あたしが決めたこと(2)

 その日の夜。



 こんこんっという控えめなノックに自室のドアを開ける。

 すると、部屋の前に、枕を抱き締めたあさぎちゃんが立っていた。


「あさぎちゃん? どうしたの?」


 いつもなら、もうかおるさんの部屋で一緒に寝ている時間帯だ。

 あたしが訊ねると、あさぎちゃんは口元を隠すように枕に顔を押し付け――


「今日、浅緋お姉ちゃんと一緒に寝てもええ?」


 ――あたしは彼女から、上目遣いにそんな甘い声をごちそうになった。

 思わず、耳がふやけるかと思うくらいの愛らしい声。

 あたしは、どうしようもなく頬の締まりがなくなるのを自覚しながら「いいよ」と、言ってあさぎちゃんを部屋に招き入れた。


「えへへ、ありがとぉ、浅緋お姉ちゃんっ」


 あさぎちゃんはそう、にこっと笑って言うなり部屋に飛び込み、真っ先にベッドへ向う。

 彼女はベッドに辿り着くなり布団の中にもぐりこみ、あたしの枕の隣に自分の枕を設置した。

 そして、枕と一緒に抱えていたらしく、あの童話の本を手に取り出す。 

 それは、あたしが彼女から借りてしまったことがあるあの童話の本だ。

 けど、今では二人で何度も何度も一緒に読んだ本、という具合に思い出が上書きされていた。


「浅緋お姉ちゃん、はよこっち来てぇ」


 あさぎちゃんは、ぽてぽてと枕を手で打ちながらあたしを呼び寄せる。

 あたしは、仕方がないなぁ、なんて思いながら、彼女の待つベッドに向かった。


「言っとくけど、早く寝なきゃだめなんだからね?」


 あさぎちゃんの隣へ横になるなり、そう言って聞かせる。

 しかし、あさぎちゃんは小さな声で「えー」と、わがままをこぼした。

 続けて、本を閉じてあたしをみつめながら「ちょっとだけならええやろ?」と尋ねるのだ。

 正直な話、ここ数日はあさぎちゃんのこの「ちょっとだけ」というわがままを、あたしは断れたためしがない。


「……じゃあ、ちょっとだけね」


 この返答に対して、あさぎちゃんはあたしに満面の笑みを浮かべて応えた。

 あたしは、それがなんだかこの子なりのしたり顔のような気がしてくる。

 まあ、そんな所がかろうじて彼女の憎らしいポイントでもあった。

 でも、もうじきお別れなんだ。

 今日くらい、一緒に寝たり、少し話し込むくらいのことがあっても許されるだろう。

 そんな風に考えて、あたしはかるい夜更かしを彼女と楽しんでしまおうと考えた。

 例えば、普段は聞けないような話を交えたりしつつ。


「ねぇ、あさぎちゃん、訊いてもいい?」


 あたしがそう話を切り出すと、あさぎちゃんはきょとんっとこちらをみつめた。


「どうしたん?」

「えっとね、ちょっと気になって。あさぎちゃんって普段は方言で話さないの?」


 そう訊ねると、彼女は布団を自分に引き寄せ、口元を隠してみせる。


「だって、こっちの人、誰も私みたいに話す人いいひんねんもん。恥ずかしいやん」


 あさぎちゃんは、こどもっぽく拗ねるように声を出した。

 そんな仕草が可愛く思えて、つい悪戯心が芽生える。


「でも、あたしには話してるよ? それはいいの?」


 あたしとしては、これはちょっとしたいじわるのつもりだった。

 けど。


「それは、ええねん。浅緋お姉ちゃんと二人っきりの時は」


 あさぎちゃんはひょこっと顔を出し、うつぶせでベッドに寝転がったままあたしをみつめる。


「だって、浅緋お姉ちゃんは特別なんやぁ」


 その、やわらかく、幸せそうに表情をくずしながら耳元に届けられる声が。

 彼女の、小さな口から紡がれた言葉が、あたしの感情を気持ちよくくすぐっていった。

 それは、不意打ち的な嬉しさで……まるで、自分に妹でもできたみたいな気分だった。


「ありがと……なんか、ちょっと照れるね」


 そう言うと、あさぎちゃんはきゅっと目をつむってむずがるようにまた布団を冠る。

 それが、あたしには彼女が頷いて応えてくれているように思えた。

 あさぎちゃんも、あたしと同じ気持ちなのだろうか? あたしと一緒で照れている?

 少し前なら、あさぎちゃんと『同じ気持ちかも』だなんて、考えもしなかっただろう。

 改めて、あたし達の関係の変化を実感しながら、あたしはあさぎちゃんの横顔を眺める。

 彼女は再び布団から顔を出し、じぃっとあたしを見つめ返した。

 あさぎちゃんの口元は緩んでいて、笑っているようにも、何かを言いたそうにも思える。


「あさぎちゃん?」


 あたしは、訊ねるように彼女の名前を口にした。

 すると、あさぎちゃんは横になったままもぞもぞとあたしに向き直る。

 目線は逸らさないまま、彼女の黒髪がさらり流れるように枕へ垂れた。

 その内の数本が頬にかかり、あたしはそれをはらおうとあさぎちゃんの頬に手を伸ばす。

 指先に触れる彼女の肌のやわらかさと、細い、プツリと切れてしまいそうな髪の感触。

 あたしが撫でさするように髪をはらうと、あさぎちゃんはようやく口を開いた。


「あんな、浅緋お姉ちゃん……今日な、ありがとぉ」


 こどもながらに、彼女は改まってそんなことを口にした。


「急に、どうしたの?」

「今日、お母さんの手術、一緒におってくれたから」


 あさぎちゃんは、そう言ってあたしの手に自分の手を添える。

 まだ小さく、あたしのよりもずっと幼い彼女の指が、あたしの手に触れ、重なった。


「浅緋お姉ちゃんがな、私のことぎゅうぅってしてくれたやろ。あれ、なんかほかほかして、めっちゃ嬉しかってん」


 触れ合う指先から、あさぎちゃんの熱が伝わってくる。

 重ねられた手は、自分よりも少し体温が高い気がした。

 それに比べて、あたしの手は彼女よりひんやりとしていて、それが、なんとなく心もとない。

 この手があさぎちゃんを抱きしめていたかと思うと、今更、荷が勝ち過ぎていたと思った。


「そんな……あたし、それくらいしかできなかったよ?」


 口から出たのは、申し訳なさが混じった弱音のような言葉。


「うぅん。一緒にいてくれたやん」


 けど、あさぎちゃんはそんな言葉を笑って受け入れる。


「……一緒に、いただけだよ」

「でも私な、嬉しかってん。浅緋お姉ちゃんが、一緒におってくれて、よかったぁって……」


 まどろむ声で、あさぎちゃんはあたしに告げた。

 今にも睡魔にまけてしまいそうな、大きな瞳にあたしを捉えながら。

 小さな口で、静かな声で、そっと伝えられたそんな言葉は、あたしを心底ホッとさせる。

 まだ、彼女はあたしよりもずっとずっとこどものなのに……。

 今、あさぎちゃんに安心させられたことが、ほんの、ほんの少しだけ憎らしかった。

 でも同時に、あたしがあさぎちゃんにできたことは、彼女の為になったんだと、強く思えた。

 あたしにも、何かできたんだと、確信めいてそう思えた……。

 あさぎちゃんは、いよいよ本格的に眠くなりだしたのか猫のように手を丸めてまぶたを擦る。

 けど、あたしが「もう寝よっか?」と促すと、いやいやと首を横に振り――


「なぁ、浅緋お姉ちゃん? 寝る前に……またこの本読んでくれる?」


 ――そう言って、彼女は持って来ていたあの童話をあたしに差し出した。

 あたしはもう、この童話の冒頭部分なら本を開かずとも暗唱できる自信がある。

 それくらい、あさぎちゃんと二人でこの本を読んできたんだ。 

 もしかしたら……あさぎちゃんも同じかもしれない。


「もう何回も読んだのに?」


 咎める訳ではなく、ただ確認する意味合いを込めて彼女に訊ねた。


「うん。ちょっとだけ。ちょっとだけ読んでぇ」


 本当、あさぎちゃんに「ちょっとだけ」と言われて、断れた試がない。

 これは、現在進行形で、だ。

 あたしは、彼女から本を受け取る。

 早くしないと、あさぎちゃんが童話の世界に陶酔とうすいする前に、眠り姫になってしまいそうだ。


「じゃあ、ちょっとだけね」


 そう前置きして、あたしは本を開かぬまま冒頭の文章をそらんじてみせた。



 本を開き、ページをめくり始めてすぐに、隣からは静かな寝息が聞こえ始める。

 あさぎちゃんは、長いまつげを閉じ合せながら気持ちよさそうにベッドに体を預けていた。

 まるで、自分に妹でもできたように思えて、彼女を見ているとつい和んでしまう。

 あさぎちゃんと出会ったばかりの頃は、想像もしなかったことだ。

 けど、偶然が重なった結果とはいえ、あたしにもできた。

 あたしにも、あさぎちゃんと仲良くなることができた。

 今更ながら、しきりに「大丈夫」と言ってあたしに聞かせたトキの言葉が身に染みた。



 そして、きっと今この瞬間だ。

 あたしには、心に決めたことがあった。

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