第15話

 体を揺すられた。目が少しずつ開いた。藍原と高岸が視界に入っていた。

「大丈夫ですか」と、藍原が笑顔を見せた。涙で彼女の瞳が濡れていた。街灯の光で瞳が光っていた。万華鏡のように見えた。

「やられた」と、私は言った。

「私の指紋がついた銃器を刑事達にとられた。最初からそれが目的だったんだ」

 私は舌打ちをした。舌打ちをしても意味がない時にだけ、舌打ちが出る。

 体中が痛んだ。まともでない人間達が揃って、私を殴りつけた。

 皆、ろくな奴じゃない。私は殴られ、藍原は指を折られ、みずなは落とされかけ、皆揃って釘を打ち込まれた。

 銃すら出てきた。次に水江達がどう出るのか、と考えた。

 水江はペンダントと麻薬の証拠と藍原が欲しい。私はリボルバーの指紋を取られた。もしその銃器が殺人に使用されているなら、首を吊られるかもしれない。もし手配されたら、国外へ逃亡しない限り必ず捕まるだろう。口を拭った。

「指はどうなった」と、私は聞いた。

「一本折られました」

 藍原の小指が逆に曲がっていた。包帯も何も巻いていなかった。彼女の手首には、くっきりと三浦の指の跡が残っていた。

「私が追いかけてから、まだ時間はそこまで立っていないのか?」

「20分ぐらいです。20分ほど眠っていました」

 私は太腿を腹に引きつけて、肘を立てた。亀が立ち上がるような速さで立った。

 高岸を見ると、口に煙草をくわえていて、右手にボウガンを持っていた。犯罪者だけが銃器を持つ。法律の中で暮らす人間は撃たれて死ぬだけだ。

 私は片足を前に出した。もう片方を前に出した。回転を失いかけたコマのように歩いた。

「随分とひどくやられたね。あの男はどこに行ったんだ?」

「下水道から逃げていった。足にケガを負っているのに、だ。傷口から感染するだろうな」

 三浦の身を案じているわけではない。あのような男は、下水道で死ぬのがお似合いだ。ぐらりときた。高岸と藍原が私の腕を掴んだ。

 大丈夫か、大丈夫ですかという声が聞こえた。

 私は頭を振って、自分の頭がまだ胴体と繋がっているかどうかを確認した。自分の髪を撫で下ろし、そのまま首をもんだ。ハムスターが、驚いたときにやる仕草に似ていた。強がりだ。首がひどく痛む。

「君の事務所に戻るのはまずいんじゃないか?」

 高岸はボウガンから矢を外していた。それを構えて、何かに狙いを付け、撃つようなそぶりをしていた。そして首をかしげ、またボウガンをじっと見ていた。

「僕の車がある。シャンソンに行ってみよう」と、高岸が言った。高岸はどこかへ歩いて行った。私はそれを見ていた。他に何もすることがなかった。

「君は三浦を包丁で刺そうとした。私を助けてくれたことには感謝している。しかし、もし君が三浦に殺されたらどうする。もし君が三浦を殺したりすれば、君は仕事が出来なくなる。人を殺したという罪悪感に囚われてしまうかもしれない」

 藍原は黙って、腫れ上がった私の後頭部を数度撫でた。猫を撫でる手のようだ。

 私はゆっくりと首を回した。藍原が、たった一人で地球をさまよう猫が最後に見せるような微笑を浮かべていた。

「わたしのせいで巻き込まれてしまって、ごめんなさい」

「君じゃない。悪いのはあの男達だ」

「それでも、最初から警察に行けばよかったんです。あなたに思い出して欲しいなんて馬鹿みたいな理由で、あなたを巻き込むべきじゃなかったんです」

「私はいつも巻き込まれてきた。それが商売で、それが私の人生だ。君が、君が思う最高の女を銀幕の中で演じているのと同じで、それが商売なんだ」

 藍原が顔をゆがめた。心の痛みのように見えた。指の痛みだったかもしれない。

「でも、でも」

「でもじゃないんだ。君は君の心配をしていてくれ。私は君に情けない姿ばかり見せている。私にほんの少し残った、とても小さな誇りまで奪わないでくれ」

「あなたはプライドの為に死ぬんですか。信念のために死ぬんですか」

「プライドも信念も無い人生など、私には耐えられないね」

私の声が、路地裏に反響した。大きな声だったようだ。

「昔もそうだった。わたしとあなたが酒を飲んだときも、一夜の過ちを犯した時も、あなたのその馬鹿みたいな無鉄砲さに惹かれたんですよ」

「馬鹿で無鉄砲とは、手厳しい」

「ええ、あなたみたいな人には手厳しいですよ。わたしみたいに、映画女優なんてやってる人なんて普通の人には惹かれませんよ。クールな紳士なのに、一枚剥けば危険で情熱的、それを人のために使うような人がいいんです」

「ありがとう」と、私は言った。

「この事件が終わったら、ゆっくりと話しましょう。たんていさん」

 彼女はウィンクをして微笑んだ。そして、人差し指を唇に当て、小首をかしげた。

 いつの間にか来ていた、高岸の車がクラクションを鳴らした。

「行くぞ、探偵」

 高岸の語気は少し荒かった。

 私と藍原も、後ろの座席に乗った。

 景色が流れていった。夜がドームのように、街を覆っていた。

 シャンソンの駐車場に到着した。車から降りて、シャンソンの扉を叩いた。

 扉は開いていた。嫌な予感がした。

 バーの中に入ると、大男がバーボンを手に持って、カウンターに座っていた。

 膨らんだ黒いスーツ、レスラーのような肉体、右手のバーボン。

「遅かったな、探偵」

 響くような声だった。

 加藤だ。殺人鬼と、悪徳刑事と、牛魔王だ。最悪の日だ。

「暇だったから、呑みに来てたんだ」

「みずなはどこだ」と、私は叫んだ。

 加藤はある方向へ首を振った。

「ここの店の名前、シャンソンか。フランス語で歌って意味で、女性名詞だ。ラ、とシャンソンの前につけてラ・シャンソンにしないのはなんでだ?どっちでもいい話だな。だが、ラ・シャンソンのが語感がいい気がするぜ」と、加藤は言った。

 みずなが手を縛られて、口に布を突っ込まれていた。

 加藤はにやりとした。

 私は拳を構えた。

「落ち着けよ。そんなボロボロの体で、俺に勝てると思うなよ」

「何が目的だ」

「何だろうな」と、加藤はおどけた。

 加藤は立ち上がって、バーボンを持った。

「お前をタコ殴りにしたかっただけだ。私怨って奴だよ。別に三浦とか、刑事とかとはあまり関係がない。ただの私怨だと、言いたいところだが三浦にタコ殴りにされたらしいな、そのザマじゃ。もう気がなくなったぜ」

 加藤はバーボンを私に投げた。

「呑もうや」

 加藤は私と高岸を手招いた。隣の席に座れと、目が言っていた。

 私は一つ離れて座った。少し不満そうな顔をしていたが、グラスを手に取っていた。

「辻はいい女だな」と、加藤が言った。

 そしてそのまま、「抱いたよ」と、続けた。

「天使みたいな声で囁くんだ。綺麗な声だよ。お前は辻を抱いたことがあるか?」

「いや」と、私は言った。

「どうやらあいつな、そうとうそのマネージャーとやらに頭に来ているらしい。お前の隣のそいつだ」

 加藤は高岸を見た。

「あいつはもう高岸なんて知らないと、お怒りだぜ。罪な男だ」

 加藤がグラスを煽った。眉毛の下の筋肉と、手首の腱と、腕の筋肉が盛り上がっていた。

「魔性の女だな。俺は惚れちまったかもしれない」

「告白するためにここにいるのか?」と、私は口を挟んだ。

「かわいい奴だ。俺はあんたらのこと結構気に入ってるんだよ」

 彼は空のグラスをカウンターに置いた。

「ペンダントを寄越せ」

「今は持っていない」と、私はうそぶいた。加藤は鼻で笑った。

「俺は甘いが、三浦や菊知は容赦ないぜ。前、アメリカの三浦の家に行ったことがある。そして、ロッキー山脈へ狩りに行った。俺はレミントンのM870にスラッグと散弾を交互に装填した奴を持っていった。三浦はスミスウェッソンのM500にホローとソフトの弾頭を交互に装填した奴だ。50口径マグナムの短銃身のリボルバーだ。世界最強クラスの奴だ。それと、短いスコープとストックを乗せた50口径のデザートイーグルを持っていた。水江はスコープを乗せた30-06のスプリングフィールドのM1903のボルトアクションライフルを持っていった。皆でヘラジカや熊を狩っていた。三浦のスコアがトップで、俺達は負けていた。そこで鹿の肉でバーベキューをして、帰りのことだった。2、3メートル近くの人食いグリズリーと急に鉢合わせた。奴は茂みで待ち伏せしていたんだ。俺はショットガンのフォアエンドをスライドさせて撃ちまくろうとした。だが撃てなかった。俺の散弾銃が弾詰まりを起こしたんだ。水江はライフルを外した。三浦がM500を一瞬で抜き撃ちして、グリズリーの目に撃って、そいつはもんどりうった。三浦がそのまま残りの四発を撃ち込んだ。熊の顔も脳も潰れていたのに、まだ撃ち込んだ。グリズリーの手が撃たれる度に痙攣して、動かなくなった。そして三浦は空の北斗七星を見て、グリズリーの体に同じように、デザートイーグルを使って撃ち込んだ。一つも外さなかった。三浦に銃を使わせたら、百発百中だぞ」

 加藤は指で銃の形を作っていて、空いた片手で酒を呑みながら話した。

 三浦は人を殺すだけでなく、獣を殺すのにも馴れているらしい。

「あいつはアメリカに住んでいるのか」と、私は聞いた。

「ロサンゼルス、ダラス、シカゴ、ニューヨーク、バンコク、ジャカルタ、マニラ、パリ、モロッコのカサブランカに隠れ家を持っている。政府のために仕事もしたことがあるらしい。奴は英語とフランス語を話せる。数十人のアルバニア人のギャング団も一人で皆殺しにしちまった。情婦も、ガキも殺した。ギャングのボスに止血帯を幾重にも巻いて、関節を一つずつ切り落とした。爪の間にギターのピックを差し込んだり、投げナイフの的にした。最後には目をくりぬいて、眼窩の骨の隙間から針で脳をかき回して殺しちまったんだ」

 彼はグラスにウィスキーを注いで、また飲んだ。

「しかし、あいつの言うことは信用できないだろう」

「そうだな。だが本当でも不思議じゃない。菊知も菊知で、10才も行かない女を拉致して、犯して埋めた。やくざの裁判の証人になろうとした奴を殺したこともある。高い窓から突き落として、自殺したと報告した。あいつらは俺より冷酷で、情になんか流されないぜ」

「菊知はそういう性癖を持っていたのか」

「ああ、そうだよ。あいつはそうだ。俺なんて、まだ一人も殺したことがない」

「殺しなんてしないほうがいいさ」

「お前は殺しをしたことがあるのか」

「一人殺した。わざとじゃあなかった。アメリカにいたときに、酒場で黒人のギャングに絡まれて、スミスウェッソンの、蠍みたいに黒くて小さいリボルバーを向けられた。組み合ってるうちに、その黒人に弾が当たった。即死した。私は正当防衛で釈放された。しかし、殺してしまった事実に変わりはない」

 一年にも満たない間、西海岸に住んでいた。ロサンゼルスの、ある小さな酒場に入って、酒を呑んでいた。黒人が集まっている酒場だった。肌の色が違う私は、周りの注目を浴びていた。白人でないので、追い出されることもなかったが、じっと見られていた。そのうちに、野球帽を斜めに被り、首に金のチェーンをつけた大きな黒人が私の横へ立った。

 黒人は、なんだ中国人、お前はここに来るべきじゃねえぜ、と言った。

 私は、日本人だ、と言った。

 黒人は、どっちでもいい、カネを出せ、と言った。

 私は、嫌だね、奢れと言ったなら奢ってやるが、金をくれてやる義理はないと言った。黒人は、安そうな、粗悪なリボルバーをジャケットから出して、右手で私に突きつけようとした。私は、銃に飛びついて、左手で男の腕を握った。黒人と私は床に倒れ込み、一発の弾丸が天井へ放たれた。私は額を鼻へ叩き込んだ。黒人は鼻血を出して、FUCKと叫んだ。二発目が、バーの客の膝を撃ち抜いた。叫び声が聞こえた。男は一生足を悪くしたままだろう。

 その大柄な黒人は力が強く、私の方へ銃口が向いた。私は頭を下げた。

 三発目は違う黒人の腹を撃ち抜いた。胃を撃ち抜いた。内容物と胃液が体の中へ流れ出しただろう。銃を思い切り押し下げ、私は頭を上げた。黒人は目測を誤って、自分のこめかみを撃ち抜いた。彼の血液に加えて、眼球が二つ飛び出して、私の顔にかかった。私は立ち上がって、呆然としていた。そのうちにヒスパニックと白人の警官の二人組がやってきて、角張ったグロックの拳銃で私を殴りつけ、地面に叩き付け、手錠を掛けられた。私はそのまま留置所に連れて行かれたが、釈放された。死んだ男は、有名なギャング団の一味だった。指でわっかを作ってサイン代わりにしている男達だ。黒人ギャングの報復があるかもしれないとして、私は日本へ送り返された。

「人を殺すと、一生十字架を背負うぞ」と、私は言った。

 加藤は目を細めた。

「俺にも過去がある。こんな風になっちまった理由が。俺は血の気が多すぎたんだよ。おまけに酒も飲みすぎる。俺は大学のアメリカンフットボールのリーグで鳴らしていた。俺はチーム最強のラインだった。俺のタックルを耐えきれる奴は日本に一人もいなかったはずだ。百九十センチや二メートルで百三十キロや百四十キロの大男もブッ倒しちまうんだ。大学から始めてこれだ。俺は俺のことを天才だと思ってたし、自負してた。それで、関西リーグと関東リーグで日本一を決める大会、甲子園ボウルの前に、俺はある男に絡まれた。俺は酒を飲んでいて、それがまずいとわからなかった。そいつがテレホンで大振りに殴ってくるのをかわして、タックルを決めてやった。そいつはどうなったと思う?壁に頭をぶつけて、重傷を負った。確か腕も折れたはずだ。そいつはやくざだった。小さい組だったから良かったんだがな。やくざは大学に脅しをかけて、俺の出場を取り消した。チームは三点差で敗退。俺は大学も首になった。だから、こうやって用心棒をしている。喧嘩は好きだが、殴りたくもない奴を殴りたくはねえよ。お前等のことも本当は殴りたくないんだ。散弾銃で動物の代わりに、撃ちたくもない。散弾銃は狩りにしか使いたくない」

加藤はそれきり黙った。長い沈黙の後、言った。

「最後に確認するぞ、まだ渡す気は無いか」

「ああ」

 加藤はグラスを放り投げた。ガラスが割れた。加藤は立ち上がった。

「じゃあな。後悔するなよ、探偵」と加藤は呟いて、シャンソンから消えていった。

 私はみずなに近寄って、布をとって、手首のテープをほどいた。

 みずなは、私と加藤に同情しているようだった。言葉を交わさなくても、顔を見たら理解できることもある。そうでないときもある。しかし、人生とはそういうものだ。

 藍原がそのあとすぐに、シャンソンに入った。不安そうな顔をしていた。小指の手当をした。本当なら病院に連れて行ってやりたいところだが、あと数日は我慢してもらわなければならない。顔を時々苦痛に歪ませていた。

 高岸は、ずっと何かを考えていた。嫉妬心と、苦痛と、自責の念と、なにかに悩まされていた。高岸は辻のことを愛しているように思える。そう私が勝手に、思っただけなのかもしれないが。

 私達はお通夜のような夜を過ごした。

 酒を呑みたかったが、飲まなかった。

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