18話


木村佳奈は都内の大学の中にいた。

小鳥遊は木村佳奈を呼んできて、私の車の前まで引き連れてきた。

「遅かったわね」、彼女は疲れ切った顔で言った。

「疲れてるの?」、浅井が言った。

「実験があったから」

私はアクセルを踏んでいた。

「何を刑事に要求されてたんだ?」

「盗品の売買ルート、犯行地点、手口を教えることだ。売買ルートのことがユンにばれたらまずい。スマートフォンみたいなのはIDがあるから中国とかの国外に売るんだよ」

「国際的だな」と、私は返した。

それなりの時間がかかって、また豪邸の前にやってきた。月がまた出ていた。こんばんは、麗しのお月様。月の女神はそちらでよろしくやってるか?そうか、それはいい。

家のベルを鳴らして、豪邸に入った。

夜のための、柔らかな照明が光っていた。撫でるような光。

「彼が佳奈の男かね」、木村の父親はポーカーで役が揃わなかったときのような顔をした。

「どうも、こんばんは」、小鳥遊は手の甲の側を太腿につけて隠すようにしていた。そしてお辞儀をした。ズボンのポケットからはクリップは飛び出していないし、警棒が入ったホルスターは私の車の中に置いてきたはずだ。

私達四人と彼は応接間のソファーに座った。木村佳奈は自分のグラスと、ワインボトルを持ってきた。下にはシルクロードの遙か向こう、ペルシアで織られた絨毯があった。なぜか壁にかけられた額縁のような場所に絨毯が入っていた。

「あの絨毯は?」

「ソ連とタリバンとアルカイダと米英がアフガニスタンをAKとRPGと地雷と砲爆撃でめちゃくちゃにする前の王国で織られた絨毯で、シャーの時代のものだ。今のアフガンはもう見る影もない。こっちのは、革命前のイランのものだ。こっちもシャーの時代のものだな。ペルシア語で王はシャーと呼ばれる。イランはもう見る影もなく、西側の制裁で干上がっている」

私は頷いた。

「国家がミサイル開発をして、制裁を皆がする。しかし制裁を一番食らうのは庶民なんだ。国家の悪しき指導者層は醜く肥え太り、庶民達はやせ細る。しかしそれをしなければ、その指導者層の軍と支持は強大になり、さらに幅を利かせる。世の中どうにもならないことばかりだ。常に苦しい選択肢を強いられ、いつしかそれを人は理由をつけ、道徳的に受け入れるようになる」

彼はずっと話していた。私達はずっと黙っていた。彼は煙草に火をつけた。

「彼は犯罪を受け入れた。人間の敗北とは死か受諾であると私は考える。彼は犯罪に敗北している。勝利する姿を見せてもらわなければならない」

「それは私が手伝いましょう。彼一人ではできる話ではない」

「話が見えんな。なぜ一人では出来ない」

「犯罪組織というのは、強固な結びつきを求める必要があります。そうでなければ警察、国家権力の威力の前に敗北する。そして彼は国家権力にも使われています。簡単に言えば、彼は警察のスパイですよ。007みたいに」

「ジェームズ・ボンド君か。ボンド君。いったいどうなってる?」

「俺はスリ団にいました。そのうちに刑事が、逮捕しないことを条件に秘密で俺にスパイになるよう持ちかけてきたんです。だからやめられませんでした」

木村佳奈について脅されていたことは伏せるように指示した。情報の隠蔽は嘘よりも効果的であることがある。

「その手の甲の傷はナイフだな。日本でナイフファイトなんてそうそう見かけない。アメリカにいたときは見たことがあるが。よく腱や神経が切れずに済んだな」、彼は言った。

「相手はナイフ持ちが三人いた。一人だけサバイバルナイフを持ってて、強かったが、運良く頭突きで沈んだよ。もう少しで、二人とも刺しあって死ぬ所だった」

「決闘には自信があるわけだ」、彼は嘲笑するように言った。

「人のための決闘よ。見ず知らずの私のことを助けてくれたの。決して自分の腕を試すようなプライドの為じゃないわ」

「じゃあ、正義の為に命を落としてもいいと言うのかね。佳奈を守ったとしても、それは見ず知らずの時だったんだろう。だったら、また見ず知らずの人間のために命を落とすような人間ということだ。野良の子猫を助けるためにトラックに轢かれる男だっている。なぁ、何のために大学に行ってるんだ。佳奈は医大に受かるぐらい賢いじゃないか。なのに、20年生きても、まだ賢く生きるということが分からんのか。まったく、青すぎる」

私は何も言わずに黙っていた。彼は半分、自分に向けて言っているようにも思えた。

そういう表情をしていた。そしてこちらに目をやった。彼は私にもそれを言っていた。

「確かに青いですね」と、私は言った。

「私も同じぐらい、青二才ですよ。人のために行動すれば青二才、自分のためだけに行動すれば青二才。いったいどうしろと?バランスを取れと?しかしそんなバランスなど一体誰が決めるんです。貴方は神ではないように、私もそれではない。彼や彼女たちもそうです。はっきり言って賢い生き方が貴方の言うように低いリスクを取ることであれば、貴方は賢い生き方をしているようには思えません。そうであれば、外科医になどならないはずです。貴方の親も医者かもしれません。この場合最も賢い選択肢は医者になることかもしれません。ですが、それを蹴る方が効率がいいはずです。医者にはカネがあっても時間がありませんからね。または外科医にならず、内科医にでもなればよかったんです。貴方だって昔は情熱に燃えていたはずだ。ヒポクラテスの誓いなど、本当の青二才に見えますよ。殺し屋が見たのなら。殺し屋は人類からの尊敬など求めない。人生も求めない。命を賭けてにくき人類を駆除します」

彼は私が話している最中に、だんだんと機嫌が悪くなっていった。

「君に聞いてない」、彼は煙草の吸い口を噛みつぶした。

「私の方を向いたじゃないですか」、私は肩を竦めておどけてみせた。

今度は木村佳奈の番だった。

「どれだけ賢い生き方をしていても、脳腫瘍で死んでしまうかもしれない。母のようにね。父は全力を尽くしたでしょう。そういうことだわ。どれだけ賢く生きてても、赤ん坊から80年後には皆灰になってるのよ。そして死ぬ前は、生きたかった誰もが後悔して死んでいく。だったら、好きに生きた方がいいんじゃない?」、彼女はワインを飲んでいた。

そして、手を広げてみせた。どうやら、彼女の父親は、酒を百薬の長と考えているらしい。

「ねぇ、おじさん。いいんじゃないの?だって、まだ付き合ってるだけだよ?別に彼も悪くない人だったよ?私は別にいいと思うんだけどな」

「君にも聞いてない!」、男は怒鳴った。

「じゃあいったい誰の話なら聞くんです。言葉というのは、誰が言っても同じ価値があるはずです。聞きたくないだけでしょう。子供はいつか離れていくものです。貴方の知らないうちにもう貴方の30%以上生きてるんです」

彼は煙草の煙を思い切り怒りと共に吸い込んで、ゆっくりと息を吐いた。

「一つ言おう。愛などただのホルモンバランスだよ。命を落とすほど愛に賭けても、それが数年したら消えてしまうことだってある。消えてしまった物のために全てを失うのは、青すぎるとは思わないか?夢想家の極みだよ、まるで革命家だ。理想を追い求め政権を追い出され、そして最後にはボリビアの奥地で死ぬ」

「チェ・ゲバラはキューバ政権から追い出されました。しかしキューバも同じです。彼の国は核戦争に米ソを巻き込み世界を滅ぼしかけ、それでも引かなかった。そしてカストロは髭を剃ることなく、公約を実現することなく、つまり理想を達成することなく死んだ。結局、程度の差でしかありません」

「なんか、話が大きくない?だって別に、そんな大した話じゃないでしょ?」、浅井は呟いた。私は笑いそうになったが、堪えた。

「そうです、つまりそういうことです。貴方は心配しすぎなんですよ。もしそれがキューバ革命と同じだったら、今頃世界中が共産圏になっています」、私は言った。確かに命を落とす恋かもしれないというのは黙っていた。私がその危険の9割を引き受けているからだ。

「いや、君の目を見ればわかる。彼はとんでもない事態に巻き込まれているはずだ」、男は言った。

「本当のことを言ってもらおうか」、彼は小鳥遊を睨み付けた。

「俺は、その警察に巻き込まれています。スリ団のトップの韓国人は軍隊上がりの短気で俺が知ってる中では最強の人殺しです。韓国語と日本語と中国語と英語の四ヶ国語も話せて、頭がキレます。警察には人殺しの刑事がいます。俺は板挟みになっていますが、それを彼が解決してくれようとしています」

「じゃあそれを解決してきてからまた来い。それまでは知らんよ」

「ったく、分からず屋だわ」、木村佳奈はくだを巻いて、ボトルとグラスを持って立ち上がった。

「おやすみ」、佳奈は言った。

「君はここに残れ。聞きたい話がある。ユミちゃんと探偵は別の部屋に行ってくれ」、男は小鳥遊に言った。

私達二人は部屋を追い出されて、別の部屋にいた。

同じような構造の部屋で、アクアリウムがあった。私は部屋の壁に背を預けて立っていた。浅井はソファーに座った。赤いキャンドルの上に火が揺れていた。

「ねぇ、なんでこんなことしなくちゃならないんだろう。もう眠いよ。っていうか探偵さんは彼の素性調査のためだけに雇われたんだよね?なんでそんなことしてるの?」

「なぜだろうな。少し同情したのかもしれない」

浅井は押し黙った。

「私には同情してくれないの?」

「してるさ」、私は言った。

「つれないんだ」

「どこでそんな言葉を覚えてきたんだ?」

「ネットの知り合いが言ってたよ」

「よくわからない奴だな」、と私は返した。

そして沈黙が場を支配した。

私はずっと考え込んでいた。何を彼等は必要としているのか。それはきっと愛を必要としているのだろう。小鳥遊は恋または愛によって助けがあったとしても、自分の今の環境を、危機を犯してでも抜け出そうとしている。木村佳奈は愛によってその破滅願望を押さえ込もうとしている。

私の助けというのは二人にとって、本質的な解決にはならない。これは危険な賭けであり、失敗したら四人揃って、美しい海の底だ。いや、もう少し数が多いかもしれないが、それはどちらでもいい。

本当に必要としているのは自身の変化だ。

青いアクアリウムをずっと見ていた。空気がチューブから上がっていって、赤色の魚が壁にぶつかるためにゆっくり泳いでいた。まるで歩き疲れた人間のように。

私はソファーに座ったまま、ずっとその柔らかな光に包まれていた。

ペルシャ絨毯の毛並みを足で整えた。テレビをつけた。深夜の再放送だろう。

画面の向こうに、ある長身の女が映っていて、目を奪われた。

藍原だった。

私はずっとそのドラマを見ていた。ハードボイルドの警察アクションで、最近評判の悪い国産ドラマの評価を一変させるものだった。殺陣も出来ているし、銃も素手も警棒も、素晴らしい扱いだった。とはいえ、あのいかれた刑事達のがもっと動けて、強いだろう。そして、正義は銀幕の中にしか存在しない。

彼女はメインヒロインの役だった。男を惑わせるファム・ファタール。主人公は彼女に翻弄される。

そこでドラマは終わった。

「これなんだっけ?」、浅井が私の近くに座って、テレビを見た。

「わからない。ただ目に入っただけだ」

テレビが何か宣伝をし始めて、その後すぐにアニメが始まった。どこかで聞いた歌だった。高岸が持っていたフィギュアのキャラや、色とりどりの髪と目の色をしているキャラ達が出てきた。

「あ、これ楽しみにしてるんだ、一緒に見ようよ」、浅井が言った。

「これは人気なのか?」、私は聞いた。やくざも高岸も見ているらしい。

「今シーズンの中では一番人気なんじゃないかな?」

2人でそれを見ていた。前のは再放送だったらしい。25分ほどそこに座って見ていた。

殆どの時間は違う事を考えていたような気がした。

浅井は両手を上に突き出しのびをして、テレビを消した。

「明日は学校休んじゃおうかな」、浅井が言った。

「休みたかったら、休めばいい。今日は疲れただろう」

「じゃあ、休んじゃおっと、おやすみ」

「おやすみ、お嬢さん」

彼女はソファーに横になって、眠りについた。朝になったら目が醒めるだけの眠りだ。

しばらく歩き回って、事務所に帰ることも考えた。

そして帰ると決めた時に、ショパンの調べが聞こえてきた。私は目を瞑って、その音楽を聴いた。誰かがそれを弾いている。この家でピアノを弾く人間など一人しか居ないだろう。

私はそれを聞いていた。

音楽の元の部屋へ向かって歩いていくと、扉が開いていた。

木村佳奈はピアノを弾いていた。

「上手いじゃないか。テニスも出来る、勉強も出来る、ピアノも出来る。何でも出来るんだな」

「英語もドイツ語も出来るわ。どんなスポーツだって、上手く出来る。私には何でも出来る才能がある。小さい頃からなんでも出来たわ」、彼女は呟いた。

「でもね、何でも出来るって、何も出来ないのと同じなのよ。どれを本当に人生でやればいいのかもわからないし、何が好きなのかもわからない。やればできるって、分かってしまっているから。達成する喜びがないのよ。思い上がりかしら?でも、実際そうだったから仕方が無いじゃない」、木村佳奈は言った。彼女の顔に暖かな光りがさしていた。

「贅沢な悩みだな」

「ええ、とってもね」と、彼女は言って、グラスを取った。暗い紫色だ。赤ワインだろう。髪をかき上げて、彼女はそれを飲み干した。頬に朱がさしている。もうだいぶ呑んでいるらしい。隣のボトルを見ると、一本数十万円するようなフランス・ワインだった。

「高いワインだ」

彼女はまた同じ曲を弾き始めた。ある部分で詰まって、その少し前から弾き直し始めた。

「神の血よ。何もしてくれない神の、穢れた血。飲むだけで怠惰を誘発する血。きっと神が何もしてくれないのは、酔いすぎてるからね」

彼女はずっと弾いていた。細い指がなめらかに動いている。ある部分で急に弾くのをやめて、ピアノの鍵盤を撫でるように音を出した。

「少し酔い過ぎたようね。簡単な和音で詰まってしまったわ」、女は椅子から立ち上がった。

「ピアノは自分の物か?」、私は何も考えずに聞いた。それよりも彼女の紅潮した顔と、ふらついた足取りに興味があった。

「これは私の母のものよ。母は芸術大学の音楽科を出ていたの。でも、私にはこれは使いこなせないわ。ピアノは一日八時間弾かなきゃ腕が鈍るから」

女は私を見つめた。

「その・・・・・・申し訳なかったと思ってる。最初、あなたに当たってしまったでしょう。その後も少しあなたのこと疑ってて」

「色々あるんじゃないか。人生は色々な事がある。だから人は色々な事を考える」、と私は返した。特に気にも止めていないことだった。

「もし、何か協力できることがあるなら、させてもらうわ」

「20の女の子に出来ることはない。君は自分のすべきことをするんだ」

「20の女って、意外と出来ることが多いものよ?」

「人を、撃てるか?違法な銃で、人を殺せるか?ばれたら一生追われるか、一生刑務所だ。首を吊られるかもしれない。そして撃ち合いに負けたら殺されるのは自分だ」

私はゆっくりと呟いた。自分に向けて言っているようだ。彼女の微笑が消えて、口が結ばれた。

「出来るか出来ないかと言えば、出来るわ。ただし、逮捕されないのなら。それはほとんど出来ないのと同じだけれど。持っているのね、銃を。でも、仕方ないことだわ」

木村佳奈は落ち着かない目で私を見た。

「死より逮捕されることのが怖いか?」

「ええ、撃ち合いで死ぬのは一瞬よ。でも、死刑は怖いわ。牢屋で考える時間がたっぷりあるもの」

まるで犯罪者と同じような考え方だ。だが、私も同じような考えだった。

「なら、今は眠れ。君の美しさのために。それと、反撃は最後の時にしてくれ。誰にも彼にも殴りかかられちゃ、後始末が大変だ」と、私は笑った。

「ふふ、頭の片隅にでも入れておくわ」、彼女は優しい微笑みを浮かべ、ピアノの蓋を閉めた。そして、背中を向けて部屋を出ようとした。

「探偵さん、ありがとうございます」

彼女は振り向いて、微笑んで、頭を少し下げた。

「あなたはいい友達よ。もし、彼が居なかったら、私はあなたを愛していたかもしれない」、彼女の一番の微笑みを見た。顔の周りに後光が差しているかと見間違うほど、よくできた美しい笑みだった。暗い色気が消し飛んで、金星のように輝いていた。

心に銃弾が擦ったようだ。

「あなたはまるで天使よ」、彼女が言った。

「どういたしまして、お嬢さん」

彼女は部屋を後にしたようだ。

私はその場で立っていた。忘れられたワインの栓を閉め、少しワインの値段について考えていた。ピアノに近づいていって、ピアノをよく見た。スタインウェイと書いてあった。

名前のおかげで、ピアノを触る気にはなれなかった。後で価格を調べると、それが2300万円はすることが分かった。

そして、部屋を出ると、小鳥遊が廊下に立っていた。機嫌を悪くしてしまったらしい。腕を組んで、壁にもたれかかっている。

「人の恋人を口説くのはやめてくれよ」、小鳥遊が言った。

「口説いてたつもりはなかったんだが」

「充分口説いてたと思うよ」

小鳥遊は口を結んで、押し黙っていた。

「機嫌を直してくれよ、お嬢さん」、私はからかった。

「俺は女じゃない!どいつもこいつもからかいやがって、俺は普通の奴よりナイフを上手く使えるのに、喧嘩だってそれなりにはできるのに、なんでそんなことを言われなくちゃならないんだ」

「人間はナイフや喧嘩の出来で決まるものじゃない。人を殴ったり蹴ったり切ったり刺したり撃ったりするのが上手くたって、殆どの場合生きてく上でなんの役にも立たない」、半分は自分に向けて言った言葉だった。

「俺はスリとナイフ以外まともにできない。俺は社会の寄生虫で、ゴミだ。だからといって馬鹿にされたくない」

「人からの評価なんて、自分を着飾るためのネックレスにすぎない。評価のために人生を持ち崩す人間は多い。そして、スリもナイフも出来る気概があるなら、たいていのことはできるだろう。ナイフファイトを怖がらない人間なんて人類の10%もいない。君は二回も会ったこともない女のために命を賭けた勇気ある騎士だ。彼女は君に勲章をくれたじゃないか」

「佳奈はお前の事を天使だと言った」

「君は熱病より熱い口づけをもらってるはずだ。彼女が人を褒めるのがそんなに気に入らないか?」

「恋は熱病のようなものである、スタンダールか。熱病より熱いって?」

「そういう話は受け手が考えるべきだ。言ってしまえば粋じゃない」と、私は言った。

小鳥遊は手の震えを止めて、私を見上げた。

後ろで扉の音が聞こえた。私は振り返った。木村佳奈だ。顔には朱がさしたままだった。

彼女は小鳥遊へ向かって何も言わず歩いていった。そして小鳥遊を抱きしめた。身長にはほとんどかわりがないように見えた。小鳥遊の顔は彼女より赤くなっていた。

「嫉妬した?」、彼女は喜んだ声で言った。

「ああ」、小鳥遊が腕を回し返した。

「ふふ、かわいいんだから。私の熾天使さま」

どうやら私はダシにされたらしい。

「このお嬢さんは相当上手らしい。気をつけないと、芯までとって食われるぜ」、私は言った。

「もう骨抜きだよ」、小鳥遊は言った。

「今は私と話してる、そうでしょ?」、木村佳奈は呟いた。

私はその場から歩いて立ち去った。

浅井がソファーに横になって、目を閉じていた。部屋は冷えている。私は上着を彼女にかけて、ずっと椅子に座っていた。

今日の仕事は終わりだろう。アクアリウムを眺めた後、絨毯を足で撫でた。

そして銃の撃ち方を思い出していた。私はきっと愛より拳のが似合っている。

近くの椅子に、この家の主が座った。

「もし、私が銃弾を食らったり、刃物で切られたり、鈍器で骨を折られたら警察に通報せず、秘密で外科手術を出来るようにしておいて欲しい。電話をしたら、車で病院まで乗せていってほしい。警察は信用できません。大事になります。頼めますか」と、私は聞いた。死活問題だ。

「いいだろう。くそっ、これで私も闇医者の仲間入りか。治療費は気にしなくていい。だが、何でそんなことになってしまったんだ。いや、理由は分かっている。ったく、面倒な事になったもんだ。どうしてこう女って奴は危険な男によってくんだ。君の周りの人間もそうだ」、彼は娘のことを女と呼んだ。

「なにかが起きたとき、その後の対応というものは大事です。私は未だに後始末が出来ていない」

「・・・・・・もし君が術中に死んだらどうすればいい?」、長い間を開けて彼は呟いた。昔のことを思い出していたようだ。

「海に投げ込んでおいてください。私は魚にでもなりましょう」と、ぶっきらぼうに言った。

「なんとも食えん奴だな、全く。芸術や文学の知識があり、腕が立ち、恐れしらずで、頭がいかれてる。たいていそういう人間は、よくない末路を迎えるだろう」、片方の眉を下げて、首を振りながら言った。

「自分の末路にいいも悪いもありませんよ。他人にはありますがね、それに恐れは知っています。貴方よりよっぽど銃と刃物と鈍器と素手と人の殺意を知っています。殺意さえあれば、高価な武器がなくても人は死にます。身の回りの物全てが凶器になる事だってあります。ルワンダでは100万人が死にました。その半分はAKではなく、鉈や釘バットと言った原始的な武器です。銃社会のアメリカでも、刃物と鈍器と素手により1年に3000人近くの死者が出ています。人間とは実に恐ろしいものです」

「昔アメリカにいたとき、ナイフで人が刺し殺されたのを見た。ボタン式の奴でな。そいつが銃を抜くのに手まどってる間に、ちんぴらが刺し殺した」、彼は言った。

「自分の末路とは、どういう意味だ?」、そして彼は続けた。

「自分の死は現実で、他人の死は悲劇または喜劇、またはテレビの向こうの話だと言うことです。それでは」

彼は私の言葉をずっと考えていたようだ。天井を見つめている。私は立ち上がって、この家から去ることに決めた。

どこかで電話の音が鳴った。小鳥遊のスマートフォンだ。

着信の名を見ると、ユンだった。

「ユンだ。小鳥遊、お前に話がある。すぐに来い。自分のやったことをわかっているだろうな。来なかったら、こっちから行くぞ」、完璧な日本語で彼は言った。ドスの利いた声だった。訛りなどかけらもない。

私は小鳥遊を探して、さきほどのピアノの部屋に行った。

彼等がどこにいるのか探した。ピアノの部屋に通じる、木村佳奈の部屋をノックした。

「おい、ユンが頭に来てるらしい。電話がかかってきた。なにかやったのか」と、私は言った。

「くそっ、なにもしてないはずだ。ちゃんとノルマはこなしてる。まさかルートを教えてたのがばれたのか?」、部屋の中から聞こえてきた。

「車に乗れ、私も行く」

「ねぇ、何があったの」、木村佳奈だ。

「説明してる暇はない、だがまずいことになった。どうやら殺人鬼を怒らせてしまったらしい」

小鳥遊が服を羽織って、部屋から飛び出してきた。

木村佳奈も続いて、部屋から歩いてきた。

小鳥遊がポケットから、ナイフを取り出した。黒い刃をはじき出した。そして閉じた。黒い金属のグリップを握り締めて、ポケットにクリップを飛び出させるようにしてさしこんだ。

木村佳奈はそれを見ていた。

「約束して。二人とも死なないってことを」、彼女が言った。

「もう、人が死ぬのは見たくないのよ」

彼女は腕を垂らして、拳を握った。そして目を伏せた。

「私もだ」、私は言った。

「多分なんとかなるさ」、小鳥遊が言った。

彼女は目を見開いたまま、小鳥遊を抱きしめた。長い時間をおいて、木村佳奈は離れた。

「そうなることを望むわ。もしなにかあったら、すぐに連絡して」

私達は急いで家を出て、二人で車に乗り込んだ。そして走らせて、事務所まで行った。

違う上着を着ることにした。もし私が死んだら、浅井にかけたスーツが遺品になるだろう。

私はマカロフを引き出しの中から出した。マカロフを握って、下げた状態から複数の目標に照準をつける練習をした。速度は悪くない。アイソセレススタンス。そして歩きながらコップに照準をつけた。

次に膝撃ち、伏せ撃ちをやった。障害物の左右上下から出来るだけ体を出さずに撃つ練習をしたり、空のマガジンでリロードの練習をした。障害物に銃をあずけて撃つ練習もした。それなりの動作なら出来る。しかしユンに撃ち勝てるかはわからない。

まずちんぴら相手ですら扉の裏で待ち構えられて、ナイフで飛びつかれたら終わりだ。

拳銃を右のポケットの中に入れた。三つマガジンに弾薬を込めて、左のポケットにいれた。一つはマカロフに装填したが、スライドは引かなかった。合計で24発。ホルスターやマガジンポーチ、治療キットなどはまだ届いていない。仕方がない。止血用にゴムチューブと包帯、古く小さなスイスナイフ、ガーゼだけは持っていった。

四肢はゴムチューブと包帯を巻き付け、胴に穴が空けば、激痛を堪えてガーゼを大量に詰め込む。しかし357マグナムをまともに食らったら、多分おしまいだ。擦らず、まともに貫通すれば肉が80立方センチ吹き飛ぶ。瞬間的には500から1000立方センチの穴が空く。10センチ辺の立体が体に出来ると思えば、恐ろしさが分かるはずだ。あっちの弾頭は多分、体内で膨らむタイプだ。こっちは抜けるだけだ。威力が全く違う。スーツを脱いで、上からマグナムもナイフも防ぐ防弾チョッキを着込んで、スーツを着た。

ハンドガン型のボウガンを持っていくのはやめた。嵩張るし、連射速度が遅い。ユン相手に通用するとも思えない。

私はウィスキーのボトルを開けて、飲んだ。死が見えたときは、酒を飲むのが私の癖だった。手が震えて、銃には向かないはずだが、どちらにせよ手が震える。1対20とプロ1人だ。

後でこの判断のうちの一つを後悔することになったのだが、その時の私はそれが正しい選択だと思っていた。いや、結局全ての判断かもしれない。

そして事務所の電気を消して、札を掛け、インプレッサに乗り込んだ。小鳥遊は緊張で目を見開いている。

私に親族や親戚はいない。もう死んだか、縁を切られた。知り合いはいる。特に残すべきものはない。何があろうと、失う物は自分の命だけだ。

「覚悟はいいか?」

「ああ」

アクセルを踏んで、車を飛ばした。

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