第5話

 またシャンソンの扉を開けることになった。酒を飲めないのにバーを訪れると、獲物をおあずけにされた肉食獣のような気分になる。

 扉を開けて、最初に目に入ったのは、小さなスポットライトに照らされた、歌を歌う女だった。長く下ろした黒髪に、凜とした目つき、青いジャケットにジーンズを履いている。辻だ。

 周りではトランペットとピアノとサックスとベースが流れるように美しい音を出していた。雪が降る、体の芯から冷える日に、高層ビルからヘッドライトの川を眺めているような音だ。

 客の誰もが口を閉じて、目を彼女に向け、耳を傾けていた。粉雪のようで、それでいて力強い声だった。彼女の顔から想像される声と、ぴたりと合っている。

 扉を開けるのが忍ばれたほどだった。私と彼女の目が合った。軽くウィンクを飛ばしてきた。観客は後ろを振り返り、私に羨望の目を向けた。しかし、彼女は誰にでもウィンクを飛ばすタイプの人間だ。私と藍原は高岸とみずなの待っているカウンターへ歩きはじめる。藍原は今日マスクを付けていなかった。そして、私は高岸の右隣の席へ座った。藍原は私の右隣に座った。私は左を向いて、辻の方を静かに見つめた。高岸は片肘をついて、頭を乗せていた。

 みずなは目を瞑り、音を出さないよう注意を払いながらそっとグラスを布で拭いていた。

 美しいジャズだった。

 私はジャズが好きだ。ジャズを聴いているときは、この街から一歩抜け出したような気分になる。彼女が歌うとき、天に連れて行かれていくようだ。

 しかし、終わればまたこの街に戻る事になる。

 元に戻ると、私は探偵をしていて、冷えた弁当を直接かきこみ、安日給で殴られる。帳簿には赤字がかさむ。

 浮気の調査をしていれば、浮気がばれた女に腎臓を刺されかける。

 男が夜逃げした場所を捜していれば、やくざ達がドスを持って私を脅す。

 家出少女を捜していれば、バットやナイフを持った、半グレと呼ばれるちんぴら達に取り囲まれる。サラ金でカネを借りすぎた知人に弁護士事務所を紹介すれば、巡り巡ってサラ金が私を轢き殺そうとする。

 なぜ探偵を続けるのかと聞かれた。

 私は答えなかった。

 だったらやめろと言われた。

 私は答えた、いやだね。

 演奏も歌声も途切れた。どうやら今日はもう終わりらしい。知らない間に二曲を聴いていたようだ。

「皆さん、今日も私達の歌を聴いてくれてどうもありがとうございました。初めての方も、ね?」

 辻がマイクを持って、大きな手振りで答えた。初めての方と言った時に、高岸を見て、その後藍原を見つめた。

 拍手が聞こえた。私も拍手をした。

 藍原は口を少し、目を大きく開いて、動きを止めていた。

「すごく、上手いですね」

「ああ」と、高岸が小声で囁いた。

「今日初めて来てくれた方、名前を良ければ教えて貰っても構わないでしょうか?」

 高岸と藍原は押し黙っていた。二人とも何か考え事をしているようだ。

「あっ、こちらから名乗るのが礼儀ですね。私の名前は辻、辻です」

「彼女、誰かに似てるな」と、独り言を言った後、「高岸だ。以後よろしく」と言った。

「わたしの名前は・・・・・・桜木です」

 藍原は嘘を吐いた。

「高岸さんと桜木さんですか。じゃあこのお二方の為に、もう一曲だけ歌います」

「ポップスを歌ってみてくれ」と高岸が言った。

「わかりました。お客さんの要望には応えましょう」

 辻は奏者に向けて、縦に首を振った。

 演奏が始まった。ピアノの上でなめらかに、指一本ずつにAIが搭載されているかのような動きをしていた。トランペットもサックスは頬を膨らませ、リズムや吹く強弱に合わせて頭と楽器を上下させている。ベースも、4分音符を連ねていた。どこかで聞いたことのあるメロディー。ポップスのジャズアレンジだろうか。

 辻が頭を軽く揺らしてリズムを取っている。息を吸って、歌い始めた。

 月並みな表現だが、天使のような声だった。

 私は聞き入った。カウンターへ置かれた水を取って、飲んだ。喉が渇く。

 後ろから息をつく音が聞こえた。

「そんじゃそこらの歌手じゃ到底及ばないレベルだね、なぜノーマークだったかさっぱりわからない」

 高岸がカクテルグラスの底を持って、羽毛が地面に落ちる速度でカウンターに置いた。私は巨大な岩のように黙って聞いていた。

 辻は楽しそうに歌っていた。天国へ繋がる階段を昇っているとき、全ての女がする表情だった。マイクをスタンドから外して、左手で持っていた。空いた右手、肘を軽く畳み、手の平を空へ向けて、軽く振っていた。

 声のトーンが一段上がった。トランペットとサックスの音が大きくなった。ピアノを弾く指を、動かすペースが上がった。

 辻が目を瞑って、小さな顎を引いた。両手でマイクを持った。

 天使のような声が大きくなり、白い翼が生えたように思えた。

 辻の周りで、金箔が舞っているかのように見えた。

 私はそれをぼんやりと見ていた。耳はしっかりとしていた。

 そして歌声が止み、演奏が余韻を残すように、だんだんと静かになっていった。

 拍手が始まった。私もそれにならった。拍手も終わった。

「皆さん、今日はありがとうございました。では、今日はこれで」

 スポットライトが切られ、また元のバーに戻った。しかし客は、観客のままだった。

「素晴らしいね。これならヒット間違い無しだ」高岸が空のカクテルグラスを掲げて言った。

「でしょう?あたしの言ったとおりでしょう。女の言うことは聞いておくのが吉よ」

 みずながグラスに酒を注いだ。

「僕はいつも女の言うことを聞くと、ろくな目に合わなかったが、今日は別だね」

 私は持ったままだったグラスに気付いて、それをカウンターに置いた。

 熱に浮かされているようだった。私は彼女の事を愛してるわけではなかったが、少なくともその歌声は愛していた。

 少し頭を振って、思考力を取り戻した。

 グラスにつがれた水を飲んだ。

 そして、辻がそのままの服装と、にこやかな顔でやってきた。

「始めまして、高岸さんと、桜木さん」

 歌声と、話し声はあまり変わっていない。天性の歌のセンスを持っているように思える。

「君は歌が上手いんだね」

「わたし、感動しました!」

 藍原が席を立って、辻の手を握って上下に振った。二人の身長差は8センチほどあった。頭が揺れたのか、辻が少しふらついた。

 辻は眉の外側の端を少し下げ、唇を少し開いた。

「ありがとう、桜木さん。満足してくれたら、それでいいのよ」

 藍原のサングラスがずれて、瞳が覗いた。少し潤んでいた。首の辺りまで赤くなっている。辻が首を少しかしげて、藍原の手を軽くふりほどいて、藍原のサングラスをとった。

「あれ?貴方ってまさか」

 藍原が辻の唇を指で押さえた。

「はい、そのまさかです。しかし、そのことについては黙っていてもらえませんか?」

 辻は一歩後ろに下がった。

「わかってますよ」と、慌てて辻は言った。サングラスを藍原が取り返して、またかけた。

「女相手に動揺するなんて男泣かせの名が泣くわね」

 みずなが辻をからかって、「この人ね、何人もの男を泣かせてきたのよ。男遊びが好きなの」と、にやりと笑った。みずながこちらを見た。別に私は彼女に泣かされたことなどないのだが。辻は何も言わなかった。

 そして、「君の妹を見たことがある」と、高岸が切り出した。

 しかし、私とみずなはその言葉の意味を知っていた。禁句という意味だ。

 空気が凍り付いた。

「私の妹の話はなしにしてもらいましょうか」

「わ、わかったよ」

 辻がカウンターに座った。ダージリンを淹れてよ、と辻が不機嫌な声を出した。

 高岸が私の肩を押して、後ろを向かせて、小さい声を出した。

「妹さんの話は駄目なのかい?なぜ?」

「端的に言うと、彼女は妹にコンプレックスを持ってる。彼女は歌とルックス以外何もない、と自分で言っている。しかし、妹は何でも出来たらしい。姉は高校卒業後、歌のためだけに一人で上京してきた。おまけに妹は姉を心底馬鹿にしているらしい」

 私は彼女と、彼女の妹が会って話をしている所を見たことがある。

 昼下がりのカフェで、二人は話し合っていた。彼女はダージリンを飲み、妹はエスプレッソを飲んでいた。ダージリンはカップに半分、エスプレッソはカップにほんの少ししか残っていなかった。二人とも砂糖は使わなかった。

 妹は姉さん、もうバーの歌手なんてやめて、まともな仕事に就きなさいと言った。

 彼女は、歌を馬鹿にしないで、と言った。

 妹は、姉さんはいつも歌ばっかり、他にないのと叫んだ。

 彼女は、あんたにはわからないかもしれないけど、あんたとちがって私には歌しかないのよと言った。

 妹は、姉さんみたいなあばずれ、知らないわ。いつもいつも出来の悪い癖して、まだ私に何か言う気なの、と叫んで、カフェを出た。

 彼女はその後私に近寄って、もし妹に何かあったら助けてあげてくれないと言った。

 私はわかった、と言った。

 それを今でも思い出す。

「わかった、気をつけておくよ」

 私と高岸は座った。

「僕はこういうものなんだが、端的に言うと君をスカウトしたい」と、高岸は名刺を取り出した。

 辻は受け取って、よく読んだ後不機嫌な顔をやめて目を輝かせた。

「本当に!?」

 彼女は嬉しそうだった。

「でも、顔で売らないでよ。歌で売って欲しいの。今までスカウトしようとしてきた人は皆歌手とモデルかなにかと二足のわらじをさせようとしてきたの。出来ないことも無いけど、歌を侮辱されているようで嫌だわ。だから断ってきた。歌だけで売ってくれる?」

「もちろんだとも」

「今なら貴方に抱かれてもいい」

 辻は熱が籠もった視線を、その天使のような声で高岸に投げかけた。

「やめとくよ、疲れてる。あと、もうそういうのはやめてくれ。スキャンダルになる」

「はーい」

 辻が手をひらひらとさせた。了承の合図だった。

 高岸がバーのカウンターの一番端に座っている、黒いスーツの男二人組を呼んだ。

 一人は百七十センチの後半、がっしりとした体格だった。

 もう一人百七十センチぎりぎりの、細い男だった。

「この二人が、僕の会社の中で一番腕の立つボディガード二人だ。こっちのでかい方が山田、小さい方が田口。二人とも腕利きだ。大概の場合、二人もいれば十二分だろう」

「山田です。オレ達に任せてください。楽しんでもらえると嬉しいですね」

「田口です。何も無い事を祈ります。仕事以上にお金を貰いたいんでね」

 私は二人に頼んだ、と言った。

 二人はまたカウンターの端へ戻っていった。

「それでは、ガールズトークを楽しんでくれ」と、私はグラスを持った。

 高岸もカウンターの別の場所へ行った。

 藍原とみずなと辻が仲良く話を始めた。華があった。客達は常にそちらに目を配っていた。私はカウンターの別の端へと座った。

 私は考えた。

 辻は歌に全てを懸けている。藍原は女優をしている。みずなは夢破れ、今はバーテンをしている。高岸は、自分のことを空虚だと思っている男だ。

 個性的な面々だ。

 華やかな仕事というのは、常に瓦礫の上に立っている。

 たいていの人間は、それに気付いて、そのうちそれを目指すことをやめ、普通の仕事をして、そのまま死んでいく。

 賢いと言える生き方ではあった。しかし、それだけだった。

 高岸のように、いくら金を稼いでも使い道がわからないというような空虚な生き方をすべきなのだろうか。

 私の仕事は、華やかでもなければ、賢いとも、儲けられるとも言えない仕事だ。

 一体誰が憧れて探偵になる?私のような、賢くなく、はみ出し者の癖して、人の役に立とうと思う人間だけだろう。はみ出し者なだけなら、犯罪者になり、戦ってでも人の役に立とうと思う者は警官か軍人になり、賢くないだけなら何をしているのだろう。芸能人だろうか。

 賢い生き方をしろと誰かが言った。自分を大事にして、なにも起こらない平和で、そのまま老化するような仕事に、と。

 しかし、私は空虚な生き方を受容する気はさらさらなかった。

 眠くなってきた。少し寝させてもらおう。仮眠は大事だ。水を飲んだ。肘をついて頬にあてた。

 目を瞑って、ゆっくりと眠りに落ちた。

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