本と工具(4)

 あれから、結構話し込んだと思う。

 今までお互いのことを何も話してこなかった分、話題は尽きなかった。

 そんな話し合いは、家に掛かってきた一本の電話で中断することになる。

 着信を知らせる電子音が鳴ると、浅緋が「あたしが出る」と言って駆け出して行った。

 そして、電話の子機を持ち帰って俺に差し出す。


「トキ、かおるさんから」

「母さん?」


 浅緋の口から出て来る母親の下の名前にほんのり違和感を覚えながら、俺は電話を受け取る。


「もしもし、母さん?」

「トキ、今夜はお鍋にしよう!」


 受話器を耳に当てた途端、そんな一声が耳に入った。


「……今、夏なのに?」

「夏だから! あえてやるんだよ息子」


 呆れ声で反論しようにも、母さんはそう言いながら頑として譲らない。

 そして、受話器の向こうからどれ程鍋が食べたいかということを語り出した。


「母さんね、今外回りしてるんだけど。わかる? この暑さ。きっ持ち悪い汗かいて、一日仕事してる訳。だからね、気持ちよく汗をかきたいのよ。でも、母さん運動苦手でしょ? なら、かっらくて、おいっしいものを食べようと思った」


 切望しているのか、暑さで自棄やけを起こしているのか、判断が難しい所だ。


「あ、でも浅緋ちゃんが辛いのやだって言ったら中止ね。それじゃ、まだ仕事中だから。よろしく」


 そう言い残して、母さんは電話を切った。

 浅緋に対して気を遣うあたり、おそらく、割とまともな精神状態で鍋を切望しているらしい。


「かおるさん、なんて?」


 俺が受話器に訝しげな視線を送っていると、浅緋が訊ねた。


「鍋食べたいって」

「今、夏なのに?」


 浅緋も、俺と同じ感想を抱いたようだ。


「ちなみに、すごく辛いのが食べたいて言ってた。夏だからこそ、暑いもの食べて気持ちのいい汗かきたいんだそうだ」


 俺がそう伝えると、今日の夕飯を想像してか浅緋は苦笑いを見せる。


「ああ、でも。浅緋が嫌なら違うのでもいいって言ってたけど、どうする?」

「あたしは平気。かおるさんが食べたいものなら、作ってあげて」


 一瞬、浅緋は嫌だと言うかもしれないと思ったが、彼女は逡巡することなく答えた。

 そうか、浅緋はこういう子なのだ。


「なら、材料買いに行かないとな。流石に今冷蔵庫の中にあるもので鍋はできないだろうし」


 俺は立ち上がって浅緋の部屋を出て台所に向う。

 浅緋はというと、俺の後ろをつかず離れずの距離を保ちながらとてとてとついて来た。

 今までになかった浅緋の行動を新鮮だと感じつつ、台所の冷蔵庫を開ける。

 思った通り、鍋が出来そうな材料はほとんどなかった。


「うん。やっぱり買い出しに行かないとダメだな」

「じゃあ、買い出しに行こう。あたしも手伝ってあげてもいいよ」


 浅緋は快く言うが、そうなると俺には一つ気掛かりがある。


「そしたら、本棚はどうする? 後回しになるけど」

「うん。後でいいよ。今日はトキと出掛けてあげる」


 恩着せがましくも聞こえそうな浅緋のその言葉は今、何だか心地いいくらいに聞こえた。


「じゃあ、行くか!」


 そして、俺は財布を取りに、浅緋は「着替えてくる」と言って、各々自室に戻る。

 部屋で財布を手に取ると中身を開いて金額を確かめ、これで足りるだろうと予測を立てて玄関へと向かった。

 下靴を履き、戸を開く。夕刻に近い時間帯の筈だがまだまだ陽は高い。

 湿り気を帯びた肌に張り付くような暑さを感じながら外に出ると、俺は浅緋が来るのを待った。

 屋外の日差しが眩しく目線を家の中へ逃していた俺の視界に、浅緋が飛び込んで来る。


「トキ、もう行ける?」


 待っていた俺にそんな風に声をかける彼女はこの夏、再開した時と同じ服装だった。

 傘のように大きな麦わら帽子に、真白いワンピース。

 あの時との光景と違いがあるとすれば、今日は重そうなカバンなど持っておらず、代わりに肩から猫イラストの水筒を提げていることか。


「その水筒は?」

「念のため」


 俺と短い会話を交わした後、浅緋は滑るようにサンダルに足の指を通して屋外へ出た。


「トキ、早く!」


 早々と門のまで出て浅緋は、戸口に鍵をする俺を急かす。


「これでも急いでるぞ」


 口ではそう言いながら、俺は急ぐことなくしっかりと鍵をかけた。

 カチャリと、鍵のかかった音を耳で確かめ、ぐいっと戸を引っ張って最後の確認を済ます。

 鍵をズボンのポケットにしまうと、うつむいていた視界に、アリの姿を見つけた。

 そして俺は、この夏の出来事を一つ思い出す。



 俺が門へ出ると、浅緋はほんの短いひと時に待ちくたびれたようだった。

 じとりとにらむような目線を向けられる。

 今にも無愛想な言葉が彼女の口から飛び出しそうな雰囲気だった。

 だから、浅緋の口から声が発せられる前に、俺が一つ提案をする。


「なあ、浅緋――」


 ――角砂糖も買ってしまおうか、と。


『ねぇ、家に角砂糖って置いてある?』


 今なら、あの時の質問の意図がわかる気がした。



 夏の日差しを浴びながら、小さなアリ達は点のような影を落としてせかせかと動き回る。

 そんな小さな黒点を背に、俺達は二つの影を並べて歩き出した。

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