24話

 起きたのは、長針が上、短針が右を向いたときだった。

 街には太陽の光が戻っていた。どす黒い情念のような雲はどこかへ消えている。悪夢のような夜は終わった。

 机の上に料理が出来ていた。トマトとキャベツとオリーヴオイルのサラダ、スクランブルエッグ、ハム、切られたフランスパン、パン用のオリーヴオイルと混ぜられた黒い何か。全てを体の中に入れた後、人々の声を聞いた。たった三人の人々。

「冷蔵庫の中、酷いものしかなかったよ。フランスパンはオリビアのおじさんにもらったもので、そのオイルはピンツィモニオ?って言うんだって」、少女の高い声がした。

「食事には栄養素以外こだわってないんだ」と、私は返した。

「とはいっても、限度があるものじゃないかしら?そんなに頭と体を使ってるのに」、女にしては低い声がした。

「そうかもしれない。食事も睡眠も足りてない。運動だけは足りているが。それで、これからどうするんだ?」

声がした方を向くと、浅井はベッドにぺたんと座っていた。木村佳奈はブラックコーヒーを飲んだ後、火のついていない煙草を口にくわえて立ち上がって窓辺へ寄った。

「何も考えてなかったわ。つい頭に血が上って・・・・・・」

「もー、佳奈ちゃんのせいで私も大変なんだからね」

「本当に、ごめんなさい」

どうやらこの食えない女も、彼女には弱いらしい。

「ここにしばらく泊まりたいなら、そうすればいい。人間は氷じゃないんだ。アイスピックを突き立てるためにあるわけじゃない」

 木村佳奈が心に突き立てられた記憶を思い出すようにうつむき、眉をしかめて、震える手で煙草に火をつけた。煙から甘い紅茶の匂いがした。

「俺の家は、刑事達に知られてるから別の方がいいかもしれない」、小鳥遊が木村に話しかけた。

 浅井はスマートフォンを取り出して、何か触り始めた。

ちょうど電話がかかってきた。

「はい、こちら探偵事務所ですが」

「わたしです。覚えてますか?」

「忘れないさ。何の用だ?」

「会いたいなぁ、なんて思っちゃったりしたんですけど、大丈夫ですか?」

「どこでだ?」

「夜のお台場埠頭、すてきな場所ですよ、あそこは」

「いいだろう」

どこか遠くから声が聞こえてきて、「すいません。もう時間です。さよなら」、電話が切れた。

 私は電話を切って、机に投げ捨てた。電話ではなく、自分の人生に苛立っていた。突然もうこの世界の誰にも会いたくない気分になったが、行くことに決めた。気分なんて気にしない方がいい。

「今の、誰?」

「知り合いさ」

「藍原さんでしょ」

「よくわかったな。将来探偵でもやってみるか?」

「探偵さんは、藍原さんのこと好きなの?」

「そんな青春物みたいな話はやめよう」

 しばらくは休みだ。デスクからウィスキーを取り出して、キャップを開けて、そのまま少し飲んだ。

「そんなことを言っていると、いつか刺されるわ」、木村が口を挟んだ。

「男に刺されるか、女に刺されるか、か。どちらも同じように思える」

 私は酒を机に放り込んで、マチェットや釘バットを持ったアフリカ人について考えていた。

「自由にしてていい。だが、危険なことがあったらすぐ警察に通報するか、あのカフェに逃げ込むか、汚職刑事どもかやくざに助けを求めろ。すぐに来てくれるさ、しばらくの間はな」

 インプレッサの鍵を取って、外に出た。

 久しぶりの休暇だ。湾岸を飛ばして、楽しもう。






 青くない海が目の前に広がっている。砂浜を子供が駆け回っていた。私にもこんな時期があったのかもしれないが、よく思い出せなかった。

 男や女、老人がまばらに砂浜に立っている。私はずっと、ベンチから海を眺めていた。海とはいっても、街の中に入り込んだ海と言える、小さな海だ。

 お台場海浜公園。後ろにはフジテレビが建っている。季節外れの凧が、よく冷えた青い空に舞って、また落ちた。海風が吹いてはやみ、それの繰り返しだった。

 そのうちに、海鳥が編隊を組んで飛行していったのを見た。

波が寄せては返し、青と白のコントラストを作っていた。時間の流れというのは時には早く、時には非情なほど遅いときがある。

 今は非情なほど遅い時だった。

 サイクリングやランニングをしている人間もいた。色々な人間がいる。真夜中にテロリストが死んだことなど誰も知らない。

 私はメモ帳を取り出して、ページを破ってツルの折り紙を作った。

 ツルを手すりに置くと、風で羽ばたいていった。

 海鳥が鳴いていて、波の音と誰かの声だけが聞こえた。

 煙草の煙は空に吸い込まれていく。

 しばらくぶりの休暇を楽しんでいた。

 私は誰かを待っている。

 近くに見覚えがある男が歩いてきた。180センチの長身、細い目の刑事だ。もう一人は、彫りの深い顔をした、それより少し背の低い男だ。いつも同じスーツを着ている。

「どうだ、調子は?」、背の高い男は隣のベンチに座った。もう一人はベンチの横に立って、辺りを見回している。

「二人そろって尾けてきたのはわかっている。今度はもっと上手くやるんだな」

 車で振り切っても良かったが、考えが読めなかったので、事務所に張り付かれるよりはのんきに走ってやろうと考えた。

 私は立ち上がって、桟橋の先まで行くことにした。

「派手にやらかしたらしいじゃねえか。こっちの身にもなってみろよ」と、三木が言った。

「蠍の叫声は雷雨の日に」と、私は呟いた。

「蠍?」、三木は聞いた。

 私は答えなかった。

「あそこのガキが見えるか?」、三木は平坦な声で言った。

「あのガキ、俺の親戚のガキにそっくりだ」

「そうか」

「刑事は、すぐに結婚しろと上司がうるさくてな。俺の女は俺に愛想を尽かせた。デカは忙しい。しかも俺はこの通り粗暴だ。女は違う男と浮気してたよ。痩せて女みたいになよなよとした金持ちのぼんぼんとな。愛なんてそんなもんだ。まぁ、佐野はそれを無視してるから、昇進がきついんだ。刑事は結婚してないと昇進が厳しい」と言って、三木は煙草をくわえて、火をつけた。

「俺は女が嫌いだ。だからと言ってホモなんかと一緒にしてくれるなよ。結婚はやめとけって言ったんすけどね。クソどもめ、メキシコだったらAKで撃ち殺してたぜ」、佐野が手を広げて、あざけった。全ての人間を嫌い、嘲笑している。人生の全てで人を憎み続けて暮らしてきた人間。

「こんな裏稼業をしてて、人並みの生活が出来るわけがない」、

私にもその言葉は返ってきた。桟橋の先について、向こうにかかった白く大きい橋を見ていた。下はフジツボばかりだった。

「俺は汚いこともやってる。だがそれは必要なことだ。俺があの歌姫を撃ち殺したのも、必要だったはずだ」

「ろくすっぽ当たらない、走る車から片手でショットガンをぶっ放した女を撃ち殺すのがか?」

「銃を使う相手に銃を使うなっていうのか?じゃあどうして欲しかったんだ?あそこで40億円がぱぁになったから、俺が警官を黙らせたから、お前はまだシャバにいれるんだぞ。そうじゃなきゃ、今頃銃刀と殺人で首を吊られてる。お前の代わりにあの女が死んだんだ。三浦が本気で銃を使ったら、警察じゃなくて軍の特殊部隊がいる」

「どうやら、私と悪人とは一蓮托生みたいだな。ちょっと前もユンから救われたみたいだ」

「俺が悪人か。そんなことを言われるようになるとは、警察に入ったばかりの俺じゃ考えもしなかっただろうな。あの頃はまだガキだった」

「誰もが昔は子供だった。だが今は違う。くたびれた男がここに三人いる。暴力しかまともにできないやつらが揃ってる」

三木はため息をついた。佐野はニヒルな笑みを浮かべた。自分でも認めているらしい。

「あのユンと20人をKOしたんだろ?化け物だな。現場には、大量に武器と薬莢が転がってたらしいじゃないか。こいつと山根と菊知から聞いたぜ。掃除屋が薬莢や弾痕をカタしてから、火をつけたらしい。安心しろ、警察はその後に来た」、三木は佐野をあごで示した。

「誰も知らない。腐敗した警察に哀れな女が撃ち殺されたことも、国に裏切られたと嘆く軍人が世界を滅ぼそうとして、倒れたことも。誰も気づかない。テレビの向こうのニュースだ。知ったところで、誰も気にも止めない」

「知られたら、全員おしまいだ。そのぐらいわかってるだろう」

「そうだ。だから頭に来るんだ」

「頭に来たからなんだってんだ。女は知らんが、ユンはどうしようが死んでただろ。辻だったか?あいつだってあんなことしてりゃヒットマンにバンだぜ。そんな感情一円にもなりゃしねぇ」、

 佐野が口を挟んだ。

「円で計れないことだってあるだろう」

「いいや、ないね。人間にはみみっちい値札がついてる」、佐野はせせら笑った。

「早く本題に移れよ。話してると頭に来る」

「おお、怖いね、人間兵器様。俺たちとしちゃ、あまりどうでもいいことで俺たちの手を煩わせるなってことだ。ユンはこっちでSATや殺し屋を送ってもよかったんだ。お前が捕まったと聞いたから、急に俺たちや台湾人のためのクリーンなフルカスタムのライフルを準備しきる前に行くはめになった。カジノをやる前に死んで貰っちゃ困る。人数を送れば戦闘力なんてカバーできるが、賭の腕はそうはいかねぇ」、佐野が石ころを蹴った。

「なぜ全員と一緒に来なかったんだ?同時に投入すれば良かっただろう」

「そりゃあ、台湾人達を減らしたかったからだ。奴らは気にくわねえ。逐次投入するように邪魔してたのさ。5人ぐらいずつの投入なら、拳銃しか持ってない台湾人はユンのM16やトラップで虐殺されると思っていた。後で調べたら、奴はクレイモアみたいな手製の、ベアリングを詰めた指向性の爆弾も廊下にしかけてた。きっちり同じ形で同じ大きさだ。あれが爆破されれば、700個のベアリングが飛び散り、コンクリートに跳弾して、シャワーみたいに射貫かれてただろうな。だが、あいつは拳銃とナイフだけで皆殺しにしちまった。信じられるか?ぞろぞろと全員で行くか、お前が戦わず、爆薬のスイッチかライフルを出す暇を与えてたら、俺たちもお前も全員死んでた。あいつがもし本気でテロをしてたら、首相は死んでただろうな」

 佐野は言い終わると、コーヒー缶を海まで投げた。

「俺様のためにちゃぁんと働けよ」、佐野が私を指さした。

「どこかへ行け、顔も見たくない」

「言われなくても消えるさ。さぁ行こうぜ」、三木が煙草を地面へ投げ捨てて、踏み消した。

「警官がゴミを捨てていいのか?」

「自分の人生をほとんど捨ててるんだ。このぐらいなんだって言うんだ」、三木が立ち上がった。

「この世なんてゴミばっかだ。でかいゴミが服着て歩いてるんだから、小さなゴミ捨てたって変わらねえだろ」、佐野はそうやってせせら笑った。

 二人はそれで去っていったが、佐野が振り返った。

「記者の野郎がいたろ。あいつはこっちでカタをつける。甘ちゃんなお前にはできねえだろうからな」

私は眉をしかめた。警告をし忘れていたし、あの男だどこの会社だか見当も付かなかった。

「そういえば、あの大使館のでかいイギリス人の用心棒に倉庫のことやユンのことがばれていた。誰か、お前達か山根の方のどちらかにたぶん白人の知り合いがいるんじゃないのか?」

「なに?でかいイギリス人?デイヴィッドコールか?あのばかでかい白人の元傭兵の。じゃあ山根の方だな。そう言っておく。そうだ、ユンが持ってたおもちゃがあるだろ。あれはお前にプレゼントされるらしい」

 私は何も言わなかった。白人の名前はデイヴィッド・コールというらしい。そして、おもちゃが届く。

 まさか、ライフルもか?やくざの奴らだって自前でライフルが欲しいだろう。なのに私に贈るだと?鉄砲玉にされるかもしれない。ライフルを使う事態に備えて、用意をしておく必要がある。

 そうなったら、警察の方がギャングより怖いだろうが。

 しばらくあたりをうろついていると、沢山のラテンアメリカ系の移民がフェスティバルを開いていた。そこでジャマイカの辛いタコスと、ライムと塩が入ったモヒートを買って食べた。ラテンのリズムが聞こえてくる。モヒートを一気に煽った。飲酒運転は六法全書に書いてはいないが、私の法だ。彼らが肩を組んできたが、抜け出して一人で食べた。彼らは明るすぎる。

 辺りが暗くなって、後ろからまばゆい光が差し込んできている。

 時間を聞き忘れていたのを思い出した。スマートフォンを出して、電話をした。三回のコール、出た。

「機嫌はどうだ?」

「どうもありませんよ。今日はまだゆっくりできるんですけど!ドラマで監督が最近またダメだししてきて、ちょっと機嫌が悪いんです」

 少しだけ、気持ちが安らいだ。

「それで、電話をかけてきたんだな。よくわかったよ」

「あたりです。ですけど、本当は、またなにかしてるんじゃないかって、心配になったんです」

「なにかしてないと暇で頭がおかしくなりそうなんでね」

「いつも、ふざけてばっかで。本当のことや本当の気持ちは何一つとして人に言おうとしないんですね」

「君に言ったって、どうにもならない。君から金をせびればいいのか?君が命を張る必要も無いし、法を犯す必要もない」

「そんな言い方やめてください!出来ることなら、なんだってします!お金が欲しいなら、あげます。キスして欲しいなら、してあげます。でもそういうことじゃないでしょう」

「わかった。私の負けだ。話すよ。だが電話では話したくない。記録に残る」

「やっぱり、またそういうことですか。自分の心配とかはしないんですか?」

「同じ事を何度も言われてる。仕方の無いことだ」

「仕方の無い事なんて!」

 私は電話を切った。

 カジノに行く準備をしなければならない。装備を取りそろえ、賭けのカンを取り戻す必要がある。昔はベガスを荒らしたが、それはもう遠い昔の話だ。だが、考えれば銃を触ったのだってそれと同じぐらい昔の話だ。なのに、あんな銃撃戦をやってのけた。なら、すぐにカンは取り戻せるだろう。

 寒い潮風が、夜の海を吹き抜けている。

 海鳥の声だけをずっと聞いていた。

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紫陽花の歌声 もず @mappaper

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