第9話

 事務所に帰り、死んだように眠った。一日が経過して、夜になった。外はよく見えなかった。

 高岸に電話をかける。昼はかからなかった。仕事をしていれば当たり前の話だが。

 水江の情報を聞き出したかった。

「やぁ、僕だ。何か用かい?探偵さん」

 私は話そうとした。しかし、舌が痛んでうまくしゃべれなかった。

「水江の情報を聞きたい。何か、弱みを握れるようなことはないか?」

「情報ね。しかし、何をしようって言うんだ?あいつはカネもあるし、使い方も知ってる。警察だってろくに動かないのは分かってるだろう」

「しかし、日本の全ての警察を買収出来るわけじゃ無い」

「なるほどね」と、高岸は間を置いた。

「知ってるかもしれないが、あいつは有名な芸能会社の跡取り息子で、親がちょっと前に死んだから、引き継いで社長になった。うちのプロダクションよりでかいぞ。スター一人とあまり有名じゃない奴等を揃えてるうちより、高い奴等を平均的に揃えてるから、あっちはでかいんだ」

「ああ」

 そこは知っていたので、あまり興味がない情報だった。

「女とカネと遊びが好きで、よく自分のとこのに手を出してるという噂がある。よくは知らないが、みずなさんもやられただろう。多分多いだろうな。しかし女性関係ごとき、あいつなら軽く握りつぶせる」

「わかってる。他は?」

 みずなの事を思い出した。

「あいつの父親は麻薬を芸能人やスタッフに持たせ、海外ロケで輸出入してカネを稼いでいたという噂がある。たぶん同じ事をあいつもしているだろう。その麻薬の入手ルートは暴力団からというわけだけではなかったようだ」

「と、いうと?」

 私はペンを右手でくるりと回した。

「かかりつけだか抱き込んだんだか知らないが、医者と組んで医療用モルヒネを流していたという噂があった」

「それはどこの医者だ」

「知らない。しかし、水江と共にいた医者を見たことがある。小さな老人だ。肌が黒めで、額に深い横皺があって、しわがれた声だった。確か和の趣味を持っていたはずだ。茶器とか、掛け軸とかだったかな。自慢の掛け軸を見せてきたことがある」

「どんな掛け軸だ!?」

 私は声を荒げた。

「確か、水墨画の掛け軸で、竹が三本生えていた。50万円とか言ってたかな。僕には価値がよくわからなかった」

 私は溜息をついた。だから藍原にすぐに電話がかかってきたのか。あの電話は水江からだったのだ。

「何かわかったのかい?」

「私が藍原を連れて行った病院だ。ちょうどそこに連れて行った」

「なんだって」と高岸が言った。

「すぐに水江から電話がかかってきた。チクられたんだな」

 高岸は少し時間を空けた。何かを思い出しているのだろう。

「確か明日水江が渋谷のクラブでパーティを開くらしい。きっとその麻薬も裏で流れてるだろう。そこで証拠をつかみにいくのはどうだ」

 藍原が電話で言っていたパーティの話か。

 高岸の提案は、中々悪くない物だと思えた。私もそうすることを選ぶだろう。

「そうしよう」

「僕も行く。その方が会場に入りやすいだろう。一応彼とは顔見知りだ。仲がいいわけではないが。明日の五時に君の事務所の前に行く」

「わかった」

「ああ、それと水江には用心棒がついている」

「どんなのだ?二メートルはある大男か?それとも相撲取りか?ボクサー崩れか?」

 私はおどけた。

「加藤という名前だ。身長は君より少し低いが、レスラーみたいな体をしている。大学でアメフト部をやっていたと聞いた。昔、レスラーと喧嘩になったが、数秒でのした。ボクサー崩れとも、タックルで一発、頭を打ってボクサー崩れはKOだ。趣味は酒とビリヤードとハンティングで、家に鹿や熊の剥製や毛皮を飾っている。性格はたぶん君が考えているとおりだ」

 溜息が増えた。

「つまり、凶暴って事だな」

「ああ。気をつけてくれ。それじゃあ、もうすぐ仕事だ。切るよ」

 私は電話を切ろうとした。しかし、高岸の電話から、女の声が聞こえた。

「は〜い探偵さん?」

 人が心地よく酔っているときの声がした。みずなだった。

「私もそこに行くわ」と、みずなが言った。

「危ないだろう、君はバーにいた方がいい。藍原をそこに預けておいたほうがいい」

「これだけ関わって、ただのバーテンでいろっていうの?水江を捕まえるのに?私がもっと会場に入りやすくしてあげる。どうせここにいたって、あんな奴が来たらひとたまりもないわ。それなら攻撃を仕掛けるのよ。攻撃は最大の防御って言うでしょ?」

 短機関銃のようにまくし立ててきた。

「わかった。じゃあ頼もう」

「ふふ、ありがとう、色男さん?」

 電話が切れた。

 電話に背を向けると、藍原が少し頬を膨らませていた。

「探偵さん。みずなさんってあなたの彼女さんですか?」

「いや違う。昔の依頼人だ。昔の・・・・・・」

 私は煙草を吸おうとしたが、心臓の辺りの胸ポケットにマルボロはなかったし、ジッポーのライターもなかった。

「私の知らないあなたがいっぱいいるんですね」

 藍原の言葉は、どこか昔を懐かしみ、今を寂しがるような言葉だった。

 私の疑問はついに抑えきれなくなった。

「率直に言うぞ。昔私と君はどこかで会ったことがあるか?」

 彼女は、悲しそうな、あきれた顔をしていた。

「もちろんです。あなたとわたしは、酒場で会ったんです。銀座のバーで。わたしはあなたの席の近くに座っていました。どこか寂しそうでした。わたしはあなたに話しかけました。気があったんです。わたしはあなたに惹かれました。背が高くて、格好良くて、顔も良くて、話もうまかった。二人は少し飲み過ぎて、一夜の過ちを犯してしまったんです。わたしは真っ青になって、あなたが起きる前に帰りました」

 藍原はグラスについだ琥珀色のコニャックを揺らしていた。その思い出がとても綺麗な琥珀色だとでも言うように。

 回転いすの背もたれに胸を預け、彼女はコニャックを見つめていた。

「わたしがなんで何年も何も言わなかったか知ってますか?」

 私は答えられなかった。こういう時、小説の中の探偵なら口裏を合わせるような答えも、彼女の望む答えも雨が降るより早く返せるのだろう。私は言うべき言葉をわかっていたのだが、答えられなかった。

「あなたにわたしを思い出して欲しくて、電話をかけて欲しくて」

 藍原はコニャックを少し飲んだ。涙がグラスに数滴そそがれた。

「でもあなたは思い出してくれなかった。わたしは何年もあなたの名前を探した。そうしたら2週間前、歩いてたとき、ここの窓から顔を出していたあなたを見つけたんです。そしたらこんなにも近くにいるなんて。私の事務所の近くなんですよ、ここ。わたし、馬鹿みたい。何年も探してたのに、探してたのに・・・・・・」

 私は机からマルボロとマッチを取った。マッチを擦って背中を向け煙草を吸った。

 女の数年を裏切った男は、他人に合わせる顔など持ちはしない。

「ここに真っ先に来たのは、報道陣が嫌いだっていうことは半分嘘で、あなたの事務所に来る口実だったんですよ。直で見てもらえば思い出してくれるんじゃないかって」

 煙草は苦かった。とても、とても。

「どうぞ笑ってください。馬鹿なわたしを。ピエロみたいでしょ?馬鹿みたいに踊り続けてきたんです」

 彼女の喉が鳴る音が背中から聞こえる。きっと宝石を飲み干したのだろう。思い出とともに。グラスを机に叩き付ける音が聞こえる。

「ふざけないでよ・・・・・!背中を向けないで!わたしの顔を見てよ!」

 彼女は私にグラスを投げつけた。背中に当たり、地面に落ち、グラスは割れた。

 琥珀色の記憶が、薄汚れたリノリウムの床に散らばった。彼女は少し呼吸を整えて、窓の近くの紫陽花を見て言った。

「紫陽花、あなたにぴったりですね。花言葉で、あなたは冷たいって意味です」

 彼女は足音を鳴らしベッドに飛び込んで、少しすると寝てしまった。

 グラスを片付け、彼女に布団をかけ、コニャックの瓶を冷蔵庫にしまった。

 私はその夜、昔の思い出にふけっていただけだった。

 ソファーに横たわったが、寝ることが出来なかった。

 紫陽花は私を睨み付けていた。煙草だけが私の友人だった。

 蒼の花びらが一枚、紫煙の立ち上る速さよりゆっくりと、リノリウムに堕ちた。

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