第13話(2)

 そのまま歩き続けていると、ある部屋があった。扉の前で止まった。職員が扉の前にいた。多分、内勤をしている刑事だ。書類をめくって、コーヒーを徹夜で飲み続けている男だ。目を覚まさせるための、ささやかなコーヒー、そして羽根を生やして現実から飛び降りるためのエナジードリンク。それが彼の救いだ。

「ここだ。さぁ入れよ」と、菊知が言った。菊知は、隣の職員にここを使ったことを記録に残すなよ、カメラを切れ、と言った。職員は、はい先輩と、頷いた。

 部屋には白の壁と、白のデスクと、二つのパイプ椅子と、ライトがあった。職員は部屋を出て行った。菊知と私が部屋に入った。佐野は部屋の外にいるらしい。

「座れ」と、菊知が呟いた。

 菊知と私はパイプ椅子に座った。手が痺れそうだ。殺人鬼の心ぐらいに、薄暗い部屋だ。

 菊知は右のポケットからなにか黒い塊を取り出した。彼はそれを右手の親指で弾いた。黒く分厚く短い刃が飛び出した。刃は8センチほどだろうか。刃の部分だけが銀色に光っていた。痩身の男はそれをジャグリングするかのように、順手にしたり、逆手に持ち替えていた。

「スミスウェッソンのナイフ。ちんぴらからの押収品だ。2000円もしない、貧乏人にもぴったりの、安い奴だ」と、菊知は気怠い顔と声で言った。

「そんなちゃちなので、私を刺し殺すのか?」

「急所をめった刺しにすれば、どんなナイフでも人は死ぬ。これでお前を殺しても、俺に罪はない」と、表情を変えずに私に囁いた。

 菊知はパイプ椅子に座って、デスクの上にそのナイフを置いた。

「俺を殺したいか?探偵」

 彼は少し微笑んだ。

 人差し指と親指を直角にして、ばんと彼は呟いた。そして目線を右上にあげて、辻は死んだと言った。私は黙っていた。

「なぁ、辻を撃ち殺したときの俺の気持ちを教えてやろうか」

 菊知はナイフをデスクのこちら側に滑らせ、ポケットから手錠の鍵をこちらに滑らせた。私は鍵を取って、手錠を解錠して、投げ捨てた。ナイフには手をつけなかった。

 彼はホルスターから拳銃を取った。両手でリボルバーの丸い弾倉を横に振り出した。そして、銃から五発の三八口径弾を取り出して、左の掌にのせた。そして弾を込めて右手を振り、弾倉を戻した。二丁持ち歩いているのか?内規違反だろうと思ったが、それはよくわからない。

「拳銃を、二丁も持ち歩いてるのか?」

「俺は特別権限だからな。普通はダメだ」、菊知は呟いた。

「俺の拳銃の腕はなかなかよくてな。署内じゃ一番上手いんだぜ。お前も一度人を撃ち殺したことがあるんだろう。お前のが銃の扱いに馴れてるのは知ってる。銃も撃てる、格闘も三浦や加藤をぶちのめすぐらいだ。相当手練れなんだな」

 菊知は右手一本で、私にリボルバーの銃口を向けた。

「銃が好きじゃないらしいな。一々昔のことを引きずって。なら素手で今俺が持っている銃にどう対処する?」と、菊知が言った。

 私はデスクの上に置いた両手を瞬時に振り、手刀にした右手を手首の内側へ打ち込み、左手で銃を打った。銃は取調室のかなたへ飛んで行った。菊知が手をナイフへと伸ばそうとした。デスクの上のナイフを右手でデスクからはじき飛ばした。菊知の右手を左手でデスクへ叩き付けた。

「こうするんだ、昔とは違う」と、私は言った。

 あっけにとられていた菊知は、口笛を鳴らした。そして、合格だな、と呟いた。

 私は立ち上がり、菊知を掴み上げて、取調室の壁へ叩き付けた。

「ふざけるなよ、人を舐めるのも大概にしろ。この野郎」、私は菊知の頭を壁に叩き付けた。

 佐野が急いで部屋に入ってきた。左にはライター、右の拳からボールペンが突き出ている。あれのパンチを顔に食らったら、確実に肉に刺さり、骨が砕ける。どんな空手家の貫手より強力だ。私は菊知の裾を離した。菊知が私の服を掴んで、動けないようにしてきた。佐野が私に殴りかかろうとしてきた。菊知の両腕に両腕を思い切り振り下ろして、服を離して、佐野の腹を蹴りつけた。佐野がよろめいた。

 佐野に近づくと、ジャブが飛んで来た。腕で弾く。違う、胸ぐらを掴んできた。

 次の右ストレートが顔に飛んで来た。ボールペンの先端がきらりと光った。腕で払った。ボディブローが来た。ボールペンの先が中々効いた。顔面に飛んで来た。弾くと、ボールペンも飛んでいった。顔面に右肘がくる。肘を受け止めて、掴んできている左腕に思い切り腕を振り下ろした。手は離れたが、佐野はいきなり走って、私を壁まで押しつけた。

 私の首の辺りに肘をずらして、気道を壁と前腕で絞めてきた。頭突きが飛んできた。おかえしに頭に肘を打ち込んでやると、佐野は離れた。

 また右の拳が打たれた。

 佐野の右手を手刀ではじき飛ばした。右手の手首を両手で取り、引っ張った。手首を捻ろうとした。佐野は飛びついて、頭を私の胸に叩き込んできた。私はまだ佐野の右腕を掴んでいた。投げられたライターが私の頬に当たった。次に、佐野の指先が私の目に飛んで来た。顔をそらしてよけた。佐野が私の頬の肉を思い切り掴んで、頭突きを食らわせてきた。車の中での右ストレートよりも効いた。佐野のみぞおちに、右膝を叩き込んだ。佐野の体が丸くなった。佐野の後頭部に手刀を落とした。お返しだ。そして、手を後ろに極めてやった。アームロックだ。そのままくるりと回転し、佐野を壁に叩き付けた。佐野は左手を壁に押しつけて、ぎりぎりで顔を打たなかった。そのまま膝の裏を刈って、投げ倒した。

 頬と顎が痛む。どうしてこう頭突きばかりしてくるんだ。こんなことを続けていたら脳の神経がぼろぼろになる。

 私は、菊知を見た。

 菊知がリボルバーへ手を伸ばそうと、歩いて行った。

 私は佐野から手を離し、菊知を蹴り飛ばした。私はリボルバーを手に取った。立ち上がった佐野は左手でスーツを開き、右手はその左脇の下に手を突っ込んでいた。殺し屋に比べれば、遅すぎる。私は即座に銃を佐野へ向けた。

「さっき手首か肘を折って一生治らなくしてやった方がよかったか?税金泥棒の上、おまけに腐ってるなんてどうしようもない奴だな」

「撃てるモンなら、撃ってみろ」、佐野は目を見開いて、こちらを睨みつけた。手を突っ込んだまま。

「頭が狂って、お前等を撃ち殺した後に、自分の顎をぶち抜くかもしれないぜ」

 佐野は目をぎらつかせ、唇を釣り上げた。

「俺はフォールドしないぜ。コールだ」、佐野が言った。

 どうやら、自分の命をポーカーのチップぐらいにしか思っていないらしい。

 もし、佐野か菊知が銃を抜いてしまえば、私は撃たれる。しかし、そうなれば私だって、二人のうちのどちらかを道連れにするだろう。佐野よりは、菊知を撃つべきだ。

 二人が拳銃を抜く前に、二人を射殺することは出来るはずだ。私は銃だって、下手な警官ややくざよりはうまく使える。

 だが、ここでこの二人を撃ち殺したとして、私は押し寄せた警官達に、撃ち殺される。警棒で頭をかち割られるかもしれない。逃げおおせることが出来ても、最重要の指名手配犯だ。

 奴等は私が撃てないことを知っている。もしかすると、撃たれて死んでも構うものかと思っているかもしれない。こいつらは冷酷で、残忍で、狡猾で、向こう見ずで、他人だけでなく自分の命すらも賭けに乗せるやつらだ。私はこいつらの手の平の上だ。銃を向けていてさえも、まだやつらのが優位だ。こういうのが、無法者というのだ。こいつらに比べれば、猟奇殺人犯だって可愛く思える。

「おい、俺はただ拾おうとしてただけだ。こいつが余計な事をしてくれただけだ」

 菊知がナイフを手に持って、そう言った。菊知はナイフを折りたたんで、右のポケットに入れた。

「ほら、返せよ」

「いいんですか、先輩?ここでコロシが起こったら、流石に誰も責任取れません。先輩か探偵か、どっちか死んで、残りの方は首を吊られるかもしれませんよ」

「そうなったら、俺はタイにでも行く。大丈夫だ。安心しろ。こいつはそこまで馬鹿じゃないし、この距離ならナイフがある」

「じゃあ、フォールドさせてもらいましょう」

 佐野は両手を挙げたまま、こちらを見て、外へ出て行った。

 私は菊知にスミスウェッソンM37エアウェイトを両手で向けた。両腕でしっかり構えて、体ごと正面に向けるアイソセレススタンス。3メートル。この距離なら、何があっても外さない。菊知の肋骨の中心が、アイアンサイトの上に乗っている。引き金を引けば、撃鉄が落ちる。撃針が薬莢の底の雷管を叩き、火薬が炸裂する。ライフリングに食い込んだ弾頭が強烈に押し出され、38口径の弾頭が飛び、胸骨が砕け、弾丸と胸骨の破片が心臓に突き刺さる。

 ポンプは動作を停止して、冷たくなる。ハンドルが胸に突き刺さって死んだ人間の顔がちらつく。

「撃ちたいんだったら、撃てばいい。俺は死んで、お前は首を吊られる。それか、押し寄せた警官に撃ち殺されるか、警棒で殴り殺される。なにも変わらない。数年後には、元通りだ。人間がどれだけ簡単に死ぬか、実感する回数が増える度に、人間の事なんてなんとも思わなくなる。さぁ、俺を殺ってみろ」

 引き金を引きたかった。しかし、引かない。熱くなるなと、自分に言い聞かせた。

 菊知は痛む脇腹を押さえていた。顔の右半分に皺が寄っている。

 私は菊知にゆっくりと近寄って、ナイフを抜かれないように右手を押さえた。左の脇の下のショルダーホルスターから、P230を抜いた。そして、すぐに離れた。私は両手でM37とP230の二丁を構えた。

「ここを使った記録を残せないんだろう。なら、私がお前をいたぶっても言えないわけだ」

「逆もあり得る」と、菊知は興味を失った様子だった。

 私はM37の回転式弾倉を振りだし、ロッドを掌で叩いて、弾丸を地面へ捨てた。空薬莢のように軽い音ではなく、弾頭があるため、軽くはない金属音がした。

 そしてM37を部屋の隅へ投げ捨てた。もっと重い音がした。

 P230のレバーを下げ、マガジンを抜いた。スライドを引き、分解用のレバーを下げた。そのまま上下で二分割して、放り投げた。

 指紋やDNAのことは気にしなかった。こいつも銃を触っている。私だけ抜かれることは無いし、もしそうなら、あいつに連れて行かれた時点で手遅れだ。

 持ったマガジンから、弾丸を一つずつ親指で抜いた。小指の先よりも小さい弾丸だ。だが、これでも人は殺せる。大きな人間が必死に大きな体を動かして殴ったり蹴ったりする。それでも人はそうそう死なない。だが銃は、装填して、狙いをつけ、人差し指を数センチ動かせばあとは何メートルの距離でも勝手に殺してくれる、魔法の道具だ。いい銃を持った人間には、どんな動物もかなわない。どんな獣でさえも、どんな悪人でさえも、どんな善人でさえも、どんな無垢な人間でさえも、プロメテウスは焼き尽くす。

 少し前まで一緒に笑っていた人間が、次の瞬間には冷たくなって、固まっている。血を失って、青白くなっている。死は平等だ。私はそれが気に入らなかった。

「おい、銃が壊れたら俺が課長にどやされるんだぞ。まぁ座れよ。俺が悪かった、と言えば納得して座ってくれるか?」

 テーブルを指で叩く音が聞こえた。何度も何度も。椅子に座ると、椅子がきしんだ。

 ライトが輝いている。菊知はライトを切った。もっと薄暗くなった。

 ここは奴のホームだ。気分が変わって、いきなりナイフを持ち出すかもしれない。

 ぱちりとやって、飛びかかってくる。殺人鬼の気分など、すぐに変わるものだ。机から少し離れて座った。何かあれば、机ごと蹴飛ばせばいい。

「この署の全員、銃とバッジをすぐに国家に返すべきだな。太陽に投げ込まれて、お前達は燃え尽きてしまえ、この悪魔め」

「全員、警官の資格はないと言いたいらしい。一々気取って、回りくどい言い方をしてくれる」

 菊知は思い切り、椅子に腰を落とした。

 空っぽの瞳で、私を見た。喜怒哀楽何一つ読み取れない。鮫や蛇の目を見ているようだ。気に触る連中ばかりだ。

「俺も行動心理学を知っている。これでも刑事の端くれなんでな。心の読みあいでもするか?」と、菊知は言った。

 私は口を開かなかった。

 菊知はスーツの懐から、パックされた干し肉のスライスを取り出した。

 菊知はそれを口にいれて、じっくりと味わっている。

「お前も食べろ」

 菊知は手にその肉を持っていた。

「勝手に食べてろよ」

「お前の感性はいったい誰の感性だ?」

「なに?」

「たとえば、赤ん坊が人間の死体を見て何か思うか?何も思わない。殺しはいけないことだと思うのは、教育として誰かに洗脳された結果だ。俺は何も思わない。今死ぬのと、70年後に死ぬのに違いがあるとでも?どうせ皆運命に首を吊られるのに?生きながらえたって最後は弱って醜くなり、生きながらにして腐って死ぬ。ガンの痛みに苦しみ、麻薬中毒にされて死ぬ。ばからしい」

 煙草をポケットから出して、目の前の男は火を点した。紫煙が上っていった。暗い部屋の中で、赤い火が輝いていた。菊知はナイフを取り出した。親指で弾いて、ナイフの刃が飛び出した。ギアが噛み合う音。私は軽く身構えた。

 奴はナイフをぶらぶらさせていた。

「本題はこんなことじゃない。お前を呼び出して、連れてきたのは頼みたいことがあるからだ。仕事だよ」

 ナイフが空中に浮かんで、手に収まっている。持って、刃先をふらふらさせている。こういうことをされると、動きが読みづらい。

 私は机を蹴り飛ばす準備をしていた。

「ナイフをゆっくりと、肋骨のすきまに差し込む。そうすると、血が噴水のように噴き出る。芸術的だ」

「もううんざりだ。皆が自分語りをして、私に殴りかかってくる。お前の事なんてどうでもいい。お前の性癖を聞きに来たわけじゃないんだぞ」

「寂しいことを言ってくれるなよ、ダーリン」

「気色の悪いことを言ってくれるな」

「俺は女は少女しかいけないんだが、男なら結構行けるんだ。俺が女の服を着て女役をやるんだが。お前なら割とストライクゾーンだぜ」

 菊知は身を乗り出して、私に熱を帯びた視線を投げかけてきた。目にいやな輝きが宿っていた。

 私はその分だけ、身を引いた。

「本題を早く言え」、私は言った。家に帰りたくなってきた。

「おっと、本題だったか。おまえのことに目をつけたやくざがいる。俺の知り合いで、証拠を処理し合った仲だ。最近、カジノができてな。大使館特権とやらで、警察は手をつけられん奴だ」

 菊知は座り直して、ナイフを折りたたんで、また開いた。

「大使館特権だと?まさか、大使館の連中がやってるのか?闇カジノを?」と、私は聞いた。昔どこかの大使館の人員がそれをやっていて、ニュースになっていた記憶がある。

「そうだ。コートジボワール大使がやってる。それで、やくざが困っている。ばくち打ちは俺達だけだってな。その組は元々戦後の闇市と博打で成り上がってきたから、余計プライドに触るらしい」

「大使様じきじきにカジノか?」

「その通り、素晴らしく資本主義的な話だろう。おおっと、俺はアカじゃないぜ。皆一緒なんて、吐き気がする。金持ちばかりが集まっている。やくざが言うには、お前にその闇カジノを偵察してきて欲しいらしい。そして、大赤字を相手に出させてから、やくざの伝言を大使に伝えろ、だとさ」

「見返りは?」、私は聞いた。この話はいいえと言える案件ではないだろう。脅しをかけてくるはずだ。私の周りの人間に対して。

「意外と、乗り気なんだな」

「こっちにも飲ませたい条件があるからな」

「あとで電話を掛けてくる。だが、お前に脅しをするのも効率が悪い。お前は強情だからな。やくざはお前を恐れている。犯罪者は皆お前を恐れている。一人で組を壊滅させるようないかれた気違いだってな。だから、この程度の内容なんだ。お前なら、大使を破産させてやるぐらい、わけないだろう」

「なぜ知っている」

「お前の事は調べてある。大学の文学部で英米文学を専攻、キックボクシング部所属、ライトヘビー級で全日本大会第三位か。輝かしい成績だな」

「試合より、喧嘩の方が得意だ」、私は言った。

「だろうな。じゃなきゃ、とっくに三浦に殺されてるか、加藤に病院送りにされてるはずだ。奴等はアマチュアの大会銅メダルでどうにかなるような相手じゃない。CQCの達人と、喧嘩の達人だ」

「三浦は手を抜いていた。素手で殺す気はなく、ずっと最後に私を嵌めるため、やってただけだ。あいつの顔を見たが、私は遊ばれているようだった。本気だったら、最初の一撃で目か喉を潰されていた。銃やナイフを使われたら、とっくに死んでいた。加藤は酒を飲みすぎていた。あいつはタックルはしてきたが、頭からは落としてこなかった。頭から壁か床にぶつけられたら、私の頭は砕けていた。二人とも手を抜いていた」

 もし私がもう少しストリートファイトに不得手であったなら、とっくに死んでいた。三浦は手を抜いていた。色々な技を繰り出してきたが、どれも真剣にはやっていなかった。加藤は殺すなどと言っていたが、それでも人が死なないように手加減していた。菊知はナイフを使わなかった。私も、殺さないようにしていたのはそうだったのだが。全員が本気だったなら、五体満足で済むわけがない。今頃、東京湾の底か、コンクリートの中に眠っているかもしれない。道路や建物の一部になっていたかもしれない。

 雲になりたいという人間がいるが、悪魔のような人間達に逆らったなら、彼らはいつでも喜んで、雲にしてくれる。東京のビルの一番高くから、街を見渡せるかもしれない。だがその過程までに耐えがたい苦痛を伴う。魂だけでなく、尊厳も代償にしなければならない。やつらは全てを奪っていくのだ。ウィンクぐらいの気分で、人をむごたらしく殺す。

 麻薬中毒者も、犯罪組織の人間も、私を平気で殺そうとする。塩田はいつか人を殺して無期懲役か、絞首刑を食らうだろう。そうでなくても、覚醒剤に体を蝕まれ死ぬ。麻薬に手を出した者の末路はそんなものだ。

「だろうな。俺もナイフを使わなかった。それでも、生きているのは力がある証拠だと、やくざは認めた」、菊知は言葉を切った。私は足を組み直した。

「そしてお前は大学を出た後、バーで知り合った元アメリカ海兵隊員をつたって、アメリカに行って、銃の使い方を習い、ロサンゼルスのワッツで黒人ギャングの幹部の親戚を撃ち殺して帰ってきたわけだ。カジノも海兵隊員と数人のグループで荒らして、出禁を食らった。金は全てグループの一人に持ち逃げされ、なくなった。お前は職が無かったし、どうせ殺したからって落ち込んで、何もしなかったんだろう。酒場を歩いて、喧嘩でもしてたのか?そのあと、探偵事務所を開いたってわけか。何のために生きてるかわからんな、ちんぴら」

「生きる意味は、私が決める」、私は言った。

「お前のような奴に、決められる筋合いはない」、私は目を見開いて言った。

 人生の意味など、人が決められるものではない。ましてやこのような人間になど。

「死んでしまえ」

「死ねと言われると、何があろうと生きてやりたいと思うタチなんでね」、私は笑った。

 菊知は鼻で笑い飛ばした。

「今から、そのやくざに電話をかける。お前の、お仕事の時間だぜ」

菊知はスマートフォンを取り出して、操作した。

「じいさん、例の探偵だよ。コンタクトした。仕事の話をするか?ああ、わかってるよ。ああ、ああ。かわるぜ」、菊知が喋って、私の方に滑らせてきた。

 私は受け取った。私の口には200万ドルの価値があるぜ、そんなわけがあるか、このぬけさくめ。

 そして、口を開いてやった。

「どうも、探偵だ」

「こんばんは、どぶねずみ」、老人の声だ。しゃがれている。息が混ざった声だ。

「こんばんは、クスリ売りのちんぴら」

「なんだと?」

「ばくち打ちだったかな?やくざは堅気には手を出さないはずじゃあないのか。道徳のないやくざなんて、ちんぴらとかわらんぜ」

「そんなものは昔の話で、それにしたって一部の者だけだった。そして今はそれでは食っていけないのだよ。時の流れには誰もあらがえない。皆老いていく」

「全部、時の流れのせいにすれば済むと思っているらしい」、私は鼻で笑った。老人は鼻を鳴らした。

「それで、仕事の話はどこまで聞いた」

「カジノで、コートジボワール大使の顔を真っ赤にしてこいということだろう」

「そうだ。イブラヒマ・トゥーレという名前の男だ。眼鏡をかけている、鼻が低くて大きい、170センチぐらいの黒人だ」

 私はその男を見たことがある。木村の家の近くにいた、あの男だ。

「奴が経営しているカジノで、死ぬほど金を稼いでこい。こっちが元手の千万を用意する。千万以外の金は全部くれてやる。2億稼ぐまで帰ってくるな。うちの者をお前の護衛につけよう」

 カジノで稼げる種類といえば、機種や設定と自分の腕次第で期待値が100%を越えるビデオポーカー。

 ルーレットなら36倍の配当もある。だが、博打過ぎる。38回に2回はカジノ側の総取りが出る。

 トランプゲームだ。私が昔やったのはブラックジャックだった。

 あれなら配ったカードと山札から残りのカードの出目を予想するカウンティングが使える。賭け金の強弱と視線を誤魔化せば、ピットボスもディーラーも分からない。

 デッキ数が数個あるものならば、途中参加が出来る。デッキを切る回数を示すペネトレーションが低いテーブルにつくべきだ。それができなかったとしても、ヒット・アンド・スタンドチャートに乗っ取って賭けをすれば、結果的には勝てる。

 次はバカラ。あれなら高額な金が動く。

 ポーカー、金持ちが沢山参加しているなら、私はごっそり頂けるはずだ。

「その仕事を請けよう。ただし、こちらからも条件がある」

「請けてくれるか。やけに素直だな。奴は我が国の金を持ち逃げしようとしている。それはゆるせんのだよ」

「我が国じゃなく、あんたの金だろう。一つ目は、稼いだ金は、お前達の手下に持たせて、私の口座に振り込まさせる。次に、その札が本物かどうか確認しろ。ドル札ならともかく、日本円はわかりやすいから、よく見てもらおう。最後に、菊知の手下にされた小鳥遊という男がいる。西や菊知に掛け合って、小鳥遊をスリの組織のスパイから解放させて、自由にさせてやってくれ」

「いいだろう。わしが全て責任を持とう。じゃなきゃ、やらんのだろう」

「脅しは通用しないと思ってくれ。もし私の知り合いに手を出したなら、もうそろそろ我慢の限界だ」

「ははは、覚えておこう」

「小指にかけてもか?」と、私は聞いた。

「もう小指はない」、老人は笑った。

「そうだ、餞別がある。お前の家に、いいものを送っておいた。完全にクリーンで、足のついていないものだ。何かの役に立つかもしれん。奴はギャングを従えているからな」

「拳銃か。余計なものを」、私は嫌な気持ちになった。グリース漬けにして、事務所の壁に穴を掘って埋めておくしかあるまい。なぜまた、人を殺さなければならないんだ。三浦のような奴が敵でもないかぎり、銃は使わない。

「マカロフだ。弾倉と弾薬をみっつ分用意してある」

「ライフリングはしっかりしているか?油は塗ってあるか?リコイルスプリングはしっかりしているか?撃針はカットされていないか?撃鉄はしっかり作動するか?弾倉のバネの状態は?弾薬は新品か?細工はしてないだろうな」

「何を言っているのかわからんが、全部新品だよ。150万円の餞別だ。わしは銃には詳しくないんだ。また折って連絡する。山根がお前に伝えるだろう」

 山根、あの私の家の近くのやくざか。だから三木はあのバーに現れたわけだ。どうやらこの老人は、山根の上司にあたるらしい。そして私の近くの警察と、この新宿署はこのやくざ達と関係を結んでいるらしい。だが、山根の組の組長ではないはずだ。

「山根の組の上部団体か?」

「そうだ。それでは、幸運を」、電話が切れた。

 溜息をついた。

「小鳥遊を手放してもらおうか、今のを聞いていただろうが」

「ふん、いいだろう。どうして、そんなスリのガキに入れ込むんだ?前は初対面か何かの女に入れ込んで命を賭け、今度は男にも命を賭けるのか」

「お前のような奴には、一生わからないだろうな」

 私は立ち上がろうとした。しかし、菊知は私を手で制した。

「まぁ、これを食え」、菊知は肉を取って、手に持った。

「牛肉で作った」と、だけ言って、菊知はこちらに視線を戻した。

 菊知は私の口にその肉を数枚突っ込んできた。一つは飲み込んでしまった。

 肉の乾物だ。塩と胡椒がきいていた。そしてイノシシの肉のような味がした。猪の肉だと?

「おい、これは牛肉の味じゃない。何の肉だ」と、私は菊知に言った。

「矢口りえ」と、菊知は言った。

「11才の少女だった」と、彼は呟いた。

 私はそのスライスされた乾物を吐き出した。

 菊知は私が吐き出したそれを、つまみ上げて食べた。

「もったいないことをしてくれるなよ」

「なぜ人間の肉を食べるんだ」

 私は半ば叫んでいた。部屋の明暗など、気にもならないぐらい、頭に血が上りかけていた。この男は何がしたいんだ?息を吸い込んで、落ち着いた。

「もったいないし、死体処理のバーターでやくざの殺し屋をやるのも勘弁願いたいし、何より食費が浮くだろう。ビールのつまみにもなる。肉の保存が一番効くのは、塩漬けか油漬け、スモークだ。一応、三種類で保存している。コンフィの作り方を知っているかな、そいつの脂身を溶かした油で肉を低温で煮て、そのまま固めるんだ。フランス式なんだが。ちびっこの女の子は肉質が柔らかくて、旨いんだ」

 菊知は一人で頷いていた。表情は変わらなかった。菊地は私の顔を見た。

「目玉と舌と耳はスープに、顔と腕と足と尻は焼き肉、肝臓はレバーペースト、腸は絞り出してからソーセージ、血液はブラッディソーセージ、脂肪は燃料に、皮は焼き捨てたかな。骨はすりつぶして、ワン公にくれてやった。心臓は生で食った。まぁほとんど食べたかな。子宮は思ったほど美味しくなかったよ。心臓の刺身が一番よかったかもな」

 私は目を見開いていた。菊知はにやりとした。何を考えてるのか、全く読み取れない。

「お前が何を考えているか手に取るようにわかるよ。人が一人死んだくらいで、一々うるさい奴だな」

 私は立ち上がって、菊知を掴みあげた。

 菊知は両手をあげて、愛想笑いをした。どんな感情が含まれていたか読み取れない程の空虚な微笑だ。仏の微笑よりも中身がない。

「地獄に落ちろ」と、私は言った。

「回りくどい表現をやめたな。人を非難するときに回りくどい表現を使う人間は嫌いなんだ。この世の人間は全て地獄に落ちるべきだ。人殺しどうし仲良くしようぜ、人殺しさんよ。お前も今、人を食ったじゃないか」と、菊知は返した。

「食わされたんだ、お前に」

「言い訳はよせよ、ダーリン。黒人を撃ち殺したのも、俺は悪くないとでも言う気かな?」

「地獄に落ちろ、このクズめ」、私の心拍数は上がっていた。

「どうでもいい。そのスカしたツラと言いぐさが気にくわなかったんだ。これで、用事は終わりだ。もう帰れ」

 私は奴を突き放した。

「もうこんな気分の悪いところにはいたくない。小鳥遊を連れて、帰らせてもらおう」

「どうぞ、お帰りください」

 私は取調室を出た。佐野と西がマグカップにコーヒーを入れて、口の端を釣り上げていた。小鳥遊が横でうつむいていた。

「じゃあな、探偵」、佐野が言った。

 私は小鳥遊と一緒に、新宿署を後にした。小鳥遊の家まで、タクシーを使って、その後私はインプレッサに乗って走らせた。

 ずっと前から警官とやくざが嫌いだった。今はもっと嫌いになった。

 二つとも、いつも高圧的に人に接し、うわべだけのタフガイを気取っている。

 仕事をしない警官の顔をもう見ないようにしたかった。彼らはその気になれば全てを隠せる。自分達が法だという顔をして、練り歩く。

 彼らの顔は見たくなかった。しかしそんなことは出来ないのだ。

 このような仕事をしていては、常に警官の顔を見ることになるだろう。

 警官はいつもどこでも電話一つでやってくる。

 やくざは金の臭いがする場所に集まってくる。まるで蛾のように。

 力を振り回す人間は好きではない。

 死ぬべき人間がいるとするならば、それはか弱く何の罪もない少女ではなく、人生に絶望して銃を握った女でもない。死ぬべきなのは、死ななければ治らないガンのような連中だ。奴等はのうのうと生き延びるだろう。奴等には地位も権力もある。他の人間全てを切り捨ててでも生き延びる。それは間違いない。

 だが、もしやつらを排除しようと考えたなら、私はあの連中と同じ思考回路を持ったことになる。迷惑な人間を排除すればそれでいいなど、結局何も変わらない。

 死ぬべき人間はこの世に存在しているのだろうか。

 私はわからなかった。

 世の中分からないことだらけだ。

 答えを出せる人間などいない。

 エンジンの鼓動だけが、私に答えてくれた。私は溜息をついた。

 アクセルを踏み続けて、寂しい事務所へと帰ることにした。

 私が頼りに出来るものは、自分の心と、頭脳と、腕と、この車だけだった。

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