第10話

 夕日が沈んで、夜がやってきた。照明が照らす中を、私は歩いていた。

 冷えた空気が、私を包んでいた。冷えた空気が流れていって、私の頬を撫で、銀杏の葉を流していった。クラクションの音が聞こえた。たった一つのクラクションだった。

 私の横を、会社員達が通り過ぎていった。学生達がカラオケ屋に入っていった。

 身なりの良い女性達が、ブランドショップへ入っていった。鳩はどこかへ飛び去っていた。頬の肉の中まで、肺まで冷えるような気分だった。

 車に乗って、塩田の住居のそばまで車を走らせた。渋滞ばかりで、車は歩いているようだった。

 そこには安そうな白塗りのアパートがあった。二階建てで、塩田の部屋は208号室だったはずだ。メモには、ご丁寧に塩田という男の似顔絵までついている。やせこけた顔、くま、目つきの悪い顔、左の頬に刃物の傷、きっとナイフの刺突が擦った痕だ。横一文字に、ほお骨から耳が切れている傷だった。下手だったが、おかげでよくわかる。

 塩田を問い詰めている際に、逃げられないかどうかを私は気にして、少し離れた路上に置いた。車やバイクを持っていたら、すぐに逃げられるかもしれない。

 とはいえ、そんなことをされてもここに居座るだけだ。もしかすると、そんな物を持つ金がないほど、麻薬に溺れているかもしれないが。

 大男なら通れないほどの狭い階段を昇った。廊下の床は薄汚れていて、ビール缶が何個か転がっていた。吸い殻も落ちていた。

 塩田の部屋のチャイムを鳴らした。

 何度もならしたが、返事はなかった。私は、ドアを引いた。

 ドアが開いていた。そのまま引っ張った。

 中を覗くと、片付けられていない部屋が見えた。電気は殆どついてない、夜のように暗かった。廊下に、割れた注射器が落ちていた。

 注射器のために人生を台無しにする男だった。覚醒剤だ。間違いない。

 薬物中毒のナイフ使い。

 やっかいな奴だ。

 鰹節のような臭いがした。塩田はここにいる。覚醒剤の中毒者の体臭だ。

 靴は脱がずに、かってに上がった。

 手前の部屋から開けることにした。

 ノブを回して、扉を押し開けた。部屋に入ると、細い明かりが、家の外の電灯から差し込んでいた。

 急に何かが飛んで来た。腕を掴む。ナイフだった。男が逆手で、ナイフの切っ先を胸に押しつけようとしてきた。そのまま壁まで押しつけられた。力が強い。男が左手を右手に重ねて、さらに刺そうとしてきている。ナイフに光が映っていた。血糊が少しだけついている。体重を掛けてきた。男の目が血走って、見開かれている。荒い、途切れ途切れの息だけが聞こえる。私の吐息と、男の吐息。私も両手で腕を押さえた。切っ先が胸に近寄ってきた。男のスネに足の裏を当ててから、引きちぎるように足の甲まで思い切り踏んだ。

 男がうめいた。まだだ、もう一回。もう一回。男が叫んで、ひらりと飛び退いた。

 男はナイフで自分の腕を切りつけて、血を頬に塗りつけた。

 大型のサバイバルナイフだ。背にぎざぎざの刃がついている。20センチはありそうだ。男の顔つきのように、凶悪だった。

「ナイフの染みにしてやる」

「塩田か?」

 男は答えず口をひきつらせた。何かに脅えている。一文字だった頬の傷が、頬の動きで歪んだ。

 塩田が低く、猫背になった。大きなナイフを順手で構えた。手を顎の辺りへ持ってきて、ナイフの腹を人差し指の爪でかちかち鳴らしていた。口からしゅうと息を漏らした。刃に電灯の光が反射していた。ナイフの刃は地面と水平だった。肋骨の隙間から滑り込んでくる。完全に殺す気だ。

 顔への鋭い突き、避ける。手首を返して、太腿の内側を下から切り上げようとしてきた。ズボンが浅く切れた。動脈に当たっていたらまずかった。頭の上で手首を回転させて、切り下ろしてきた。ナイフを持っている手を掴んだ。

 右の拳を、塩田の股間に振り上げた。そのまま、右肘で顎を打ち上げた。次に手刀を鎖骨に振り下ろそうとしたが、塩田は笑みを深めて、飛びついてきた。クスリをしているらしい。普通ならノックアウトだ。足を掴んできた。タックル。

 耐えた、しかし、床が何かで濡れていて、仰向けに転んだ。

 塩田が馬乗りになって、ナイフを逆手に持ち替えた。振り下ろしてきた。手首を掴んだ。

 目突きをしてやった。塩田が目を押さえた。塩田の口の中に指を入れて、思い切り引っ張った。塩田がひっくり返った。塩田の手を押さえつけて、指を剥がしてやった。

 ナイフが落ちる。ナイフを遠くへ投げ捨てた。両手を押さえつけてやった。まるで強姦魔が取る姿勢のようだった。

「塩田だな?」と、私は聞いた。

 ちんぴらに物を聞くときは、必ずたたきのめしてからじゃないと聞けないらしい。

 いきなり、塩田の顔が引きつって、口が歪んだ。鰹節のような臭いが強くなった。

「お前は殺し屋だな?俺が用済みになったから、殺そうとしてるんだ。クソ、まだ死にたくねぇよ」

 注射器のカラが見つかった。男は半袖で、腕には沢山の注射痕があった。

「それは覚醒剤の副作用の、被害妄想だろう。私がもし殺そうとしてるなら、もうとっくに死んでた。銃か、ナイフを持ってたさ」と、私は言った。

「じゃあ警察か。俺をムショにぶち込もうとしてるんだ!」

「探偵だ。落ち着け、お前を殺しに来たわけでもない。捕まえに来たわけでもない、話を聞きに来たんだ。それで帰る。ひとまず深呼吸をしろ」

 男は抵抗をやめた。私は離してやった。そのままナイフを拾い上げ、手に持っていた。大きなナイフだ。刃こぼれも殆どないほどに研がれていた。

「何を聞きにきた」

 塩田はあぐらをかいて、眉をしかめた。私は立ったままだった。

「一番最近刃傷沙汰を起こしたのはいつだった?ナイフで切った張ったの立ち回りをした時だ。今じゃない」

「最近は数ヶ月前に、人を切った。死んではないはずだ。小さな折りたたみナイフだったからな」

「ナイフで戦った相手の顔は覚えているか?全員」

「まぁな」

「数年前にエルパソというクラブで、お前は女に絡んだはずだ。そうすると、ナイフを振り回す小柄な騎士様が出てきて、お前達とナイフファイトをやったはずだ。お前等の内の誰かはそいつの手の甲を切りつけた。その男はどこにいる?」

 私は、ナイフの腹を掌に当てて、何回か叩いた。塩田は何か考えているようだった。暗くて、表情はわからなかった。

「ああ、あのスリの野郎か。あいつは俺が切った。俺の頬は奴に切られた。あいつなら、新宿を歩いてればいるんじゃねえか。今みたいに締め上げればいいはずだ。チビガリだから、力も弱い。ナイフがなけりゃ、でくの坊だ」

 塩田は言葉を切って、口を閉じた。

 何かを考えていたようだった。塩田は脚を組み替えて、腕を掻いた。息をゆっくりと吐き出した。

 私は月が奏でる音色について考えていた。間が長すぎた。ゆっくりと、時が流れていった。ナイフに月明かりが反射していた。月の窪みまで見えそうなほど、綺麗なナイフだった。反射させて、塩田の顔に月明かりを当ててやった。塩田の顔が見えた。瞳孔は薬物中毒患者特有の開き方だった。顔を背けられた。

「あいつは武装スリ団に入った。マスコミがそう配慮してるだけで、実質、強盗団みたいなもんだ。とはいえ、普通の武装スリ団とは違って、普段は普通にスリをする。数人でな。あいつらは韓国人には優しいんだ。俺らみたいなのには、優しくないくせに。韓国人がボスで、軍隊上がりだったな。キム、パク、リ。韓国人なんてだいたいその三つの名字だよ。あんたぐらいの背丈だ。最初、あんたを見たときに、そいつかと思ったんで、ナイフで行ったのさ。そいつは台湾で強盗をしてたが、人殺しをして、日本に来てたはずだ。ヤバイ奴だ。抜けられんよ。あの韓国人は蹴り一発で人を殺せる奴だから・・・・・・」

 また素手で人を一撃で殺す奴が現れた。一体この街はどうなってる。国家直属の工作員兼殺し屋、旅行しにきた大学生、今度は軍隊上がりの韓国人。少し多すぎるんじゃないか。

「で、どこの辺りにいるかまで、知ってくれていると嬉しいんだがな」

 塩田は左手の指を曲げた。金を示す形になっていた。右手はピースをしていた。

 私は財布から2万円を抜き取って、渡した。

「あいつは西新宿駅の辺りでスってるはずだ。あそこらへんで前見つけたぜ。あそこらへんは色々あるんだ。夜なら、あいつがいるはずだ」

「二度と間違えて人を刺そうとするんじゃないぞ。もし私が警官だったら、お前は一巻の終わりだった。失敗しようが、刺し殺そうが」と、私は言った。

 用は済んだ。この注射器だらけの家から出る時間がやってきた。

 私は部屋の電気をつけようとした。

「電気をつけるな。虫が寄ってくるんだ。蝶が、そこら中を飛び回るんだ」

「蝶なんていない」と私は言った。

 塩田は何もない天井を見つめて、そこに蝶がいる、と言った。

「毒の蝶だ。俺を蝕む。俺の体はあの蝶の鱗粉で、溶かされていく。見えるか、あの蝶だ」

「そんなものはいない!」と、私は叫んだ。

 私は塩田の部屋と、アパートを出た。靴に捨てられたガムがついたので、アスファルトで足をこすって取った。

 車に乗って、一息ついた。

 もっと息をついてもよかった気がした。しかし、私はアクセルを踏んだ。

 まるで重力が存在しないかのように、加速した。

 夜を走る騎士。馬の代わりに車に乗って、剣の代わりに拳を振るう。

 騎士の十戒のうちの全てを、私は持っているような気がした。

 そうでも思わないとやっていられない。

 この街の裏にいながら、まともに生きていくには。

 満月が、私の背中を照らした気がした。

 現代の騎士、戦う詩人などと自分のことを思うことにした。

 そうやって時々自分を褒めておくことで、自分を失わずにいられることがある。

 どうせ、またナイフや拳銃を突きつけられることになる。その韓国人とも一悶着あるだろう。彼には足を洗ってもらう必要がある。木村佳奈が捧げる無限の愛を、棒に振らせることを、私は見過ごすわけにはいかない。もし、彼が警察に上げられれば、彼女は一人寂しく家で彼の帰りを待つことになる。ナイフで刺されれば、彼は死ぬ。

 運悪く犯罪者達に目をつけられれば、東京湾の底の泥沼から、引き上げられるハメになるだろう。彼女に、死んだ母親の次に、愛する人を失わせるわけにはいかない。そんなことを、放っておけるわけはなかった。

 お節介だろうか?いや、そのために私はいる。人に世話を焼いて回るのが私の仕事だ。どうにも、あの家族を放っておこうとは思えなかった。父親、娘、いとこ。何か、私の心に残る物を、あの家族は持っていた。

 西新宿駅へ向かって走り出した。車のメーターが赤く光って、地図を示した画面が白く光っていた。街灯が光っていて、家々の明かりが寂しく残っていた。もう、この町は眠る時間なのだ。しかし、新宿は眠らない。

 ジャズをかけた。月夜にはぴったりだ。これはレクイエムなのだ。辻の死に様を思い出した。ジャズを歌う彼女は、命を落とした。

神のいないこの街で虐げられ、命を落とした全ての人間への、レクイエムのつもりだった。

レクイエムが、夜に響いた。

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