第6話
シャンソンの駐車場に、蒼いインプレッサを止めた。
「ここが、私の行きつけだったBARだ」
私は車に鍵を掛けて、降りた。日が沈み、7時になっていた。辺りは暗くなって、静まり返っていた。声にならない叫びが聞こえるような気がするほど、静かだった。
「今はいってないの?」と、浅井が言った。
「少し用事があって、数週間行けてないんだ」
「数週間で、だった、っておかしくない?」
「永遠の数週間だったのさ」
まるで永遠だった。銃声、雷雨、暴風、鉄塊の衝突。
アメリカ政府のお抱えにされるほど鍛え上げられた殺し屋が趣味で私を付け狙い、警察バッジを振りかざす、サイコな悪徳刑事を相手にした。それでまだ生きているんだから、奇蹟みたいな物だ。しかし、失った代償は大きすぎた。
「何言ってるかわからないよ。どうしてこんな変なしゃべり方するの、皆?」
浅井は首をかしげて、私を見上げた。
「文学に嵌まりすぎた人間は皆こういうしゃべり方をするのさ」
「へんなの」
私は、ウォルナットの扉を開けた。筆記体で書かれたネオンサインが赤く妖しく光っていた。鈴の音が鳴った。
ステージに捧げられた花束が目に入った。私はそれから目を離し、バーテンの服を着て、シェーカーを振っている女を見た。
短い黒髪で、160センチほどの身長の女。顔にはあどけなさが残っている。エルパソにいて、みずなに連れてこられた酒井だった。カウンターの後ろには、色とりどりの硝子瓶が並んでいる。
「また会うことになるとは思わなかったよ」と、私は言った。
「うちもそんなことは思ってなかったね。何を飲む?」
「車に乗ってるし、仕事中だ」と私はカウンターに座りながら言った。
二人は同じようにカウンターに座った。
「ギムレット。ジンとライムジュースは一対一、ステアで」と、木村が人指し指を立てた。
「趣味で輸入したローズのライムがあるけど、それを使いましょうか?」と、酒井が言った。
「それで頼むわ。早すぎるなんて事は無い、いつも遅すぎるのよ」
「本当のギムレットか、渋いね」と、私は言った。
「ローズの瓶が見えたからよ」と、木村は呟いた。
酒井が、カウンターの後ろの瓶を二つ取って、カウンターに置いた。そして銀のバースプーンを空中に回転させながら、放り投げて、キャッチして、ミキシンググラスに置いた。グラスに氷を入れて、水を注ぎ、バースプーンでかき回し、水を捨てた。
瓶の二つの栓や蓋を開けて、両手で持って、同時に透明なグラスに注いだ。そして、かき混ぜていた。フラメンコを踊るダンサーのように情熱的で鮮やかな手つきだった。
「じゃあ、私は、紅茶で」と、浅井が言った。
酒井は黙って頷いて、ミキシンググラスに入ったものを、カクテルグラスに注いだ。半透明の淡いグリーンに、グラスが染められた。
酒井は瓶を持って振り返って、棚に戻した。そして水色の四角の缶、フォートナムメイソンから茶葉を取り出して、ティーポットに入れて、お湯を入れていた。そして、苺ジャムの瓶と、マグカップを取り出して置いていた。出来るのはもう少し後だろう。
「うちには気になってることがある。辻さんのこと」と、酒井が身を乗り出してこちらを見た。
「みずなさんは教えてくれなかった。何があったの」
「ここで言うべき話じゃない。いつか教えるから、待っててくれ」
私は首を横に振った。
木村はギムレットを一口飲んで、浅井はスマートフォンをいじり始めた。
「身の丈話をさせておいて、それは都合がよすぎるんじゃないかしら」と、木村は言った。
「辻はここの歌手だった。天才だったよ。美しい声だった。数週間前に、刑事に撃ち殺された。それだけだ」
それだけではないが、公に伝わっている事実は”それだけ”だ。
木村はギムレットをもう一口飲んだ。酒井は眉を動かして、口を開いた。
「それってニュースで話題になってたあの辻ってひとが、ここの辻さんだったの?」
「そうだ。彼女は死んだんだ。もうこの話は終わりにしたい」
私は手をカウンターに置いた。大きな音が出て、三人の体がかすかに動いた。
「酒はまるで涙のよう。その場しのぎは出来るけど、終わったあとはもっと辛くなるだけよ。でも、私にはどちらもやめられない」と、木村が呟いた。
呟き終わる頃には、カクテルからギムレットはなくなっていた。
酒井が、ライムジュースの瓶をもう一度取り出し、赤いシロップの瓶と、透明なシロップの瓶と、炭酸水の瓶を取り出した。
二つのグラスに氷を入れた。
ライムとシロップ二つを計量して、シェーカーに注いだ。それを両の掌に包んで、シェイクし始めた。シェイクし終わった後に、グラスに入れ、炭酸水を注いだ。グラスには赤い液体が注がれていた。気泡がグラスの中についていて、グラスの外は水滴で覆われていた。
「サマー・デライトよ。ノンアルコールだから、二人とも飲んでみて」
夏の喜び、皮肉な物だ。私はそれを頂いて、飲み干した。喉が悲鳴を上げるほど、冷たいカクテルだった。
「そろそろね」と、酒井が言った。
酒井はティーポットから、コップに紅茶を注いだ。そして苺ジャムの瓶から、スプーンでジャムを取り出して、コップの縁にジャムをつけた。白い湯気が、ゆっくりと立ち上っていった。
「紅茶。ジャムをつけて、ロシアンティーにしたわ。舐めながらでも、それを中に入れてかき回してもいいわ。熱いから、気をつけて」
浅井は先に、サマー・デライトを飲んでいた。喉を片手で軽く押さえていた。
「これ、美味しいですね。甘くて、爽やか」
浅井はグラスを両手で抱えて、目を輝かせていた。
「だから夏の喜び、よ。まるで夏の砂浜みたいでしょう」と、酒井はウィンクをした。
「じゃあ、私は午後の死を頂こうかしら」
木村は右目を瞑って、首を傾け、右手で頬杖をついている。グラスを左手でつまみ上げた。まるで当てこすりみたいだ。
また酒瓶を二つ取り出して、酒井はそれを作っていた。浅井はカクテルを飲み干し、紅茶に息を吹きかけて冷ましていた。
とたんに、木が破けるような、大きな音がした。
扉の方を見ると、眼鏡をかけた大男がいた。スーツを着て、切れ長の細い目を持っている。
刑事だ。三木だった。手には何も持っていない。
「俺はこっちの方に飛ばされた。わかるか、出世コースがてめぇのせいで終わっちまったんだぜ?菊知はちゃっかり残りやがったがな。お前を今すぐ拳銃で殺してやりてぇよ」
三人がびくりとした。木村はズボンの中からスラッパーを取りだして、右手に隠し持っていた。重りとバネと持ち手が黒い革に包まれた、打撃武器だ。大男すら一撃で昏倒させかねない。
私は右手で木村を制した。
「あ?そのガキ、スラッパーなんてたいそうな物持ちやがって。殴りかかってきてみろ。そんなの、捌いてやるよ。軽犯罪法違反でパクってもいい。しかも、カクテルも未成年がのんでやがる。未成年飲酒禁止法と酒税法でこの店を潰してやってもいいんだぜ」
どすのきいた低くタフな声。言うとおりに、なんなく捌いてみせるだろう。この男が新宿で沢山のちんぴらややくざを殴り倒してきただろうことは、最初見たときにわかった。しかし、スラッパーはこの角度からは見えなかったはずだ。目の利く奴だ。
「このカクテルはノンアルコールよ」
「そんなもん、いくらでも変えられる。俺は刑事だ」と、三木はうなった。
足音を立てながら、こちらに歩いてきた。私は立ち上がった。
「俺にも一杯酒をくれ。ボトルをキープしとけ。それで見逃してやる。テキーラか、ラムか、ジンのボトルそのままだ」
三木は顎をしゃくった。
酒井は、青いジンのボトルを、眉を下げながら投げた。三木は片手で掴んで、栓を開けた。
「かわいい嬢ちゃん達じゃねえか。また新しい女を連れてきたのか。是非ヤらせていただきたいもんだ」
三木は隣に座っている浅井の顎に、手を掛けた。浅井の顎を掌で持ち上げて品定めするように見ていた。浅井の瞳が、濡れたきらめきを見せていた。
「あ、あの」
三木は手の甲で浅井の頬を軽く打った。二度目はより強く打った。いたい、と浅井が叫んだ。木村が立ち上がろうとした。
三木は目をぎらつかせ、口を釣り上げた。手を握り締めてから、開いた。
ジンを、三木がらっぱ飲みして、ボトルをカウンターに叩き付けた。
「俺が二番目に腹が立ってるのは、ちんぴら崩れみたいなお前が、そんな充実した生活を送っていることだ。ちんぴらに本を読ませただけのお前が、そんな女に囲まれてるってことがな。三番目は、俺のようにちんぴらと殴り合わなきゃならん刑事がお前のようなちんぴらに負けたことが気に入らん。俺はポン刀やドスを持ってるやくざだって素手で殴り倒したんだぞ。なのにてめぇみたいな素手のチンピラに負けた。殴らせろよ」と、三木が言った。
「お前が表に出るまで、この女をはたき続ける」、三木が浅井の頬をより強く打った。空気が弾ける。切り裂くような悲鳴。浅井は殆ど泣いていた。木村が立ち上がって、三木に向かってスラッパーを振り下ろそうとした。
三木が木村の腹を蹴り飛ばした。木村は吹っ飛ばされたが、すぐに立ち上がって、三木を睨み付けていた。
「いいだろう」と、私は言った。
三木は脇の下から小さい、銀色の拳銃を取り出した。SIG・P230自動拳銃の32口径モデルだ。そしてそれから、マガジンを抜いた。スライドを引いて、私に向かって薬室がカラだということを見せつけて、ポケットにしまった。特殊警棒もカウンターの上に叩き付けた。眼鏡を外して、カウンターに置いた。
「ステゴロだ。武器は無しだ」
「武器を使わずに、私に勝てるのか」
「言ってろ、クソッタレ」
三木の顔つきが、獣のようになっていた。
私と三木はBARの扉を開けて、道へ繰り出した。冷たい空気を感じた。もう、気温も低くなってきている。
三木が構えた。私も構えた。
三木が踏み込んで左でジャブを打ってきた。しゃがんで避けた。またジャブが飛んで来た。左手で払った。三木の右の張り手が横から飛んできた。左手で受けたが、指先が私の左目にラッキーヒットした。左目から涙が溢れ、視界が遮られる。右膝が飛んで来た。左肘で打ち落とす。
三木が私の手首と胸ぐらを掴んできた。体が引っ張り上げられ、頭突きが飛んで来た。まともに食らった。二回目が飛んで来た。こちらもかち合わせた。右手で三木の腹にボディブローを食らわせた。三木が私の足を踏みつけた。三回目の頭突き。ボディブロー。三木が腕をはなした。私は両手で三木の頭を掴んで、顔に右膝を入れた。三木は肘で、顔を守っている。五回目を打ち込んだあと、三木は私の右膝を抱え込んだ。私の左膝の裏のあたりへ思い切り、鉄槌を何度も入れてきた。膝が壊れそうだ。そして、前へ引っ張ってきた。私が踏ん張った瞬間、後ろへ押してきた。やられた。私と三木は倒れ込んだ。
三木の頭がまだ足の辺りに残っていた。三木の右腕を引っ張り、両足で首と脇の下を締め上げた。三角締めだ。三木は立ち上がって、私の体を持ち上げた。そして、アスファルトへ叩き付けた。息が吹き飛ぶ。二回目で、私は足を離した。
三木が股間を踏み付けようとしてきた。転がって、避ける。そのままみぞおちへ、蹴りをくれてやった。すると、三木が私の足首を掴んだ。捻って折ろうとしてきている。もう一方の足で股間を蹴った。
三木は腕を放した。私は立ち上がった。そして、側頭部に蹴りを入れてやった。三木は倒れ込む。失神しているから、壁の横まで引きずっていって、そのまま置いた。
私は道を戻って、また扉を開けた。指先を食らった、瞼をこすった。
「あいつは道でうたた寝をしているよ」と、私は言った。
木村が浅井の頬を撫でていた。撫でていたと言うより、頬に手のひらを置いていたようだった。
酒井は特殊警棒を伸ばしたり縮めたりしていた。
「頬は大丈夫か?」
「うん。もう平気」と、浅井は言って、両手でマグカップを持って、紅茶を飲んでいた。紅茶だけが温かかった。
「あんまり誰に彼にも殴りかかるもんじゃないぜ。誰もが黙って殴られてくれるというわけじゃない」と、私は木村の肩に手を置いて、すぐ離した。
「みんな、いかれてるわ。どうしてこんないかれた奴しかいないの。しかも、あいつ常連になる気まんまんじゃん」と、酒井が片目を細めて呟いた。
たぶん酒井は、あのダンスクラブでの騒動を知っている。
「獣に羽根を生やして、知恵とプロメテウスの火を手に入れたのが、人間と言うんでしょ。まるで自分達だけは別の種族かというような顔つきで、お高くとまって暮らしているのよ」
ゆっくりと話した。全てを諦めたような、自嘲するような口調だった。
私は黙っていた。私が会ったのは、獣のような男達が多かった。
反論を挟もうとも思わなかった。
「もっと人間とかってさ、優しいものだと思う。悪い人たちだって、きっと、昔は、子どもの頃は優しかったと思うよ。まわりが上手く、愛してあげられなかったんだと思う。恋とか、愛がわからない、かわいそうな人たちなんだと思う。私、馬鹿だから、うまく言えないけど」
浅井はそう、吐き出した。ゆっくりで、絹のような口調だった。
「いいえ、優しさっていうのはね、獣が獲得した社会性よ。いいとか悪いとかは、社会が進化する上で獲得した勝手な判断基準で、殺しも、暴力も、ただの物理現象にそういう名前が付けられてるだけなのよ。涙なんて、雨より切なくて、寂しいものよ」
木村の心が泣いているような気がした。
浅井は首を横に振った。
「それは、佳奈ちゃんが、いや、何でもない」
「何でもなくはないわ。言いなさいよ」
「それは、その、佳奈ちゃんが人生で優しさに触れたことがあんまりないからなんじゃないかなって・・・・・」
「うるさいわね」と、木村が叫んだ。
「でも、私は佳奈ちゃんに優しくしてるつもりだし、いとこを越えて、親友だと思ってるよ?何でも知ってるし、優しいし、頭もいいし、私よりテニスうまいし。私にはなんのとりえもないのに、佳奈ちゃんなんでもできるもん。昔っからテニスしてたのに、私は数年前に始めた佳奈ちゃんに全然勝てない。私はレギュラーじゃなくて、試合に連れ回されるだけの補欠で、学校の勉強も全然出来ない。その時間でもっと好きなことしたいよ!なのに、何でも知ってて、何でも出来るのに、恵まれてるのに、かっこよくて美人で大学でも人気者で、引き込まれるようなしゃべり方もできるのに、佳奈ちゃんはそんなに全てが嫌いなのはどうしてなの?」
木村は目を見開いて、口を開けて、言葉を失っていた。
「私、佳奈ちゃんが羨ましいよ。お医者さんの家で、お金持ちだし、何でも出来るし、頭もいいし、格好いいし、度胸もあるし、さっきだって私を守ってくれようとした。私はそんな、人を助けられないよ。すみで震えて、縮こまってるだけ。彼氏もいるし。なんでそれでそんなに不満を持てるの?人生、取り替えて欲しいよ。私の失敗した人生と。プロのテニス選手になりたかったけど、私、なれそうもない。後に残ったのは、まったくわからない学校の勉強だけで、ほかはなんにもない!」
最後は、泣き叫ぶように話していた。彼女も、哀歌を持っていた。
涙が浅井の目からこぼれていて、浅井が持っていたティーカップに入った。
紅茶がからになっていて、そこに涙が注ぎ込まれた。木村は手を頬に置いたまま、手が震えていた。酒井は額に手をやっていた。
「ごめんね、おおきな声出しちゃって。もう出ようか」と、浅井が言った。
私は紙幣を置いて、「釣りはいらない」と言った。酒井は頷いていた。
私と浅井は立ち上がったが、木村は両手を垂らして、椅子に座ったままだった。
数秒後に、ゆっくりと立ち上がった。
私は、扉を開けて、立ち去ろうとした。
振り返ると、二人の表情は暗いものへと変わっていた。
「私は、ユミの自由が羨ましいわ」と、木村が呟いた。
浅井は何も言わなかった。
互いに互いを羨む二人の姉妹。姉妹ではなく、いとこだが。まるで神話や、古典文学に出てきそうな話だ。話の中だけならいいのだが、ここは現実だ。
羨望は、ちょっとしたことで憎悪に変わる。
もし彼女らが互いに憎悪するようになってしまったら、私はいったいどう取り持てばいい?
私がまた疫病神として、木村家とそれをとりまく人間関係を破壊するようになってしまうようなことは避けたい。
私は人を不幸にするためにこの街を歩いているわけでないのだ。
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