第2話

 時は過ぎ、蒸し暑い夜になった。雨はドラムの代わりに暗闇に鳴り響く。この近辺で明かりがついているのは私の事務所だけだ。事務所と生活部を遮るアコーディオンのような扉は畳まれて、その機能を失っている。

 古びたジャズは彼女のお気に召さなかったようだった。彼女はスクリレックスのダンスミュージックを大音量でかけ始めたが、耳が痛いぐらいに騒がしすぎたのでロックに変えた。

 彼女は頬を膨らまして不満げな顔をしていた。

 勝手に冷蔵庫を開けて彼女は言った。

「ここが家ですか?」

「家と事務所兼用だ」

「随分と寂しい生活をしてるんですね」

「ああ。消えかけた蝋燭の灯火ぐらい、随分と寂しい生活だ」

「探偵さんなのにお酒もやらずにトレンチコートも着てないんですか?」

「仕事中に酒はしない主義でね。トレンチで尾行なんて、二、三回振り返られたらおじゃんだ」

 彼女はしゃがみ込んで、家から持ってきたのか、鞄から梱包材にくるまれた何かを取り出した。

 それはコニャックの瓶だった。彼女はそれを頬に近づけ、私に微笑む。

「じゃあ今日だけ、今日だけ禁酒を破りませんか?」

 くらりとやられそうになったが、ここでやられるとあの機会を狙い続けるキツツキが私達をぼろ布のようにするだろう。

「レミー・マルタンのルイ13世ですよ。これ貰ったんですけど、今日しかあげませんから!」

 彼女の自慢げな顔を見られる人間はそうそういないだろう。どこか言いようのない懐かしさを覚えた。

 彼女が持っているのは飲む宝石。美しい琥珀色に、輝くガラス。団扇のような形の瓶だった。1本25万円。彼女のような売れっ子や社長、政治家向けの一品だ。

「申し訳ないが、酔いつぶれたら貴方を守れない。奴はやり手で、頭もキレるし粘着質だ。ただのストーカーじゃない」

 彼女はコニャックを手から滑らせかけて、慌てて持ち直して私の冷蔵庫へ入れた。

 私は話を続けた。

「奴は脅し屋か殺し屋か何かだ。計画的で、雨の日の夜を狙ったのは人通りが少なく視界が悪いからだ。靴跡も、血も雨で流れる。おまけにスタンガンは雨で使えず、防犯スプレーも夜で当てづらく、傘と仮面があれば効果が少しは減る。風上から奴は来たはずだ。どうだった?」

 彼女は不安げな表情を見せた。もし私の推理が正しければ、奴が殺すと決めたなら、殺されたくなければ奴を刑務所に叩き込むか、自分が留置所に入るか、殺し返すほかない。この手の奴は地獄の底まで追ってくる。

「確かに風上から来ました。でも急に風向きが変わって、防犯スプレーがよく使えるようになったんです。傘で防がれましたが、下から風で入ったみたいで」

 奴は頭は回るが、運はないらしい。

「つけられた感じはあったか?」

「いや、スプレーをかけたら男も逃げていきました」

「奴はやかんみたいに怒っているぞ。次に同じ手は通用しない。だが奴の目的は殺しじゃない。もし本気なら狙撃してきただろう。最近他に不審な点はなかったか?」

 彼女は人差し指を頬に当てて数秒の間考えた後、告げた。

「・・・・・・そういえば、他のプロダクションの社長、水江社長から、二代目の若い男なんですけど、私に女優を辞めて結婚しないかとしつこく電話がかかってくるんです。大手なのであんまりにも無碍にするとうちの事務所にも迷惑がかかりますし、でも彼は全然諦めないんです。後、彼は自分の事務所の女の人に手を出してるとかいう噂もあって、無理矢理その、したとかいう話も」

 病院でもかかってきていたあの電話だろうか。たぶんあいつだろう。

 昔ここにその芸能人がなだれ込んできて、私に依頼をした。弁護士事務所に行ったら証拠がないから出来ません、と言われたと彼女は叫んだ。

 証拠集めで、彼女の話でなくていいから、なんとしてでも牢屋にぶち込めるだけの証拠を集めてと。

 しかし、彼女は依頼を途中で取りやめてしまった。

 もう、いいの。もう疲れたわ。隠居でもするから、もうやめよ。と言った。

 私はただでもやるつもりだったが、結局彼女は取りやめてしまった。

 私はその依頼の金を彼女に返した。

「どのぐらい前から?」

「半年です。だいたい半年前からです」

 ビンゴ。ストーカーのふりをした男は1ヶ月前から急に手紙を送り始めた。水江が強硬手段に出て奴を雇って辞めさせようとしている可能性も強い。

 それなら、ウッドペッカーを撃退するより雇い主を牢屋に叩き込む方が効率的だ。

 奴は暴力団との関係や色々な事で警察に睨まれている。逮捕されればどんどん懲役が、彼の会社の帳簿の収入のように加算されていくだろう。

 上手く行くといいのだが。

 その日は私はソファーで寝て、彼女をベッドで寝かせた。

 ソファーは堅かった。

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