第6話

 体を揺すられて、目が覚めた。

「起きてください、探偵さん」

「ああ」

 私は首を捻り、鈍器で頭を殴られた時の擬音のような音を出した。

 立ち上がり、コップの水を飲んだ。寝る前は空だった。バーテンの気配りが身に染みる。辺りを見回した。客は減った。

 高岸はいない。仕事に行ったのだろうか。山田と田口はバーの片隅で煙草を吸っている。藍原とみずなと辻と数人の客がいた。

 彼女たちが口元を上げながら、こちらの顔を見ている。

 顔をこすると、手の平に口紅がついた。

「何をした?」

「落書きよ」

 スマートフォンを起動して、カメラを反転させた。

 パーティ会場へ行く四十代の女を、ピエロが真似した時のようなきつい化粧がしてあった。

 私は溜息をつき席を立って、トイレの洗面台へ行った。扉に頭をぶつけそうになった。

 鏡の前に立った。ここの壁も、アメリカン・ウォルナットで出来ていた。木目はさざ波のようだ。

 両手に水を溜め、顔を洗った。安物の石けんを泡立てて顔を洗った。強くこすったあと、水で流す。繰り返すうちに、自分の顔が見えた。

 くたびれたスーツの上に悪くない顔が乗っていた。顔と身長と性格はよく人にほめられたが、しかし他は褒められるものではなかった。

 30手前の寂しい男だった。音楽鑑賞とダーツとドライブと読書と一人でトランプゲームをすることが趣味で、昔キックボクシングと空手をやっていたというだけで殴り合いに飛び込み、冷えた弁当を食べ、サプリメントで栄養バランスを補い、ウィスキーのストレートかマティーニを仕事がない日に飲んだくれて、煙草を吸い、仕事がある日は人を追い回し、殴られ、人を助けて、警察に嫌われている男だ。依頼人にはたいがい好かれるが、それより多くの人間に嫌われる男だった。

 そういう私立探偵が鏡に映っていた。

 推理をほとんどすることはなく、殺人事件のトリックをあばくこともなく、常に手と足と口で解決する探偵だった。推理をする探偵などリアルでない。現実の探偵はいつも人捜しをしていたり、浮気を扱ったり、誰かに守ってくれと言われるのだ。しかし、それが気に入っていた。

 警察とは仕事上対立することもある。

 警察はいつも私を嫌うし、私もいつも警察を嫌っていた。

 嫌いな人間が仕事の度に増えていった。死んでしまう人間も時々いる。

 そして今回もまた、殴られる予感しかしなかった。

 私は鏡に背を向けて歩いた。

 女三人が私の顔の写真を見て笑っていた。十分そこらの間に何十枚も撮ったようだ。

「で、どうするんだ。まだここにいるのか?」

 人に笑われるのは馴れていたが、落書きされることには馴れていなかった。

「もうそろそろあがらせてもらうわ、じゃあね」と、辻が紅茶を飲んで、カップを置いた。手には紅茶入りのフランスパンを一つ、袋に入れて持っていた。

「私は喉に気を使ってるの。ほんとは貴方の作ったカクテルが飲みたいんだけど、ね」辻がみずなに向かって、右目を瞬かせた。

「おだて上手ね」

「世渡りには必須よ?私は出来るだけ器用に生きたいの。不器用な事してるから」

「あんたが飲みたくなった時に紅茶のリキュールを使ったカクテルを作ってあげるわ。林檎か檸檬を入れた奴。ダージリンの香りがするの」

「檸檬でお願いするわ。でも、今週はやめとこうかしら。別の場所で一日だけ歌ってくれって頼まれたのよ。なんだかそのカクテルすごく楽しみね。それじゃあ」

 辻はフランスパンを少し見て、立ち去った。

「それじゃあ、わたし達も帰らせていただきます」

「そうなの?残念。またここに来てね、藍原さん」

 残り少なくなった客が彼女を見た。しかし、ここの客は人を詮索するような人間は少ない。すぐにまた自分の酒を飲み始めた。

 藍原は扉を開けた。私もそれについていった。山田と田口も、私達の後を追った。

「それじゃあ、いつかまた来ます」

「ええ、さようなら」

 今日は、珍しく雨が降っていない日だった。

 蒸し暑い夜だ。

 通りを念入りに確認して、車も点検した。何も無かった。

 車のエンジンをかけた。エンジンの音が聞こえた。いつもこの音を聞くと安心する。

 私の相棒だ。山田と田口が乗っている車の方を見た。運転席の山田が私に向かって親指を立てた。

「少し、街に出ませんか?夕食もかねて。フレンチかイタリアンがいいんですが」

「いいだろう。行こうじゃないか」

 私はどこのファミレスにしようか考えていた。イタリア料理のファミリーレストランにしようと思った。

 ピザの食べ放題もある。

 今までフレンチに行く時間もなかったし、手持ち金もなかった。

 ないものづくしだった。

「あ、探偵さんお金ないでしょうから。私が払いますよ」

「女の子に奢ってもらうなんて、私の性に合わないね」

 彼女は人差し指を自分の唇に当てて、頭を傾けた。

「じゃあ奢りじゃなくて、仕事料金って事でどうですか?」と、私に笑いかけた。

 私は彼女を見つめて、「それなら納得だ。どこに行きたい?」と言った。

「んーと、じゃあ銀座のフレンチで。いいところですよ?」

「少し無粋な話になるが、いくらなんだ?」

「四万円のコースがありますから、それを食べましょう」

「それは本気で言っているのか?量は?」

「一皿ごとが、スプーンよりちょっと大きいぐらいでしょうか」

「それは本気で言っているのか?」

 私は二度同じ言葉を繰り返すはめになった。

「量は女の人しか満足しないでしょうけど、追加すればいいじゃないですか?アラカルトもありますし」

「アラカルト?」

「一品料理ですよ」

 信号が赤になった。車の速度をゆっくりと落とした。田口と山田の車は後ろにちゃんと着いてきていた。

「ちなみに、いくらだ?」

「8000円ぐらいからでしょうか」

 私は言葉を失った。想像は出来ていたが、わけがわからなかった。スプーンのつぼの部分より少し大きいぐらいのものを続々に出してくるだけで四万円、おまけに単品料理が八千円からだとは信じられなかった。

 まるで貴金属を食べ尽くしているようだ。

 ある意味では、今まで私を襲ったどの危機よりも私を驚かせた。

「じゃあ、新宿のフレンチにしますか?そこなら二万五千円ぐらいですけど」

「そうしよう」

「別に遠慮なんてしなくていいんですけどね。お金はありますし」

 信号が青になった。アクセルを踏んで加速した。周りにバイクはなかったし、ツケてきている車もない。テールランプが眩しい。向こうの車線の車が、ビームを点灯させてこちらに向かってきた。しかしそれだけだった。その車は何をするでもなく通り過ぎていった。

「別にわたしは、お金は沢山持ってますから。それだけですけど。いつも忙しくて、使う暇がないんですよ。体型を維持しなければいけませんから、量は食べられません。たくさん飲むこともあまりできません。芸能人の皆が高いモノを沢山買ったりしてる理由がわかりますか?それしか使う事がないんですよ。それしか。少し遊べばパパラッチ、少し遊べばすぐ麻薬、スキャンダル。有名税ですよ。代償が大きすぎます。贅沢な悩みなんですけどね」

 藍原は助手席のシートに体を預けた。両目を瞑っていた。

「わたしはあなたみたいな生き方に憧れます。あなたはタフで、誰に対しても優しくて、どんな人も助けてきたらしいじゃないですか。誰にも縛られず、従わず、屈せず、どれだけ殴られても音を上げず、どんな悪漢に襲われても、友人に裏切られても、何をされても立ち上がり、命を懸けて安い賃金でも働いて、まるで映画の主人公を地で行く人じゃないですか。はっきりいって、格好良すぎますよ、反則です」

「買いかぶりすぎだ」と、私は言った。

「助けられなかった人間もいる。法律には縛られているから、警察に睨まれれば動けないこともある。殴られて音をあげてない?あげてるさ。格好付けて言わないだけだ。立ち上がるのはそいつに猛烈に腹が立ったからだ。安い賃金で働いている気はあるが、結果的にそうなってしまうだけで、最初からそんなつもりじゃあないさ」

 本心だった。

 ビル街が見えた。昼の顔と夜の顔は真逆だ。普段見えているコンクリートは闇に溶け、見えなくなる。普段透明なガラスからは光が漏れて、輝く。昼と夜では全く逆の顔を持っている。夜の、危険な東京だ。そこで私は輝く。昼間は空気のように透明な存在なのだ、私は。

「いつの間にかそうなっているだけだ。そして後にも退けないから、仕方なく進んでいる。私は自暴自棄なんだ。酒を飲み過ぎたり、人のために命を懸けられる人間はほとんどがそうだ。だから人のことをいつもはいはいと聞いて命を懸けている。人を助けても、自分を助ける気にはなれない。自分の命もなにもかもどうでもいいと思っている。危険に身を置くことを楽しんでいるんだ。それが存在価値かのように」

 少し喋りすぎた。

 もう自分のことを言うのはやめよう。

「それでも、わたしには出来ないことです」

「君が男に生まれていたならば、むしろ喜んでそれをやっていたかもしれない。格好付けるために命を落としても構わないと思っている男も多い」

 新宿だ。皇帝のお膝元。政治の中心部から一キロも離れていない。たった数百メートルで景色が全く変わる。

 いったいいくらかけたのかもわからないネオンが煌びやかに光っていた。

 立ち並ぶビル。何を売っているのかわからない店。とりあえず光らせておけばいいと思っているかのような光。スクランブル交差点。行き交う人々。渋滞。

 ヘッドライト、テールライト、ネオン、光る窓、店の光。全てが眩しい。

 ブランドショップのネオンを、ダイヤで作ってみたらどうだ。

 きっと皆駆けつけて、後に残るのはピアノ線だけだ。

「もうすぐその店ですよ」

「車はどこに止めればいい?」

「駐車場があります。真っ直ぐで信号六つ、その後左へ二つです」

 そして私は車を走らせた。歩かせたと言っても違和感はない速度だった。リボルバーの回転式弾倉のような駐車場の中にインプレッサを入れ、二人で車から降りた。そして山田と田口を待った。

 山田と田口は店の外で待っています、と言って、煙草を吹かしながら私達の後ろを歩いた。金持ち連中は違うね、という声が背中から聞こえた。私はカネをあまり持っていなかった。しかし、彼女は持っていた。彼女の顔が少しだけ曇ったようだったが、またすぐに元に戻して、スキップし始めた。

 私は自分のスーツがドレスコードに引っかからないかどうかを考え、フレンチのテーブルマナーを思い出すことで必死だった。

 並べられた食器を内側から使えばいいのか、外側から使えばいいのかもよく思い出せなかった。

 私はフランスについてはあまり詳しくなかった。特に料理の食べ方については。

 ビルを上がって、そこへついた。

「お客様、ご予約の方は取られていますでしょうか」

 藍原はサングラスを外して、自分の顔をスタッフへ見せた。

「支配人を呼んできますので、しょうしょうお待ちを」

 スタッフは店内へ消えて、代わりに支配人を連れてきた。

「個室でお願いします」と、藍原が言った。

「はい。かしこまりました」

 扉が開いた。

 私達は支配人によって個室へ案内された。私は彼女が顔だけで通してもらえる事を知った。常連なのだろうか。

「本当なら二ヶ月先まで埋まってるんですよ、予約。でも私は銀座の所もここも顔パスですよ!」

 私達は席に座って、料理が出てくるのを待った。

 彼女についてのことや私についてのこと、辻やみずなや高岸のことについて話した。料理が出てきて、彼女はシャンパンを飲みながら食べた。

 私もフルコースを食べた。酒は飲まなかった。

 私は美味しいと思ったが、しかし味があまりわからなかった。

 二万五千円のうちいったいいくらが場所代なのかと考えた。しかし彼女と食べる事ができるなら、ほとんどの人間は二万五千ぐらい喜んで払うだろうと思った。

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