第9.75話

 わたし、藍原早麻理です。わたしの職業は、映画女優。映画だけじゃないけど。普段はかっこつけてきりりと振る舞ってるのは、秘密ですよ。人の前だとかっこつけたくなりませんか?年を取ると、なんだか逆に子どもっぽく振る舞いたくなっちゃいますね。

 わたしは鏡の前でかっこつける練習をしている。怒った顔、泣いた顔、笑った顔、喜んだ顔、繊細な手の動き、目の動き、歩き方。動作一つ一つの練習が、演技に生きてきます。

 毎日の練習を終えると、電話がかかってきた。服はもう着てる。

「もうすぐ時間だ。仕事の時間がやってきた。さぁ、行こう。下に車が迎えに来てる」と、高岸さんの声だった。いつも疲れている人だった。よく祈りを捧げているけど、それは彼の助けになってはいなかった。

「わかりました。少し待っててくださいね」と、わたしは言った。

 わたしは今、映画の撮影をしている。原作者と、監督は厳しい人だった。別に、いいんですけど。

 入れ立てのコーヒーが、机の上で湯気を立てていた。角砂糖を4コ入れて、飲み干した。そして、伸びをした。腰に痛みが来た。ベッドから落ちた時に、腰を痛めてしまった。

 寝相がよくなくて、困ってます。

 家を出て、下のワゴンの中に乗り込んだ。ワゴンの中には、男の人と、メイクの女の人がいた。

「急いで、スケジュールをすすめないといけない。大変だと思うが、頑張ってくれ」と、長身の、痩せた男の人が言った。高岸さんだった。

「ええ、わかってます」と、私は言った。

 メイクの女の人が、わたしの顔に化粧を施しはじめた。

「頼むよ。嫌みを言われる係は、僕が引き受ける。君は演技にだけ集中していてくれ。僕は少し寝る。起きなかったら、起こしてくれ」

 彼はそのまま目を閉じて、眠っていた。

 わたしは、ずっと黙って、現場まで待った。

 そのうちに、車が現場へ着いた。

 鼻にテープのようなものを張った、中年の男の人がわたしを待っていた。監督だ。

 あの頭のおかしい学生の頭突きをくらって、鼻が折れたみたい。変な人に口実を与えると、思いっきりやってきたりします。

「早くしてくれ、時間がないんだ」と、監督が言った。

 わたしは、はい、と呟いた。

 犯罪映画だった。主人公は宝石強盗のグループのリーダー。普段はそれを隠していて、裏切りと内紛により警察にそれを追い詰められていく狼のような主人公、鷹見。それに惹かれていくヒロイン鳥羽、それがわたしの役です。

 確か、それのすぐ前の、銃を使ったアクションシーンはもう撮り終わってるはずだから、次は、俳優さんと見つめ合うシーンだった。撮影の70%はもう、終わりました。

 スーツを着た俳優さんが、こちらに歩いてきた。脇の下が膨らんでいて、裏切りがあってからいつも銃を持ち歩いているという設定でした。主人公はもう、裏切った仲間を銃で殺した。それは嘘で、本当は違う人間が裏切っていた。まだ主人公はそれに気付いていない。愛した人に裏切られる、哀れな孤高の犯罪者。

 その脇の下の膨らみを見る度に、嫌な思い出がわたしの頭をよぎる。

 見えないはずの血が見える。

 あの刑事が拳銃をだらりと、下げている姿。あの殺し屋が拳銃を探偵さんに向けている姿。辻さんがショットガンを持っていた姿。

 吐き気がして、気持ち悪くなってきた。

 わたしはそれをこらえて、そのシーンを撮った。

 次のシーンは、その俳優さんとのキスシーン。

 俳優さんが顔を近づけてきた。

 あの殺し屋の顔が浮かんでくる。アイスピックを持った、ふざけた男。

 包丁すら通らない、不死身の化け物。大きな銃で撃たれても、まだ笑っている。探偵さんやわたしや高岸さん、みずなさんを殺そうとした。わたしは殴りつけられて、指を折られた。

 わたしの唇を無理矢理奪った、気色の悪い化け物。

 刑事に撃ち殺された、辻さん。

 バーで歌っていた彼女の姿を思い出した。

 彼女の血は、雨と共に排水溝に吸い込まれていった。まるでその血が、捨てられるべきもののように。

 釘や矢が飛んでくる。

 水江の笑い顔。わたしを犯そうとした、あの時の顔。あの刑事達の、片割れの、機械のように冷たい目。どんなことに対しても、何の感傷も抱かない、冷たい男。

 何もかもがフラッシュバックして、ちらつく。

 わたしは顔をそむけた。

「カット、カット」と、監督が叫んだ。

「藍原さん、どうしたんです。大丈夫ですか」と、俳優が言った。

「何でも、ありません」と、わたしは言った。

「なにか、やっぱりあの間にあったのか。演技が別の物になってる。なんというか、表情に影があるし、悲しそうだ」と、監督が言った。

「なんでも、ないですから」

 わたしはそう呟いて、目をそらして、空を見あげた。空は曇っていた。わたしの心みたいに、灰色になっていた。

 目を戻すと、監督はまだこちらを見ていた。あごひげを掻いた後、彼は口を開いた。

「いいカオだ。素晴らしい。そのカオ、もう一回出来るか。それで、顔を背けるシーンにしよう。ヒロインの後ろめたさと後悔を表現しよう。キスはなしだ。さっき掛け合った言葉を、そのまま役の口調で言ってくれ」

 わたしはわかりましたと、言った。

 もう一度向き直った。監督が元の場所に戻った。ボールドがカメラの前で、かちりと音を鳴らした。その瞬間わたしは、鳥羽になった。

「俺は、この最後のヤマが終わったら、高飛びしようと思ってる。お前の、好きなとこに連れてってやる。行こう、一緒に。俺の愛しい人」と、鷹見が呟いた。

 鷹見はあたしの肩を抱いて、あたしを引き寄せようとした。

 あたしは鷹見の胸を押し返して、顔を背けた。

「鳥羽、どうした。大丈夫か」

 鷹見は眉をしかめて、あたしを見つめた。手はもう、肩から下ろされている。

「なんでも、ない。なんでも、ないから」と、あたしは言った。

 あたしは空を見上げた。さっきと同じような目をして、雲を見つめていた。

 ボールドが鳴って、カメラが止まった。

 わたしは鳥羽をやめて、藍原に戻った。

「これだ、思ってたとおりだよ。君はやはり天才だ。休養の甲斐もあったかもしれん。このワンシーンのために、俺は数ヶ月ぐらいの遅延を許せる。今日は終わりだ」と、監督は叫んだ。

 今日の撮影はこれで終わりみたい。この監督は、ワンシーンのために数週間かける人だった。

「いいカオだった。素晴らしい体験をしてきたみたいだね」と、俳優が呟いた。

「そうだ、今日、このあと昼食を食べましょうよ」

「素晴らしい体験、ですか」と、私は首を横に振って、溜息をついた。

「食欲がないので、帰らせてもらいます」

 わたしは、踵を返して、バンに乗り込んだ。バンが事務所へ向かって走り出した。

 あの体験が素晴らしい?

 殺されそうになって、皆が暴力の被害を受けて、最後に知り合いが死んだ。

 死が、彼女の全てを否定した。

 わたしは目を瞑って、彼女のために祈った。

 祈りなんて、誰も助けてくれないのは知ってる。高岸さんを見てれば、祈りが誰かを救うなんてことないというのも、知ってしまう。

 だけど、祈らずにはいられない。

 見よう見まねの祈りを終えた後、わたしはシートに背を預けた。

 そのままにしていると、眠くなってきた。

 起きたらもっと、世界がよくなってますように。

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