本と工具(3)
組み立て始める前は気後れしたが、作り出してみると思いの外簡単に組みあがるものだった。
バラバラに見えた木板も、一つ一つの部品は完成しているのだ。
それらを組み上げていくのはわかりやすいパズルをくみ上げる感覚に似ていると思った。
俺と浅緋は、淡々と説明書通りに木板をネジで固定するという作業を繰り返していく。
ただ、そうしていると、浅緋がネジをしめている間、俺は木板が動かないよう固定するだけで、妙に退屈を感じてしまう時間が生まれた。
そんな気分を紛らわせようと、俺は視線を浅緋の本棚に向ける。
様々な厚さや大きさの本がずらりと並べられたそれは、本屋の一角のようだ。
全部合わせれば千冊とかはあるんじゃないかと、思ってしまう。
どんな本が揃っているのかと背表紙を眺めてみると、物語の様な部類の本は少ないみたいだ。
代わりに図鑑や辞典、工作に関する実用書など、理科や図工といった関連の本が多い。
しかし、浅緋がたくさんの本を持っているのはわかったが、一つ疑問が浮かんだ。
確かに、彼女はたくさんの本を持っている。
けど、それらは全てこの壁一面の本棚に行儀よく収まっていた。
なら、今作っている本棚は、なんのためにいるんだろうか?
「なあ、浅緋?」
「何?」
黙々とドライバーを回す彼女に疑問を投げかけた。
「この本棚って何に使うんだ? 本、そこに並んでる本棚に綺麗に収まってるんじゃ?」
すると、浅緋は一度俺と目を合わせて、それから直ぐに勉強机の方を見る。
「よく見て、机の方。入りきらない本が積んであるから」
彼女の視線の先を追うと、確かに何十冊もの本が積まれていた。
机の影になるように積まれていたせいで言われるまで気が付かなかったみたいだ。
「浅緋って、たくさん本持ってるんだな」
つい感心して、素直に抱いた感想をぽつりとつぶやく。
「あんまり、女の子っぽくないのが多いでしょ」
返ってきた浅緋の言葉に、そうだな、とも言えず俺は固まってしまった。
けど、どうして浅緋の本の趣味がこんなにも偏っているのかは少し気になる。
「浅緋は、本が好きなのか?」
「嫌いだったらこんな部屋にならないでしょ」
淡々とした返答に確かにと、思わず頷いてしまう。
「いや、それはそうなんだが。ほら、浅緋の本棚って物語みたいな本が少ないなって思ってさ。小説とか漫画とか。そう言うのはあんまり好きじゃないのかなって少し気になった」
俺がそう言うと、浅緋は考えるように短い間を置いた。
「うん。本読み初めた頃は、たぶん読んでたと思う。そういうのも」
そして、ぽつぽつとしゃべり始める。
「でも、物語に出てくる動物とか、植物とか虫も……文字だけで出て来るのがどんな形をしてるんだろう、どんな姿をしてるんだろうって気になって。それで、調べ始めたのが、こういう趣味になったきっかけだと思う」
そうやって話をする浅緋は、いつの間にか手を止めていた。
何かを懐かしむように言葉を編み上げていく彼女が新鮮で、俺はもっとと、思ってしまう。
「じゃあ、工作は?」
「工作は……えーっと、たぶん、昔好きだったお話に出てきた動物というか、生き物がいたんだけど。結構マイナーなやつで、グッズとかぬいぐるみとかもなかったから、自分で作ろうと思ったのが、一番最初だったと思う」
浅緋は、手に持っていたドライバーを意味もなく手でいじり始める。
その様子は、思い出した昔の光景を自分の視界に映し出しているように思えた。
「お父さんがさ……普段は特に構ってくれないんだけど、そういうの作って見せに行くと褒めてくれたんだ」
そうして、浅緋が思い出を紐解いていく度、彼女の表情は次第にやわらかくほどけていく。
「そうだ――前、住んでた家の庭にね、図鑑に載ってた葉っぱが生えてたのを見つけたことがあるんだ。珍しいのものでもなんでもない普通の雑草だったんだけど、あたし、本の中に書いてある物が目の前にあることが嬉しくって、お父さんの腕を引っ張ってそれを見せに行ったんだ。そしたら『よく見つけたね』って、またあたしのこと褒めてくれたんだ」
俺に、そう話して聞かせる浅緋から目が離せなかった。
思い出を慈しむように微笑む彼女から、目が離せない。
今まで、俺は浅緋の何を見ていたんだろう?
「ここにある本。お父さんが買ってくれたのばっかなの。図書館が遠かったせいもあるけどさ」
浅緋がこんな風に笑える女の子だったんだと、初めて気付いた。
「お父さんって変なんだ。お菓子が欲しいって言ってもダメなのに、本だとどんな本でも『いいよ』って二つ返事だし」
この気持ちを、なんと言い表せばいいだろう。
「誕生日にね大きいケーキが食べたいって言ったけど、小さいのしか買ってくれなくて。あたしが泣いてわがまま言い続けたら、本屋に連れてかれて『好きなだけ本持ってきなさい』って、あの時、絶対ケーキより高い買い物してただろうなぁって――」
あやふやなまま、言葉にできない感情が、静かに心に注がれていく――
「浅緋、伯父さんのこと好きなんだな」
俺が口を挿むと、浅緋は、しまったしゃべり過ぎたと、言うも同然に口を閉ざした。
――そうだ……まるで、自分に妹でもできたような気分だ。
「さっきの話! ずっとずっと小さかった時の話!」
浅緋は、弁明するとまたドライバーでネジを回し始めた。
「それに、お父さんそういう時しか構ってくれなかったから印象に残ってるだけで、別にお父さん好きじゃないっ」
真夏とはいえ、この涼しい部屋で顔を真っ赤にする浅緋は、体調が悪い訳じゃないんだろう。
俺が「わかったわかった」と相槌を打つと、彼女は「わかってない……」とこぼした。
「と、とにかく! そういう理由で図鑑集めたり、図鑑使って何か見るのが気に入ってるの! 工作だって紙工作じゃ満足できなくなっただけ! 本がたくさんあるのはお父さんのせい! はいっ! この話もうおしまいっ!」
そう言い終わったかと思うと、浅緋は「ねじっ」と言って俺に空いた片手を突き出した。
ネジを手渡すと、もう話は掘り返すなとばかりに組み立て作業に没頭していく。
浅緋の様子を見ながら、俺は思わず笑い出しそうになるのを必死で堪えた。
でも、まだ話していたくて、彼女の羞恥心を煽らないように少し逸らした話題を選ぶ。
「じゃあ、庭に出ていろいろ観察してたのもその一環なんだな」
「いっかん?」
「庭に出て色々見るのも趣味の一つなんだろ?」
「あ、うん。だって、自分から探して調べないと、せっかく図鑑もってるのにもったいないし」
浅緋の言うことに、俺は納得してうんうんと、頷いた。
「そうだよな。せっかくおもしろい本持ってるんだから使わないともったいないよな」
「……おもしろい?」
少し間を開けて、浅緋は俺に訊き返した。
「ああ、おもしろいと思う」
「どんなところが?」
また、浅緋は訊き返す。
ついさっきまで明るかった表情が、次第に曇っていくように思えた。
水を浴びせられた火が勢いを失っていくように、浅緋の声は暗くなっていく。
「俺はまだ、浅緋からカビ図鑑くらいしか見せてもらったことないけど。汚いだけだと思って、全部一緒なんだと思ってたカビにさ、色んな種類があって綺麗な見た目したのがあるんなんて思わなかったから。そういう、知らなかったことに発見があるのがおもしろかった」
俺が答えると、まばたく間浅緋の顔色は明るくなった。
わかる! と、そう言って共感してくれたような顔だった。
けど、その明るさには直ぐに影が差す。
「……でもさ、トキ。あたしって変じゃない? 図鑑とか、工作とか……男子みたい」
浅緋の口から出る声は、水に沈んでいく砂のように重たく沈んでいき――
「虫だって平気で触れるし。ううん、それだけじゃない、カビなんて男子でも興味ないし、引いちゃうようなもの見てて平気だし……」
――その声で紡がれた言葉は、彼女の『おもしろい』に泥を塗りつけるようなものだった。
「……それ、誰かに言われた?」
一瞬、はぐらかされるかも、という考えが脳裏に過る。
けど。
「前の、学校の子」
浅緋は、何も言葉を加えることなく、誤魔化すこともなく、素直に答えた。
「……トキは、どう思う? あたしって、変?」
それがなんだか、彼女に初めて頼られているんだと言うことの裏付けに思えて、俺は考える。
「俺さ――」
どんなことを話せば、彼女に寄り添えるのか、それだけを考えた。
「――家庭科の時間、少し苦手だったんだ。特に、調理実習の時間」
浅緋は、少しだけ驚いたような顔をしてから質問を俺に投げる。
「でも、トキ料理できるじゃん」
「まあ、あんまり凝ったものは作れないけどな。でもさ、料理がちょっと出来るのと、家庭科楽しいはイコールじゃなかったんだ」
浅緋は何も言わず黙って俺を見ていた。
その瞳が、続けてと、言葉より雄弁に語りかけて来て、俺は話を続ける。
「母さんが働き出してからは自分で夕飯作る様になってたからさ。家庭科の調理実習で作るくらいならなんてことなかったんだ。先生にも褒められたし、何人かの友達は『すごい』って褒めてくれたりもした。けどさ、それと同じくらいからかわれたんだ。たぶん、母さんと兼用してたエプロンのせいもあったんだろうなあ。ピンク色の花柄のエプロン着けてたからさ。そうそう。『おかあさん』なんて妙なあだ名付けられたんだ。『おかあさん』って呼ばれること自体は良かったんだけど、言い方が腹立つ言い方されてさ」
「わかるよ。あたしも、小学校で『むしはかせ』って呼ばれてた」
あだ名の話をすると、予想外に浅緋は食付いて来た。
奇しくも俺達は妙なあだ名を付けられていた同士だったらしい。
「博士って、カッコいいじゃん」
浅緋と妙な共通点があった。そんなことが嬉しくて俺はつい軽口を挿んだ。
すると、浅緋は拗ねたように頬を膨らせ「わかるでしょ?」と同意を求めるように訊ねる。
もちろん、彼女の言いたいことはわかる。
「ああ、言い方がむかついたんだろ?」
俺が答えると、浅緋は肩をすくめて「まあね」と、苦笑いを浮かべた。
「からかうみたいな言い方言われるのが嫌でさ。なんでこんなこと言われなきゃならないんだって思った。浅緋みたいに、自分が変なのかもって考えたこともあった。けどさ、たぶん、俺も浅緋も周りが言う程、自分達で気にする程変じゃないんだ。ただ、周りの子とは好きなモノが違っただけで。得意なことが違っただけで。食べ物の好き嫌いが人それぞれ違うのと同じことなんだと、今は思う」
「……食べ物の好き嫌い?」
一部分を切り取って反復した浅緋に、俺は頷く。
「ああ。ニンジンが嫌い、ニンジンが好き。虫が嫌い、虫が好き。料理が苦手、料理が得意。な? 同じだろ?」
自分で言っていて、言葉にやや強引さを感じた。
それは浅緋も感じたのか、彼女は確認するように俺に再び質問をする。
「トキ、本当に、そう思う? あたしもトキも変じゃないって」
最初に『変じゃない?』と、訊ねられた時よりも声色が明るいと思った。
「ああ。思う」
だから、少しでも彼女を照らせるようにと、俺は答える。
けど。
「でもさ、もし本当の本当にみんなが言った通り、あたし達二人とも変だったらどうする?」
再三訊く浅緋の姿に、何か引っかかるものがあった。
どうして、こんなにも彼女は訊いてくるのだろう。
俺は、彼女に塗りたくられた泥のような言葉を、ただ拭えば良いと思っていた。
でも、違うのかもしれない。
もしかしたら、浅緋は『変じゃない』と、言ってほしい訳じゃないのだろうか。
なら、それはなんなのかと考える。
すると。
代わりの言葉が、以外にもあっさりと浮かんだ。
「もし本当に、俺達二人が変だったらか。そうだな、俺達は本当は変なのかもしれない」
俺は一度、二人とも変だと言うのを受け入れた。
「だってよ、俺、男なのにピンクのエプロン来てお味噌汁作ってたんだ。それも、とびきりフリフリしたお姫様みたいなエプロンで!」
でも、決して寂しいような、悲しいような悲劇としては享受しない。
いっそ、浅緋が笑ってくれればいいと、故意に声を作って話した。
それを聞く浅緋は、笑うのを我慢した様な、戸惑いの混ざる複雑な表情で耳を貸す。
だから、聴いてくれるなら届けと思って、声に出した。
「でも。一人じゃないなら変でもいいかなって思う」
俺の口から飛び出した言葉に、浅緋は短い「えっ」と言う声をこぼす。
「トキは、本当に変でもいいって、思うの?」
「おう、いいんじゃないか。一人じゃないならさ」
浅緋の間髪空けない質問に、抜け落ちてはいけない部分を加えながら返答した。
そう。例え変でも一人じゃないなら何とかなる気がする。
浅緋が変だと言われるなら、俺も変だと言われても構わない。
俺は、浅緋と一緒に泥まみれになりたいと、そんなことが浮かんでたんだ。
「俺は、浅緋と一緒なら変だって言われたって頑張れると思う。カビ図鑑読んでる浅緋の横で、ピンク色のお姫様エプロン着て毎日味噌汁作ってやるよ」
これが、浅緋に言いたい俺の全部だった。
しかし、それを言い終わった途端、浅緋は顔を伏せてしまう。
急に彼女の顔が見えなくなったことに、心が一瞬ざわついたが――
「ふっ――ふふ」
――なにか、笑いを堪えるような声が耳に入って、直ぐに平穏を取り戻した。
「あっ――あははははははっ」
そして、笑いを押し止めていた浅緋のダムは即決壊する。
まだ作りかけの本棚をバシバシと叩く浅緋の笑いが収まるのを、俺はただただ見守った。
「そんなにおもしろかったか?」
「ふっ――あはは、はぁ……あたし、もう変だって言われてもいいかも――」
浅緋の笑いの波が小さくなった頃を見計らって声をかけたが、妙に会話は成立しない。
でも、それでいいかと思えてしまった。
「――だって、ふふっ、隣でトキがそんなおもしろいことしてくれるんでしょ?」
「おう。なんならオムライスも作るぞ」
ひとしきり笑った後、浅緋は静かに深呼吸しながら俺の言葉に耳を貸し。
「うんっ。ならいい。だって、そんなのあたしより、絶対トキの方が変だもんね」
そんなことを言って、はにかんで見せた。
なんだか、彼女の脳内で俺が可笑しなことになってるのが少しだけ気掛かりだが……まあ、安いもんだろう。
浅緋の脳内の自分を気の毒に思っていると、息を整えた浅緋が話し掛けてきた。
「そう言えば、お味噌汁で思い出したんだけど。トキの作るお味噌汁ってなんか甘い味するよね。あれってなんで? お砂糖でも入ってるの?」
浅緋の口から出た何の変哲もない疑問に安堵しながら、俺は我が家の味噌汁の秘密を明かす。
「砂糖じゃなくて白味噌だよ。味噌と白味噌を入れることで、白味噌の甘さが出てな――」
こんな話題を皮切りに、俺達は本棚のことなんかすっかり忘れて色々なことを話し始めた。
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