第12話

 彼の家は、狭く、安いアパートだと言われた。何か適当に食べたかったのだが、彼は家まで案内した。そろそろふらふらになりそうなぐらいカロリーを取っていない。低血糖になりそうだ。視界がぐらついていた。コンビニでカフェオレと、サンドイッチを買って、歩きながら食べた。

 そうすると、少しよくなった。二人でインプレッサに乗って、彼の家まで運転した。私はインプレッサを駐車場に止め、キーを服の内ポケットに入れた。こうすれば、少しは盗まれにくくなる。

「ここが俺の家だ。ここの、二階の端の方だ」、男は言った。

 確かに、狭く、安いアパートだった。灰色で、L字型になっている二階建てのアパートだ。

 当初はスリ達を締め上げる予定ではなかったが、全ては刻一刻と変わる物であり、だいぶ予定を捌けて、短時間でここまでたどり着いたと、私は自分を納得させた。

 1週間の予定が、一日で済んだのだ。推理も心理学による割り出しも、必要なくなったのだ。それでよしとしよう。

 私は男を先に行かせ、階段を昇った。狭く、低い。頭をぶつけそうになった。

 ここもまた、ゴミが散らばっていた。煙草の吸い殻、ビールの空き缶、酒の硝子瓶、なにかのゴミ、ガムの残り。薄汚れているアパートだった。

 私は靴に何かつかないか、床をよく見ながら歩いた。

 棟を連結する金属板を踏むと共に、大きな金属音が鳴った。

「近所迷惑だろ、静かにしてくれ」

「スリがそれを言うか?」と、私は言った。

 男は鍵を開けて、そのアパートの扉を開いた。

 男と私は靴を脱いで、家に上がった。

 物は少なく、片付けられていた。中は清潔なアパートだ。居間の、テーブルの上に、男はズボンから取り出した警棒を置いた。

 女の香水の残り香があった。コップが二つあって、片方の口にはグロスがついていた。

「木村佳奈が、来てたのか?」

「門限までには帰った。医学部は、大変だと思ったよ。話を聞く度にな」

「だろうな」、私は相づちを打った。

「座ってくれ」と、男は言った。「少しはまともなとこを見せなくちゃ、あんたはひどいとこだけ報告してしまう」

「いいところはまだ見てないね」

 男は苦笑いをして、何度か頷いた。指を頭にあてて、「確かに」と笑った。

 そして、電話がかかってきた。男のスマートフォンだ。

「はい、小鳥遊です。ああ、佳奈。無事に帰れたか?」

 音量の設定が大きく、木村佳奈の声がこちらまで聞こえてくる。

「ええ、そんなに心配しないでよ、かなで。子どもじゃないんだから」

 男はかなでと呼ばれていた。どういう漢字を書くのだろうか。

「あぁ。そうだな。俺の心の弱さを許してくれ」

 男は目をこちらにやった。

「探偵が来て、今俺の家にいる。佳奈が言ってた、あの背の高い奴だ。彼はついに俺の場所を探り当てたよ。優秀だな」

 長く、大きな溜息が聞こえた。

「嘘でしょ」

「ホントだよ、My fair lady.」と、男は言った。

 マイフェアレディ、と呟いた。こんな古風で気取った英語を使う人間はアメリカでも少なかった。フェアで美しいなんて言い方は、古語に入る。訳すなら、我が麗しの少女よ、だろうか。

「もう、面倒なんだから。家も知られたの?」

「ああ、自分から招いたよ、もう。どうせ彼なら見つけるよ。遅かれ早かれ。あの分だと、東京中の犯罪者全員をぶちのめしかねない感じだったから。俺の仕事仲間を、数人ぶちのめしちまった。全員武器を持ってたのにだよ」

「頭も働く上に、腕っ節もほんとに強いのね、そして度胸もある。どうしようもないってこと?でも、もっと粘っておけばよかったのに。雇うのをやめさせようと思ってたのよ。まぁ、しょうがないわ。ちょっと彼と変わってくれるかしら」

「ああ、いいとも」

 男は私に電話を渡した。私は丁寧に受け取った。

「探偵さん?」

「ああ、そうだ」

「まさかこんなに早く見つけられるとは思わなかったわ。お金を払うだけの価値はあったようね」

「まぁ、これでも自分は払われた対価に見合う以上の仕事をしてるとは思ってる。寂しい稼ぎだが、ね。おかげで金はないがね」

「どうして皆、余計な事ばかりするのかしら。もっとも注意すべきは愚かで勤勉なタイプで、彼は常に面倒だけを引き起こすためいかなる責務も任せてはならないと、ハマーシュタインも言っていたわ」

「ハマーシュタインって?」と、私は聞いた。

「昔の軍人よ。クラウゼヴィッツとして言われることもあるけど、ほんとうはハマーシュタインが言ったの」

「その言葉は私にとって耳が痛いね」と、私は言った。

「愚かには見えないけど。あなたが愚かだったら、たいていの人間は愚かになるんじゃないかしら」

「愚かか賢いなんて、相対的なものだ。賢くて悪い奴らばかりの時は、私が愚かでいい人間として立ち回るハメになる。逆の時は賢くて悪い人間になる。それで本題は?」

「その、報告の方を多少柔らかく伝えてくれないかしら」

「それで私に何か利益があるのかな」

「急に意地の悪い人間になるのはやめてもらえる?」

「というより、絹のように柔らかく伝えたところで、まだひとつもいい面を見てないから、伝えようがない。嘘を言うわけにはいかない」

「お金ならあるけど」

「侮辱しないでくれ」

「じゃあ、どうすればいいのよ!私の涙を見たくせに!」

 男が私に不快な顔をした。私が泣かせたわけじゃない。私は肩をすくめてみせた。

「耳障りな声を出さないでくれよ、お嬢さん。君が日々フラストレーションを溜めてるのは知ってるが、私に当たらないでもらいたいね。君は時々、感情が豊かすぎる」と、私は言った。

「彼にも良い点は沢山あるのよ、」

「どんな連続殺人鬼だって、小動物を逃がしてやるときぐらいはあるさ」

木村の息が途切れ途切れになって、息づかいが荒くなり始めた。

「死んじゃえ、ばか!」、スピーカーから出る音がハウリングして、私はスマートフォンを耳から離した。

そして、私は声を上げて笑った。

「わかったよ、私が銃で自分の頭を撃ち抜けば満足するんだな?まぁ、元から君の言うとおりにするつもりだったさ。ただ、あの男とよくない状況で顔見知りになったことがあるから、少し腹がたってたのさ。落ち着いて、深呼吸をしろ。自分の頭の回転で生き抜いてると自負してる人間は、頭の回転を鈍らせちゃいけない。いつも、よく考えるんだ」

 木村が黙って、息づかいだけが聞こえた。気分を落ち着かせているようだ。

「はいはい、私の負けね。かなでに変わってくれるかしら。あんまり、あなたと話したくない」、その声の後に、大きな溜息が聞こえた。

 私は男に電話を返した。

「佳奈、泣かされたことがあるのか?」

「いえ、違うわ」

「ならいいんだ」

「じゃあね、Sweetheart.」、木村が言って、電話を切った。

 男は私の方を見た。私はスイートハートという言葉を思い出した。古い言葉だった。

「マイフェアレディで我が麗しの少女よ、スイートハートで、愛しのひとよ、いったいいつの時代の英語を使ってるんだ。そのうちに、Thouだなんて使い始める気か?」と、私は彼をからかった。

「流石に、汝は、なんて言わないよ。人には分からない、暗号の代わりのつもりだった。あんたにはわかってしまったみたいだけどな」

「一応、英語はしゃべれるんだ。文学部だったから、古語も覚えてる」

 私はテーブルから椅子を引いて、腰掛けた。女物のクッションが敷かれていた方には座らなかった。

 家の中を見回すことにした。大きな本棚、パソコン、積まれた食器、調理器具、座椅子、それ以外には特に物がない、殺風景な部屋だった。

 大きな本棚には、チャンドラー、ハメット、大藪、パーカー、ロスマクドナルドから、ゲーテやバイロンと言った詩人からロシア文学や三島などの純文学までもが揃っていた。本棚の真ん中辺りに、男と木村佳奈の、幸せそうなツーショットが映っていた。木村がスマートフォンを持っていた角度で、木村と男が肩を組んでいる写真だった。カフェの木の机が端に映っていた。昼の色調だ。

「純文学や詩集を読むのか。随分と洒落たスリだな」と、私は言った。

 男は溜息をついて、本棚に目をやった。

「何でも読むぜ。佳奈と話を合わせるためなら。好きな女の前でぐらい、かっこつけたかったんだ。でも、あいつは頭がいい。俺は頭の出来がよくない。これだけ読んでも、まだうわっつらしかアイツのことがわからない。それでも俺は、愛してるよ」

「もっとかっこつける方法は、とっとと足を洗うことだな。もしお前が足を洗うなら、私も手伝いぐらいしてもいい。木村のじいさんを説得してもいい。韓国人と対面してやってもいい」

「韓国人はやめとけ。あいつは人殺しだ」

「私もだ」、私は言った。男の目が開かれた。私は業務上的な微笑みを浮かべた。

「もっといかれた奴とやり合ったことがある。奴が殺したのは一人ぐらいじゃないぜ。多分、数百人は越えてる殺し屋ともやり合った。奴はまだそこら辺をうろついてるかもしれない。そういうのに目をつけられないうちに、やめるべきだ」

 私は、その男を見つめた。肌が白く、細身だった。目は二重だったし、まつげも長い男だった。木村佳奈は女のような男が好きらしい。

「どうしてそこまでするんだ?あんた、ただの雇われだろう」

「彼等が私の心に、焼き付いたからさ」

男は瞬きを一度だけして、三回ほど軽く首を縦に振った。かれらの顔と声が、私の心にスチルのように、焼き付いていた。

「その写真は、そんなに綺麗だったのか?」

「私の安い命を賭けられる程度にはな」、私は言った。

「あんた、そんなに毎回命を賭けてるのか?」

「そういうときもある。人間性を手放してない人間を見ると、そういう風になるのさ。タフになるのは、私だけでいい」

 男は黙って、口を指先で拭った。そして、瞼をゆっくりと閉じて、腕組みをした。

 私も何も言わずに、机に手を置いた。

「優しいが、タフじゃない人間が、人に優しくなれるのは、余裕があるうちだけだ。普通の人間は、余裕が無くなると俺みたいに、誰かを傷付ける。あの塩田だって、薬物に手を出す前は、まだまともだったんだぜ。飲んだこともあった。タフな人間は、余裕があるから優しくなれるんだ。あんたは、誰かに殺されそうになっても、それでもまだ優しくいられるか?」

「ああ」、私は頷いた。

「じゃなきゃ、安月給でこんなことはしていないさ」

 男は腕組みをやめて、太腿に手を下ろした。そして、コップについである水を飲んだ。

「俺には出来ないよ」、男は首を横に振った。

「出来なくても、自分を責めるようなことじゃない。だが、犯罪をやめてもらわないと、あの男は満足しないぜ」

「しかし、俺はスリだ。やめようと、彼は怒るんじゃないか?」

 私は答えなかった。私は、机の上の鍵を取った。他には、型を取る粘土とパテと、ピッキングの用具があった。

「バンプキーか?」

 見た目は普通の鍵だったが、全ての穴が一様に、限界まで掘られている。これを最後のピンに差し込まない程度まで入れて、ハンマーで回転方向に叩くと、ピンが衝撃で引っかかってどんな鍵も開く。

「そうだ。一応、ピッキングや錠前破りも出来るよ。あんまりやらないけどな。スリ団の仕事は、スリをした後に、カードスキャニングをしたり、保険証とかそういうので金を借りたり、スマートフォンで金を借りたり売却したり、腕時計や指輪や車のキーを盗んで売ったりする。家の鍵を盗んで、盗みに入ったりする。強盗まがいのことをする連中もいるが、俺の担当はスリだよ。強盗はやったことがない」

 男は南京錠を取り出して、ピッキングの用具を手に取った。

 先を平らにした六角レンチで引っ張り続け、ヘアピンでピンを押して引っかけていた。

 10秒ほど待つと、南京錠が開いた。

「ほら、開いた。やってみるか?」

 私は同じようにやってみたが、出来なかった。

「無理だな」

 私は鍵を置いた。男は立ち上がって、コップをもう一つもって来て、水を入れて、私の前に置いた。

 どうも、と言って、私は水を飲んだ。

「やったことは、ずっとついてくる。過去を捨て去ることは出来ない。贖罪なんて、できんよ」と、私は言った。

「法治国家じゃ、刑務所に勤めれば贖罪できることになっている。しかし、そんなのうわべだけさ。国は人で出来ている。法にないルールというのもある。法にないルールで、人は動いている。皆、自分が絶対の正義だと思っている」

「低学歴の貧しい犯罪者に住む場所はないってことか」、男は自嘲するように笑った。

「法はたいてい、平等だ。平等って言うのは、優しさじゃないんだよ」

「じゃあ、俺は一体どうすればいい?」

「一人で生きるか、過去を隠して生きろ。それしかない」

 男は黙って、水を飲んだ。背もたれに背をあずけて、目を瞑った。

 わかったよ、と呟いた。

「過ぎ去りし麗しき日々は、再び我が元に返り来たらず」と、男は言った。

「分からないときには、必ず明るい面を見よ。詩人テニスンだろう」、私は返した。

「君がもし金のことにしか興味がない、冷酷非情な人間だったとしても、これをやめて晴れて木村佳奈と結ばれれば、君は大金持ちだぜ」

「金に惹かれたんじゃない。彼女の美貌と詩情に惹かれたんだ。だがそう簡単には抜けられないよ。あんたが思ってるより、面倒なんだ」

「やってみせるさ」と、私は言った。

 男は私を眺め回した。そして、窓辺に立った。彼は窓を開けて、月を見上げていた。寒い夜風が吹き込んできて、カーテンのレースが揺れた。私はコップの水を飲んだ。

「人生って、厳しいものだな」

「だろうな」と、私は言った。

「今から質問をする。これは報告することだ。考えて答えろ」

「わかったよ」

 男はこちらを見ずに、そのまま立っていた。

「まず、名前と年齢を聞こう」

「たかなしみなと、20才。小鳥が遊ぶと書いて、さんずいに奏でると書く湊だ」

「性別がわかりにくい名前だ」

「言うなよ、気にしてんだから。短髪にしてるのに、それを言われちゃ困る」

「経歴は?」

「孤児院から高校まで行って、中退した。あの佳奈のいとこと同じ高校だったよ。そっからぶらついてた。その後、生活費のためにスリになった」

 男は戻ってきて、また椅子に座った。

「なぜあの少女と知り合った?」

「なれそめを語らされるなんて、結婚式じゃないんだから」、小鳥遊の顔が真っ赤になっていた。

「言うときは、羽折るさ。私の心を買うと思って話してくれ」

「あいつは、大学のサークルにいたらしい。名前は忘れたけど、確かもうやめてるはずだ。あいつは飲み会でエルパソにつれてかれて、あいつを狙う獣どもに、酒を沢山飲まされた。まぁ、お持ち帰りって奴をやろうとしてくれたのさ、俺の愛しい人に」、小鳥遊の顔が歪んだ。怒っても、全く怖くないタイプの顔だった。

「んで、よりにもよって、塩田みたいなチンピラがやってきた。サークルの仲間の奴は閉め出されたみたいだった。あいつはいつ人殺しになるか分からない奴だ。塩田とそのダチの数人が、佳奈を犯そうとしてたんだ。俺は、トイレに行きたくなってたからな。そこで、佳奈を見かけた。掃除道具の重いので、あいつらの頭を殴りつけて気絶させて、佳奈を救った」

「いい騎士さまじゃないか」

「からかうのはよせ。騎士なんて柄じゃねえよ。佳奈から目を背けながら、早く服を着ろよと言ってやった。佳奈は泥酔してたから、俺が服を着せてやった。すごくドキドキしたよ。まだ青かったから。それで、佳奈を背負って、外に連れ出した。そうしたら、塩田達が追いついてきて、でかいナイフを取り出しやがった。俺は小さいナイフを取り出した。あっちのナイフは、このぐらいで」、小鳥遊は小さい手の細い指を一杯に広げた。

「俺のナイフはこのぐらいだった」、人差し指を上げて、刃の大きさを言った。

 私は首を縦に振り、あぁ、とあいづちを打った。

「他の二人が先に来たから、二人を切りつけると、二人ともすぐに音を上げた。だが、塩田が問題だった」

「私もさっき、塩田に大きなナイフで刺し殺されそうになったよ。お前をさっき倒したとき、よくお前が塩田に勝てたなと思ったよ」

「大丈夫なのか?」

「ああ、この通りさ」、私は微笑んだ。

「奇蹟だったと思う。あいつはつええよ。誇れることじゃないんだが。手を斬り合った。血が沢山出た。あいつが最後に突っ込んできたとき、偶然頭突きがあいつの顎に入ったら、あいつ、伸びちまったから。それで、佳奈に駆け寄った。そしたら、あいつの顔が、俺の心を捉えて放さなかった」

 私は腕を組んだ。男は、手の平を重ね合わせて、うつむいた。

「いや、恥ずかしいんだけど、一目惚れしちゃったよ」、もう口調が変わっていて、タフに気取るのをやめていた。ちんぴらでない顔になったらしい。

「微笑ましいな、それで」

「俺は、佳奈に喋りかけた。大丈夫かって。綺麗な顔で、あなたはだれなんて、聞かれたから、俺は恥ずかしくなって、何も言わずにカフェの椅子まで連れてってから逃げ出しちまった。あいつの顔を思い出して、また会えたら良いななんて思ってた。あまりにもぼーっとしすぎて、失血しすぎて倒れそうになった。ナイフを側溝に捨ててから、病院に行った。夢にまで見たよ」

 小鳥遊は手の平を重ね合わせて、指を動かしていた。

「そうしたら、またばったり渋谷で会ったんだ。そしたら、佳奈は、俺のことを覚えていた。一緒にカフェに行くことになったんだが、何を喋ってたのか、わからない程舞い上がってた。そうしたら、あなたって意外と可愛い人ねって微笑みながら言われて、赤くなって黙っちまった。癖で、手の平を重ね合わせるんだけど、それをしたら、佳奈が俺の手の甲の傷を見て、叫んだんだ。それは何の傷?って。俺は、料理で切っただけだって言ったけど、あいつは俺の目を見るだけで、嘘だって見抜いた。あいつには叶わないって思ったよ。佳奈は、手を握って、ありがとうって、心から俺に言ってくれた。俺はもう、どうしていいかわからなくなって、真っ赤になった。それで、まぁ色々と会う回数が増えていって、こうなったわけなんだ」

私は腕を組んで、黙っていた。彼女の頭の中には行動心理学も入っているらしい。

「あいつは俺の光だ。でも、あいつの親には、当然だけど反対されてる。なんとかしてくれないか」

 男は机に両手を置いて、私をじっと見つめた。

「おめでとう、君は充分私の心を買うことが出来た。だが、それにはやるべきことがある。強盗団から抜けて、仕事についてもらおう。木村佳奈の父親さえ説得できれば、君はどんな仕事についても、毎年二回はハワイでゆったりすることも出来るぜ」

「俺に、ヒモになれっていうのか、そんな恥ずかしいことを」

「スリをやってるよりはマシだろう。恥の上に、さらに心配まで掛けさせるよりはな」

 私は頭を掻いて、立ち上がった。男も同じように、立ち上がった。

「最後の質問だ。これは報告することじゃない。私のための質問だ」、私は告げた。

「藍原という女優と、私が一緒に新宿を歩いていたとき、藍原のスマートフォンをスって、三浦という男に渡したはずだ。あれは、誰に言われてやったことなんだ?」

「それだけは言えない」

「言えよ、こいつは重要なことだ。まさか、あの菊知っていう刑事や三浦とつきあいがあるんだったら、こっちも考え直すぞ」

「違う!つきあいって言うわけじゃない」

「じゃあ、なんなんだ」

 小鳥遊は黙って、床を見つめて、目を伏せた。なんだっていうんだ、と私は呟いた。彼は俯いたままだった。

 小鳥遊のスマートフォンが鳴った。私は小鳥遊のスマートフォンをひったくって、誰からかかってきたかを見た。

 見たことのない名前だった。

 佐野と書いてあった。私はその電話を取った。

「おう、小鳥遊。今日の報告がまだだな。今日は何をした?またスリしかしてないのか?もうあと数分でそっちに着くから、家開けとけよ。菊知さんも一緒だぜ」

 電話が切れた。

 私は小鳥遊を見た。小鳥遊はこちらの顔色をうかがって、私を見上げていた。

「佐野は菊知の新しいコンビだ。三木はどっかに飛ばされたと、聞いたよ」

「じゃあ、菊知に頼まれて、あれをやったのか?」

「そうだ、奴には逆らえない」

「二人もボスがいるのか?」

「いいや、一人だ」

 どうやら、菊知か韓国人どちらかが小鳥遊のボスらしい。

「ボスはどっちだ?」

「菊知の方だ」、男は首を数回横に振って溜息をついた。嫌なことを思い出すと、溜息が増えるものだ。

「そいつはお気の毒に」、私は言った。

「自分が気の毒になってきた。もうすぐあいつらは来るけど、顔を覚えられない方がいいんじゃないのか」と、小鳥遊は言った。

「もう知られてるよ。お前の関わったことがどんな結末になったか知ってるか?」

「知ってるよ。可哀想な女の人が、一人死んじまった」

「たった一人、死んでしまった。日本中に人なんて沢山いるが、そのたった一人は私の友人だったよ」

 この世の全ての死人について思いを馳せていた。月明かりが差し込んでいて、冷たい風が吹き込んできた。コップの水に、私の顔が反射していた。

 小鳥遊は黙り込んでしまった。

「すまない」

「君のせいじゃないよ」と、私は言った。

 私達は黙って、立ち上がった。

 とたんに、ドアが蹴られる音がした。

「おい、開けろ」、がなり声だ。

 小鳥遊は飛ぶように、ドアを開けに行った。

 二人の男が、土足で居間に入ってきた。

 一人は、短髪で背が高く、体格がいい、スーツを着た男だった。

 もう一人は、背が中ぐらいだが、痩せている男だ。菊知だった。

「探偵か、どうしてここにいる?」、全ての物を価値がないものとして扱う人間の目だった。平坦な声で言ってきた。こいつが撃ったせいで、辻は死んだのだ。私だって、不愉快になるときはある。今がそのピークだった。私は菊知を睨み付けて、声を出した。

「小鳥遊、お前、こいつと関わりがあったのか」、私は言った。

 小鳥遊はうつむいて、床を見ていた。

 菊知は首をかいた。菊知の手には警棒が握られていた。警棒で、机を何度か叩いた。

「こいつは非公式の潜入捜査官みたいなものだ。まぁ、どうでもいい。ちょうどよかった。お前も、署まで来てもらおうか」

 後ろの刑事、佐野は、菊知より背が高く、肩幅もあった。手にスマートフォンを持っていたが、それを空中に放り投げて、キャッチして、ズボンに入れた。

 手を払ったあと、私を見回した。

「こいつが、あの探偵って奴ですか」、佐野は菊知に言った。ちんぴらのような声だ。

 どうやらこの刑事は三木の代わりらしい。こいつも腕っ節が強そうだし、それを誇っていそうだ。往々にして犯罪者達と張り合おうとする刑事達は、そのうち風貌も性格も犯罪者と似るとよく言われるものだ。それがこの立ち振る舞いを演じさせているのだろう。

 佐野は私の頭のてっぺんから足下まで眺め回した。

「新宿署でもお前は目の敵だ。あんまり、警察の邪魔をしないでもらいたいね」

「お前達が職務をきちんと執行していれば、私は邪魔をしないで済むぜ」

 佐野は菊知に目をやった。

「俺達が仕事をしていないと言いたいらしい。俺はきちんと早稲田を出て、必死こいてエリートコースを歩んでる。そしてそんな俺が毎日死ぬほど働いて、家に帰るのは毎日、日をまたいでるって言うのに、まだ不満があるだと?低学歴の連中が、エリート公務員を批判する。こっちは激務なんだぞ、くそったれ。警官の平均寿命は60って言われてんだ。刑事はもっと短いだろうな。あれだけ太ったアメフトや相撲取りが50代だぜ?盆暮れ正月クリスマス関係無し、深夜の呼び出しあり、仮眠なし24時間ぶっ続け勤務なんてザラだ。なのに、クソ共は俺達を目の敵にしやがる。拳銃で毎年数人は自殺する。毎月誰かが自殺する。毎日睡眠時間は数時間、なのに、これなんてやってられんぜ」

 佐野はオーバーに両手を広げて、自嘲するように笑った。

「日をまたいで、汚職をするのに忙しいのか?お前みたいなのがエリートになるんだったら、この国もお終いだな」

「ちんぴら風情がなめた口を聞いてくれるじゃないか。とっとと死ねよ、やくざにバラされてな」

 佐野は小鳥遊の腕をひねりあげた。小鳥遊のうめき声が聞こえた。

「こいつは女のことを、スイートハートだとか、マイフェアレディだなんて言う」、と刑事は言った。菊知と顔を見合わせてせせら笑った。刑事は両手を挙げて、手を広げて、一度だけ全ての指を曲げて、元に戻した。

「何がスイートハートだ、次そんなクソキモい言い方したらぶん殴ってやる。俺は国粋主義者だからな。ちまたじゃいつも皆ラブソングばかり歌いやがる。恋や愛よりもっと大切なモンがあるだろ、まぬけ。泣けば誰かが助けてくれると、苦しんでると信じて助けてくれると思ってる奴がいる。軟弱者だらけだ。君が代と軍艦マーチと陸軍分列行進曲を背を伸ばして一字一句間違えず唄ってみろ。もっと陛下を敬え、くそったれ。いつかこの東京から左翼どもと不法移民をムショか海の向こうへ叩き出してやる。おまえんとこのボスの韓国人も絶対にムショに入れてやる。俺達の国の金を持ち逃げしやがってよ」、佐野が舌打ちをした。

「叩き出されるべきは、お前達なんじゃないか?お前みたいなのに、税金を払いたいと思う人間はそうそういないと思うが」

「随分とアカみたいな口を聞いてくれるじゃないか。そういう奴は大陸に行って、吊されて、体を青竜刀で削がれれば良いんだ」

「アカだと思うか?私はアメリカ帰りだ」

「じゃあ、アメリカかぶれの出羽守か」、刑事は笑った。

「俺は国旗に忠誠を誓っている。日本のために死のうと思って、この警察に入ったんだ。気に入らないなら、殺してみろ」

 私は笑った。破滅的な人間はいつも周りを巻き込むのだ。

「国を愛してる奴がよくそんな人殺しと組めるな」

 私は菊知を顎でしめした。菊知は小鳥遊を見ていた。私達の話には興味が無さそうだった。強く風が吹き込んできた。特に意味のない風だった。

「皆生きてるだけで人殺しさ、ちんぴら。菊知さんは宝石強盗とか窃盗団の不良外人も殺してるから、プラスマイナスでいったらプラスだろ。ああいう奴は日本人なんか平気で殺す。わかるな?法じゃ捌けない悪もいるのさ。裁判なんてくそくらえだ。日本も早く、アメリカみたいに路上で射殺できるように法律を変えるべきだな。それか、フィリピンの大統領を見習うべきだ」

 佐野は言い終わると、小鳥遊と木村のツーショットが収まった、小さな額縁を手に取った。本棚の中に収まっていた。

「こんなカマみてぇなスリを好きになる奴も、珍しい奴だな。脳味噌がとろけてるらしい。美人なのが癪に触る」、佐野が言った。

 佐野は額縁を投げ捨てた。額縁の硝子が砕け散って、ヒビが入った。

 小鳥遊が、怒りをあらわにした。

「おい!なんてことするんだ」、小鳥遊が佐野に掴みかかろうとした。

 菊知が蹴りを小鳥遊の股間に叩き込んだ。小鳥遊が、両手で股間を押さえて、顔を真っ青にし、四つん這いになった。菊知はつま先を側頭部に叩き込んだ。小鳥遊は地面に倒れ込んだ。もう一人の刑事が、小鳥遊を掴み上げて、壁に思い切り頭を叩き付けた。そのあと、顎にきつい張り手を入れた。空気が裂けるような音がした。脳が揺れて、小鳥遊は失神した。それから菊知にぶつけた。

「公務執行妨害が行われたらしいな、今ここで。警官にちょっかいを出しやがった奴がいる」、菊知は他人事のように言って、スーツを手で払った。

「先輩、これは許しがたいことっすね。署まで来て貰わなくちゃあ、商売に差し障る」

「あぁ、ここにいる二人を連行しなくちゃならないな」

「イエッサー」

 菊知は小鳥遊の手に手錠を掛けた。

「そっちのでかい方をあんまり刺激するなよ、そいつの蹴りは半端ないぞ。加藤だって倒しちまった」と、菊知がもう一人に言った。刑事は荒々しい笑みを浮かべて、私の前に立った。

「どうせ、あいつは飲み過ぎてふらふらだったんでしょう。しらふで奴がこんな細い奴に負けるものか。あいつのパンチはやばかった。あいつがのされるなんてありえねぇ。喧嘩が強いってぇだけで、警察にたてつくチンピラ。ガキじゃねえんだぞ、ちったぁ年考えろ。まともな仕事につけや、半グレじゃあるめいし」、刑事はうめくように呟いた。

 刑事は、私の顔を隅から隅まで見回した。そして、細長い100円ライターを取り出し、右手に握った。パンチ力を上げるテクニックの一つだ。喧嘩慣れしている。

「おい、ちんぴら。これを拾えよ」

 刑事は、小鳥遊と木村のツーショットの額縁を、拾い上げてから私の前に落とした。私は刑事の顔を睨み付けてから、拾った。刑事が私の後頭部を押さえて、膝を叩き込もうとしてきた。肘で顔を守った。もう一度膝。次に脚を伸ばして股間を蹴ってきた。膝で守った。後頭部にライターの底を落としてきた。脳が痛めつけられているようだ。次のきついのが来る前に、脚を掴んで、持ち上げてやった。そして背中から床に落とした。股間に拳を叩き込むと、刑事は股間を押さえて、呻き続けた。

 額縁をはらって、机の上に置いた。

「だから言っただろ」、と菊知は天を仰いだ。

「畜生、くそっ」、刑事は呟いていた。

 私は菊知に近寄っていった。菊知が失神している小鳥遊を離した。小鳥遊は地面に崩れ落ちた。菊知は警棒を落とし、その手をポケットに突っ込んで、勢い良く出した。

 ナイフが展開された。黒い、軍用の折りたたみナイフ。菊知は体を猫背にして、左の手の平を下に向けて、みぞおち辺りに、右手のナイフはへその辺りで、刃を水平にして構えていた。刃が逆向きだった。払うように切ったり、下から上に刺してきたり、切り上げてくるはずだ。胸を刺されたら、肋骨の隙間から刃が滑り込んでくる。右の手の平が上を向いていた。切っ先が、こちらに向けられていた。

 私は立ち止まった。間違いなくこいつはナイフで人を殺したことがある。そして、ためらいもしない。それに、山根が言うにはこいつは手練れだ。

 飛びついてきて、死ぬまで滅多刺しにしてくるタイプだ。アメリカ陸軍のナイフの構えに似ていた。

「ナイフの使い方を、習ったことがあるのか?」

「いや、ナイフでやってたら、自然とこれになった」と、菊知は言った。

 この男は実戦だけで軍隊式と同じ構えにたどり着いたらしい。

「互いのために、やめとくべきじゃないか?」と、菊知はナイフを動かさず、私に言った。私は菊知を睨み付けた。

 菊知はナイフを下ろして、小鳥遊の腹につま先を打ち込んだ。

「おい、起きろ。お前の大好きなお嬢さんの左手の薬指を切り落としてやって、卵巣をナイフで摘出してやっても良いんだぞ、ほら起きろ」

 二回目はみぞおちに叩き込まれた。小鳥遊が咳き込んで、目を覚ました。

「佳奈には、絶対に、手を出さないでくれ」、小鳥遊がうめくように言った。

「犯罪者風情が、何を言ってるんだ。人から奪った金で結婚指輪を買うつもりなんだろ。恥ずかしいと思わないのか?」、菊知は囁いて、笑った。そして、小鳥遊を立たせた。

「人のことが言える立場かよ」、小鳥遊が言った。怒りに震えていた。

「俺は別に恥ずかしいとも思わない。殺しに比べれば、盗みなんてささいなことだ。ただの物理現象にどうして皆そんな過剰反応するんだ。生きてりゃ死ぬのに、それが早まっただけだろ。それに、俺は結婚なんてしない。独り身主義者なんだ。女なんて金と時間の損だ。人生、短いんだからな」

「愛した奴は、皆殺しちまったんだろ」

「いや、俺が愛した奴なんていないさ。性欲のはけ口にしかしない。しかも、ちびっことどうやって結婚すればいい?アラブにでも行って、アラビアンナイトを満喫してくればいいのか?さぁ、車に乗るぞ。探偵、お前も来い。じゃないとこいつをムショにぶち込むぞ」

「いいだろう。私に音を上げさせられるか、試してみるといい」

「音を上げさせる目的じゃないがな」

 四人で、狭いアパートを出た。

 アパートの下には覆面パトカーである、黒いクラウンが止まっていた。

 佐野が運転席に座って、菊知が助手席に乗った。私と小鳥遊は後ろに乗った。

 私のインプレッサは置いていかれるようだ。駐禁で持っていかれなければ良いのだが。

 菊知が懐から銀色の拳銃、SIGP230拳銃を取り出して、私に向けた。

「拳銃を変えたのか?シグP230、威力の低い32口径弾は不安だろう」、私は言った。

「殺せなかったら、俺が死ぬだけだ。それに、ナイフもある。刃物を持った奴が物陰から飛び出してきたら、こいつは使わんよ。俺が得意なのは、オリンピック撃ちだからな。ナイフを使う。ナイフは得意だ」、菊知は言った。

 オリンピックでは片腕だけで撃つ。競技射撃が得意だったのだろうか。思い出すと、この男は裏路地にいたときも、埠頭にいたときも片腕でしか拳銃を持っていなかった。

「そんな突きつけ方じゃ、奪われるぜ」

「ここでお前が奪ったら、小鳥遊か佐野が一発食らうかもしれない。そんなことをやる価値があるのか?」

 佐野と小鳥遊が菊知を見た。

「やめてくださいよ。何の意味もないとこで、どたまに鉛をもらいたくないですよ」

「そうしたら、探偵と小鳥遊を撃ち殺した後で、お前を殉職者にしてやるよ。お国のためだぜ」

「敵を取って貰えるんだったら、まぁいいでしょう」

 夜の闇が町を覆っていた。時々、闇に包まれたくなる。この男を引き裂いてやりたいという気持ちが私を包んでいた。

 この男が、辻を撃ち殺したようなものだ。

 今日一日を全て、小鳥遊を見つけるために費やした。その小鳥遊は、スリ団には潜入しているようだ。木村はそれを全く知らないだろう。この分だと、小鳥遊を更正させようとする試みもだめになるかもしれない。小鳥遊と木村のなれそめを聞き、小鳥遊についてもっと深く知る前に、この男達が現れた。殺人鬼の新しい相棒は三木よりもさらに粗暴な男だった。

 次から次へとインパクトのある出来事が起きている。今日一日のことは特に、貝木がかぎつけたら全てを記事にするレベルだろう。

 世界一の大都市なら、仕方のないことなのかもしれない。

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