15話

 起きると、雨の匂いがした。途切れないささやかな音。

 小雨程度の弱い雨だった。

 湿気が響いて、体中が痛む。顎に額をぶつけられたり、スネに警棒を食らったり、ナイフで太腿を薄く切られたり、後頭部をライターで殴られたり、投げ飛ばされたり、腎臓を殴られたり蹴られたり、目を指で突かれたり、ボールペンを刺されたりした。これはスポーツでは味わうことの出来ない痛みだ。ほとんど全て反則技なのだから。ナイフやチェーン、ボールペン、包丁、警棒、バット、ボウガンおまけに拳銃。全てが私を傷付け、打ち砕くために向かってきた。この街の人間は全員気が狂っている。実際にはほんの一部だけなのだが、そう錯覚しそうになる。

 私がやるべきことは今三つある。

 一つは、闇カジノで荒稼ぎすること。二つ目は韓国人の所に行って小鳥遊をやめさせること。三つ目は、木村の父親を納得させることだ。

 三つ目からはじめ、次に二つ目を行い、最後に一つ目を行う。

 一つ目はメディックキットが届いてからだ。日本には銃創を治療できる医者は少ない。面倒な事になると困る。銃撃戦が表沙汰になれば、私はお終いだ。懲役10年ではきっとすまないだろう。闇医者、または秘密に治療してくれる人間を見つけなければならない。木村の父親を説得できれば良いのだが。

 もし止血キットがなければ撃たれて、血を流しつくして終わりかもしれない。中枢神経に食らえば即死、動脈や臓器に食らえば出血多量だ。脳や脊髄をえぐられればすぐに倒れる。肺に食らえば血に溺れる。肝臓や腎臓を抜かれれば体に毒が回る。膀胱や腸を撃たれれば排泄物が腹膜の中に飛び散る。胃なら胃酸と内容物が体を跳ね回る。心臓なら血液はもう回らなくなる。

 韓国人は韓国人でめんどうだ。奴は人殺しなのだから。殺しかたを熟知している殺人犯ほど面倒なものはない。軍隊にいたのだから、銃も使えるだろうし、ナイフも使えるはずだ。ルール無用の戦い方もしてくるはずだ。注意しなければならないのは蹴りだけではない。拳銃も持っているかもしれない。詳しいことは小鳥遊に聞こう。

 願わくば、韓国人が私に激怒しないことだ。出来れば穏便に済ませたい。

 カジノの仕事が終わるまでは、菊知や山根のような刃物を振り回す殺人鬼達はおとなしくしている。刃物は静かだ。アメリカのような銃社会でも、殺人の十数%は刃物で行われている。刃物で殺すことに手馴れた人間は、声を出させない。刺された人間は、誰にもその声を聞かれることなく、静かに死んでいく。声は血の海に溶けていって、声を失ったマーメイドのように、泡になる。

 最期に見るのは、自分の血と、殺人者のぎらついて血走った目、つり上がった眉、開いた鼻、歪んだ唇、どう猛な息づかい、そして達成感にまみれた顔だけだ。まるで獣のような顔だ。終わった後は、殺人者は返り血とともに、どこかほの暗い奥底へ可哀想な人間を引きずっていく。処理が行われるのだ。細切れになったり、酸で溶かされたり、漂白剤でDNAを消されたり、海に放り込まれたり、山に埋められたり、工事現場のコンクリートに流し込まれたり、下水道でネズミに食われたり、殺人鬼に生きたまま食べられたりする。

 もしくは、ホームから突き落とされたり、車で轢かれたり、細工をされたりして、事故死や自殺に偽装される。眠っている間に、縄をかけられて、首を吊ったことにさせられるかもしれない。アイスピックで首の後ろをやられて、自然死に見せかけられるかもしれない。誰も知らないような毒で毒殺され、自然死と判断されるかもしれない。

 そして、数日後には行方不明者の仲間入りとなるか、巧妙に偽装されている場合、自殺者や寿命で死んだ人間の仲間入りだ。警察は目を閉じて眠りこけている。さようなら、可哀想な誰か。警察は言う。彼は、彼女は消えてしまいました。見つけることは出来ませんでした。さようなら、さようなら、さようなら。

 残された者達はその人間にお別れを言う前に、永遠のお別れをすることになる。

 まるでホラー映画の化け物達だ。しかし、それは画面の中の話ではなく、現実だ。現実が一番恐ろしい。そしてそれはゆっくり歩いてくる大男ではなく、濡れた長い髪を振り乱す女ではなく、もっと俊敏で、狡猾で、どう猛な殺人鬼だ。

 三浦や山根や菊知や塩田や韓国人などといった人間達は、化け物だ。人を殺して平気な人間は、化け物というのだ。私も化け物なのかもしれない。また銃を握ってしまうのだから。

 仕事が終わったら、また私はいつもそのような男達に警戒しなければならない。

 小鳥遊や木村佳奈、浅井と言った若く有望な少年少女達、藍原やみずな、酒井のような女達、トラックの運転手だった北川、死んでしまった辻のような無辜の市民達を彼等のような破壊だけを考えている人間の犠牲にしてはいけない。

 しかし、止められないこともある。そういうとき私は自分の無力さにノックアウトされる。誰かが私に言った。お前の周りの人間は、お前も含めて神に唾を吐く人間ばかりだと。救いの手を差し伸べられても、手を焼き払うような人間ばかりだと。

 私もそういう人間だ。皆、破滅に向かって突き進んでいる。どこかの暗い場所で、戦いの末に寂しく、孤独に息を引き取ろうとしている。誰もその戦いなど見ていないというのに。血と埃と砂にまみれながら、無様に死んでいく。

 だからなんだというのだ。私にはやるべきことがある。

 机の中からマカロフ拳銃を出した。

 もう今はなくなってしまった国、冷戦のもう一つの雄、ソ連。そこが作った年代物の拳銃だ。ジェームズボンドが使っているワルサーPPKと同じぐらいの、小型の拳銃だ。

 色々な国がコピーしているが、これはグリップやセーフティの色からして、ソ連製だろう。丸っこいが、無骨な黒い拳銃。グリップのパネルは茶色になっている。弾数は8発と、薬室に一発。マガジンは横がくりぬかれていて、残りの弾数がわかる。弾丸は丸っこい軍用のフルメタルジャケット弾。殺傷力は弾頭の中では一番低い部類に入るが、貫通力はそれなりだ。ヘビー級チャンピオンですら頭を撃たれれば死ぬ。銃で頭を撃たれて死なない人間などいない。結局は当たり所の問題だ。

 蠍の毒は全ての血を噴き出させ、プロメテウスの火は全てを焼き尽くす。

 拳銃をしまった。

 簡単なことからやろう。難しいことから手をつけて、何もする前から命を落とすというのも馬鹿らしい話だ。

 スマートフォンを取り出した。

 小鳥遊と木村佳奈と浅井の電話番号は持っている。

 全員で口裏を合わせて、木村の父親に話をつける。きっと私だけ、小鳥遊だけ、木村佳奈だけ、浅井だけでは彼は納得しないだろう。一対多数の状況を作り出すのが一番いい。

 医療系の大学に行っている木村佳奈は一番時間がないはずだ。昼から夜が活動時間帯だと思われる小鳥遊と、朝から夕の浅井はなんとかなるだろう。

 小鳥遊から話を合わせ、次に浅井だ。

 私はスマートフォンで電話をかけた。コールが2回、声が聞こえた。

「はい、小鳥遊です」

「私だ、探偵だ」

「ああ、誰かと思ったよ。しかし、いつの間に電話番号を知ったんだ?」

「スリだってスられることはある」と、私は言った。

「いつの間に」

「格闘家だって素人に殴り殺されることもある。特殊部隊だって素人に撃ち殺されることがある。どれだけ熟練してても、ラッキーパンチ一発で抜かれることだってあるんだ」

 私はある雨の日の情景を思い描いた。世界最悪の殺し屋だって、女に腕を撃たれた。違う女からは背中に包丁を突き立てられていた。全てもろともしていなかったが。

「それで、何か用があって電話をかけてきたんだろ?まさか、俺が恋しかったわけじゃないだろ」

「冗談を言えるようにまで回復したのか。それならいい」

「空元気だよ!ああ、俺は元気さ!」、小鳥遊は声を張り上げた。

「相当まいってるらしいな」

「あのデカと韓国人の板挟みだぞ!殺人鬼どもに囲まれて普通でいられるかよ、畜生。おまけにあんたも俺に何かさせようとしてる。これ以上タスクを増やさないでくれ」

「私としては、韓国人の話を聞きたいし、あの父親に話す言葉を考えたいと思っている。それの打ち合わせを。前の話は、途中で打ち切りになってしまっただろう。残念ながら、どれも必要な行動だ」

 小鳥遊が溜息をついて、少しの時間がたった。

「それで、打ち合わせはどこでするんだ」

「好きなところでいい。別に電話で行っても構わないが」

「じゃあ、ファミレスにしておくか。今日の担当は俺じゃないから暇なんだ。労働条件自体は悪くないとは思うよ。トップが何をしでかすかわからない人間ということと、逮捕される可能性がある事を除けば。企業も犯罪者みたいなもんさ。ああやって搾取してる。偉そうな顔をしてるのにな」

「かもな」と、私は相づちを打った。

「それで私としては、木村佳奈と浅井ユミにも話を通しておきたいと思っているんだが、木村佳奈の方の都合は合わせられそうか?」

「あいつは忙しいから、俺みたいなちんぴらとは違う」、優しい声で小鳥遊は言った。

「じゃあ、浅井と小鳥遊だけか。こっちで拾ってから、そちらまで行こう」

「ああ、それじゃ。夕方に頼むよ。今は昼の2時だ」

 電話が切れた。

 自分がよく寝ていたと言うことが分かった。確かに、昨日は色々な事があった。

 時間を無駄にしたような気がしたが、気にするようなことではない。

 もう何人もの命を救っているのだ。10億円もらって、バリ島でゆっくりと余生を送ってもいいはずだ。

 しかし、もしそんなものをもらっても、余生をゆっくりと過ごす気は無い。

 私にはやるべきことがある。



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