第8話
ベッドから起き上がって、伸びをした。朝の七時だ。
日課のトレーニングをしなければならない。
5キロのランニング、腕立て伏せ、スクワット、懸垂。
全てを終えたあと、私はシャワーを浴びた。
私がやるべきことは、男を捜すことだ。
男の特徴は、小柄で、手の甲に傷があり、茶髪で短髪、白いパーカー、十代後半から二十代前半のはずだ。
普段は新宿などの繁華街にいて、渋谷のエルパソにもいたことがある。
新宿から渋谷は約4キロだ。
東京都の地図を引っ張り出してきて、都心部のページを開いた。
新宿から4キロの円をコンパスで引いた。
渋谷から4キロの円をコンパスで引いた。
その円に含まれている繁華街は、新宿、渋谷、原宿、目黒、表参道、六本木。
まずはエルパソから調べ、見つからなかったら新宿を探し、次に六本木と表参道、原宿、最後に目黒を調べよう。
六本木と表参道は、金を持って歩く人間が多い。スリにはぴったりだ。
新宿と渋谷のコンパスの点が被る場所は、永田町北部や皇居の西部と、笹塚だ。
犯罪心理学では、犯罪者の犯行地点は、住所から同心円を描くとされている。
当てになるかもしれないし、ならないかもしれない。
金持ちの多い場所や繁華街を狙っているだけかもしれないし、スリ達の組織に属していたら、これは何の意味も持たない。
東京の昼間人口は1560万、夜間は1320万だ。都心部だけでも、相当いるだろう。
そこからこれだけの条件で探し出すのははっきり言って、不可能だ。
木村佳奈は頭がキレる。男の名前は絶対に言わないだろうし、写真や住所も言わないだろう。男の出身の児童養護施設の場所も、絶対に言わないだろう。
木村と浅井のフルネームを打って、ネットで検索してみたが、当たり前のようにSNSなどに名前は無かった。世界貿易センタービルと、色々なSNSで、昨日の日付を確認しながら見たが、それらしき写真は無かった。
彼女が男とデートするのを尾行なんてことは、しても気付かれるだろう。顔を覚えられている。
なんとかして、誰かから名前を聞き出すしか無い。
エルパソで働いていた、酒井に話を聞こう。何か知っているかもしれない。
私は電話をかけた。
「はい、酒井です」と、彼女は明るく答えた。アルコールが入っている声だ。
「一つ聞きたいことがあるんだが、今、大丈夫か?」
「どうぞ、昼は暇だから。今も飲んでるわ」
「エルパソでは、いつから働いてる?」
私は、木村の言っていたことを思いだした。記念日と誕生日にはカトレアをくれる。記念日や誕生日はわからないが、それから察するに、一年か二年前のはずだ。
くれないことはないという、口ぶりだったからだ。つまり、そのカトレアの日が何回か来ているはず。
そして、サークルと言うことは、大学に入ってからそれは起こったはずだ。
さらに、自分のことを20の女の子と言っていた。大学に入る年齢は17か18才。現役合格したと言っていたから、その17と18から20までの間に起こった出来事のはずだ。
「数年前ね。短大を出て上京してから、そこに行ったから、三年前からになるかしら」
知っているかもしれないという期待が、私の中に浮かんだ。
「女の子を守って、小柄な男とちんぴら三人がナイフで乱闘した騒ぎは知ってるか?スリの名前は聞いたことがあるか?」
「乱闘ね、じぶんがあの乱闘した話なら知ってる。じぶんとあのいかれた感じの男達が喧嘩したんでしょ。あのあと、うちがあの三浦って奴に問い詰められたんだから。殺されるかと思った。うちの家に来て、ドアをピッキングして、椅子に座ってた。いきなり、机の上のリンゴを、親指一本を振り下ろして、それだけで真っ二つに割ってきて、半分を差し出してきた。ナイフみたいな指だわ。まだ夢に出てくるし、家に入るとき、5分は掛ける。トラウマになってるんだけど。いい迷惑よ!」
もし、三浦の本気の貫手が私の目や喉に打ち込まれていたら、今頃タダでは済んでいない。あの病院送りにされた彼等は大丈夫なのだろうか。
「それはすまなかったな。ナイフでの乱闘騒ぎは知らないのか?」
「いや、ちょっと待って、二年前だったか、一年前だったかよく覚えてないけど、話だけなら。全員出禁になったけど、そのちんぴらにMDMAを売ってた売人の顔と名前と、どこにいるかならわかるけど」
「教えてくれると助かる」
「佐藤義彦。170の後半ぐらいで、顔の片側、確か左側が麻痺して引きつってる。26才で、渋谷のクラブによく出没するみたいよ。若いヤクの売人達の中では偉いほうらしいから、多分売人に聞けば教えてもらえるんじゃない?ナイフを持ってるはずだから、気をつけてね」
「ありがとう。私の用事は済んだ。何かそっちが聞きたいことはあるか」
「辻さん、銃を撃って、二人の刑事に撃ち殺されたんでしょ。その刑事の一人は、三木で、じぶんと、あの三浦って男も関わってるの?」
「そうだ」
「知らない方がいい気がしてきた。もうその話は聞いてまわらないようにするから」
「それがいい。危険と名のつくものに首を突っ込んで回るのは勧められない。それじゃあ」
私は電話を切った。
インプレッサのキーをポケットから出して、空中に放り投げて、キャッチした。
さぁ、仕事の時間だ。売人を掴みあげ、佐藤義彦を捕まえて、話を聞く。
スリを追いかけて捕まえるよりは、売人を締め上げる方が楽だ。
手首を振って、頭を振った。ナイフ、バット、包丁、拳銃、いったい誰を何人相手すればいいか、そんなことは知らない。
あのお嬢さんは問い詰めても口を割らないし、さりげなく混ぜても口を滑らせない。おまけに心理学も知っているかもしれない。そうなったらお手上げだ。だが、お嬢さんの恋人は犯罪者だ。なら、犯罪者達を締め上げれば、そんなことすぐにわかるはずだ。
渋谷まで車を飛ばそう。そうして私は電気を落とし、扉を閉め、階段を降りた。
長い時間をかけて、渋谷について、駐車場に車を止めた。
経費は依頼人持ちだ。多少高くなっても、あの老人は気にも止めないだろう。
歩いて、渋谷の裏路地を一つ一つ確かめる作業が始まる。売人は店の裏か、裏路地にいる。日本人だろうから、イラン人やアジア系の売人を捕まえても、意味が無い。
今日中に捕まるかどうかも期待していない。
まだクラブハウスは空いてないから、裏路地や、水煙草、合法ハーブの店に行けば、わかるかもしれない。
スマートフォンで地図アプリを出して、調べた。
この駐車場の近くにはシーシャ、アラブ式水煙草の店があった。ここなら、売人のことがわかるかもしれない。
歩いて行くと、その店はあった。表に大麻解禁推進運動の手作りのポスターが貼ってあって、大麻を解禁しろと描いてあった。
昼間だが、中では5人ほどの男が水煙草を吸っていた。
煙を水に通すために、背の高い金属の壺と、ホースのような物と、オーボエのような形をしたもので出来ていた。蒸気のような煙が店に一杯になっていた。
店主は、カウンターの上に腰掛けて、スマートフォンを触っていた。
「エクスタシーを買いたいんだ」と、私は小声で囁いた。
長い髭を生やして、やせこけた店主は何も言わなかった。甘いような匂いがした。店主が咳をした。目はうつろで、瞳孔が広がっていた。
匂いは煙草の煙では無く、店主から発されていた。大麻の常用者だ。
財布から引きずり出した金を二万くれてやると、店主は頷いた。
「あっちに、エクスタシーを売ってる奴がいるよ」
店主は水煙草を吸っている一人を小さく指し示した。
髭が生えている男だった。この男も痩せていて、青白かった。手は震えている。前歯が欠けて、頬が破れていて、奥歯が顔を出していた。クスリをしている最中に噛み締めすぎて、歯が折れて、頬を噛みきってしまったのだろう。薬物は脳の神経に影響を与え、破壊する。見た目では中毒患者は判別できることもあれば、出来ないこともある。出来るほどだと、ひどい常用者だ。
「ちょっと買いたい物があるんだが、いいか」と、私はつとめて柔らかく言った。
彼は私の顔を見つめたあと、「店を出よう」と囁いた。
私と彼は店を出て、向こうの裏路地まで行った。
「エクスタシー、10錠で4万円だ。買うか」
「実は買いたいわけじゃないんだ。人を探している。お前の同業者をな」
売人は眉をしかめて、顔色を変えた。顧客を見る温かな目から、敵を見る冷たい瞳に変わった。
「おい、佐藤義彦という売人を知っているか」
売人は、「なんだぁ、てめぇ」と言った。
「佐藤義彦という人を探しているんだが、知らないか」
「しらねぇよ。それ以上俺に付きまとうんだったら、こっちにもやういがあるぜ」
「教えて貰えるまで、何年でも付きまとうつもりだが」
売人は眉をしかめて、ズボンの裏に手をやろうとした。職務質問でも探られない場所の一つで、ナイフが入っているはずだ。私は売人を突き飛ばして、壁にぶつけた。売人の顔が真っ赤になって、右手でズボンの裏を探りはじめた。また突き飛ばして、壁にぶつけた。
「この野郎、馬鹿にしやがって」
また突き飛ばした。私は半笑いになっていた。
売人は震え始めて、ナイフを取り出した。ボタンを押すと、グリップから白く光る刃がぴしゃりと飛び出した。ちいさいナイフだった。
「それで、どうするんだ。そのおもちゃで」
売人が体を猫背にして、右手を前にして、フェンシングのように構えた。ちんぴらのナイフ使いは、ほとんどみんなこの姿勢を取る。
思い切り、顔に向かって突いてきた。左手で思い切り払って、横っ腹を靴の底で蹴りつけると、肝臓に入って、売人はナイフを落として、壁にぶつかって、あえいでいた。
「おもちゃを振り回すのをやめて、教えてもらおうか」
売人は姿勢を低くして、突っ込んできた。タックルのつもりらしい。膝で顔を蹴りつけると、売人はうつぶせに地面に倒れた。
落ちたナイフを踏み付けて、刃を折った。
売人は気絶している。気絶しないように手加減をしたつもりだったが、脳しんとうになってしまったらしい。
売人をひっくり返して、みぞおちに拳を入れた。
咳き込んで、目を覚ました。
「おはよう。それで、質問の続きをさせてもらう」
私は拳を振り上げた。
「わかったよ、教えるから殴るなよ」
「最初からそうしておけばよかったんだ。ナイフなんて出さずに。そこまで連れて行け。嘘を言ったり、ハメたりしたら承知しないからな」と、古風なアイルランド系ギャングのように言った。
「はぁ?お前命知らずなのかよ。仲間が何人もいるし、皆ヤバイ奴ばっかだぜ。ナイフや、バットや、メリケンを持ってる」
「そんなことぐらい、知っててここに来てる。さぁ、連れて行ってもらおうか」
売人を引きずり起こして、前を歩かせた。
「なんでったって俺が殴られなきゃいけねえんだ、なんの用だよ」
「顧客情報が欲しくてね。ドラッグを使ってる人間のうちの一人を探してる」
「だんで探してるんだ?おまえ、今何を話してた」
「人を探してるんだよ」
「られをだ?」
言語障害と、記憶障害。MDMAの常用者の特徴だった。
「売人がブツに手を出す。売ってる自分が一番危険性をわかってるだろう」
「いいんだよ、気持ちいいから。全身でヤってるみたいなんだ」
私は溜息をついた。
「佐藤義彦がいる場所に連れて行け」
「ああ、そうだった。お、忘れてたぜ」
男とずっと歩いていると、さびれた白い建物が見えた。目の前に三人の男がたむろしていた。
「あそこが佐藤の事務所だ。俺は帰る」
男は走って、どこかへ行った。
私はそこまで歩いて行って、男に声をかけた。
「佐藤義彦に用がある」
「はぁ、お前誰だよ」
「フィリップ・マーロウだよ」と、私は言った。
「おい、こいつ頭がおかしいぜ。アメリカ人には見えねえよ」と、男の一人が言った。
「やっちまおうぜ」
男は拳を作って、掌に当てた。
「来いよ」と、私は言った。
男が喧嘩キックを繰り出してきた。私はバックステップして、顎を撫でた。
「当たらんよ」と、私は言った。
もう一人の男が右で振りかぶってパンチを繰り出してきた。手を頭につけ、肘で弾いた。拳に肘が直撃し、男は手を押さえていた。
蹴りを打ってきた男を横ざまに蹴りつけて、吹っ飛ばした。
最後の一人が、警棒を取り出した。
警棒を振り下ろそうと、走ってきた。男の腕を掴んで、手首をひねった。警棒がアスファルトに落ちて、金属音が鳴った。男もうめいている。
そのままひねりあげて、建物の中まで引っ張っていった。
「ここが佐藤義彦の事務所で合っているよな?」
「そうだ、はなせよ」
「最初からイエスかノーと言えばよかったんだ」と、私は言った。
首の横に手刀を入れて、男を眠らせた。
二人が長いすに座っていて、こちらを見た。
「なんだよ、てめぇ」
「ピザの宅配に来たんだ」と、私は言った。
一人が走りかかって殴ってこようとした。手を外に払って、顔に肘を入れた。男は走ってきた勢いでそのまま倒れた。
もう一人には蹴りをくれてやった。その男はもだえて、腹を抱えてうずくまっている。
事務所の階段を上がっていった。
一人が階段を降りてきた。バットを持っていた。
階段の下で手招きした。男はジャンプして少し上の段に降りてきた。振りかぶった瞬間に、がに股になった股間に拳を振り上げた。人差し指の第一関節の横の辺りを当てた。男は股間を押さえて、下に転がっていった。
この振り上げのことを知り合いの海兵隊員は、SASから教わったと言っていた。クロッチストライクと言っていたか?空手とキックボクシングと、基本的な海兵隊格闘を、一応やった。殺しや酷い後遺症が残る技は使わないようにしている。もし使ったら、一発で人を殺してしまう。人殺しをするために、歩いているわけではない。
上がって、事務所の階へ行った。
一本の廊下に部屋がぶどうのように付着している形の事務所だ。
まずは手前の部屋を開けた。
バット、ナイフ、メリケンサック、チェーン。凶器の博覧会だ。チェーンはこの室内では使いにくそうだ。適当に手に取ったに違いない。
バットを持った男が走りながら、バットを振り下ろそうとしてきた。ステップして、横ざまに靴で顎を蹴飛ばした。男はひっくり返った。
少し移動して、包囲から逃れた。
メリケンサックを嵌めた拳が飛んでくる。頭を沈めて、避ける。右の掌で顎をかちあげて、そのまま顎を押して、ひっくり返して投げた。ナイフを持った男が、男に引っかかって、転んだ。ナイフを持った手を踏みつけて、指を折った。うめき声。
チェーンが上から飛んできた。横へステップした。ナイフを持った男が、後頭部をチェーンで叩かれた。後頭部から血が流れ、ナイフの男は動かなくなった。
チェーンはすぐに男の手元に引き戻され、唸っていた。また、蛇のようにうねって飛んできた。前へステップし、腕に絡みつけた。
思い切り腕をひいた。男がチェーンを持ったまま、ひきつけられた。腹へ蹴り。
4人は動かなくなった。チェーンを捨てた。
私はそのまま歩いて行って、次の部屋へ向かった。
ドアを蹴飛ばして開けた。何かが煌めいた。体を半身にする。包丁の切っ先が、顔の近くをすぎさった。次の包丁を男が投げようとした。
壁に隠れ、ポケットからライターを取り出す。
開口部へと身を出した。また飛んで来た。身を翻して避け、ライターを男の顔面に投げつけた。
男は唸っている。
私は走って、蹴り飛ばした。男は壁に背中を打ちつけた。
「動くなよ」と他の男が言った。
両手を挙げてゆっくり振り返ると、両手にはしっかりとトカレフ拳銃が握られていた。男は近づいてきて、私の顔の近くに突きつけた。
体を右に捻りながら、左手で拳銃を払った。銃声。弾が後ろの壁に当たった音がした。
そのままつかみ、まだ体を捻りながら引っ張った。男が踏ん張った。自分の体を元に戻しながら、手首を返し、リストロックで投げた。仰向けになった男の腹を踏み付けた。内臓破裂はしない程度に。
「たかが拳銃一つで、私を黙らせられると思ったら、大間違いだ」と、私は言った。
グリップには黒い星。中国製の黒星と呼ばれるタイプのトカレフだ。毛沢東や周恩来や鄧小平の頃の中国軍のお下がりで、それをやくざが手に入れたものの、さらにお下がりだろう。これで誰かと撃ち合うのは、勘弁願いたい物だ。
弾倉を抜いて、残弾を見る。四発入っていた。スライドを引いて、薬室の弾を抜き、弾倉を差し込んだ。トカレフは安全装置が無く、暴発しやすい。
ライフリングが存在してないことに気付いて、眉をしかめた。
ポケットに入れて、また歩き始めた。撃つつもりはないが、脅しにはなる。ライフリングがあろうことか損耗していたのか、ないのかという状態で、ガンオイルなどでメンテナンスもされていないであろうこの銃だと、狙って当たるかも怪しいが。投げた方がマシかもしれない。
廊下で、ボウガンを構えた男がいた。
「撃ち殺してやる」
空いた部屋に飛び込んだ。矢が廊下を横切った。飛び出して、ポケットに手を突っ込んだ。右手で引き抜きながら、左手でスライドを引いて、両手で構えた。
「ボウガンを捨てろ」
「くそっ」と言って男はボウガンを捨てた。
ボウガンにトカレフを撃ち込んだ。一発は外れて、二発目でなんとか当たって、ボウガンは砕けた。使い物にならない拳銃だった。アメリカでは海兵隊員と同じぐらいの腕になるまで撃ったが、これは使い物にならない。
マガジンを落とした。スライドを引いて、空にした。
男の顔にトカレフを投げつけた。男は鼻が折れて、横たわってうめいた。
そのまま廊下を歩いて、声がする部屋へ入った。
椅子に座った男が三人いて、一人は顔の半分が引きつっていた。こいつが佐藤だ。もう一人は小柄でやせぎす、鼻が潰れていて、手を振るわせている男だった。もう一人は、90キロはある太った男だった。しかし二人とも筋肉はしっかりとあった。ウィスキーの瓶とビール缶が茶色の机の上に残されていた。煙草の灰が、机を汚している。
デスクトップがあって、そこに沢山の数字が記されていた。売り上げだろう。人の名前や、薬物の名前は、壁にメモで貼ってあった。MDMAと大麻と、その他の化学系のドラッグだ。
小柄な男の目に火が灯った。
小柄な男が立ち上がって、ボクシングのように構えて、猫背になった。160センチぐらいだろう。ステップを踏んでいる。パンチドランカーで廃人になりかけたボクサーか?構えから見ると、左ききらしい。
ボクサーが右でジャブを三回打ってきた。顔、胸、顔。腕で弾いた。左ストレート、肘で弾いた。そのまま体を沈めながら前へステップしてきて、またジャブが二回、拳が消えた。右フックだ。顎に食らった。しかし、軽すぎる。左アッパー、顔をそらして避ける。組み付いて、膝を打った。ボクサーがうめいた。二回目、ボクサーが限界に近づいた。
金属がきしむ音が聞こえた。横から太った男が突っ込んできた。ボクサーをぶつけた。ボクサーは太った男に弾き飛ばされた。タックルだと思った。違う、頭突きだ。腹に頭突きを食らって、壁にぶつけられた。吐きそうだ。
肘を後頭部に落とした。一回、二回、太った男は頭を上げ、私の両手首を掴んだ。男は頭突きを胸にぶつけてきた。私は膝をぶつけて、思い切り足の甲を踏んだ。男が離れた。男の顎に肘を打ち込んだ。
男はどさりと倒れた。ボクサーがふらふらと立ち上がった。腹を蹴飛ばして、倒した。これ以上脳にダメージを食らわないように気を使ってやった。
「それで、聞きたいことがある」
佐藤は、「なんだよ、てめぇは。いきなり来たと思ったら全員のしやがって、いかれてるぜ」と言った。目が見開かれて、血走っていた。
「エル・パソで女を襲おうとしたちんぴら三人とスリがナイフで乱闘した話は知っているだろうな。お前がドラッグを売ったチンピラだ。一年か、二年前だ」
「しらねえよ。そんなこと、ざらにある。誰に売ってるかも、わからんよ」
私は佐藤を掴み上げた。
「顧客情報を知らない商売人がいるものか。言えよ。言わないと、指を折るぞ」
私は佐藤の小指を掴んだ。佐藤は表情を変えなかった。顔の左半分は、顔面痙攣でひきつったままだ。
「お前、エルパソで最近乱闘しただろう。加藤といやぁ、喧嘩が滅茶苦茶強くて有名だ。そいつを殴り倒した奴なんて、お前以外に思いつかない。こいつらは結構有名なボクサーと、ラガーマンだったんだぞ。ボクサーだって、昔はバンタム級の世界ランカーだった」
「私の事はどうでもいいんだ。それよりも大事なのは、顧客情報だ」
「そのちんぴらか、塩田と言ったはずだ。新宿にいるはずだ」
佐藤が腰のズボンの裏に右手をやって、瞬時に何かを取り出して、私に向けようとした。拳銃。左手で拳銃を叩き、弾き飛ばした。拳銃が彼方へ飛んで行った。マカロフだった。
佐藤は目と口を開いて、動きが止まった。
佐藤を掴み上げて、壁に叩き付けて、少し離れた。
「嘘だろ」と、佐藤は呟いた。
「本当だ。私はマジシャンなのさ。その情報は本当だろうな?本当じゃなかったら、素手でお前を殺す」と、ギャング用の口調で言った。
佐藤は「いいマジックだったぜ」と、言った。
「お前は殺しをしないのは知っている。裏社会じゃ、お前の名前はそれなりに知られている。何人でかかろうが、銃を持ち出そうが返り討ちにする一匹狼の、凄腕のアホってな」
私は笑った。
「私は確かに言われるように、銃器や武器相手に素手で立ち向かう男だ。ちんぴらややくざに喧嘩を売って回って、殺されるのを待ちのぞんでいるようなことばかりする男だ。それがどうした。そんなこと、お前には関係ない」
「超弩級のアホだな。救いようがない。やくざやちんぴら、外人マフィアや警察にまで目をつけられてもまだそんなことばかりするのか。いかれてるぜ」
佐藤は笑い出した。私も笑った。
「情報は本当だ。詳しい住所もくれてやる」
倒れていたボクサーが、拳銃に飛びつこうとした。私はボクサーの手を踏んだ。
私は拳銃を拾って、鮮やかな速度で分解した。
「お前の部下が持ってたトカレフは、ライフリングが無かった。このマカロフだって、ガンオイルすら塗ってない。やる気があるのか?」
「飾りだよ。撃っただけで10年食らうんだ。そんなん向けて撃って誰かが傷ついたら、クソみたいなことになる」
ボクサーをそのまま踏みにじっていた。私だって、気が立つ時ぐらいあるのだ。特に葬式のすぐなどは。
「薬を売って人を廃人にして、気楽な商売だな」と、私は言った。
「この世の全てのな、ことには中毒性があるんだよ。全部ドラッグみたいなもんだ。ケーキを食べ過ぎて死ぬ人間、戦争のスリルを楽しんで参加して戦死する傭兵、ゲームをやり過ぎてそのまま死ぬ人間、ジョギングをしすぎて死ぬ人間、パーティを開きすぎて借金で死ぬ人間、ギャンブルで死ぬ人間、スポーツで死ぬ人間。皆中毒者だ。全部ドラッグみたいなもんだ。この世の人間は全員なんかのジャンキーで、死ぬ奴は運が悪かっただけなんだよ。俺がこんな顔になったのは、車でスピードを出しすぎたからだ。昔はレーサーになろうと思って、国際ライセンスのCまでは取った。もうちょっとでル・マンの24時間に出れたんだが、事故っちまった。事故ってからは、ずっと顔面が痙攣する。お前も、こんなとこに飛び込んでくるなんて、相当なジャンキーだ。普通は近寄りもしねえぜ」
佐藤は紙に住所を書いて、メモをよこした。私は受け取った。
「そいつを離してやってくれ。俺のダチなんだ。早く帰れよ。サツが来たときのための始末をしなきゃならねえ。お前も10年ムショ入りは食らいたくないだろう」と、悪人は、動く方の顔を動かして、にやりとした。
私は足を離してやって、建物を後にした。男達のうめき声が聞こえて、野戦病院みたいだった。
メモ一つのために十数人をノックアウトした。なぜだ?
なぜたかが一人の住所、しかも娘の恋人の喧嘩相手を知るためだけに十数人をたたきのめさなければならなかったんだ。もっとスマートな手があっただろう。
多分、私はこれを楽しんでいるんだと、思った。
確かに廃人かもしれないなと、私は自嘲した。
これで、依頼人の娘の恋人の喧嘩相手の情報が手に入った。
まだまだ先は長そうだ。
私は溜息をついた。危険手当ぐらいはもらってもいいだろう。
缶コーヒーを買って、飲んだ。
あとでゲームセンターにでも寄って、少し遊んでから帰ろう。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます