第9.25話

 ある男が、教会で祈りを捧げていた。七色のステンドグラスから差し込む、ささやかな光。男の祈りは届かぬ祈り、響かぬ祈り、いったい誰がその祈りを叶える?イエスか?いや、結局は誰も叶えない。神がいるかどうかなんてわからない。この科学の時代において。

 さぁ、祈りを捧げよ、哀れな男。それが僕のやるべきことだ。

 指で十字を切って、十字架を手に包んで、祈る。

 塵は塵に、灰は灰に。旧約聖書の一節だ。ふざけるなよ。天国や地獄を作る暇があるなら、現世を天国にしてくれ、堕ちた街を硫黄の火で焼き尽くす暇があるなら、心を作り替えてやればいいじゃないか。別れの悲しみなんて必要ないはずだ。無情で怠惰な神よ。

 僕は教会を後にした。教会に行くといつも、神や人間のありようを考えてしまう。そんなこと、何の役にも立たないというのに。

 教会を出て、駐車場へ行った。

 黒のジャガーXE。500万を越える車だ。素晴らしい車だった。8秒もかからずに、時速100キロを出せる。

 僕の腕にはロレックスの腕時計。スーツはアルマーニの特注。僕の業界では、ちょっとした小物が判断価値になる。ちょっとした小物に、ちょっとどころじゃない金を掛けているかどうかが、判断基準だ。神が人間を作りたもうた時は、皆裸だったのに、今じゃ指先までを見て人を判断する。

 車に乗り込んだ。高級車だけあって、素晴らしい乗り心地だ。こいつを人にすれば、きっと王族の社交場に出ても褒めそやされるはずだ。

 スマートフォンが鳴った。ああ、仕事の電話だ。舌打ちをした。

「はい、高岸です」

「高岸君、映画撮影が遅延していることについてどう思う?」

 大嫌いなお得意先だ。70にもなる老人だ。金のためにプライドを売る。売春婦といったい何が違う?イエスをイエスと言えず、ノーをノーと言えない。理由は全て聞き入れられず、全てが自分のせいだ。

「はい、僕の、藍原への監督不行届のせいです。この遅れは、急ピッチですすめたいと思っております」

 くそ、このじいさん、僕達がどんな目に合ったかも知らないで。

「一日公開が遅れるごとに、損害が出るんだ。そうしたまえ。それで、きみんとこの若い子役がいただろう。名前は江川君だったかな」

「ええ、そうです」

 江川は、中学生ぐらいの女の子だった。僕の事務所にいる。前も、同じことがあった。もう、次に何を言われるかは、わかっていた。

「それで、江川君を今日の夜貸し出してくれないか。パーティがあってね」

「パーティ?どんなパーティです?」

 僕はスマートフォンを握り締めた。声も少し、苛立っているだろう。

「接待という奴だ。夜の接待。わかるだろう?」

「わかりませんね」と、僕は言った。

「枕だよ。ドラマの枠ぐらいは、江川君に確保してやる」と、彼は言った。

 ちくしょう。まただ。このジジイ。

「今日、あいつは調子が悪いんです。勘弁してやってくれませんか」と、僕は嘘を付いた。

「じゃあ、違う奴だ。別に少女でも少年でも良い。可愛ければな。少年を連れてくるなら、長いかつらと女物の服を着せろ」

「あのですねぇ、そういうことは控えて貰えませんかね。いつすっぱ抜かれるかわかりませんよ」と、僕は言った。

 早く、会社に戻って書類を取りに行かなければならない。

 アクセルを踏んで、走り出した。

「なぁ、そんなことが言える立場だと思っているのかね。君が損害遅延分を被ることになるかもしれないんだ」

「一体この国のどこにそんな法律があるんですかね。しかも、撮影保険はかけておいたはずです。興業遅延保険もね」

「さぁ、弁護士が商法でなんとかしてくれるだろう。こっちには素晴らしい弁護士もいる。さらに、人をおもちゃにしたくてうずうずしているごろつきもな。法律なんて関係ないんだよ。私の前では、そんなものは無意味になる。会社を潰されたくなければ、とっとと人を寄越せ。藍原君に手を出さないだけでも、ありがたく思ってくれよ」

 電話が切れた。僕はスマートフォンを握ったまま、手を振るわせていた。

 ハンドルを思い切り叩いて、溜息をついた。信号が赤になって、止まった。

 十字を切った。

「あわれみ深い父なる神さま、私の罪をお許しください。今まであなたの尊いみ心を知らず、言葉、行動、思いを通して、数えきれないほどの罪を犯してきました。知って犯した罪、知らずに犯した罪などすべての罪をあなたのみ前に悔い改めます。どうぞ、あなたのみ子、私たちの救い主イエス・キリストのゆえに私の罪をすべてお許し下さい。これからあなたの子供として、あなたの聖なる戒めを守り、み心にかなった正しい道を歩むことができますように導いて下さい。救い主、イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン」と、僕は呟いた。半分、皮肉だった。

 哀れな男だ。こんなことしたって、神は雲の上で寝ているだけだというのに。

 僕は社長に電話をかけた。

「もしもし、高岸です」

「ああ、何か変わったことがあったか?」と、社長は言った。

 低く、疲れた声だった。

「あのじじいが、江川を枕に出せと言いました。そうでなければ、他の子役、男でも女でも連れてこいと言ったんです。もししなければ、撮影遅延を保険金とは別に請求したいとね」

「おお、なんということだ。またなのか。もう勘弁してくれよ」、彼の声はほとんど泣きそうになっていた。

 沈黙が支配していた。

 そして、長い時間をかけた後に、咳払いが聞こえた。

「江川君には、犠牲になってもらうしかあるまい」

 僕は黙っていた。結局、そうしなければいけない判断を人に押しつけ、決断させて、十字架から逃れようとしているだけにすぎない。

「わかりました。連絡はどうしますか」

「私からやっておく・・・・・・すまない」

 急に声が飛んできた。江川の声だった。幼いのに、諦めが含まれている声だった。穢れてしまった少女だった。

「ねぇ、高岸さん。また、わたしにようが出来たんでしょ」と、彼女は言った。

「すまない、本当にすまない」と、僕は言った。

「いいよ、もう、慣れたから・・・・・・安心して、しっかり役目は果たしてくるから」、彼女の声のトーンが、少しずれた。

僕は、「すまない」と、言った。つらいのは分かっていた。

「しんぱいかけて、ごめんね」と、少女は言った。

「謝るのは、こっちだ」と、僕は呟いた。

 信号が青になった。

 僕は目を瞑って、眉をしかめた。

 誇りも何もない。金だけが、僕の手元に入ってくる。穢れた金が。

 くそっ、やってられないよ。

 僕は車を走らせた。このスピードだけが、自分を忘れさせてくれた。

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