第23話

 四人が居間に集まっていた。

 私は遂にやり遂げたのだ。何を?ほんのつかの間の安息を手に入れた。世界を滅ぼそうとするテロリストが死んだ。

 私の依頼は終わった。小鳥遊の素性は調べたし、そして不幸な誰かが灰になることで、強盗団から抜けさせることが出来た。あとはカジノだけだが、これは私の問題だ。遅かれ早かれ、これが起こるはずだった。ギャンブルの腕を知られていたのは予想外だったが。

「これで私の仕事は終わりました。何か質問はありますか?」

「探ってきてほしいと言っただけなのに、随分他の事もしてくれたようだ。ユンという韓国人は?」

「この目で彼が殺されたのを確認しました。これで小鳥遊はスリ団を抜けることになりました」

 小鳥遊の眉が少し動いた。いい気分はしないだろう。

「警察の使い走りはいつやめるんだね?」

「それはまた私がどうにかします。今日は忘れましょう。撃たれた男は?」

「弾は体に残っていないし、かすって肉が飛んだだけだ。血は出ていたが、特に問題は無いだろう。それより、君が男に通報されたらどうするんだ?私まで、終わりだ」

 医者は眉をしかめている。せいぜい数年を食らうだけだ。私はもっと危ない橋を渡っている。

「そうなれば、私は刑務所に送られる。運良く出てこられても、20年は人生を棒に振ります。そうでなければ、私は首をつられる。貴方も数年は入るかもしれません。だがそこは問題ないでしょう。警察とやくざが揉み消すはずだ。私は双方にとって数億円以上の価値がある人間だ。私はたった一日でサラリーマンの生涯年収分を稼ぐことになるでしょう」

「深くは聞かないことにしよう。ここにせっかくのワインがある。これを開けようじゃないか」

 私は頷いて、グラスに赤が注がれるのを見ていた。

 神の血は人の血ほど安くは無かった。

 机の上に、フランスワインと、ウィスキーと、炭酸水と、氷と、アイスピックと五人分のグラスがあった。一つはからだ。殺し屋を思い出すアイスピックだ。

 浅井はどこかへ行ってしまったようだ。父親と、娘と、小鳥遊と、私だけがいる。

 オレンジ色の薄明かりと、美しかったはずのペルシア絨毯と、茶色い机があった。

 私も久しぶりの酒を飲んだ。アルコールと、硝煙の焦げた匂いがした。手が震えている。握り直した。

「手が震えているわ」、女の声が聞こえた。

「怖かったわけじゃない、アドレナリンだ。ユンのがもっと怖かったはずだ。ずっと殺し屋に付け狙われてきた奴に比べれば」、私はそううそぶいた。

「スパイは国に消される。そういうものでしょう」

「佳奈、もうユンのことはいいだろ」

「そうね。彼はあなたの大好きなお友達だったものね。美しき友情は、でももうなくなってしまった。湊、前を向かなきゃいけないわ」

 小鳥遊の唇が震えている。

「前ぐらい、向いてる」

 女は男を見つめ続けた。

「泣いてるわ、湊」

「くそっ、泣いてなんかない。俺は、泣いてなんか、ない」

 小鳥遊の見開かれた目から涙が下へ走った。そして、堰を切ったように流れ始めた。彼は腕で、まぶたをぬぐった。押し込むように、神の血を飲み干した。

 だがそれは止まらなかった。

 木村佳奈は小鳥遊を胸に抱き寄せて、頭をなでた。

「泣きなさい、眠りなさい、湊、私の胸で・・・・・・」

 長い嗚咽が聞こえた。

 私はそちらを向くのをやめて、ウィスキーをグラスについで、氷を入れた。

 当然父親はいい顔をしていなかった。彼は席を立って、どこかへ行った。

 私は黙って、酒を飲んでいた。きりりと抜ける匂いがしている。

 そのうちに、うめき声が消えた。

 私は部屋を出た。少し歩くと、老人がワインを持ち立っていた。

「娘も、いつの間にか違っていたようだ。あんなに小さかったはずだったのに」

「子供はあっという間に成長します。誰もが、20年という時間があれば変わってしまいます。成長したり、老いたり、ささくれてしまったり、すり潰されてしまいます」

「私はもう老いてしまって、疲れてしまった。娘が意志を曲げることはないだろう・・・・・・娘は誰にもひるまなかった。どんなことをしようと、もう私の知ったことではない」

「手に負えない跳ねっ返りにしたのは貴方です」、私はだんだん腹が立ってきた。

「全てを間違ってしまったようだ、私は・・・・・・」

 老人のつぶやきを聞いた後、私は外に向かって歩き出した。間違っているとも。まだ彼女の人生は彼女のものだということを理解していない。

「君はわかってるかね?人生は男や女だ、が全てじゃない。あんなことを必死にやっていたって、数ヶ月か数年で普通は別れてしまうのだ。君はそんなことのために命をかけたんだ。佳奈も危険にさらされた」、酔って、舌がもつれた声だ。

「百年後には皆死んでいます。28億年後には地球は太陽に焼き払われます。いつか死ぬというなら、いったいどうして人間は必死に生きようとしているのでしょう」

 老人は眉を上げて、鼻で笑ったあと、首を横に振った。

「極論をいいよって、分からず屋ばかりだ」、老人がつぶやいた。

「いいか、私はカネのために命を賭けてるわけじゃない。あんたと、あんたの娘と、あんたの知り合いと、あんたの娘の男のために命を賭けたんだ。そのうちの二人が何をしようと関知することじゃない。そしてカネを払えば他人の人生を自分のものにしていいと思っているのか。今は酔ってくだを巻くのもやめてくれ。こっちは傷ついてる。私は貴方ほど凍てついた心を持っていない。見てなかったのか。脅され、情を持っていたいかれた命の恩人を裏切り、そして恩人に殺されかけ、恩人が死ぬとわかっていても私を助けるために行動し、そして死なれるという複雑な状況を抱えた人間と、その苦しみと悲しみを受け入れるあなたの娘を見ても、まだ何か言うようなら、貴方は人間ではない」

 老人が顔をしかめ、壁に背中をつけていた。私は頭にきていて、手が震えていた。息を整えて、押さえた。相当きているらしい。暴力は人をおかしくさせる。

「何が人間じゃないだ、人殺しめ。私だって闇医者の仲間入りをしてしまったんだ。あれに通報されたら、私も刑務所に入るんだぞ。そしてナイフを振り回す低学歴の犯罪者が本当に、私の傑作である佳奈にふさわしいまともな男だとでも?いつか彼は大きな災難をもたらす。いつか私が間違っていなかったとわかるだろう、探偵」

「闇医者がなんだ、私は下手をしたら銃弾を食らう」

 あっちもやけになっているようだった。

 私は舌打ちをして、そのまま歩いて行った。早く煙草を吸いたかった。そしてある部屋の前を通り過ぎたが、隙間が空いていた。

 隙間を見ると、浅井がソファーにもたれかかって、赤い何かを飲んでいた。ワイン。浅井はじっと、まどろんだ瞳で、私を見続けた。ほおが上気している。

「こっち、きて」

 私は言われるがままに部屋に入って、向かいのソファーに座った。ろれつが回っていないようだ。

「酒はどうだ?」

「おいしさなんてわかんないよ」

彼女はグラスを掲げて、赤を見上げた。そして、グラスをおいて、人差し指で倒した。白い机の上に赤が広がった。

「ばーん」

「だいぶきてる。もうやめた方がいいんじゃないのか」

「じゅうでひとをうったんでしょ?こんなふうに。ひとごろし」、そしてからからと笑った。

「なんか、もうどうでもよくなってきちゃった、あはは」

 ワインが机から少しずつ、垂れた。まるで血のように。そして、グラスが机から落ちた。

「ぜーんぶ、いいおもいをするのはかなちゃんばっかり。みんなかなちゃんかなちゃん、わたしはできないこ。みんなしてかなちゃんばっかり、いつもいつも。すぐれたにんげんばっかりいいおもいして、わたしみたいなのはみじめなの」

 ソファーに仰向けになって、私を見た。瞳には精気が宿っていない。

「考えすぎだということもあるかもしれない」

「そんなわけない、そんなわけない、そんなわけない。だったら、この私の気持ちはなんなの!?全部考えすぎなの!?もう嫌だよ!だれか助けてよ。うぅ、うううううううう」、だだをこねる赤子のように、彼女は泣いた。

 そして、右腕を自分の目に当て、静かになった。私にはどうしようもなかった。

 私は外へ出て、煙草を吸おうとした。

 男の低い声と、女の甲高い声がしている。

 父と娘の口げんかだろう。

 大きな甲高い声とともに、何かが倒れて、たくさんの堅いものが落ちた音がした。

出来れば関わりたくなかったが、扉を開けて確認すると、女が老人の目の前に、アイスピックを振りかざしていた。氷が床に飛び散って、ペルシア絨毯が濡れている。

 小鳥遊は唖然としている。女は手が震え、顔が赤くなり、老人を突き飛ばしていた。ピックを今にもつきたてそうだ。

「ふざけるんじゃないわよ!あなたそれでも人間なの!?いつも、いつも、いつも」、アイスピックを持った手が振り上がった。

 私は飛びついて、シャツの後ろをつかんで女を離した。

「やめろ!」、右腕をつかんで、私は叫んだ。腹に肘が飛んできた。左腕をつかんだ。急に抵抗をやめたようだ。しかし、荒い息づかいだけは抑えられていない。私は女を離した。

「わからんのか。そんな屑とつきあうのはやめろと言っている。なぜよりにもよってそいつなんだ。もっと、いい奴はいっぱいいるだろう」

「もう私のことは放っておいて」、牙をむいた獣のような激情。

「ここまで面倒を見てやったのは誰だったと思っている」

「誰も産んでと頼んでいないわ!」

「出て行け!二度と顔を見せるな!」

 中年の男がそう叫ぶと、女が急にアイスピックを投げた。アイスピックが回転し、男の肩に浅く突き刺さった。

 この気違いめ、男はうめきながらそう呟いた。

「探偵さん、申し訳ないけど、車を出してもらえるかしら」

「どうしてそう私に負担を掛けるんだ」と私は頭に指を当てながら言った。

 私たちは外に出て、車に乗ることにした。飛び起きた浅井も、私の車に乗り込んだ。どうやら皆が私の事務所にやってくるつもりらしい。

 長い時間をかけて、私の事務所についた。途中で警官に見つかったら、飲酒運転と未成年飲酒で面倒なことになると思ったが、そんなことはなかった。誰もが眠っていた。いらだった中年に通報されることもなかった。そんなことよりも早く眠りたかった。睡眠時間ぐらいは、人並みになりたいものだ。

 注意深くガレージと事務所を確かめた後、久しぶりに家に戻った。

 5年ぶりに家に帰ってきたような感覚がした。三人には勝手にさせて、私は椅子に座り込んだ。そして目をつむった。


 全てが暗い闇の中、光が弾けた。拳銃から弾ける火。リボルバーを持った長身の黒人が現れた。

 黒人は自分でこめかみを撃ち抜いた。そして両目が弾けた。黒人が姿を変えて、男になった。

右目がつぶれ、首とみぞおちに穴が開き、両腕と肩からも血を流した男がナイフを持っている。ユンだ。

「お前だけが生き残った。俺は苦しみながら死んだ、俺は死んだ、お前だけが生きている。お前だけのうのうと生きられると思うなよ、人殺し。お前も誰かに殺される、お前も地獄へ・・・・・・」

 男が歩いてきた。男は歩きながら、眼球をこぼした。次に腹と胸が開き、臓器がだらりと垂れた。両手が肩から落ち、次に足がとれて、最後に頭が胴から離れた。血が流れ続けている。

 そのうちに肉塊が集まって、人型に組み合わさった。

 肩に二つの穴が開き、心臓に何かが突き刺さった長髪の女が私の前に現れた。

「ふふ、いつ私と一緒になるの?ねぇ、死ぬのはいいことよ。セックスよりもね。私と、苦しみも悲しみもない世界にいきましょう・・・・・・」

 辻だった。私は口を開かなかった。これが夢だとわかっている。それが一番腹立たしいことだ。

「私だけを、この暗闇に置いていかないで」

 辻が私の首を握って、締めた。辻が昔、バーで歌っていたときや、みずなが酒をつくっているところ、藍原が私と飲んでいたときのことが走馬燈のように私の頭を巡った。

 それで目が醒めた。嫌な夢だった。

 辺りを見回すと、三人がソファーやベッドで寝ていた。

 日が昇っているはずだったが、外ではまだ雨が降っていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る