紫陽花の歌声

もず

~紫陽花の歌声~ 第1話

 ガラスの向こうに見える空には鈍色の雲。永遠に続くような雨が降り続いている。

 梅雨だ。暑く、湿っている。全ての物を腐敗させる。

 それは物も人も等しい。

 私は汗を拭いた。スーツの下のシャツが、汗で濡れていた。

 水を入れたグラスの縁が細かな水滴で彩られて、濃霧のように見えた。

 ここは東京だ。世界一の大都市。雨の中に浮かぶ街。

 東京は何でも揃っているというのに、清廉潔白な心だけは品切れ中だ。

 特に芸能界という物は、外面には一万ドル掛けた位の豪華な純金の装飾が施してあるのに、中身は一万ドル積まれてもお断りしたいぐらいのカビで溢れている。

 私は、右腕で、額の汗を拭いた。スーツの袖が、濡れた。

 今日も何もすることが無いので、デスクの上に腰掛けたままダーツを投げる。

 最近仕事が入っていないので、どんどんダーツの腕が上達していく。

 ブルズアイ。ダーツ板のど真ん中を射貫いた。

 この蒸し暑く湿気った梅雨の中では、クレヨンで描いたような鮮やかさを誇る蒼色の紫陽花だけが救いだった。

 ニューヨークの溜息が、私の家に帰ってくれとどこかの誰かに懇願している時だった。

 トランペットの音に合わせるように、ダーツは小気味よい音とともに、またダーツ板の中心に深く刺さる。

 素晴らしい結果に満足して、三本目を投げようとダーツを持った。

 視界の外から大きな音がした。

 それは扉を開ける音だった。それも急に、焦って。

 ここの扉を急いで開けるような人間はだいたい二種類いる。

 一つはせっかちな人間、もう一つはろくな目に遭わず、おまけに頼れる人間を他の誰も見つけることが出来なかった人間だ。

 彼女は後者だ、と私は思った。そしてそれは、当たっていた。

「どうかしましたか?」

 顔だけをそちらに向けて声をかけた。目を奪われた。

 私の視界には土砂降りの雨に打たれた、美しい女性が立っていた。

 雨に濡れて顔に張り付いた髪の毛に、見ているだけで吸い込まれそうな瞳、長いまつげ、白い肌で肩を露出した服装とそのスレンダーな体型、女性にしては高い身長に童顔は、まるでテレビの向こうの映画女優のようだった。事実その通りで、彼女は芸能人だ。藍原早麻理という名前で活動している。

 私のように、テレビに疎い人間でも知っている。

 彼女の前では、坊主にも髪が生え、袈裟を脱ぎ捨て、牧師は主イエスを裏切るだろう。銀の大きなロザリオのペンダントが彼女の胸で慎ましげに光っていた。私はその面影にどこか懐かしさを感じていた。私も疲れているのかもしれない。

 だが、最も違和感を感じたのはその姿勢だった。左手で右の二の腕を強く押さえて、苦悶の表情を浮かべている。

「ストーカーが・・・・・・私を、アイスピックで刺しました・・・・・・」

 濡れた服で分からなかった。だがよく見ると血の色が付いている。アイスピックの傷は血があまり出ないのだ。そういうのを好んで仕事道具として使う連中がいることも、私は知っていた。

「とにかく手当をしよう。その後で話を聞く」

 濡れたピンク色のカーディガンを脱がせると、右の二の腕に赤い点が出来ていた。赤い点から、涙のように血がほんの少し流れていた。

 もし凶器のアイスピックに鉄さびがあった場合破傷風になる恐れがある。だがここでは何も出来ない。

 幸い動脈は傷つけていなかった。プラスチックの注射器に入れた生理食塩水を強く押し出して傷口を洗浄し、消毒液をかけ、清潔な包帯を強く巻いた。

 体を拭くタオルを渡し、彼女を一目見てから歓声を上げ始めたクーラーを黙らせた。

 とりあえずのやるべき事を終えた後、彼女を座らせて話を聞くことにした。

「救急車を呼ぼうか?」

 私はスマートフォンを取って、両手を広げた。

「あまり大事にしたくないのでやめてください。後で自分で行きますから」

「そういう空元気はよすんだな。タクシー気分で病院まで行ける」

「やめてくださいッ!なんで探偵事務所に来たと思ってるんですかッ!」、彼女は叫んだ。耳に響いた。

 見た目に反して彼女は激しいタイプだった。

 彼女は自分から語り始めた。恐怖に震えた依頼人が自分から話すのは珍しい。怒りに震えている依頼人ならそうかもしれないが、彼女は見た目には出ないタイプなのかもしれない。

「1ヶ月前から急に、でした。私にその男から手紙が届くようになったのは」

 彼女は腕を押さえて顔を歪ませている。心配だ。後で車で病院まで送っていこう。

「最初から激しい手紙でした。愛してる、から次第に、殺すという文面になったんです」

 彼女はゆっくりと、口を開いた。目はリノリウムの床を見つめていた。

「女々しい男のよくやる事だ」と、私は言った。

「ここ一週間は激しくて、気をつけたんですが、裏道に入ったときに男がアイスピックを持って襲ってきたんです。お前はなんて薄情者なんだ、とか叫びながら」

 冷たい奴だと言ってアイスピックで刺すなんて、氷を砕くのと掛けているのだろうか。近頃のストーカーは冗談がお好きらしい。

「右腕を刺されて・・・・・・それで左手で防犯スプレーをかけて逃げたんです」

「なるほど。警察に行った方が良かったんじゃないか?」

「あまり話を大事にしたくないんです。これからプロデューサーや芸能事務所と話し合って、長期休みをとらせて頂こうと」

「つまり君は芸能人で、ブン屋に一面記事にされたくないから警察じゃなくここに来た。そして暫くの間私に用心棒をやってくれということか」と、私は尋ねた。

「えぇそうです。全世界公認集団ストーカーの連中とは口を聞きたくないので」

 襲われたにしてはやけに頭と舌が回る女性だ。

 頭の回転の速さを要求される芸能人だけあってということか、それとも。

「随分と手際がいいな。まるで襲われることが分かってたみたいだ」

「えぇ。いつかこうなるかもと思っていたんです」

「勘はいいが、運は悪かったらしいな。事務所に来ることまで想定済みだったか?なぜここの探偵事務所に?」

 彼女は一呼吸置いて答えた。

「・・・・・それはここが襲われた場所に近かったからです」

 彼女はそれきり、口を閉じた。そして、曇った灰色の空を見つめていた。

 私は少しの疑問を抱いた。卵よりは大きく、地球よりは小さい程の。

 その後は仕事の手続きに移行した。事務所の人間と電話で契約の話を取り付けた。

後で事務所の人間に直接会って契約を書面できちんと行うのだが。

 探偵の仕事は人の不幸で金を貰う職業だ。マスコミ、葬儀屋とたいして変わりはない。彼女は人気の女優で、大手プロダクションと一ヶ月、場合によってはもっと長期間契約することになった。

 色恋沙汰と企業関係と身辺警護は最も稼げる仕事だった。この仕事は全ての要素を含んでいた。

 彼女の視線はほんの少し寂しそうだったが、私には何のことか全く分からなかった。

 だがそれより先に病院に行くことが不可欠だ。彼女にサングラスとマスクをかけさせて、車に乗せて病院へ連れて行く。

 事務所の一階の、車庫についた。スバル・インプレッサの助手席に藍原を乗せ、私は運転席に乗った。カーナビに、事務所から遠くの病院を指示した。私の相棒は無機質な声で快く了解してくれた。

「そのストーカーの男はどんな人間だった?」

「声は高くて身長は私より少し上の175センチぐらいで、アメリカ大統領のお面をつけていて、長髪、頭が薄くてそれに肩幅も広く、筋肉質で手足が長かったです」

「服装は?」

「ジーパン、黒のブーツに黒のダウンジャケットで雨傘を持っていたと思います。夢に出そうです」

「よく覚えてるな。それは災難だった。ありがとう」

「あなたはよく覚えていないみたいですね」

「どういう意味だ?」

「・・・・・・昔のことですよ」

 車を病院まで飛ばした。彼女は自分のプロデューサーだかマネージャーと襲撃されたことについて話していた。芸能活動をとりあえず休止するようだった。きっと事務所はてんやわんやに違いない。莫大な損失だろう。

 雨の中を飛ばした。

 小さくも大きくもない病院へ着いた。

 私は用意がいい探偵ではないので、懇意の医者などいない。彼女が懇意にしている医者は、きっと男に張られているだろう。

 藍原はサングラスとマスクをかけていた。

 病院で彼女の傷を見せると、すぐに順番を回してもらえた。

 診察室に、藍原と一緒に入室すると、小柄で老いた医者がいた。

 肌は浅黒く、水色のマスクをかけて、顔をしかめていた。

 額に三本の深く長いしわが刻まれている。

 風流を気取っているのか、奥に部屋の色調とは不釣り合いな掛け軸があった。

 長い掛け軸の中に、正方形の紙あって、そこに竹が三本描かれている。

 水墨画だった。赤い判子が押されている。高額な物に見えた。

「あなた、どこかで見たことがあると思うんですが。藍原さんですよね」

老いた医者はしわがれた声で、彼女のサングラスの向こうの瞳を見てそう言う。

「気のせいですよ」

 藍原はそう言う。

 医者の右目の上まぶたが三ミリほど下降した。

 鼻で息を排出すると、「はぁ、まぁいいんですが。傷を見せてください」と言った。

 私はこの医者に何か空寒さを感じた。

 ここを選んだのは大きなミスだったかもしれない。

 私は勘がいい。

 やくざのドス、依頼人の恋愛沙汰での包丁、サラ金の暴走車、ちんぴらのバットから救ってくれたのはその勘だった。

 しかし、次はアイスピックが瞳に襲うかもしれない。次は勘が働かないかもしれない。

 彼女の右腕の、赤い斑点のような傷を見てそう思った。

 その医者によると、傷は全治一週間だった。

 幸い腱も神経も傷つけていなかったし、破傷風とも縁がなかったようだ。

 アイスピックで刺されたにしては浅く、傷口が一個だけで、しかも綺麗だ。アイスピックを逆手に持って、感情に任せて振り下ろせば刺し傷は引き裂いたような跡になる、と考えながらミネラルウォーターを飲んでいた。

 私は聞いた。

「その男はアイスピックをどんな風に持っていた?」

「ええと、右手で、長いアイスピックでフェンシングをするみたいな格好でした」

 アイスピックによる殺傷に熟練した人間の、得物の使い方の一つだ。それで急所を高速で突く。熊を撃ち倒す44マグナムを防ぐ防弾チョッキすらもアイスピックは防弾繊維の隙間を縫って貫通するのだ。

 傷口が浅いのも、傷跡が綺麗なのも納得した。だが問題はその姿勢なら何回でも、試してみれば分かるが一秒に2回はアイスピックを刺すことができる。だが彼女には動脈にも達していない場所に綺麗で浅い傷一つしかなかった。急所でもなければ、数回攻撃されたわけでもなく、深く刺されたわけでもない。

 ぴんとひらめいた。

 きっとこれはただのストーカーによる殺人未遂ではないと。

 二つの可能性が浮かんだ。これは脅迫ではないかということと、もう一つは私か彼女、あるいはその双方が嵌められているのではないかということだ。

 どちらにせよそのストーカーのふりをしたキツツキ気取りの男は相当のやり手だ。

 しかも手紙を一ヶ月前から出し続ける程の頭脳と根気を持っている。

 私は覚悟を決めた。事務所に帰ったらすぐ防刃チョッキを彼女に着せる。

 顔や首、動脈への攻撃を防げなくても、臓器への攻撃は防げるはずだ。

 彼女がえんじ色の長椅子から立ち上がって言った。

「ところで探偵さん?」

「なんだ」と言って、私は彼女を見つめた。

「マスコミにもばれたくないですし、事務所には休み届けを出す予定ですし、住所はストーカーに割れてます。だから貴方の事務所に泊めさせて貰えないですか?」

 ミネラルウォーターの半分を捨てることになり、生来、自転車の劣化した虫ゴムほどの働きしかしない気管支の弁を持っている私は2分ほどむせるはめになった。

 動揺したわけではないが、気管支の弁の調子が悪かった。

 彼女は20年前のレコードを見るような目で笑っていた。

 私は特に断る理由もなかったので、引き受けた。マスコミにばれたくないと言ったのは何だったのだろうか。実は違う理由があるのだろうか。

 そのうちに彼女の電話が鳴った。

 彼女は電話をとって、私の前から退散した。

 職業柄のせいで、聞き耳を立てた。なぜ私の事務所に来たのかという疑問もあったからだ。

「心配してくださってありがとうございます。ケガは大したことないらしいです。私はえーっとその、好きな人が他にいるので、ええ、はい、そのご好意は嬉しいんですが、はい、はい、ちょっと申し訳ないんですが。後この仕事を辞める気も無いです。えっ誰か?いやそれは言えません。パーティーもちょっと遠慮させていただきます。それではすみません」

 彼女はそう言って電話を切った。誰かに求愛されているようだった。彼女のような意外に激しい人間があの対応と言うことは、目上の人間だろうか。

 それにしても彼女のような人気女優に好きな人間がいるとわかったら、きっと次の日のスポーツ紙とゴシップ誌の一面は彼女の写真で飾られるだろう。

 マスコミも人をつけ回して金を稼ぐ職業だ。

 コンビニで弁当と炭酸飲料を買って事務所に帰って、防弾・防刃の両用ベストと護身用具の準備をしておいた。奴がアイスピックだけでなく、小型拳銃や貫通力の高いトカレフ拳銃を持ってくる可能性を考慮しての複合型だ。

 弁当は可もなく不可もなく、という味だった。

 彼女の目は憂鬱で、どこか含みのある色をしていた。そんな彼女を見た後に、私は空を見た。

 空は薄汚れた灰色をしていて、雨が降り続けていた。

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