第4話
コートジボワール大使館の近くまで来ると、大柄な白人と黒人のボディガードに連れられた、眼鏡を掛けた中背の黒人が大使館へ入っていった。
私はインプレッサを止めて、掌で口を撫でた。
いったい家はどこにあるんだ、と私は言った。浅井は無視して、スマートフォンで電話を始めた。
「佳奈ちゃん?ねぇ、今家まで来たんだけど、マック買ってきたよ。知り合いのおじさんの車の中にあるから、後で取りに来て。それか、車に乗せてもらってどこか遊びに行こうよ、うん、うん、うん、それじゃ」
電話が切れた。
浅井はこちらに顔を向けて、話し始めた。
「そういえば、さっきなんか派手に動いてたけどなにしてたのか教えてもらえるかな、おじさん」
「おじさんじゃなくて、探偵とか探偵さんと呼んでくれるなら答えてもいいかな」と、私は言った。
「じゃあ探偵さん、何してたの」
彼女は身を乗り出して、目を輝かせた。
「殴り合ったことがあるやくざに銃を向けられたから、奪って分解した後蹴り飛ばした。それ以上は守秘義務がある」
こういうとき、ある程度は素直に答えた方が早いと知っている。
「すごい、どうやってやったの?」
「この技術が商売道具の一つだから、簡単には教えられないな」
面倒だったので、そう答えた。運があって、普通に生きていればこんな技術があったって、役には立たない。役立てようと思うようになった人間は、危険な場所に飛び込んでいく。そんなことは他人に勧めない。私一人で充分だ。
「ええーケチー。教えてくれたっていいじゃん」
「必要になりそうなときは教えてもいい」
周りを見回していると、大きな家が一つあった。あのベージュ色で二階建ての、屋根が黒い家がそうなのだろうか。
あれか、と私は言った。
そうだよ、あれがおじさんの家、と浅井が言った。
私は車をその家の前まで走らせて、止めた。
するとすぐに、浅井は車を降りて、ドアのチャイムを押した。ブザーが鳴って、老人が飛び出してきた。
「車は、うちのガレージに止めていただこう」と、低くすんだ声で言った。
若い頃には、タフガイとして通っていたに違いない。今は柔軟になることを覚えていて、それを実践しているようだ。肉体的にタフというわけではなく、態度がタフなのだ。しかし、今ではもう疲れ切っていて、タフになったり、タフな振りをすることも出来ないのだろう。
だが、その残滓によって、娘は気をもんでいるだろう。
「おじさん、この人ね、さっき銃を持ったやくざをやっつけたんだよ」と、浅井は無邪気に言った。
「それは心強い。経緯はよしとしよう。さぁ、入って」
木村は浅井の背中を軽く叩いて押すと、家の中に入らせた。開いた扉の向こうには、多くの大理石が広がり、さながら御殿のようだった。大病院の責任者だけある。
「君はナイフを相手に出来るかね?」と、声を潜めて老人は囁いてきた。
「もちろん。仕事上よくあることです」
「さっきの銃の話は本当なのか?」
「そのようですね、向けられたので奪って蹴り飛ばしました」
「素晴らしい。タフガイは好きなんだ。やくざものと渡り合う探偵、なんとも麗しい響きだ。50年代、タフでハードボイルドな探偵物がアメリカで量産された。チャンドラー、ミッキースピレイン、ロスマクドナルド、それをよく読んだものだ。火事と喧嘩は江戸の華だよ。さぁ、中に入ってくれ」
私は車を、頭からガレージへと入れた。
そして、老人に習って家の中へ入って、靴を脱いだ。
大理石のモザイクのような色、洒落た金のシャンデリア、高い天井、まさにちょっとした豪邸だった。そこから二番目の扉の場所へ、老人は入った。
私も、それに習って、応接間に足を踏み入れた。
木製の長いテーブルの上に、湯飲みに入った日本茶と、苺のショートケーキが四人分置いてあった。
老人と、浅井と、私と、あと一人のためのものだった。
浅井はもう、ふかふかの長いすに腰掛けて、ケーキを食べていた。真綿にくるまれたように幸せそうな顔つきだ。
私は甘い物は好きではない。
長いすに腰掛けて、私は話を聞くことにした。茶だけは頂こう。
老人は茶を飲み干した。
「佳奈、出てきなさい」
応接間の奥から、顔をうつむかせている大学生ぐらいの女が、歩いてきた。
黒髪を背中の半分に届きそうなほど長く伸ばして、眉をしかめている女だ。目は白い床を見つめていた。落ち着いた桃色のジャケットを上に着ていて、下は黄色の、ふわふわしたフリルのついたタンクトップだった。青色のジーンズ、膝は石で擦られて、脱色されていた。涙のような、サファイアのペンダントを首に掛けていた。
夜のような、暗い色気があった。精神的な不安定さを、少し感じた。神経質さも感じられた。しかし、上品に振る舞うということを忘れてはいなかった。
浅井は首を傾け、下から覗き上げるように、娘を見つめていた。
「出てってよ、邪魔しないで」と、娘は私に呟いた。
今にも泣き出しそうな、憂鬱な声だった。いつもなら、気品に溢れた立ち振る舞いをしているに違いない。服装も、ペンダントも、主張しすぎないということを知っている選びかただ。
「気持ちはわかるよ」と、私は慰めた。
「人の恋路を邪魔する者は馬に蹴られて死ねという。だが、私は死んでも、認めたくはないんだ」と、老人は言った。
娘の顔がみるみるうちに紅潮しはじめて、首まで赤くなっている。
「お父さんは、いつもいつもそうやって私を束縛して!ふざけないで!何が医者よ!お母さんだってまともに救えなかったくせに、食べ物だって好きな物を食べられない、外出だって制限してくる!デートに着いてきたり、今度は嗅ぎまわらせるなんて・・・・・・だいっきらい!」
娘の声は、半分も言い終わる前に涙と鼻声で裏返り、滑舌が悪くなっていた。
娘は老人に近寄ると、思い切り老人の頬を叩いた。ぴしゃりと、空気が弾けた。
「出かけてくるわ。もう知らないんだから」
老人は打ちのめされていた。頬の痛みよりも、精神的に打ちのめされているようだ。
浅井は口を軽く開けて、目線をそこら中に飛ばしていた。
「ごめん、ちょっと行ってくるね」と、浅井は娘の後を追いかけた。
弾けた空気の中に、私と老人が二人取り残された。50口径弾で体の半分を消し飛ばされたようなケーキが残っていた。
「用件を話そう」
老人は椅子に座り込んだ。力なく。私はゆっくりと椅子に座った。老人は金のライターを取り出し、煙草を取り出した。火が点されて、煙が細く吹き上がっていった。
「どうぞ」
「あれが私の娘だ。木村佳奈という。私の妻は死んでしまった。私の専門は脳外科医で、妻は脳の血管にこぶが出来ていた。妻の視界が二重になっていると聞いて、すぐに連れていったんだ。破裂するとくも膜下出血により、4割で死亡する可能性がある。直径は27ミリ。三年以内に破裂する確率は約33パーセントだ。そして、動脈の分かれ目にあって、余計に破裂しやすかった。脳動脈瘤と言うんだが、それの手術を私はした。昔は若くて、経験もなかった。激務が続いていた。私以外に見る事の出来る医者はいなかったんだ。そして、私も疲れていた。頭を開いて、クリップで動脈のこぶを止めるんだがな、私は大きなミスをしてしまった。動脈瘤が破裂した。そして、妻は死んだ」
老人は煙草を吸って、吐いた。私はじっと聞いていた。
「それから私一人で育ててきた大事な一人娘だ。ずっと塾に通わせた。苦しい思いをさせてしまったと思う。そして国公立の医学部に入れた、箱入り娘だよ。医学部を卒業したら、なんでも好きな物を買ってやろうと思う。ハワイに別荘を買ってもいい。娘がニートになったって、いくらでも好きに金を使わせてやろうと思う。その娘が、いけすかないちんぴらと交際している。付き合うなとは言わん。言わんよ。でも、よりによってあのちんぴらと付き合うのはゆるせんのだ」
「心中お察し申し上げます。ずいぶんとタフな娘さんですね、貴方も」と、私は言った。
「ああ、娘は強いよ。私の娘だからな。世界中のどんな女より美しく、教養があり、精神的にタフで、気品のある人間に仕立て上げたかったからな。まぁ、そうはならなかったが」
老人は灰皿に煙草を押しつけた。それと、口の動き以外には、何も動いていなかった。眉が下がって、皺がよったままだった。
「しかし、自分の娘は貴方の作品ではありませんよ。厳しくしすぎると、手のつけられない跳ねっ返りになりかねません」と、私は言った。
「わかってる。私が頼みたいことは一つです。私の娘がどこの馬の骨ともしれない男と付き合っている。その男の事を調べてもらいたい。手段は問わない。金ははずむ。君の普段の報酬の5倍出したって構わない」
「わかりました、お受けいたしましょう」
私は契約書を渡した。老人はそれを読まずに、サインをした。
「期間は設けますか?」
「私が満足するまでだ。期限など気にしない」
老人から契約書を受け取り、懐にしまった。
「外見、名前など詳しいことはわかりますか?」
「外見ね、痩せて小柄な男だよ。高校を中退して数年と聞いた。名前はわからんし、どこにいるかもわからん。娘は喋らなかった。娘をどこかのクラブハウスで助けたとは聞いた。一度会ったことがあるが、ちんぴらだった。茶髪で短髪、その時は白いパーカーだった。新宿にいる」
「どこのクラブハウスか思い出せませんか?」
「渋谷のクラブハウスだ。どこだったかな、スペイン語の名前だった気がする」
「エル・パソという名前は?」
「そうだ、それだ。そこにいたらしい」
どうやら、またあそこに行かなくてはならないらしい。
私は腹の前で指を重ね合わせて、手を組んだ。
そしてうなずいて、「そこから探してみましょう」と、言った。
「私の娘とユミちゃんに何か言ってやってくれ。ハードにじゃなく、ソフトに頼むよ」
老人は頭を掻いて、溜息をついた。
「それも契約のうちに入りますか?」
「契約じゃないが、悲しい老人の頼み事だ。妻を殺してから、心に穴が空いて、この世の厳しさが流れ込み、深海に沈んだタイタニックのような心を持つ老人の、切ない頼み事だ」
「いいでしょう」
それきり、木村は煙草を吸い始めた。そして天井を見つめていた。
私も習って、天井を見つめた。木で出来た大きなファンが上で切なそうに回っていた。
白い壁をよく見ると、ニスを塗られたかのように、ヤニで黄色くなっていた。彼はヘビースモーカーらしい。
「ケーキは食べないのか?とびきり高級な奴だ」
「今は甘い気分ではないので」と、私は言った。
「そうか、君はとことんハードボイルドだな。今度来るときはコーヒーを用意しよう。では、頼んだぞ」
私は立ち上がって、彼に背中を向け、応接間から出た。
玄関で靴を履き、孤独な邸宅に別れを告げることにした。
大きな家に、小さく住んでいる老人。妻を失ってから打ちのめされて、ずっとその喪失感に囚われている男だ。
悲しい男にしか出会えないのか、と私は思った。
金があっても、幸せでない人間ばかりしか見ない。
金で、命や過去は取り戻せない。
私が会った寂しげな金持ちは皆、取り返しのつかない過去ばかり持っている。
人生でやり直しなど、効かないのだ。
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