追う夏、来る夏(2)
ほのかとの別れ道を過ぎると、あたしは押していた自転車にまたがって車輪を走らせた。
徒歩の親友が隣にいない今、自転車を押してやり、楽をさせてやる理由もない。
ペダルに添えるように足を置き、なるべく漕がないことを意識しながらカラカラとチェーンが音を立てる車体に身を委ね、あたしは両脚の力を抜く。
そうやって、なびく髪に風が触れていく中、帰路はゴールへと近づいていった。
高い日が照り付け暑い屋外。
緩やかな涼しさを伴っての帰り道。
その途中、いくつもの建物の影をくぐる。
そして、いよいよ家の塀が見えた時、見知らぬ女性が一人家の前で立っているのを見つけてあたしは自転車のブレーキをかけた。
普段通りの我が家、その門前で彼女は腕を組み、足を楽に開き、じっと家を見据えている。
遠目でも女性の背の高さ、そして、整った顔立ちがわかった。
炎天下の中、帽子も被らずに後頭部で結ばれた髪が馬の尾のように垂れ下がっている。
ここから見える首筋だろう肌色には、きっと汗が幾筋も流れているんだろう。
なのに、その人はなんとも涼しげな顔をしていた。
すらりと長い脚を小さく開く立ち姿は、暑さを微塵も感じていないような余裕が感じられる。
その様子と、綺麗に脚のラインが見えるパンツにふと目を奪われ、じぃっと足元へと目線を下げていくと、踵の低い靴を捉えた。
ヒールで底上げされている訳でもなく、天然物で背の高い美人さん。
彼女を見て、あたしは素直にモデルみたいだと思った。
そして同時に、そんな女性が自宅の情景に混ざっている現状に違和感を抱き、彼女の存在がすごく異色に思えてしまう。
けど、ああして家の前に居るんだからきっと家に用があるんだろう……。
乾いた口の中で無理やり唾をのみ込み、しんっと心を落ち着け自転車を降りる。
その後、ゆっくりと車体を押して女性に近付いていった。
すると、あたしに気付いたのか彼女はこちらに振り向くなり快活な笑顔を浮かべる。
「おや? きっとあなたが従妹ちゃんだね?」
女性の口からはきはきとした滑舌の良い、よく通る声でそれは紡がれた。
なんてことない言葉の筈なのに、この人が言うとまるで物語の台詞みたいに聞こえてくる。
「あの……どなたですか?」
あたしを『従妹』と呼ぶあたり、たぶんトキの知り合いなんだろうけど。
胸裏でそう目星をつけながら問いかけるあたしに、彼女は驚いたような表情を見せた。
「あれ? ひょっとしてあたしのこと聞いてない?」
その声に動揺が混ざる中、あたしは首を振って『聞いてない』ということを伝える。
すると、彼女は即座に納得したのかキリっとした笑みを浮かべ直し、芝居がかった仕草で右手を胸元に添えて口を開いた。
「あたしは真宋るり。トキ君の大学時代の先輩で、今日からあなたの家庭教師になりました。よろしくねっ」
そう言うと、真宋るりさんは華麗に綺麗なウィンクを上手に決めて見せる。
そんな彼女の首筋に、一筋の汗が流れた。
ああ、そうか……今日はそんなに暑いのか。
急に突拍子もないことを語った彼女に、あたしは疑いと呆れの混ざった視線を投げる。
この瞬間が、真宋るりさんとあたしの出会いだった。
◆
日が落ちればチリチリと燃えるように肌を熱していた外気は、ぬるく肌にまとわりつく湿り気を帯びていく。
そんな、昼も夜も快適とは言い辛い外とは裏腹に、冷房の効いた居間は快適だった。
けど。
「『考えておいてくださいね』って、言っただけだったじゃないですか……」
その快適な空間で、サマースーツの上着を脱ぎ、よれたシャツを着たまま正座するトキの表情はなんとも居心地が悪そうな困り顔だ。
対して、居間の丸テーブルを挟み、彼と対面して座る真宋さんは素知らぬ顔でトキの声を受け止める。
「だから、引き受けてあげるよって即答したじゃないか」
「浅緋にまだ話していないから、少し待っててください。ともお願いしたじゃないですか」
「まあ……お願いされたな」
そう言う真宋さんは悪びれる様子もなく続けて口を開き――
「だからこそ、可愛い後輩の為に、従妹ちゃんの説得を手助けするべく一肌脱ごうと思ってこうして馳せ参じた訳だよ」
――言い終わると、形の良い綺麗な唇を悪そうに歪ませながら笑って見せた。
この彼女の悪びれのなさが、あたしの良く知るほのかのそれとはまるで違っていて、ちょっとだけおもしろい。
ほのかは悪戯を反省しないこどものように振る舞うのだけど、真宋さんは自分が善いことをしたと信じて疑っていないように振る舞っていると思えた。
たぶん、良く言えば自信に満ちていて、きっと、悪く言えば恩着せがましいんだろう。
そんな真宋さんと向かい合うトキは、あたしの隣で早々に肩をがっくりと脱力させていた。
それが、あたしには想い人の降参のポーズに見える。
どうやら彼は、真宋さんに全く頭が上がらないらしく……あたしは、それがちっともおもしろくない。
ムッとした感情は行動に現れ、気付けばあたしは麦茶を運び終えた胸に抱えるお盆をぐっと握りしめていた。
直後、トキが丸テーブルの上に置かれた麦茶の入ったコップに手を伸ばす。
彼はグイッと持ち上げたそれを口元に傾け、大きく喉を鳴らして中身を飲み干した。
「で、本音はっ?」
潤った喉から勢いよく声が絞り出される。
きっと、さっきのはトキなりの景気付けだったんだろう。
それを受けて、真宋さんも丸テーブルの麦茶に手を伸ばした。
しかし、彼女はトキのようにそれを勢い任せに飲み干すようなことはしない。
代わりに、人差し指と親指をピンと伸ばして立て、三本指で器用にコップを持ち上げる。
そして、その人差し指はまるで銃口のようにトキへと向けられた。
「学生時代食べ損ねた、君の出来立てふわとろオムライスをごちそうになりに来た」
そうゆっくりと言葉が告げられた後、コップは静かに真宋さんの唇に宛がわれる。
クイッと傾けられたコップの中で、氷がカランと音を立てた。
その涼しげな音が引き金にでもなったのか、トキはため息を吐いてうなだれてしまう。
「ひとまず、夕飯はうちで食べていってください。その時に家庭教師の件も話し合いましょう」
小さく喉を鳴らしていた真宋さんは、コップから口を離すと満足げに頷いた。
「うん。わかった」
「けど! うちは今日、夕飯肉じゃがですから。そこは了承してください」
一旦、素直な返事をした真宋さんだったが、このトキの宣言を受けた途端に頬を膨らせる。
「トキ君。それはあんまりじゃないかな」
「事前に連絡もらえてたならメニュー変更なんていくらでもできたんですけどね」
立ち上がりながらそう口にするトキの言い方は少し嫌味っぽさが混じっていた。
けど――
「それに、肉じゃがは昔、褒めながら食べてくれましたよ。先輩は」
――続けられた声には親しみと懐かしさがたっぷりと込められていて……。
「ああ……そんなこともあったねぇ」
呼応する真宋さんも、さっきまでの不満げな声がどこへやらだ。
そんな二人のやりとりが、あたしはちっともおもしろくない。
だいたい、二人の会話の本題は家庭教師云々で、あたしもちゃんと当事者だった筈だ。
なのに、気付けばあたしはすっかり蚊帳の外になっている。
真宋さんは、向坂浅緋の家庭教師になる為に家に来たんじゃなかったっけ?
いや、かといってこの人に家庭教師になってほしいだなんて思ってはいないんだけど。
自分の中に、久々にムスリとしたこどもっぽい感情を自覚した。
あたしの意思とは全く関係なく頬が膨れていくのがわかる……。
「じゃあ俺、夕飯の支度してくるんで……えっと」
そんなあたしの気持ちに気付く素振りもなく、トキは去り際に目線をこちらに投げた。
大方、自分が夕飯の支度をする間、真宋さんを一人にすることを危惧しているに違いない。
ここであたしが「じゃあ、あたしは真宋さんとここでお話して待ってるね」とでも言えれば丸く収まるんだろうけど……残念ながら、あたしはまだこの人と二人きりという状況は得意じゃない。というか、できればむしろ避けたい。
あたしは、真宋さんが押し掛けた午後からトキが帰って来るまでの間、彼女と過ごした時間を思い返す。それはひとまず彼女を家にあげ、居間に通し、お茶を出し、最小限の簡単な自己紹介を済ませた後の無言の数時間だ。
彼女を放って置く訳にも行かず、かと言って気楽に話題を投げ掛けられるほど器用でもないあたしは、同じ室内で課題を広げ黙々とシャープペンを走らせて過ごすことにした。
おそらくあたしのシャープペンは突然始まった課題のフルマラソンにさぞかし驚いただろう。
初対面である真宋さんとの会話を極力回避するため、あたしは数時間、集中している
そして、シャープペンの芯が身を削っていく音だけが走者の息切れのように聞こえる空間で、真宋さんはただ黙ってじいっと課題をこなすあたしを眺めていたのだ。
時にはあたしが向う問題文に目を通しながら。
時にはあたしが淹れた麦茶で喉を潤しながら。
時には、退屈そうにぐぅっと伸びをしながら。
ずぅっと、あたしが課題をする様子をただただ眺めていた。
あたしなんかを見つめて何がそんなに楽しかったと言うんだろう。
いっそ話し掛けてくださいと何度内心で考えたかわからない。
そんな訳で、あたしはもう二度と真宋さんとあんな妙ちきりんな時間を過ごす気はなかった。
全く後ろめたさがない訳じゃないけど、あたしは課題を理由に自室へ退避しようと決意する。
『じゃあ、あたしは部屋で勉強するから』
あとは、この思いを口にするだけだった。
「じゃあ、あたしは――」
と、そこまで声に出た所で、あたしの声は上書きされる。
「じゃあっ、あたしは従妹ちゃんとここで一緒に待たせてもらおうかな?」
真宋さんの声は真宋さんの声は快活で、本当に良く通る。
後ろめたさが滲むしぼんだあたしの声では、太刀打ちできる筈もなかった。
この人の声は、思わず聞き惚れてしまいそうな声だ。
けど今のあたしは、彼女の声音に浸っている暇などない。
「えっ? ちょっと――」
そんな勝手に――と、続けようとした思いは声となって伴わず。
「これから先生と生徒の関係になるんだから、それなりに親睦は深めないとね」
真宋さんはあたし達の仮の関係性を理由に、あたしをこの場に留めようとした。
「昼間は簡単な挨拶くらいしかできなかったし、従妹ちゃんもずいぶん固かったじゃない? さあ、ここからは腹を割って話し合おっか!」
そう言うと、真宋さんは丸テーブルにずいっと身を乗り出して片腕をついて肩を開く。
しかも、いつの間にかずいぶんと楽そうに足も崩していて、その恰好はまるで親分だった。
けどあたしは、そんな女親分みたいな仮の先生相手に腹を割る気も割られる気もない。
そもそも、彼女は『固かった』と過去形にしてくれたが、あたしは未だ真宋さん相手にくだけた覚えもないのだ。にもかかわらず。
「じゃあ、お願いします」
トキは真宋さんに軽く頭を下げると台所へと足を向け、あたしには背を向ける。
真宋さんの口にしたことがそっくりそのまま実行されようとしていく中で――
「ちょっと、」
――焦りが過分に含まれたあたしの必死の制止である「待って」は――
「うん。任せなさいっ!」
――ひらひらとトキに手を振り、片目を綺麗に閉じつつ発せられた彼女の声にかき消された。
「さて、従妹ちゃん」
そして、あたしと真宋さんの『二人きり』が再来する。
「なにを話そうか?」
その言葉……今のあたしではなく、数時間前のあたしに聴かせてほしかった。
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