第7話
扉を開けると、三木が立っていた。
あたりは真っ暗になっていて、街灯の光と、家々から漏れ出る光だけが全ての明かりだった。
「俺がどうしてこっちに飛ばされたか教えてやる」
右手はポケットに突っ込まれている。拳銃を握っているのだろう。
「結構だ」
「いいから聞けよ、俺はな、出世コースから外れたんだ。だが、この地区は新宿署と深い関係にある。だから、俺はここで新宿署と仲のいいクソッタレのために働けば、また元に戻れるんだよ。だからお前は、おとなしくしてろよ。警官や、刑事や、やくざを殴り飛ばすんじゃないぞ。俺の仕事が増える」と、三木は言って、BARへ向かって歩こうとした。
木村が隠し持っていたスラッパーで三木の太腿をとおりざまに殴りつけた。
三木は打たれた太腿を両手で抱えあげて、「ふざけんなよ、このクソガキ」と叫んだ。
木村は三木のもう片方の足の、膝の裏を踏みつけてうつぶせに転ばせた。
「いい気味よ。女だからって油断してると、痛い目見るんだから」
三木が木村の足首を掴んだ。木村は三木の手を踏みつけた。木村はしゃがみ込んで、三木の小指と薬指を持った。
「動いたら、指を折るわよ。医学部だから、人体には詳しくて。どこが痛いかも知ってる」
「もし折ってみろ。お前は俺にしこたま殴られた後、ムショ送りだぞ。頭を丸刈りにして、レズに犯されるぜ」
「女の子に叩かれて地面に倒れ、指を折られる新宿の刑事。お前、いったいどうしたんだと同僚に聞かれ20の女の子にノックアウトされましたなあんて返すのかしら。東京中の笑いものになるわよ」
三木が舌打ちをした。
木村は、三木の親指と人差し指のあいだに親指を押し込んだ。三木が唸った。
「今、橈骨神経を直接刺激してるの。痛い?」
さらに強く食い込ませた。
三木のうなり声が大きくなった。木村の唇の端がつり上がった。木村は手を離して、耳の下に親指を食い込ませた。三木はさらに大きな声で唸り、ほとんど叫び声に近かった。
「どう?医学は?ふふふ、あはははははは」
木村の頬が紅潮して、目が潤んで、唇が上がったままだった。どうやらこのお嬢さんは特殊な性癖をお持ちらしい。ちんぴら君も大変だろう。
「ねぇ、もういいでしょ。やめてあげなよ」と、浅井が言った。
「ユミを三度も叩いたのよ?これで許されるわけないじゃない」
「いいって、もうやめてあげてよ。探偵さんに殴られてるじゃん」
「ユミに感謝しなさいよ。おっさん」
木村は指を離して、軽やかにバックステップして距離を取った。
三木は立ち上がって、首を押さえて、睨みつけた。
「この女を二度とこの町で一人で歩かせるなよ。次同じことをやったら、膝で頭をかち割ってやる」
この男は確かに粗暴だが、一線は越えていない。はずみならともかく、人を狙って殺すことは、ないだろう。もしこれを三浦や菊知にやっていたら、木村は死んでいたに違いない。
「くそっ。カジノで10万負けた上に、女にも不意打ちで殴られるなんてツイてないぜ」と、三木が言った。
「カジノ?違法じゃないのか。それこそお前達の稼ぎ所だろう」
「この街にないのは油田ぐらいなもんだ。しかも、警察も手を出せない奴でな」と、三木は不愉快そうに眉をゆがめた。
「だから行って、スってきたのか」
「気分がスレてたからな。余計にスレただけなんだが、ツイてねえことにな」
「私よりはよっぽどツイてるはずだがな」と、私は返した。
三木の顔から表情が消えて、冷たい顔になったかと思うと、ほんの少しの人間らしさを覗かせる顔つきになった。悲しそうな顔だった。
「俺は、タイヤを撃ったつもりだった。しかし、タイヤを撃っても、あのトラックにぶつかって、あいつは死んでただろう。俺と菊知、どっちの弾があいつに当たったのかは、わからん。俺は、撃たなきゃよかったのか?俺だって、まだ人間だ。化け物じゃねえ」
三木は背中を向けて、BARに入っていった。
普通の人間は、殺しに耐えきれない。軍人ですら、沢山の人間がPTSDにかかって、悩み、苦しみ、自殺したりする。
「自分で考えろよ。アラブ人だって、そう言ったぜ」
私達は駐車場へと歩き出した。味気ないコンクリートの壁がそびえ立っていた。
車に乗って、走り出した。
青みがかった黄色の三日月が出ていた。
スピードを出した。景色が流れていって、だんだんと、ビルが多くなってきた。輝く夜がやってきたのだ。
バックミラーを見た。木村は一言も喋らず、外を見ていた。浅井はスマートフォンを触っている。
どこかで事故が起こっていて、車が横転していた。救急車と警察の車が周りを囲み、死んだか、意識を失った人間を引きずり出していた。他に変わったことはなく、街はいつもの顔をしていた。
いつもどこかでかけがえのない何かが失われている。いつか全てが意味を失う時がやってくる。
いつか太陽すら失われて、暗闇が全てを包む。全ての生命は凍りつき、息を止めるのだ。
人間同士でそれをやっていれば、世話の無い話だ。
世界貿易センタービルが見えてきた。近くの駐車場に止めた。
「ここの上は景色がいい」と、私は言った。
「景色だけじゃ生きていけないわ」
「ふぅん、そっか」
アスファルトの水たまりに、青いネオンが反射していた。
私達はビルに入って、エレベーターを登り、チケットを買って、中に入った。
一番いい場所の席は空いていた。
ビル達が放った青白い光と、黄色い光で、地上が光っていた。ビルの輪郭は暗闇に沈んでいる。空には三日月が光っていた。そして、赤い光を放つタワーが見えていた。鉄骨で組み上げられた骨組みが、硝子の向こうに見えた。
板だけでできた白い椅子が三つ、窓の前に設置されている。
私は壁の柱にもたれかかって、煙草に火を点した。
暫く吸っていると、二人は椅子に座った。
「わぁ、綺麗」と、浅井は呟いた。スマートフォンで、写真を撮り始めた。
「この街も、そんなに、悪くはないわね」
「ここは綺麗だ」と、私は言った。ここだけは、誰も口を挟まない。街が最も美しい横顔を覗かせる場所の一つだ。
最も醜い顔を見せる場所なら、もう何度も見てきた。
浅井が咳をした。私は煙草の火を消した。
「それで、佳奈ちゃんの彼氏はなんでそんなにおじさんに嫌われてるんだっけ」と、浅井が木村に質問をした。
私は景色を見ていた。耳だけはそちらに傾けていた。窓硝子に、二人の顔が反射して映っていた。
「彼氏、彼女なんて言葉、あんまり好きじゃないのよ。ちょっと現実的すぎるし、ドライすぎてね。恋人って言葉の方が好きなのよ。少しは幻想的じゃない?」と、木村は言った。
一息置いて、「現実は、真正面から目を見開いて見据えるには、少し辛すぎるのよ」と呟いた。
「そんなに現実が嫌いなの?」
「空想の中で生きてきた私には、現実でどれだけ成功しようと、努力しようと、欠けたグラスみたいで、希望がそこから流れ落ちてくの」と、木村が頬杖をついていた。
「私の恋人はね、確かに普通じゃないわ。いつもナイフを持ち歩いてるし、手の甲には傷があるし、高校は中退してるし、職にも就いてないし、スリなんてしてるし、喧嘩もしてるし」
「それひどくない?」
「でもね、綺麗な心を持ってるのよ。彼ね、両親が小さい頃に死んじゃってるのよ。親戚もいなくて、児童養護施設に引き取られて、そこで育った。高校に進学したけど、バイトとの両立は厳しくて、高二の時に、中退した」
浅井は何も言わず、黙って聞いていた。
「私が、サークルでクラブハウスに行ったときに、皆とはぐれて、不良達が絡んできたの。そいつらのうちの一人はドラッグでハイになってた。飛び出し式の小さいナイフを持ってたわ。ボタンを押すと、刃が出てくる奴。スラッパーもその時は持ってなかったし、三人もいた。そこに彼が来て、私を連れ出してくれた」
木村は息を吸い込んで、吐いた。
「でも、三人が追いかけてきて、ナイフで彼と三人が戦うはめになったの、全員血だらけになった。彼の手の甲の傷はその時の痕よ。その痕を見るたび、私は彼を愛おしく感じてしまう。手の甲への口づけは、敬愛の証よ。敬って、愛する。なんて素晴らしいことなのかと思ってしまう。優しさを、社会性だなんて、割り切って言ってしまうけど、否定したくなる自分もいる。自分の考えを曲げてしまうほど、好きなのよ」
木村はそれきり黙って、自分の手の甲を眺めていた。
「そうだけど、そこまで惹かれる人なの?」
「大学の、大病院の娘だからって、自分のとこの病院とうちを統合してより利益を得ようとして、私に近寄ってくる男よりはよっぽど惹かれるわね」
「でも、スリなんて、犯罪者じゃん。大丈夫とは思えないけど」
「愛は法を越えるのよ。法律って言うのはね、獣のルールなのよ。法律だけでこの世の全てを見る人がいるけど、もっと大きな視点で見て欲しいわね」
木村の顔が掌から浮いて、浅井を見つめていた。頬杖は頬杖としての意味をなくしていた。浅井は開いた両手の指の腹を合わせて、押したり引いたりしていた。
「でも、悪い人じゃん」
「善悪なんて、些細な違いよ。コインの表裏だし、はっきり言って、お金を稼ぐだけで、誰かが損をしているわ。食べ物を食べれば、なにかの命を奪ってるの。そのことに目を向けていないだけよ。彼はゲーテの詩も引用できるし、記念日と私の誕生日にはカトレアをくれるわ。カトレアの花言葉は、魅惑的とか、高貴とか、貴方は美しいって言葉よ。優しいし、素敵な人」
木村が眉をしかめて、机を爪で叩いた。
浅井は頷いて、「ふぅん」と言った。そして、優しい笑顔になった。
「そこまで思われてるなんて、彼氏さんは幸せだね」
「幸せに出来てるなら、いいんだけど」と、木村は水平線のような明かりを見つめた。
「きっと幸せだよ。なんだか、妬けちゃうな」と、浅井は言った。
私はずっと、黙って聞いていた。喉が渇いてきて、水が欲しくなった。
自分の飲み物を買おうとして、立ち去った。二人でゆっくりさせてやろう。
私はコーヒーを飲みながら、景色を見ていた。
美しい景色だった。水平線のようなビルの群れの上に、三日月が浮いていて、雲が少しかかっていた。
ほんの少しの星が、暗い空にあった。
レクイエムにはぴったりの夜だった。
私は煙草を吸い始めた。煙が浮かんでいって、三日月にかかった。
そうしてだいぶたったあと、二人のいる場所へ戻った。
二人は少し、落ち着いて、景色の素晴らしさについて話していた。
電話が鳴った。
木村の電話だった。きっと父親からの電話だったに違いない。
木村は額に指をやって、しかめっつらになった。
「はい、はい。今が何時でもいいでしょう。ちゃんと探偵とユミと一緒にいるわよ。安心して。いちいちうるさいのよ、ほんとにもう。いい加減にして欲しいわ。今恋人とは一緒にいないわよ。うるさいわね、帰るわよ、もう」
木村は大きな溜息をついた。
「アメリカとロシアの核戦争に巻き込まれて死にたいわ。私が死ぬときに世界が終わればいいのよ」
木村は席を立った。浅井もそれに釣られた。
「帰るわ。家まで連れてって」
「そうだな。もういい頃合いだ」と、私は言った。
三人で、展望台を降りて、駐車場に向かった。
駐車場から、時間を掛けて木村の家まで戻った。
木村の父親は私を怒鳴りつけた。私は黙って聞いていた。
浅井は、木村の家に泊まるらしい。もし、怒られていたら、庇うためだと言っていた。そして、明日が土曜日で、部活を休むらしい。
明日が土曜日だと言うことをすっかり忘れていた。この職業では時間感覚がなくなる。
私は車を飛ばして、帰路へとついた。
渋滞に巻き込まれて、私は頭をかいた。
その不良と、木村はロミオとジュリエットみたいだ。ああロミオ、あなたはどうしてロミオなの。ああジュリエット、君はどうしてジュリエットなんだい?と、二人で言い合っているのだろうか。
現実が嫌いで、ロマンティックな箱入り娘のお嬢様と、厳しい環境に置かれた不良。
最後に、その物語の結末と同じように、二人で一緒に死ぬなんてことにならなければいいが。
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