第17話

 車のアクセルを踏んでいると、助手席に乗った彼女がスマートフォンを置いていた。

「ねぇ、あのさ。やっぱりどうかしてるよ、皆。いったいいつになったら終わるの?」

 浅井は下を向いて、両手で拳を握って、太腿に押しつけていた。やはり怖がっているようだ。

「太陽が光を無くすまでは、ずっと続くんだろう」と、私は言った。彼女は溜息をついて、首を横に振った。

「誰かが銃を持っているって言ったよね。ほんとに、持ってるの?」

 彼女は私を見上げた。眉の端が下がって、瞳が潤んでいる。

「日本に銃は沢山ある。やくざは必ず全員一丁は持っていると思ってもいい。たいていは小さな拳銃で、構え方も知らない連中だが。ユンは違う。奴は人を殺したことがあるし、軍で訓練をしていた。軍や警察で心理学に基づいた訓練や、マンターゲットを撃ったことやシューティングゲームをしたことの無い連中は、撃っても人に向けて撃つ確率が20%しかない」と、私は言った。

 大きな白人のことを思い出した。きっと奴のがユンより銃が上手い。自分の置かれている状況に対して、ふくろうのように首をかしげたくなった。選りすぐりの人殺しが集まっている。

「つまり、普通の人は撃てないって事だね。私、銃なんてあっても撃てないよ。探偵さんは?」

「20%の方だ。マンターゲットも撃ったことがある。軍人から訓練を受けた」

「自分のことを人殺し、って言ってたよね?まさか」、浅井は私を見上げた。

寝起きの人間が口から出したつたない冗談ではないと気付いたようだ。

「あれは事故だ。正当防衛でもある。相手が銃を向けてきたんだ。組み付いたら、ずどん。そいつが自分で自分の頭を私の目の前で撃ち抜くハメになったんだ。私は立ち尽くしていた」

「なんでそんな簡単に人を殺せるの?おかしいよ」

「長く生きてると、頭がおかしくなる。私もその一人だったと言うだけの話だ」

「相手がふざけて銃を向けただけだったら?殺す気が無かったら?」、彼女はまくしたてた。そんなことはもう何度も考えていた。たとえば、寝る前に。そして、何度も弾けた眼球の色、血と透明な粘液が混ざったものを思い出した。私の友人は刑事に撃ち殺された。どういう意味合いで銃を刑事に撃ったのかは知らない。しかし撃ち殺した刑事のかたわれも、同じようなことを考えているだろう。

「お嬢さん、いいか、こんなことが出来るのは私の頭がおかしいからだ。普通の人間は、こんなことをせずに君達が殺されているのを、じわじわと破滅に向かっていくのを見ても、叫び声を聞いても、目を瞑って、黙って家で寝ているんだ。せいぜい、警察に行けと言ってそれで終わりだ。君達の敵がどれだけいると思っている。大使や白人やアフリカのギャングは私が引き連れてきた敵かもしれない。だが、韓国人とあの警察とやくざは元々君達が抱えていた問題なんだ。正確に言うと木村家の問題で、君は関係ないはずだが、奴等はそんなことはおかまいなしだ。奴等は人間の命なんて何とも思ってない。もしかすると私も、人の命を何とも思っていない部類に入るかもしれない。だが、君達が東京湾の底に沈められているのを見過ごせる人間じゃないんだ。これは私のプライドなんだ。そのために色々なことをしている。はらわたがひっくり返るほど嫌いな奴とも手を組んだ。その途中で、私はまたやりたくもない人殺しをするはめになるかもしれない。だがこれは君達の安全と引き替えなんだ。君達の命は、私と君達の敵の命よりも重いんだ。わかってくれ」、私はまくし立てた。

長い間があって、「うん・・・・・・でも、じゃあ、探偵さん、自分の命はどう思ってるの?」と、浅井は言った。

「さぁな、考えたこともない。命が大事なら、ここで私は全てを放り出して、車でどこかに逃げるのがいいんだろうな」、それが賢い選択に思えた。

「だったら!私も連れていって、どこか遠くへ」

 浅井はうつむきながら、私の袖を引っ張った。

「私に命以外失うものなんてない。もう、全部投げ捨ててもいい。学校なんて行きたくもないし。家もいても楽しくないし、いつも佳奈ちゃんと比べられる。私は佳奈ちゃんに比べたら何も出来ない。勉強も運動もなにもかもまともにできない。何もかも放り出したいよ。何をやっても上手くいかない。夢や希望なんてないよ。どうせ私は出来損ないって!思って、思って・・・・・・誰か助けてって、毎日思ってた。ねぇ、一緒に逃げようよ。アメリカとか、どこでも」、どこか憔悴しきったような口調で、私を見上げた。声と手が震えている。

「私は多分、アメリカじゃ賞金首だ。黒人ギャングに狙われてる。今逃げ出したら、あのやくざや警察が日本中で私を探し続ける。殺し屋だって派遣されるかもしれないし、きっと私は国際指名手配の重犯罪者にされる。逃げ場所なんて、ないんだ」と、私は言った。

 私は自分のどうしようもなさに溜息をついた。ここまで追い詰められている人間もそういるまい。諜報機関の工作員でもあるまいし、逃亡の準備などまともに出来ない。

「じゃあ、ヨーロッパへ行こうよ。フランスとか、イタリアとか。いい所って聞いたよ」

「駄目だ。ここで放り出すわけにはいかない。木村佳奈も殺されるかもしれないんだ。なぁ、私と君は会ってまだ一週間もたってないんだ。どうしてそんなことを言う。おまけに君と一生暮らせっていうのか?正気とは思えないぜ」

 普通の人間は、こんな状況で正気ではいられない。私は普通といかれた人間の中間だったので、半分は正気ではない。そんな事は知っていた。

「だって、私、このまま生きてても、普通に高校を出て、大学を出て、普通に会社に入って、普通に・・・・・・、でも私はそんな普通のことすらできなさそうな落ちこぼれ。なんでこんなつまらない人生、送らなくちゃならないの?なんで、皆そんなことに耐えられるの?でも、耐えなくちゃって思ってた。でも、そんなときに、全てをひっくり返してくれそうな人が、いた。目の前にその人がいる。だったら、そうやって言ったって、おかしくないよ」

 彼女は私をずっと見ていた。スマートフォンは膝の上に乗っている。そして、目線を切って彼女は前を見た。

「もし一緒に外国に逃げてくれるんだったら、私を好きなようにしていいよ」

「何を言ってる?」、私は片方の眉をしかめて言った。

「あげられるもの、それしかないから」、彼女は自分をあざ笑うように、少しだけ微笑みを作った。

「実は、ずっと見てたんだ。探偵さんのこと。高校の帰り道のとき、あなたを見かけてからずっと見てた。暴力団の人?が探偵さんを襲ってたときも見てた。ずっと見てたんだよ?女の人、たぶん藍原さんでしょ?あの人が探偵さんの事務所にしばらく泊まってたことも知ってるし、銃みたいな音がしたのも知ってる。たぶん探偵さんは私の人生で見た男の人の中で一番かっこいい人かもね」、浅井は何も考えていないようなまどろんだ瞳で言った。雨は人を憂鬱にさせる。

「ねぇ、私も頭がおかしい?そうだもんね、ストーカーだもん。私の事嫌い?」

「嫌いじゃないが、それはいつかのためにとっておけ」

私はそれを言った後、「そんなに人生は嫌いか?」と、私は聞いた。

「とっても」

そのあと、彼女は何も言わず、拳を膝の上で握った。氷のように冷たい雨が降り続けていた。しかし、涙の火だけは燃えていた。

「ねぇ。寒いよ。すごく寒い」

 街は冷え込んでいた。私も彼女も雨に濡れていた。雨は街の涙だった。いや、こんな冷たい人間が涙を流すわけがない。だったらこれはなんだ?喜楽を排水溝まで流してしまうための水か?生の灯火を消してしまうための水か?

「これからもっと寒くなる。冬はまだ遠い」、私は車の温度を上げた。

 浅井の溜息が聞こえた。

 信号が青になって、車達の群れがまた動き出した。

 そうじゃないよ、と浅井は木漏れ日よりもささやかな声で呟いた。

 私はなにも言わず、期待されているだろうこともしなかった。目線を切って、前を向いた。

 私がしたことは、アクセルを踏んだことだけだった。

 そしてそのうちに、ファミリーレストランに着いた。

 店の中に入ると、パーカーを着た小柄な男、小鳥遊は立ち上がって、私達を出迎えた。私はポケットを見た後、小鳥遊に対して首を振った。小鳥遊は目をそらした。

 ポケットから黒くて長いクリップが飛び出ている。折りたたみのナイフを彼は持っているが、そのことは黙っておくことにした。多分警棒もどこかのホルスターに吊している。きっと身の危険を感じているのだろう。韓国人や刑事達には、ナイフを持っていても一瞬で取り上げられる。30cmの巨大な軍用ナイフを使ったって難しいだろう。三秒で頭を地面に叩き付けて、かちわられるか、腕を折られるに違いない。奴等は銃やナイフと同じ速度で人を殺せる。

「小鳥遊です。よろしく」

「うん、私は浅井ユミ。いつも佳奈ちゃんがお世話になってます」、先程とは打って変わって明るい表情を作っていた。しかし、ふと物憂げな表情になることがあった。

 小鳥遊は奥の席に座って、私と浅井は手前の席に座った。

 小鳥遊は手の指をもみ合わせていた。手の甲の傷跡、ある女はそれを薔薇の勲章だと考えている、傷が目立っていた。

「彼女は今起きてることを知ってるのか?」

 私は頷いた。

「こんなことになって、申し訳ない。全部俺のせいだ」、小鳥遊が頭を下げた。

 今日は冷えるね、と後ろの席の男が大声で言っていた。関係の無い話だった。

「うん、本当に困ってるんだけど」、浅井は小鳥遊を少し睨んだ。小鳥遊は頭をかいた。

「もう、俺は足を洗おうと思ってるんだ。これからは真面目に生きるよ。働き先なんて見つかるかわからないけど」

「前科は?」と、私は聞いた。

「一応無い。俺は失敗はしなかった、いや、してるようなもんか」、小鳥遊は唇を釣り上げて、息を吐き出した。

「そうだもんね、佳奈ちゃんの家はお金持ちだから、何もしなくてもいいもんね。働かなくたって、いいんじゃないの?佳奈ちゃんからお金もらってれば?」、浅井は目を細めて、探るような目つきで言った。

「金目当てだって言いたいのか?そんなことはないよ。最初は名前も知らなかったんだ。皆金目当てだと俺に言う。必要最低限しかいらないよ」、小鳥遊は水を飲んで、唇を噛んだ。悔しがっているように見えた。

「ごめんね、そこまでは言ってないよ」

「でも、本当だ、信じてくれ。なんて言ってもダメか?」

「いいよ。ちょっといじわる言いたくなっただけだし。でも、いいなぁ。ずっと将来の心配なく暮らせるから」、彼女は水を飲んで、スマートフォンを置いた。アプリの通話ボタンを押して、誰かにかけていた。木村佳奈だ。

「ユミ、今は授業中よ。抜け出してきたけど」、早口で、抑えられた声。

「んー、今ね、話してるんだ。小鳥遊っていう人と、探偵さんがいるよ」、気の抜けたしゃべり方だ。

「ええっ、なぜ?ああ、もう。どうしていつも事後報告なの」

木村佳奈は自分をあざ笑ったような声を出して、溜息をついた。

「要件は?」、彼女は言った。

「君の愛しの人が、スリをやめると言った」と、私は返した。

「私の時は、辞めるとは言わなかったのに」、驚愕と嫉妬と安堵をべらで丁寧に混ぜ合わせたような声で木村は言った。

「その時は条件が揃わなかったんだろう。だが、もうすぐ揃おうとしている」

「何をしたの。ユンは、銃を持った元軍人で、素手の一撃で人を殺した危険で短気な男だと聞いているわ」

 私も銃を持っていた。しかし何も言わなかった。

「ユンだけじゃない」、私は小鳥遊を見た。

 小鳥遊は目を閉じて、開けて、私をしっかりと見据えて、頷いた。私はスマートフォンを小鳥遊の方へ滑らせた。少年はそれを取って耳に当てた。

「佳奈、ちゃんと話すよ。今まで黙ってたけど、ユンだけじゃない」

「はぁ、なんとなくわかってたけど」

「実は警察にも使われてて、俺はがんじがらめだったんだ。俺が続けてたのはそのせいだ。ユンよりたぶん、そのいかれた刑事のが沢山人を殺してる、多分二桁だ。それで、やくざもこっちを睨んでるらしい」

「刑事が人殺し?それにやくざも?冗談でしょ」

「君の父さんは探偵を雇った。彼を雇うのは、危険を承知だっていうことだ。彼はちんぴらややくざの間でもそれなりに顔が知れてる。実はネットでも、名前は書かれてないがそういう男がいると書いてあるぐらいには有名だ。動画サイトでも、ストリートファイトの動画で彼の動画は結構有名だよ。凄い動きなんだ。危険だが秘密にしたいときは彼を雇えってね」

 初耳だった。あまり有名になると尾行に差し障るのでやめてほしい。

「わかってるわよ。それで、何をするわけ?」

「彼が、俺がグループを抜けるのを手伝ってくれる。刑事とヤクザには何かをするからもうやめさせろって言う話をつけてるらしい。あとは韓国人と、佳奈の父親だけだ」

 本当は韓国人が始まりで、その後のがもっと大変だ。

「それで、一応木村の父親を説得する気なんだが、話し方というのを考えなくちゃならない。私としては、小鳥遊がスリ団からの離脱と、職につくということを条件として提案したい」

「それで許すかな、おじさん」

「許さなかったら、終わりだ。だが、どちらにせよ離脱は手伝ってやるつもりだ」

「しかし、スリを俺がやめても、あのデカどもはどうするんだ?」

「私が話をつけた。二度と君とあのデカどもは関わることはないだろう。しかしそれは危険な話だ。もし私が居なくなったら、死んだと思ってくれ」

「正気か?なんでそこまで人のためにするんだ?」

「きっと正気じゃないんだろうな」と、私は言った。自分の愚かさに涙が出そうになった。実際はかけらも涙など出ていない、出てきたのはその言葉だけだった。

 浅井が雨を見つめていた。左手を机の上、その指の上に顎をのせながら、小指の爪を噛んでいた。感情はこもっていない。小鳥遊はポケットのナイフを気にしていた。武器を持っている人間の癖のようなものだ。

「つまり、私達なんて、ほとんど最初から最後まで邪魔みたいね」

「邪魔?おかげで、数人のならずものと組んで、60人以上のならず者と戦えるんだ。邪魔なわけがない。君達はベッドで寝ていればいい」

「60人?本気?」、木村佳奈は声のトーンを変えた。席に座っていた二人も私を見た。

「ああ、だが少し前に、一人でアメリカ海軍第七艦隊と渡り合えると豪語した化け物とやりあった。それに比べればよっぽどマシだ」

 浅井は、第七艦隊ってなんだろうと呟いていた。小鳥遊がアメリカ海軍の日本にいる、世界最強の艦隊だよと教えていた。

「それってウルトラマンとかゴジラとかそういう天災レベルじゃない」

「あいつにつけ狙われることに比べれば、オサマ・ビンラディンだってかわいい思いをしてたに違いない」

「私達、逃げ出しちゃダメなのかしら。街から出れば、追ってこないわよね?」、木村佳奈が言った。

「そんなことになったら、私も君も佳奈ちゃんも全員揃ってやってもいない罪で指名手配かやくざが追ってくる」

「誰かたすけてぇ」、浅井が机に突っ伏して、うめいた。

「あんた、俺に巻き込まれただけなのに、人生詰んでないか?前に進んでも死ぬかもしれない、逃げても指名手配なんて」、小鳥遊が言った。

「お互い様じゃないか、その話はよそう。それに、そんなもの確率の問題だ。誰だって、いきなり降ってきた鉄骨に頭を食われるかもしれないし、心臓がいきなり止まるかもしれない。その確率が上がったと言うだけの話だ」、私は感情を込めずに言った。あまりそのことについて考えたくなかった。あのいかれた連中ほど死を恐れていないわけではない。

 私はまるでベトナム戦争の映画に出てくる兵隊のような気分だった。回りには10倍の敵がいる気持ちだ。実際は10倍では済まない。韓国人、アフリカギャング50人、銃が上手い大柄な白人、敵が多すぎた。60倍はいるに違いない。仲間と言えないいかれた仲間を加えたら、12倍程度にはなるかもしれない。それでも、死の危険は高かった。その男達の実力が確かなのが救いだった。

「急に上がりすぎだよ」、浅井は突っ伏したまま言った。

私は頷いた。

「韓国人に話をつけに行く際、そのユンという人間は友好的なのか?」

「いや、多分無理だろうな。最近機嫌が悪い。ユンに脅されて、スリ団の連中と同時に襲いかかってくるかもしれない。皆武器を持ってる」

「何人だ?」

「ユンを入れて、20人ぐらいかな。いつもそんなにいるわけじゃない。スリをするときは三人で1グループだ。だから、殆どの時は出かけてる。だが、ユン一人だけで20人分ぐらいにはなるかもな」

 どうやら今回は70人の敵がいるらしい。

「そんな連中を庇う必要があったのか?」

「それでも、一応仲間だ。もし、何かあっても出来れば殺さないでやってくれ」

 私はああ、と言った。しかし、ユンは別だ。人生で一人殺しただけでもこれだけ苛立ちに襲われているというのに、銃を使い合うことになるかもしれない。

「私も、こっちで言い方を考えておくことにするわ。そっちはそっちで頼むわよ。私の帰りは23時だから、それまで待ってくれるかしら」、木村佳奈は電話を切った。

 浅井がベルを押して、店員をよびつけて、三人分のドリンクバーを頼んだ。

 グラスが届くと、浅井がグラスを持って立ち上がった。彼女は左手で少しあおいだ。私は立ち上がって、道を空けた。小鳥遊が彼女の背中を見送っていた。動く物を目で追う、それ以上の意味合いはない視線だった。

「棒も、これも持ち歩いてるみたいだな」、私は親指で刃を弾く動作をして、これと言う言葉がさす内容を伝えた。

「ヤバいと思ったんだ。ユンには棒だけじゃ二秒で殺られる」

「右手に棒で、左手にそれか?」

「ああ。持ってりゃ簡単には組まれないだろう。棒はリーチがあるし、それがあれば近距離でもなんとかなる。スペイン剣術みたいにやるんだよ。逃げる時間ぐらいは稼げるかもな」

 ふん、と私は言った。どうやら二刀流が好みらしい。

「フェンシングみたいに下手に前に棒を出してたら、蹴りで吹っ飛ばされるぞ。あとは足や股間を蹴り砕かれないようにしろよ。お前よりユンのが20cm高い。リーチは警棒を持ってたって、あっちの横蹴りのが長い」

「わかってるよ、だから逃げる時間ぐらいしか稼げないんだ。それすら無理かもな。下手したら飛び蹴りを食らって一発で終わりだ」

「誓いはどうしたんだ?」

「無理だ。出来ないこともある」、小鳥遊は外を見つめた。雨が降っている。

「膝の傷は、どうしたんだ」、今度は小鳥遊が聞く番だった。

「ダメージジーンズを見て、少し欲しくなってな。真似してみたんだ」、私は冗談を言った。言った後に、うまい冗談ではなかったような気がした。

「冗談はやめろ」

「塩田に切られた。あいつは覚醒剤をだいぶやっていた。ユンを警戒して、私に斬りかかってきた。肉と骨を溶かす、毒の蝶が見えるらしい。その美しい蝶を恐れて、ずっと電気を消している。ユンを恐れて、ナイフを抱きかかえている」

 小鳥遊は首を横に振った。「くそ、なんてこった。あいつ、ヤク中になってたのかよ。もう無茶苦茶だな」

浅井がオレンジジュースを入れて戻ってきた。私は席を詰めた。

「話は聞いてたけど、ちっちゃいね」、浅井は笑った。小鳥遊がほんの少しだけ高かった。

「し、失礼だな。なんだよ」、小鳥遊は背伸びした浅井に頭を撫でられていた。

「よしよーし、よーし」

「なんだよ、やめろよぉ」、小鳥遊は頭を両手で覆った。しかし、浅井は覆われていない部分を撫でて遊んでいた。

 多分、からかわれやすいたちなんだろう。とてもナイフ使いには見えない柄だった。

「皆にからかわれるよ、俺は」

 小鳥遊は顔を赤くして、わざと咳き込んだ。身長のせいか、と呟いていた。性格のせいじゃないかと思ったが、言うのはやめた。

「それで、まだ時間がある。話す言葉を考えておこう」

 2人は相づちを打った。

 私達は話し合って、その後はたあいもない世間話をした。どうやら二人はそれなりに仲がよくなったらしい。

 私はほとんどの時間は黙っていた。

 もしユンが逮捕されれば台湾に引き渡され、きっと裁判で死刑を宣告されて、心臓を撃ち抜かれる。ユンはそれを防ぎたい。あの刑事達はきっとユンを逮捕して、昇進のための功績を挙げたがっている。もしユンが小鳥遊に感づけば、ユンはきっと小鳥遊を殺すだろう。刑事達はユンが小鳥遊に手を出す瞬間を待ち望んでいるのかもしれない。全て、前の事件のように手の上で転がされている気分だ。あんな奴等を昇進させたら、この国は終わりだ。かと言ってユンが逮捕されなければ、小鳥遊はいつか気づかれて、殺される。

 いかれていない方の警察に通報すれば、小鳥遊は数年刑務所だ。ユンは逃亡するだろう。台湾という孤島から海を越えて、日本で団体を作るような奴だ。陸の国境を越えるのとは訳が違う。そう簡単に捕まるまい。そして刑事は激怒し、小鳥遊と木村佳奈を出所した後に始末するはずだ。

 方法はこれの他にない。

 もしこの世に謎があるとすれば、巧妙に練られた殺人事件のトリックではなく、人間自身にこそ謎があるものだ。

 その証拠に、今でも私は自分のことが全く分からない。30年近く生きた今でも、だ。

 夜になって、私達はインプレッサに乗った。

 世の中に賢い選択というものはないのかもしれない。もしそれを選択していれば、私は適当な会社で会社員をやっていたかもしれない。上司に頭を下げ、部下に怒鳴り散らし、手柄は自分の物にして、失敗は押しつける。全ての時間を会社に捧げ、浴びるほど酒を飲み、全てを忘れる。そして時間と金をギャンブルに使い、そして女を買う。そしていつの間にか昇進し、マイホームとマイカーを持ち、適当な人間と結婚して、子供が出来る。そして老人になり、孫と遊び、そして死ぬ。それが昔からこの国での賢い選択とされる。

 そんなものはお断りだ。

 そんな賢い人生を送るぐらいなら、喜んで人のために路地裏で刺されて死んでやろう。

 失う物がないというのは気楽でいいものだ。

 私もそうだ。失うものなど命しかない。

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