第8話

「二人を見てくる」私は言った。

「気をつけてくれ」高岸が言った。

 二人が向かった東へと歩き始めた。

 少しストレッチをした。いざというときに体が動かなければ、地面に座って待っている方が幾分いいだろう。

 人波をかき分けて、七分ほどたった。路地という路地を隅まで見た。新宿の裏路地だ。どこに誰が、何があるのか。危険だらけの街だ。

 そして、二人が倒れている路地を見つけた。

 やはり、私の祈りは神にまで届かなかった。

 目をこらして、路地を見回した。あの男はいなかった。

 山田は座り込んで、壁にもたれかかって息を荒げている。

 田口は路地でうつぶせになって気絶している。頭から血を流していた。

 銃創はない。刃物の跡もなかった。

「大丈夫か!?」

 山田は答えなかった。私は目の前に回った。そうすると、山田がこちらに気付いたかのように目を大きく開いた。

「ああ、探偵さんか。見ての通りやられたよ。素手相手にな」

 声のトーンが少し違う。やたらに大きい声を出していた。よく見ると、両方の耳の穴から血を流している。

「あいつ、容赦のかけらもない。掌で両方鼓膜を破られた。服を掴んで投げようとしたら指を全部へし折られた。田口は蹴りで玉をやられて、目と喉に貫手を食らって、頭から投げ落とされて伸びてる。生きているか死んでいるかもわからん」

 山田の両手を見た。針金細工のように指を畳まれていた。

 私はメモ帳を懐から出して、奴はどこに行ったとボールペンで書いた。

「向こうだ。向こうに行った」

 山田は前を指さした。指の向きではどこを指しているのかわからなかったが、腕の向きで考えた。

 救急車を呼んでおく。待ってろ。と私は書いた。

「頼んだ」と、山田が言った。

 私は救急車に電話をした。私は指を田口の頸動脈に当てた。一応死んではいなかった。山田に向かって親指を立てると、山田は何度も頷いた。

 路地から出た。そうすると、あの男が立ってこちらを見ていた。

 素手だった。しかし、素手とは到底思えない殺気があった。

「来いよ、探偵」

 男が言った。

「ああ」

 私は返事をした。気持ちを切り替えて、体を動かした。蹴りも拳もよく出た。

 もし空手やキックをやっていなければ、私は女にもやくざにもちんぴらにも殺されていた。何個命があっても足りない人生だっただろう。しかし現実にコンティニューはない。私は身長も充分にある。185センチ。しかし私の体重は男より10キロは軽いだろう。

 男の後についていって、10本ほど越えた所で男は右に曲がって路地に入った。

 私は路地裏に消えていった男を追った。

 誰もいない。奴は確かにここへ入ったはずだ。食べ残しが溢れたゴミ箱がある。配管がある。暗闇がある。細長い路地裏を斜めに切るような影がある。

 一歩一歩踏み出していく。靴がアスファルトを打つ音が響く。

 どこだ。どこにいる。

 後ろで重いなにかが落ちる音がした。

 振り返るとその男が一本道を塞ぐようにして立っていた。配管の上から降りてきたのだろうか。

 しまった。

「捜し物はこれかい?」

 男はダイヤモンドの指輪を見せびらかすように携帯をつまんで手を振った。

「武器を持たずに人を深追いするのはまずかったんじゃねえの?」

 男の声は高くなかったし、低くもなかった。その代わりに少し嬉しそうな声をしていた。

 棍棒のような前腕に丸太のような二の腕を持っている。あれで殴られたらたまったものではない。男が右のポケットにスマートフォンを入れた。

「お前が藍原を襲った男か」

「かもな。襲った奴なんて多すぎて覚えちゃいねえや」

 男が一歩ずつ歩き始めた。ブーツの硬い底がアスファルトを打つ。

「だがおたくはついてる。今日は俺は何も持ってない」

「アイスピックは封印か?」

「そんなところだ。武器を使うと結構足がつきやすいんだ。拳銃なんてとくにな」

 見た目で男が鍛えていることは分かった。

 身長は私の方が10cmは上だ。だが相手は鉄板の入ったブーツを履いている。蹴りが骨に当たったら、それだけで一本持っていかれてしまう。

 本当なら逃げた方が得策なのだが、それなら最初からここまで来ない。

 男が左手を顔の高さに、右手を腰の高さで構えた。

「アンタ一人のが、あの二人よりよっぽど骨がありそうだな。あんたはデカイが、細すぎるな」

 私も顎を引き、拳を軽く握って口元の高さに上げ、脇を少し開け、足を開いた。キックボクシングの構えだ。

 目や鼓膜、首や股間を躊躇なく狙ってくるし、指を折りコンクリートの上で平気で頭から投げ落としにかかるような奴だ。それにこの体格に、あの靴。一撃が恐ろしく重い。凶器も使う事ができ、賢さと残虐さと冷酷さと執念深さを兼ね備えている。

「俺の名前は三浦と言うんだ。以後よろしく」

 もちろん偽名だろう。

「以後なんてあると思ってるのか?ここでお前を倒して、警察に突き出してやる」

「出来たらいいな、探偵さんよ」

「そう願うよ」

 ゆっくりと距離を詰めた。私の方がリーチが長い。

 私は左の拳を相手の顔に向かってのばした。避けられた。右足で太腿を叩こうとすると、カットされた。三浦の左の揃えられた指先が目に向かって飛んできた。一撃で失明しかねない。首を捻り、ぎりぎりで避ける。顎への右の拳を左手で払った。右の拳で弧を描くように胴へ打ち込む。男の顔が歪んだ。左で同じように顎へ打ち込もうとすると、三浦の体が丸まり、右手を頭に付けて、左手で右手を持ったまま右肘を私の顎に突き刺した。私の左フックは肩で弾かれた。そして私の腕を左手で払い、顎へ頭突きを叩き込んできた。ぐらりとした。しかし私はおくびにも出さなかった。鼻に指を曲げた手の平が真っ直ぐ、それと同時に靴が向かってきた。指を目に入れ、膝を壊す気だ。私は避けて相手の手を掴んで引っ張り、足を弾いて転ばせた。三浦は私の襟首を左手で掴むと、足を私の腹に当てて、私を横に投げた。肩からアスファルトに落ちた。肩が痛んだ。三浦はそのまま私の右手を足で挟んで、引っ張った。肘の関節が悲鳴を上げ始めた。私は足首に噛みついた。三浦は短い悲鳴を上げて腕を放し、転がって距離を取り立ち上がった。私も立ち上がった。

「やっぱり俺の見込み通りだな。さっきの二人と全然違って、強いぜ。噛みついてくるんなら、寝技は無しだな。指に目を入れられるかもしれない」

 三浦はサングラスを外して、半ズボンのポケットへ突っ込んだ。

 目がぱっちりとしていて、二重まぶたでまつげが長かった。白目が赤く充血しきって、左目の黒目のすぐ脇に、赤黒い塊ができていた。右目は奥二重で、左目は二重。左右で目の大きさが全く違う。子供っぽい顔つきに見えたが、それが冷酷さを強調していた。

「それはどうも」と、私は適当に言った。

「そっちのが楽しい」と、返された。

 また、素手で殴り合い蹴り合う時の距離になった。

 私は三浦の前で振り返りながら右のかかとをこめかみに向かって打ち込んだ。三浦は体を丸め、避けた。私はその回転を利用して、右手の甲を打ち付けた。三浦は前に飛び、右手で受け止めると同時に左手で私を押し飛ばした。次に来た、三浦の右ストレートが半身になっている私の腹に入った。肝臓に当たって、気持ちが悪くなった。

 三浦が私の右手を取って、肘関節の部分に三浦が肘を振り下ろし、無理矢理曲げた。そのまま内側にねじり、私を投げた。私が転ぶ時に腎臓を蹴ってきた。顔が引きつった。三浦が靴で喉を踏みつけようとしてきた。転がって避けて、立ち上がった。

 三浦がそのまま走ってきた。捕まれて、壁に叩き付けられた。息が強く吐き出された。しかしそのまま拳をハンマーのように使い、三浦の鼻に打ち付けた。三浦は後ろへ飛んだ。靴のつま先を三浦の腹に叩き付けた。三浦の体が丸まった。そのまま下がった頭を蹴ろうとしたが、すんでのところで止められた。三浦が飛び込んできた。まずい、後ろは壁だ。私が左手を出した。三浦は身をかがめ、よけた。そのまま左手で肝臓へフックを打ってきた。腕で弾いた。右手をV字状にし、私の喉へ飛ばした。のど輪だ。これを食らったら一撃でのど仏が陥没し、死んでしまう。左手で弾いた。私は右膝を三浦の腹へ打った。当たった。しかしそのまま連打を続けてきた。胴へ右フック、顎へ左アッパー、こめかみへの右肘、肝臓への左アッパー。全て弾いた。防戦一方だ。キックボクシングよりボクシングのが得意らしい。肘は反則だが。下がった三浦の左手が見えたので、そこへ右手で顎にフックを打ち込もうとした。誘いだったのだ。頭突きが鼻へ来た。自分の後頭部が壁に打ちつけられた。ガードが甘くなってしまった。肝臓に左のフックがきた。顎に右の掌を喰らった。右肘が顎に当たった。左肘がこめかみに当たった。頭突きをされ、腹にストレートが当たった。私は崩れ落ちた。意識は飛びかけ、体に力が入らなくなった。呼吸もぎりぎりだ。

「手こずらせてくれるぜ。ちょいとタフすぎやしないか。俺にこれだけ殴られてまだ立とうとしてやがるのか。あの二人なんて五秒もかからなかったのに。どういう体してやがる」

 三浦は息を切らしていた。

 意識を手放しそうだ。舌を噛んだ。頬を噛んだ。爪で肉をえぐった。何でもやって、意識を保った。悪魔に魂のバーゲンセールをしてでも、意識を手放したくはなかった。立とうとした。立てない。

 三浦が胸ぐらを掴んできた。私を壁に叩き付けた。三浦は顔を近づけ、右手の親指を私の左目に当てた。

「目が潰れるときの音を聞いたことがあるか?目を潰してえぐって、神経を引き抜く。そこの穴に先に長い針をつけた中指を突き入れると脳まで届くんだ。それで指を動かす。脳味噌は豆腐ぐらいの堅さで、するする指が動く。生きたまま脳をかき回すと、だんだん狂っていく。思考がぐちゃぐちゃになって、神経が死んで、体が動かなくなって・・・・・・死ぬ。だんだん喋っている言葉が滅裂になってくるんだ。助けてと言っているのに、わけのわからない助けてを言うんだ。ちゃんとした言葉を言えたら助けてやるのに、言えないんだ。HELPがHORPになったり、助けてがかうねてになったりな」

 私は血と唾液が混ざった物を飲み込んだ。

 三浦はポケットから細い針を持ち出して、私の目の前でそれを輝かせた。

「これだ」と言って、10才の子供が遊園地へ行ったときのような笑顔を見せた。

 私の頬に針を少し刺した。少しずつ意識が戻ってきた。

「まぁ、そんな事をする気はない。殺すか殺さないかは気分なんだが、今日はそういう気分じゃない。つまりそういう契約じゃないのさ」

 三浦は私を離した。私は三浦に抱きつくようかたちで倒れ込んだ。三浦の胸に倒れ込み、ずるずると地面へうつぶせに倒れた。

 三浦は私を見下ろしていた。空いている右手で三浦の足首を掴んだ。

 三浦は足を振り払って、少し歩いた。

「情けないな、探偵。倒れ方にも風流ってもんがあるだろう」

 私は何も返さなかった。左手でポケットの感触を確認すると、私はまた立ち上がろうとした。三浦は少し離れて、立っていた。

 ゴミ箱の中にビール瓶が入っているのが見えた。

「アンタが何をやりてえかはわかるんだ。使えよ。瓶の底を叩き付けて割って、ナイフみたいに使うんだよ。そっちのが面白い」

 三浦がビール瓶を取って、こちらに投げてきた。ビール瓶が手元へ転がってきた。

 私はそれを手に取り、言われたとおりに底を叩き付けた。瓶の底が割れて、きらめいた。私は立った。まだ立てるのが奇跡だった。

 三浦が両手の指を揃えて、手刀のようなかたちにした。腰をかがめて少し丸くして、みぞおちのあたりで構えている。

「よしきた。立ったな。流石だ。来い」

「言われなくても」と、私は言った。うまく言えなかった。

 右手で顔に向けて突いた。三浦が前へ出て、左手で払われた瞬間右手で殴られた。

よろめいた。後ろへさがった。

「ほら、次こい」

 五回やったが同じ結果だった。突いては殴られ、振っては殴られ、つまりどうやっても殴られたのだ。

「楽にしてやろう」と、三浦が言った。

 三浦が右足を思いっきり私に向かって振った。こめかみにブーツの金属を喰らった。

 私は倒れた。今度こそ意識を失いそうだった。

 三浦は私の体に馬乗りになり、唇を舌で反時計回りに舐め回し、下唇を上の前歯で二回弾いた。

 膝で私の両腕を押さえつけて、殴ることも何もできなかった。膝を立てて踏ん張って起き上がろうとしているが、巨像にもたれかかられているようだった。

 太い両腕が伸びてきて、私の首を掴んだ。

「気が変わった。お前を殺す。俺の握力は両手で合わせて200キロ以上。さぁ、何秒耐えきれるかな?」

 三浦の顔に残虐な笑みが浮かび、前腕の筋肉が大きく盛り上がった。

 息が出来ない。吐き気が襲う。のど仏が嫌な音を立てる。

 景色が点滅し始める。

「後は下水道にでも投げ込んでやるよ」

 視界の端が白く変わり始めた。

 しかし、足音が聞こえた。

 天からの助けが来た。不運な私には信じられないことだった。

「待て、警察だ。そいつから離れろ」

 私があまり好きでない、警察の声だった。しかし、今は愛しているといえる。

「おうおう、サツかよ」

 男の手が首から離れた。

 私は激しく咳き込み、生理現象から涙が目に溢れた。

 色が少しずつ戻り始めた。

 難を逃れた。もし男が抵抗すれば、警官は警棒か銃を持ち出すだろう。とても警棒でかなうとは思えないが、かなわなければ拳銃がある。元軍人やそういうものでなければ、銃への対処法はそうそう知らないはずだ。しかし、あの動きからすると、人を普段から殺しているのだろう。人を殺したり、壊したりするための動きばかりだ。知っているかもしれない。立ち上がった男は二人の警官の顔を見つめた。二人は警官ではなく刑事だった。警官お決まりの制服の代わりに、刑事お決まりのスーツを着ていた。背丈が低い方はグレーの上下、背丈が高い方は黒の上下だった。

「あぁ、お前か」

 三浦は刑事に言った。

 そして刑事は私の予想外のことを言った。

「いいか、三浦。そいつをそこで殺すと俺達はお前を逮捕しなくちゃならなくなる」

「わかった。やめておこう」

 何も話さなかった刑事の方は路地の壁にもたれかかり、私に背中を向けて通りを見ていた。

「駆けつけたのが俺で良かったな。他の奴だったらマズかったかもしれねえ」

「他の奴だったら気絶させた後に逃げてたぜ。銃だって捌く自信はある。別にビルの上に登ったっていい。パルクールは得意なんだ」

「わかったわかった。さぁどっかに行け」

 三浦は背中を向けて歩き始めて、代わりに最初に叫んだ刑事が倒れている私に近寄りはじめた。

 伸縮式の特殊警棒を持ち出して、肩を軽く叩いた後ホルスターにしまい込んだ。

 私はやっと立ち上がった。建物の壁に手を付いて寄りかかっているのがやっとだった。

「お前が噂の探偵か?」

 刑事の髪の毛は波を打つような形をしており、眠そうな目をしていた。身長は三浦とそれほど変わらなかったが、贅肉も筋肉も付いていない体つきをしていた。

 全てに興味がないようなそんな目をしていた。人食い熊が檻の中で生きた人間の内臓をすすっていても、顔色一つ変えずにあくびをすることができるだろう。

「なぜ私の噂が立っているかさっぱりわからないね」

「ああ、自分の胸に聞いてみな」

 刑事が二本指で私の心臓の部分を軽く押した。

「お前の名前は?」

「菊知と呼んでくれれば結構だ」

 刑事は菊知と名乗った。見たことのある顔だった。シャンソンの前に止まっていた車の中にいた人物と同じだった。

「なぁ。悪いことは言わない。手を引け。これは忠告だ」

 菊知は煙草をラクダの絵柄のパッケージから取り出し、私に突きつけて顎を小さく前へ振った。

「火だよ。火を寄越せ。使えないな。探偵なんて小間使いみたいな仕事をしてるくせに」

 私はライターを持っていなかったし、火を付けてやるのも癪に触るので、腕を動かさなかった。

 菊知は舌打ちをして、100円ライターを使い自分で煙草に火を付けた。寂しい灯火だった。

「つまり、お前達は水江の手下ということか」

 男は何も言わずに二度頷いた。そして一息吸った後に話し始めた。

「警察も会社みたいなもんだし、従業員だって人間だ。人間は生きるために金を使うし、会社は利益が多い方がいい。つまり税金を多く納めてるほうのために働くんだよ。わかるな」

「腐った会社だ」

「世界一の大都市っていうのは、そういうもんだ」

「お前は汚職の金で何をするんだ。いったいいくら貰う?」

「宝くじでも買って、当たったら警察なんてこんな小間使いみたいな仕事とは永遠のお別れさ。お前もこの世やシャバとお別れする前に手を引け。たかが女の人生一つ見捨てるだけだ。35億人の中のたった一人を見捨てるだけだ」

「この世に35億人の女がいようと、私の依頼人はたった一人だ」

 菊知は後ろを向いてもう一人の男に声をかけた。もう一人の男はこちらを向いて首を少しかしげた後歩き始める。

 名前は三木と言うようだった。

 細い黒縁の眼鏡をかけており、切れ長で、神経質そうな目つきをしていた。背丈は私より少しだけ低かった。右手には警棒を持っていた。実際は神経質ではないのだろう。神経質な人間は汚職をするときこんな嬉しそうな顔はしない。

「なんだよ」と、三木が言った。

「こいつは忠告を聞かないつもりらしい。警告を与えてやろう」と、菊知が言った。

「そいつはいいな。これが終わったらラーメン屋でも行こう」

 三木は菊知の一歩前の距離まで近づいた。

「ラーメンか、わかったよ。探偵さん。悪いがこれも職務なんでね。警棒で叩かせてもらおう」

 菊知が右手に持った警棒で振り向きざまに私のこめかみを殴りつけようとした。

 私は身をかがめて、菊知に肩で体当たりをした。半身になっていた菊知は五歩後ろへよろめいて倒れた。三木はそれを左へ避けて、警棒で私の背中を殴りつけた。

 骨に響く、鈍く重い痛みだった。

「抵抗するなって言ってるだろうが」

 三木に足を引っかけられ、背中を押されて私は転んだ。

 あの殺し屋か何かに殴られて本調子が出なかったと言っても後の祭りだ。

 菊知も起き上がって、私を警棒で殴りつけた。骨は折れない程度に加減されていたが、それでも起き上がることは出来ないほどの痛みだった。

 二十秒は警棒で打ちすえられていた。

 背中を丸めて、手で頭を押さえた。

 存分に私を打ちのめした後、警棒を納めて二人は帰ろうとしていた。

 私は自分のことをタフだと思っているが、これにはこたえた。

 肺の底から湧き上がるような鈍い咳が出た。そのたびに肋骨がきしんだ。

 呼吸を整えて、怒りと共に立ち上がった。

「もう終わりか?」

「あんたがタフなのはもうわかった。あとは寝っ転がってればいいのさ」

 菊知が火の付いたキャメルの煙草を咥えながら、あきれた表情でふりむいた。赤い火がさざ波のようにふらついた。

「もう私の体はボロボロで、ぼろきれが立ってるみたいなものだ。タフガイを気取ってるから立ったんじゃない。こんな汚いアスファルトに寝転がる気はないからだ。お前らのような奴が通った道なんかにな」

 菊知と三木は顔を見合わせて、口の片端を釣り上げる。

「んじゃあ、夜飯前の軽い運動といこうか」

 三木が伸縮式の警棒を振り下ろした。警棒の中身が金属音とともに振り出される。

 全長は60センチほどだった。銀色の三段式で、持ち手には黒いスポンジのようなものがあった。人を傷つけるための物は、たいがい黒色か銀色だ。

 菊知は煙草を口から吐き出し、靴で揉み消した。警棒を取り出して、腰を鳴らした。

 二人は私を取り囲むように移動した。二人とも警棒を右手に持っている。

「好きに抵抗しろよ。今日お前がデカを殴るのは見逃してやる」と、菊知が言った。

「サンド・バッグじゃ面白くねえからな」と、三木が警棒で空気を切り裂く。

「言われなくても」と、私は吐き捨てた。

 体勢を変えた。私の左に菊知が、右に三木がいた。私は構えた。

 二人の中で警棒を振るのが遅かった方は菊知だった。重さと長さをもてあましていた。

 菊知が振りかぶったのが合図だった。菊知が肩を、三木がふくらはぎを狙って斜めに振り下ろそうとした。私は飛び出し、菊知の右手を左手で受けた。ふくらはぎに警棒の先端がかすった。そのままの勢いで菊知のみぞおちに右肘を入れた。左足で三木の太腿の前側を蹴りつけた。菊知は咳き込んだ。そのまま右手を掴み、私は背を向けながらかがみ込んだ。背中に菊知が乗った。一本背負いをしようとした。しかし、飛び込んできた三木がそれを止めた。両手で私の頭を掴み、膝を叩き込んできた。ぐらりときた。そして両手で私の体の体勢を元に戻すと、警棒を腕に叩き込んできた。思わず手を離した。すると菊知が私を羽交い締めにした。首の後ろに警棒が回った。三木が靴のつま先で私のすねを思いっきり蹴りつけた。そしてみぞおちにつま先を叩き込んできた。三浦の右肘よりはマシだった。菊知の力は私を羽交い締めし続けるには不十分な力だった。三木の腹に蹴りを入れて押し飛ばした。菊知の足を踏みつけ、拘束を解除した。肘を後ろに叩き付けた。よろめいた菊知に靴を当て、蹴飛ばした。菊知は壁に叩き付けられた。

「くそっ」と、菊知が呼吸を乱しながら言った。

 三木が警棒を振るった。左腕で受け止めたが、痺れた。腕を戻すのが遅れた。三木が両手を伸ばし、私の手を取った。内側に捻ろうとした。私は体を回転させ、三木のすねにかかとを打ち込んだ。三木は舌打ちをして顔をゆがめ、手を離した。

 しかし、私は菊知から目を離していた。後ろから全力で突っ込まれた。私と菊知は倒れた。三木がすかさず私の右腕を踏みつけた。手錠を取り出し、私の右手首にかけた。菊知が空いた右手で後頭部に警棒のグリップを打ち込んだ。浮かせていた顔が地面に激突した。視界が弾けた。そして私の左手に手錠を掛け、それを右手の手錠と結びつけた。

「よくもやりやがって」

 菊知が私を引きずり起こして、ひざまずかせたような体勢にさせた。三木が右の拳で私を殴りつけた。

「膝を使えよ」と、菊知が言った。

 三木が鼻で笑った。右膝が弧を描いて私の頭を吹き飛ばした。そう思えた。そして思い切り足をふりかぶって、振った。つま先がみぞおちに埋まった。私は地面へ倒れた。菊知が背中を掴んで、また元へ戻した。私の呼吸は元へは戻っていなかった。三木が私の頭に革靴を乗せて、力を掛けた。

「どうした、探偵!立てよ!俺の汚い靴が嫌いなんだろ?」

 三木は獲物を目にした肉食獣のような顔で笑っていた。足をどけて、しゃがみこんで、私の顔を覗いた。一流のジョークを聞いた時のように心底愉快にしていた。私は三流のブラックジョークの出来損ないを聞いた時のように不愉快だった。

「俺の目を見ろ。どうだ?まだあんな口を聞けるか?」

 私は血の混じった唾を吐きかけた。三木が自分の頬を撫で、掌を見つめた。

「タフな野郎だ。しかし、長生きは出来そうにねえなぁ」

「かもしれないな。しかし、お前のような人間が死んでも、誰も涙を流さない」

「俺が死んだら、菊知が1立方ミリぐらいの涙は流してくれるさ」

 三木はおどけながら、スーツの中に右手を入れた。脇の下から蠍よりも黒い色をした何かが出てきた。

 拳銃だった。とても小さなリボルバーだった。38スペシャル弾がたった五発しか収まらない回転式の弾倉を備えている。獅子の鼻のように醜く切り詰められた銃身があった。スミスウェッソンのM360J・SAKURAだ。

 昔、同じような形の銃を見た。それにいい思い出はなかった。

「それに、いざとなったらコイツがある」

 三木は私の額に拳銃を突きつけた。小さくても、当たり所が良ければ一発で人を殺せる。まるで蠍だ。

「こんなんでも、走ってる車のドアも撃ち抜けるかもな」

 弾倉を横に振り出して、掌で回転させてまた元に戻した。金属製の蠍達がこすれあうような音だった。

 三木は空き缶を扱うように、それをスーツの中のホルスターにしまった。

「次はないぜ。警告じゃない。次は死ぬぞ」と、菊知が呟いた。

「手錠はくれてやる。そいつは支給品じゃなくて私物なんだ。鍵はこの道のどこかに捨てたから、頑張って見つけてみることだな」

 三木が最後にまた一つ蹴りをプレゼントしてきた。

 菊知が私を押し飛ばし、地面へと転がした。

 菊知が立ち上がって、三木と一緒に歩いて行こうとした。

 私は立ち上がろうとしたが、足がもつれた。転んで、受け身を取れないまままともに顎から着地した。

「立てるもんなら立ってみろ」

 菊知が笑った。

 私は立った。

 菊知が歩いてきた。菊知は右足を上げた。しかし、私の方が早かった。人間駄目だと思ってもやれる時がある。菊知の側頭部を右足で薙いだ。菊知はよろめき、倒れた。三木が私を蹴飛ばした。後ろに倒れた。後頭部は打たなかった。しかし、手が痛んだ。

 三木は菊知の腕を持ち、首にかけた。

「狂ってやがるぜ、この野郎。気が違ってるんじゃないか。まだ立とうとしてやがる」

 私はまだ自分が立ち上がろうとしているということを、三木に言われて知った。

 三木は菊知を連れて、路地から出ていった。路地に入ってきた時とは違って、疲れ切っていた。とてもラーメンを食べられそうには見えなかった。

 私は横になって倒れていた。

 紳士帽を被ったゴキブリが私の顔の横に来て、立ち上がった。紳士帽を持った右手を軽くあげて、私にこんにちは、探偵さん。始めまして。と言った。

 私は、顔を傾けて挨拶をした。

 ゴキブリ氏はまた今日もたたきのめされたんですね、可哀想な人だ、と言った。

 私はいつもたたきのめされていると知った。

 ゴキブリ氏に返した。

 たいした稼ぎもありません。私はしがない探偵です。まずい仕事の時は酒をやりません。死を覚悟したときにだけはやります。煙草は吸います。私の信念は一つ、納得した依頼は最後までやりきる事です。警察はそこまで好きではありません。今余計に嫌いになりました。この街があまり好きではありません。基本、孤独な男です。しかし、ゴキブリ氏の事は好きになれそうです。

 ゴキブリ氏は言った。

 もう少し身を落ち着けて、安全な生き方をしてください。あなたの体が心配です。あなたはいつも無鉄砲で、信念のために命を捨てるような生き方をしています。

 私は言った。

 私からこの信念を抜けば、背骨がなくなった人間のように地面を這うことしか出来ません。人間には信念が必要なのです。

 ゴキブリ氏は、信念のために死ねるのですか、と言った。

 私ははいと返した。

 ゴキブリ氏は右手を頭に乗せて、いやはや感服致しました。私はあなたのことを応援しています。と言って一回転した。

 ゴキブリ氏は紳士帽を頭に乗せて去って行った。

 私は暇だったので、寸劇をしていた。本当はゴキブリが私の顔の近くに来て、引き返していっただけの話だった。紳士帽を被っていることもなかったし、何も言わなかったし、手もあげなかった。しかし、立ち上がったのは本当だった。前にもこの会話をしたことがあるような気がしたのだが、ゴキブリとなのか、昔の依頼人のうちの一人としたのかは思い出せなかった。

 ゴキブリ氏の方が、あの刑事達より心は清潔だった。彼は紳士なのだ。

 体を起こして、壁に背中をあずけた。

 鍵を捜さなくてはならない。

「大丈夫ですか!?」

 女の声がした。藍原の声だった。

 藍原と高岸が路地へ入ってきた。少し遅かった。しかし、それが正解だ。

「ああ、ちょっと殺し屋とあの刑事二人の人生講義を受けていた。学べることは何一つとしてなかったが、警察が前よりほんの少しだけ嫌いになった」

「手錠をかけられてるじゃないか」

「ストーカーのふりをしていた殺し屋が私を存分に殴り倒した後、刑事二人が来て私を殴った。そして手錠を掛けて蹴り倒し、その後鍵をどこかに捨てられたらしい」私は言った。

「刑事が!?どうしてだ」

「その二人は買収されてる」

「さんざんだな」

 高岸が私の前で首を横に振った。

「鍵、ありました!」

 藍原の声が聞こえた。駆け寄ってきて、藍原が私の手錠の鍵を開けた。きつく縛られていて、手の先には感覚がなかった。手首をさすった。手錠で興奮するような趣味は私にはない。手錠をかけられることが趣味の人間について考えた。しかし、意味がないことに気がついて、考えることをやめた。

「スマートフォンは一応取り戻した」

「すごいな」と、高岸が煙草に火を付けて言った。煙が肺に染みた。

「君も吸うかい?」

「頼んだ」

 高岸がもう一本取りだし、火をつけ、私に握らせた。口に咥えた。溜息代わりの紫煙がのぼった。咳き込んだ。

 私は藍原の手にスマートフォンを握らせた。

 三浦に掴まれて、抱きつくように倒れ込んだ時、私はスマートフォンを三浦の右ポケットから左手で抜き、倒れて手を隠しているうちにズボンのポケットに入れていた。

 足首を掴んだのは、視線を私の体から三浦の足下へ反らすためだった。

 歩こうとした。よろめいた。高岸が私を支えた。

 しかし、私は自分で歩く事を選んだ。車の場所までたどり着いた。

「僕が運転しよう。代わりに殴られてくれた、ほんの少しのお礼さ」

 私は何も言わなかった。口の中を舌で舐め、傷口を見つけた。唾液がしみた。

 高岸が喋り始めた。

「あのボディガード二人に君までもがやられるなんて。素手で、だぞ。ふざけてる。おまけに刑事も敵なんて」

 藍原は両手で肩を抱いて、俯いていた。その殺し屋の男に恐怖しているようだった。

 犯罪者と警察が手を組んだなら、出来ないことは何もない。

 私は三浦と刑事達とゴキブリ氏との会話を思い出した。

 ゴキブリ氏のような人間が増えれば、もう少し生傷は少なく済んだ。

 しかし、悪人の数は増える一方だった。

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