばかり起こりますね。こんなこと、わたしには一生関係ないと思ってたんですけど」

 俯いて、声を落として、縮こまっていた。

 息が口から漏れる音が聞こえた。

「なんでこんなことになるんですか?わたしはただ、普通に仕事をしているだけなのに。最近なんだか、嫌なことばかりです。あなたを見つけられたこと以外は」

「あいつらも仕事をしているだけだ。仕事をな」と、私は嘲るように言った。

「仕事、仕事、お金・・・・・・仕事のために人を殺す、傷つける。きっと彼等は人間のことをガソリンとか、食べ物と同じぐらいにしか思ってないんでしょうね」

 私は彼女の言わせたいように言わせた。それが一番心の安寧を保てるときもある。ストレスを抱え込む人間は、だんだんと頭がおかしくなっていく。緩慢な自殺だ。それを続けるとこの世に耐えかねて自分から死を選ぶか、いつかは他者や社会を軽視するようになっていかれてしまうのだ。高岸は前者の途中にあり、三浦や菊知は人間のことを歩くガソリンぐらいにしか思っていない、後者の終着点だった。先天性でもない限りは。私は後者の途中にあるように思えた。精神は伝染する。それが強烈なインパクトを放つものであればあるほど、接触すればするほど、伝染していく。自分の信念を強く持たない者が悪人と触れると、心を大なり小なり持っていかれるのだ。私のように持っていても、少しは持っていかれる。

「これは夢なんでしょうか。せっかく昔追い求めていた、好きな人と出会えた代わりに、権力や金や力を振りかざす悪人達が現れる。あなたほど強い人が、平然と地面に這いつくばらされる。話はみずなさんから聞きました。あなたが武器を持った10人を同時に相手して勝ったり、銃を向けられても一瞬ではじき飛ばしたり。そんなあなたをたたきのめすほどの力を持った頭の狂った男達が何人も現れる。そんな化け物に狙われるわたしは、いったい前世で何をした悪人なんですか。それとも原罪とかみたいな何かですか?わたしには全く身に覚えがありません。30年に満たないほどしか生きていませんが、これでもまっとうに生きてきたつもりです」

「全うに生きていても、ああいう手合いは関係ないんだ。目を付けた人間を手に入れようとする。人間のことなど何とも思っていない。基本あいつらのプライドは自分の意志を最後まで貫けることか、尊敬されることぐらいしか頭にない。今私達が相手にしているのは、プライドなんて持っていないタイプの悪人だ。自分の利益や快楽のためなら、どんな手でも使う。蛇みたいな奴等だよ」

 誰もついてきてはいない。車の波に包まれるまま、走らせた。藍原は唇を震わせた。涙は目に溜まっていたが、目からこぼれるほどではなかった。

「神にでも仏にでも縋りたい気分です。スポットライトを浴びるのがそんなにいけないことですか?お金を持っていることがいけないんですか?それともわたしが生きていることが?女だったら、誰だって美しさや華やかさやシンデレラストーリーを求めるものでしょう」

「そんな事は誰も言っていない。君がよくないことをしたなんて誰も思っていない。それは君が自分で背負い込むことではなく、放り捨てるべき物だ。君のせいじゃない。君の仕事じゃないんだよ」

 藍原は目を瞑って、シートにもたれかかった。

「ああ、もう!やけになってきた!」と藍原は声を張り上げて、懐から銀色のスキットルを取り出した。

 私は瞬きをした。

 藍原はスキットルを開けて、全てを流し込んだ。

「何が入っていたんだ?相当きついと思うが」

「度数は40%!30年物のジャパニーズウィスキーですよ」

「何ミリリットル入ってた?」

「4オンス。120ミリリットル」

「ダブルの二杯分じゃないか。少しやけになりすぎだろう」

「死んだら酒なんて飲めませんよ」

 藍原の顔がアルコールで赤くなって、目も、泣いているせいかはわからないが、赤くなっていた。

 信号が赤になったので、車を止めた。

 夏の湿気った風が私の頬を撫でた。街路樹から落ちた緑の葉が風に吹かれて飛んでいった。ぎらぎらとした陽射しが私を焼いている。

「風が吹いた」と、私は言った。

「今日の空は、明日の風を知らない」と、藍原が言った。

 初めて聞いた言い回しだったが、悪くないと思えた。

 信号が青になって、また車を走らせた。

 過酷なほどの陽射しが降り注いできたので、サンバイザーを下げた。

「どうですか、今の。適当に思いついたんですけど」

「いいんじゃないか」と、私は言った。

 彼女の職業上、アドリブが要求される。ユーモアの利いた言い回し、詩的な言い回し、頭の回転が必要とされる。

「きつい酒が好きなんです。刺激的で」

 藍原はスキットルを逆さにした。銀に太陽が煌めいて、私の目に光が飛び込んできた。彼女はそれを車に投げ捨てた。それを持っているという仕事をなくした手をひらひらと振っていた。

「今倒れられたら、私は君の扱いに困ることになる。君を抱きかかえながら殺し屋から逃げ惑うのは骨が折れる話だ」

「あなたに頼らせてもらいます、お願いしますよ、その時は」

 彼女はドアにもたれかかった。私はハンドルを握った手の親指でハンドルを二回叩いた。

 サンバイザーは職務を遂行していた。

 いくらなんでも甘すぎるという気はしたが、飲んでしまったものは仕方がないだろう。

 バックミラーを見ても、もう尾行はない。遊びでもしたつもりだったのかどうかは、理解できなかった。しかし、ステーキを食べる感覚で人を殺す人間の気持ちなどわかるわけがない。計画通りに殺すか、気分で殺すかすら夕食の献立表のように決める人間達のことなど。

「君の気持ちは理解できる。しかし、行動は理解できない」

「酒を飲んだと言うことが?あなたじゃなくてドアにもたれかかったことが?それとも女優になったことが?虚構の人物になりきってカメラに撮られることが?あなたに抱かれたことが?逃げたことが?何が不満なんですか?」

「酒だよ」と、私は言った。

「まだやけになるには早い」

「早い?もしあの男達が銃を持って押しかけてきたらどうするんです。どこに逃げたって、地球の裏側まであいつは追ってくる。金で雇われた殺し屋。警察は信じられないし、おまけにサイコパスみたいな刑事がいる。巨漢の用心棒。いったいあなたが勝てるんですか。あなたは確かに凄いです。ですけど、銃に勝てる人間なんていませんよ」

「それは一番私がよく知ってる。銃は人を簡単に殺せる。手の平より小さな銃ですら一発で人が死ぬ。たった8グラムの弾頭が音を置き去りにする速度で人を貫いて、殺してしまう。私はそれを目の前で見た。いや、不可抗力だが、それをしてしまった。それを見てしまっても、やってしまっても、銃を持ち出す相手を見ても、人を守るべき権力を悪用する連中を相手にしても、まだ私は依頼人である君を守りたいと思っている。いや、相手がそういう奴等だから余計にそうしたくなるのかもしれない。それに、もし君が依頼人でなかったとしても、見捨てられない」

「あなたならそう言ってくれると思いました。二本目はやめておきます」

 私は正面を向いて、車を止まらせた。彼女に見とれて危うく交通法規を犯すところだった。時々はそれを忘れるが、何もないところでそれはしない。余計な面倒は避けなければならない。

「あれ?それをしてしまったと言いましたね」

「ああ、私は一人、殺したことがある。正当防衛の上、事故ではあったが」

 彼女は私の顔を見て、少しだけ頷いた。

「深くは聞かないことにします。酷い顔をしてますよ」

「知らない方がいいこともある」と私は言った。

 静寂が訪れて、聞こえるのはエンジンの音と、鳥の凍えるように小さな声だけだった。

 そのまま、事務所まで車を走らせた。

 藍原を抱きかかえて、階段を昇った。

 藍原はソファーで横になって、深い眠りについた。

 灰色のロッカーの前に私は立って、鍵を開けた。

 ロッカーから拳銃型のクロスボウを二つ取り出して、弦を引き、矢をつがえた。

ライフル型のクロスボウはしまっておいた。取り回しが悪い。

 ダーツの矢をポケットに入れておいた。

 包丁は好みではない。二本のスタンバトンを取り出した。棒状のスタンガンで、スタンバトンと呼ばれる。

 長さは50センチ、電圧は30万ボルト。私は引き金のような形をしたスイッチを押して放電を確認した。

 机の引き出しにスタンバトンを入れて、矢をつがえたクロスボウを机の下へ置いておいた。

 私はデスクの回転椅子に座って、どうしようかと考えていた。

 最初は遠くへ連れて行くことも考えたが、追ってくるのはわかっていた。なら、迎え撃つしかない。しかし、何をしでかすか予想がつかない。いきなり散弾銃をぶち込みに来たり、消音器を付けた拳銃で撃ってくるかもしれない。しかしここまで銃を使わずに、何もないのに急に銃を使ったりはしないだろう。刃物を使ってくるかもしれないし、アイスピックで刺しに来るかもしれない。

 それ以上考えてもどうしようもない。

 藍原の寝顔を見つめたあと、私は目を逸らして溜息をついた。

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