第5話
邸宅から出て、道を見渡した。
どこかにお嬢さんがたがいらっしゃらないか探した。
左を向いて、道を眺めていると、二人の少女がいた。
電信柱の横で、浅井が木村の手首を掴んでいた。
私はそこへ向かって歩いていった。ライターを取り出して、蓋をスナップで開け、また閉じた。そしてポケットへしまった。
近づくにつれて、二人の声は大きくなっていった。
「ねぇ、佳奈ちゃん。待ってよ」、不安に包まれた、懇願するようなささやかな声だった。
「待ったところで一体何になるって言うの?急に羽が生えて、私は空にでもはばたけるの?」
木村は手を振り払った。彼女の激しさが、ちらりと顔を出している声色だった。
「意味がわからないよ」
「鳥になりたいってことよ。一度でもいいからイカロスのように、自由に飛んでみたいわ」
「え?」と、浅井は裏返った声を出した。
「ああもう、自由が欲しいってことよ!鈍いんだから」
「最初からそう言ってよ。佳奈ちゃんの言ってる事って全然分からない」
乾いた笑いが、私の口から漏れた。伝わらない言葉には、意味がない。
そのうちに、黒目がしっかりと見える距離にまで近づいた。
「君の好きなファストフードを、浅井ちゃんが買ってきた。車の中にある。冷めないうちに食べるといい。冷めたら、中身なんてないのと同じだ」と、私は言った。
「誰かと思ったら、雇われストーカーじゃない」
彼女の目は赤く、冷たく、濡れていた。瞼が赤く腫れていて、白かっただろう顔が赤くなっている。目の外側から、涙がこぼれた跡があった。顎の先が、少し濡れていた。両手で体を抱くように、腕を組んでいた。
涙を流す女。悲しくて泣いたのか、怒りに打ち震えて泣いたのか。誰も涙なんて信じない。だが一人ぐらいは、信じてやる人間がいてもいいだろう。
「それで気が晴れるなら、好きに言うといい。20年間の不満を私にぶつけてみろ。顔見知りじゃない人間の方が話せることもある。キリスト教だってそうやってる」と、私は言った。
「牧師気取り?」
「そうとも、私は剣の代わりに拳を振り回すドン・キホーテで、馬の代わりに車に乗るカウボーイ、おまけにメシアコンプレックスに取り憑かれた狂った人間で、ドンキホーテとカウボーイのかたわらに牧師も営んでいる」
木村の唇が少し緩んだ。涙の跡はまだ、残っていた。
「いいのね?なんて言えばいいのかしら?懺悔?」と、少しだけ震えた声が聞こえた。しかし、少しだけ落ち着いて、ビブラートが少なくなっている。
「なんでもいいさ。どうぞ、お嬢さん」
木村は息を吸い込んで、吐いた。
「私はずっと、縛られてきた。私は少女漫画が読みたかったのに、渡されるのはギリシャ神話に聖書、ゲーテやバイロンにTSエリオットの詩、小説はチャンドラーにロバートパーカーにフィッツジェラルドにヘミングウェイに、この町に住んでた三島由紀夫。いったいなんなのよ。私が読みたいのは詩やハードボイルドや純文学じゃなくてライトノベルや少女漫画なの!ゲームやパソコンも持てないし、いったいなんなのよもう」
「私は文学部にいたから、彼等の作品をよく読んだものだ」と、相づちを打った。
「だから探偵なんて嫌いなの。もうあなたみたいに騎士と紳士を気取って、タフに決めて、低い声で喋って、煙草と酒と車とコーヒーが好きで、トレンチやスーツを着て、頭よりも拳や銃を使うような探偵はもう見飽きたのよ」
「で、そこまで不満がたまるっていうのはそんなかわいらしい悩みじゃないんだろう」
「ええそうよ。未だに門限は8時だし、食べる物も体のためにっていって和食かイタリアンかフレンチだし、話しても話し尽くせないわ。まるで法律家にでもなったかのようにルールを決めるのよ。で、今度はおまけにはじめて好きになった人にまで文句を付けてくる。優しかった母さんは私が13才の時に死んだ。父が手術を失敗してね」
木村は息を吐きながら、目を瞑った。拳を握った。
「それから変わってしまった。父は言うことを聞かない私を殴ったわ。教育的指導とか言ってね。私も頭に来て、ブラックジャックで反撃してやったら、もうやらなくなったけど」
「ブラックジャックって?」と、浅井が聞いた。
「ああ、靴下の中にコインを入れて作った棍棒よ。映画に出てきたから。滅多打ちにしてやったわ」
浅井は、目を見開いていた。えぇ、ありえないよと彼女は呟いた。
「ヘタをすれば死んでいただろう。頭に食らったら、脳挫傷になりかねない」
「死ねばいいのよ。そうしたら、私も捕まるわ。捕まったら私も死んで、ここで家が途絶えるの。そうすればもう何も悩みなんてなくなるわ。医者なんかやってられないわよ。どれだけ消耗すると思う?私が継がなきゃならない重荷たる病院も消え失せて、私は母さんの墓に入るの。母さんは美人だったわ。死んでしまったけれど、あの医者のせいで」
目を細めて、木村は空を見上げた。この街には死にたがりが多すぎる。
私は頭を掻いた。悪人にかける言葉はごまんと思いつくが、昔からどうにも死にたがりにかける言葉はあまり思いつかない。銃を持ったやくざを蹴り飛ばす方が簡単だ。
「君もいつか医者になって、ミスをするかもしれないぜ。それはしょうがなかったのさ」
「何がミスよ。だから医者になんてなりたくないの。人殺しになんてなりたくないわ。しょうがないですって?まさか運命とでも?運命、フェイト、ディスティニー、色々な呼び名はあるけど、そんなもの全て大嫌いだわ」
嫌われ者の運命。神や運命など、絶対的な存在は、不幸な人間にとっては嫌いたくなるものだ。彼女は長い溜息をついた。こういう話は、溜息が多くなる。
「気持ちはわかるよ。私も運命が嫌いだ」と、私は言った。
「そんなの、分かるわけないじゃない」
「私も、人殺しだ。そして、運命を呪いたくなったことは何度もある」
木村と浅井は目と口を開けて、こちらを見た。
「ドライブをしよう。マックも買ってある。それで少し、気分を変えたらどうだ」
「いいわよ。そんなことで20年を変えられるのならね」
「それは保証できない」
私と木村と、黙っていた浅井はガレージへ向かった。
衝撃的なことをぶち上げておけば、他の考えをやめるときもある。思考の渦から抜け出させるための一つの方法だ。
私はスマートフォンを取り出し、老人に電話をかけた。
「今から二人をドライブに連れ出しますが、いいですか」
「いいとも、8時までには帰ってこさせてくれ」
「電波が悪くて、聞こえませんでしたね」と、私は言って、電話を切った。
6時になっていた。夕焼けが赤く、道を照らしていた。電線と鳥の群れが、紅の空を横切っていた。
「あと二時間じゃ、どこにも行けないわ」
「時には忘れることも必要だ」と、私はゆっくりと語りかけた。
「そうだよ、忘れて楽しもうよ」と、浅井がつとめて明るく言った。
落ち着いた町だ。ここに住んでいても、刺激のひとかけらもないだろう。ミネラルウォーターよりも刺激がない場所だ。上品だと自負している金持ちが住む町は、たいていどこの国でも、山の上にある。山を切り開いて作った、落ち着いた町。ここは山の上ではないが、似たように落ち着いている。
ここに住むぐらいだったら、私はいつも住んでいる場所で充分だ。時々牛丼屋でやくざとにらみ合うような刺激があった方が、よっぽど健康的だ。ここは死んだ町だ。
邸宅のガレージについて、インプレッサの扉を開けた。
「日が沈んだら、綺麗な夜が見える場所に行こう。それまでは、いきつけのBARに連れてってやる」
私はインプレッサのエンジンをかけた。そのBARからは、歌は消えたし、バーテンも消えてしまって、新しいバーテンが入っている。
後ろでは二人が、押し黙っている。
「人殺しって、どういうこと?」
「ミスだった。昔のことだ。遠い昔のことだ」
相棒をガレージから出して、アクセルを踏んだ。
「飛ばすぞ」
「いえー!」と、浅井が叫んだ。
「酒を女に飲ませるなんて、安心である保証があるかしら?酔わせて、お持ち帰りしようとしてるんじゃないの?」と、木村は眉をしかめた。
「心配だったら、そのズボンの中に入れているスラッパーで思い切り私のこめかみをぶてばいいじゃないか」と、私は言った。
「ええ、そうね」と、木村は呟いて、窓の外を眺めた。
少しぐらい、速度制限を破ってもいいだろう。二人を楽しませてやろう。傷ついた人間を放っておけるのならば、私はこの職業などやっていない。
このぐらい、契約になくたってやってやる。
なぜなら私は現代のドン・キホーテだからだ。
インプレッサが加速して、風を切り、夕日を引き裂くように走った。
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