第4話
車をガレージに入れた。念のためエンジンはかけたままにしておく。
ガレージを確認した。鉄の匂いがする。二つのX字の上に板が付いている物があった。ジャッキだった。油に濡れたスパナやレンチがあった。
何も変わっていない、普通のガレージだ。黒のレザージャケットを着た男が隠れていない普通のガレージだ。
藍原が車を降りた。
私が先に階段を昇り、事務所の隅々まで確認した。誰もいない、いつもと変わらない殺風景な事務所だった。
濡れたスーツをハンガーに着てもらう。彼の仕事は、私の代わりに服を着ることだ。下に降りて、車のエンジンを切り、キーをポケットに入れ、また戻った。
私の仕事は、依頼人の代わりに歩き、走り、探し、つけまわし、罵られ、蔑まれ、殴り、殴られ、蹴り、蹴られ、刺され、撃たれる事だ。
とても割に合うとは思えなかった。しかし、やらなければならなかった。
スマートフォンを取り出し、高岸に電話をかける。殴られても、落としても大丈夫なように、堅い黒のカバーをつけている。
電話が繋がって、低く気怠い声が聞こえた。
「なにか僕に言い忘れたことがあったのか?」
「私が店を出たときに、そのストーカーのような男が私の足下にボウガンを撃ち込んだ。矢文で、手を引けという古風な脅迫だった。それに、店に来る前に男二人が張っていた」
「なら、ボディガードを二人腕のいいのを付けておこう。柔道をやっていた男と、合気道をやっていた男だ」
「それなら私はいらないんじゃないか?」
「君も腕が良さそうだし、多い方がいい」
「わかった。ありがとう。そっちも気をつけてくれ」
「おやすみ、探偵。おやすみ?何を言っているんだ、僕は?まだ今は昼じゃないか」
「疲れているんだろう。出来るだけすぐに休めるように願っている」
心配どうも、と聞こえた。電話を切った。
藍原がベッドの上で、銀色のロザリオを両手に持っていた。
右手でロザリオの上を持ち、左手でロザリオの下を持っている。
そして、ロザリオが二つに分かれた。
「これ、外れるんですよ。なぜなのかさっぱりわかりません」
ロザリオの下部は四角い棒状のカバーだった。
十字架の、地獄へ向かって伸びる棒の部分は柱状になっている。
柱には複数の複雑な溝、根元は深くえぐれている。先端の水平に切り落とされた部分にも、溝が刻まれていた。
「私にも、さっぱりわからないな。しかし、鍵のようにも見える。だが、自分のペンダントじゃないのか?」
「あるとき、急にこれがこういう風に分かれるようになったんです。楽屋に少し置き忘れた間に。すり替わっていたのかもしれません」
十字架の形をした鍵、天国へと繋がる扉を開ける鍵のようだ。
何を開けるのだろうか。しかし、今はあの男に対処する方が先だ。
私は念のため、戸締まりを確認した。
ブラインドを上げ、窓の前に立ち、二階から外を見下ろした。
見えたのは、民家と、民家と、コーヒーショップと、運輸会社のトラックと、トラックに似た顔立ちをしている中年の男だった。
中年の男はトラックに駆け込み、急いでアクセルを踏んだ。シートベルトはしていなかった。いつもと変わりはない眺めだった。
雨は降り続けていた。汗でシャツが体に張り付いた。
「シャワーを借りていいですか?」と、藍原が言った。
私は頷いて、了承した。
「明日また、あのシャンソンという店へ行きませんか?」
「なぜだ?」
「あのみずなっていう人のこと、結構好きになれそうですから。それに、辻さんにも興味があります」
「わかった」
どうせなら、と私は高岸に電話をかけた。
明日の夜七時に約束を取り付けた。
辻が天使のような歌声で、ジャズを歌っている頃だろう。
天使のような歌声を持つ人間がいても、この街には天使なんていない。いたとしてもこんな雨の中では、翼が濡れて飛び立てないだろう。
翼を折り畳んで、ネオンが輝くブランドショップの軒下で凍えて、震えているのだろう。
水江や、あのストーカーもどきのような人間なら掃いて捨てても足りないほどいる。
この世界のどこを捜せば天使がいるのか。
私は思いつかなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます