ドウガネブイブイ事件(5)
あたしが違和感の正体に気付いたのは、あさぎちゃんが泣き止み、ぽつりぽつりと言葉をこぼし始めた時だった。
「どう? そろそろ落ち着いた?」
「うん。あの、浅緋お姉ちゃん。もう、大丈夫やから……」
あさぎちゃんは涙を拭い、まだ少し鼻をすすりながら小鳥のような愛らしい声で答える。
しかも、話されたのは敬語の類じゃなかった。
それは、彼女の口から聞いた初めての方言だ。
「そっか、良かった」
あさぎちゃんは自分が方言を話していることに気が付いていないみたいだった。
もしかしたら、虫の恐怖から解放されたばかりで気に留める余裕がないのかもしれない。
あたしはそんな彼女を見て、あさぎちゃんの素の部分を垣間見れた気分になった。
それが妙に嬉しくて、つい口角が上がりそうになる。
あたしがにやけるのを堪えていると、握っていた虫が手の中で動いた。
もぞもぞと動き自分の存在を主張するドウガネブイブイ。
それを受けて、あたしはこのカナブンの近縁種を外に逃がしてやらないと考える。
あさぎちゃんだって、いつまでもあたしが虫を握ったままじゃ嫌だろう。
お互いのため、この子は早く自然へ放ってやった方が良さそうだ。
あたしの指を押しのけようと小さな命がもがくのを感じて、あたしは立ち上がろうとした。
「それじゃあ、あたしはさっきの子、外に逃がしてくるから」
左手の指をたたみにつけ、ぐっと力を入れて体を起こそうとしたその時。
「ま、まって――」
あたしは、あさぎちゃんに服をぐいっと引っ張られ、再び尻餅をつくことになった。
「――い、いかんといてぇ」
甘えるような声と、先程まで涙を溜めていた瞳がうるうると訴えかけてくる。
そんな双眸に見つめられ、あたしはなんだか力が抜けるような気がした。
「あ、あさぎちゃん? これじゃ――」
ドウガネブイブイ、放しに行けないんだけど……と思いはする。
しかし、それが声になって出ることはなかった。
せめて、できるだけあさぎちゃんから虫を遠ざけようと、思い切り伸びをするように右手を反らして伸ばし、その体勢を維持する。
ぷるぷると腕の筋が震えるのを感じながら、あたしはあさぎちゃんに困惑の目を向けた。
彼女はあたしを見つめ、うつむき、瞳を覗き込み、目線を逸らし、を繰り返している。
それを見て、あさぎちゃんが何か言おうとしているということは察することができた。
けど、その口からいつ言葉を聞けるのかが推し測れない。
彼女に焦らされているようにも感じながら、伸ばし続けていた腕がだんだん辛くなる。
それに、手の中のドウガネブイブイを握りつぶさぬように絶妙な空間を空けながら手をやんわりと握ると言うのは、存外、すごく手が痛くなった。
もういっそ、彼女を言葉で押し退けてしまおうか。と、そんな考えが一瞬脳裏を過った時。
「あ、あんな……ありがとう――あ、浅緋おねえちゃん」
あさぎちゃんに服を弱々しくきゅっと引っ張られながら、上目遣いにそう告げられた。
それは、今までとは明らかに違う声色で紡がれた言葉。
あたしに対しての何の緊張もない、不安もない、甘い声。心を預けられるような言葉。
それを聞いただけで、あたしは心が満たされ、充足感にのみ込まれそうになった。
そして、同時に思い浮かぶことがある。
今、彼女が感じている安心は、あたしが与えることができたものなんだとしたら。
それは、こんなにも心が満たされることなんだ……と。
まるで、きゅうっと感情を優しく抱かれるような高揚感をあたしは抱いた。
けど。
「べ、別に……お礼言われるほど大層なことじゃ――」
気恥ずかしさを紛らわせるために、口を開いた時――
「浅緋お姉ちゃんっ、ごめんなさい!」
――あさぎちゃんの謝罪に、あたしの照れ隠しは遮られた。
急に謝られたあたしはというと、一体何を謝られたのかがまず理解できない。
「ちょ、ちょっと待って! あさぎちゃん、急にどうしたの?」
そう訊ねると、あさぎちゃんはしゅんっと、うつむいてあたしの服から手を離した。
そして、彼女は小さな手をぎゅっと握り、決心したように口を開く。
「わたし、初めてあった時、びっくりしてごあいさつ、できひんかったから」
弱々しく申し訳なさそうに言うその姿に、あたしはせつなさが込み上げてきた。
「そんなの、気にしなくていいのに……そんなこと言ったら、あたしだってあさぎちゃんの本、借りちゃって、そのまま借りたままで、ごめん」
「そ、そんなんっ。浅緋お姉ちゃん、気にしなくて、ええです……」
あさぎちゃんは顔を上げてそれだけ言うと、再び顔をうつむけてしまう。
下を向いた彼女を、じっと見つめているのも気まずく、あたしも目線を逸らしてしまった。
こんな時、あたしはどうしたらいいんだろう?
何かしなきゃとは思うけど、何をすればいいのか思い浮かばない。
あたしは、何か答えを求めるように、顔を上げた。
そして、彼女をみる。
目の前には、小さな肩を窮屈に寄せながら、うつむくあさぎちゃんがいる。
細い指をもじもじと添わせ合い、畳を見つめる視線が時折揺れるように移ろった。
さっき、あたしに「ありがとう」と言ってくれた女の子が、そんな風に縮こまって口をつぐむのを見ていると、まるで心を針で刺されるようで、せつない。
胸が、締めつけられるようで痛かった。
「…………」
どうすればいいかなんて、わからない。
けど。
今、わからないからって、あさぎちゃんのことを、投げ出すのだけは嫌だった。
それに、トキだってあたしのことを投げ出したりはしなかった。
あたしは、トキに投げ出されたりなんてしなかった。
絶対、めんどくさかったと思う。
今のあたし以上に、落ち込むこともあったと思う。
でも、トキはあたしを途中で投げ出したりしなかった。
なら、そうやって、あたしが大切にされてきたことを、してもらったことを、嬉しかった気持ちを。今、あたしがあさぎちゃんにしてあげなきゃ……嘘だ!
「あさぎちゃん――」
あたしは、勇気を振り絞った。
さっき、ドウガネブイブイ取っ払った時はできたじゃないか。
あさぎちゃんに「ありがとう」って、言ってもらえたじゃないか。
あたしが聞きたいのは、こんな可愛くて小さな女の子の「ごめんなさい」じゃ、ない筈だ。
「――一緒にさ、本、読まない?」
うつむいていたあさぎちゃんの瞳が、あたしを捉えた。
「本……?」
「うん。本。あたしが、あさぎちゃんから借りちゃった本。昨日、ほのかと遊んだ時みたいに、一緒に読まない?」
今、あさぎちゃんはあたしの声を聞いてくれている。
今、あさぎちゃんはあたしのことを見てくれている。
今ならきっと、あさぎちゃんに伝わると思った。
「あたしはね、あさぎちゃんと友達になりたいんだ」
この時、きっとあたしは自分らしく笑って、彼女に言えたと思う。
いつか、トキがあたしにそうしてくれたみたいに。
いつか、ほのかがあたしにそうしてくれたみたいに。
あさぎちゃんの頬が緩んでいく。
縮こまっていた体が徐々に開いていく。
「わたしも、浅緋お姉ちゃんと友達なりたいっ」
ほのかに負けない笑顔を見せてくれたあさぎちゃんに、あたしはつい彼女の頭を撫でたくなって、右手を伸ばした。
……そこで、あたしはハッとした。
いつの間にか右手の中にいたはずのドウガネブイブイがいなくなっている。
気付かなかった!
きっとあたしがあさぎちゃんに気を取られている内に、手の中から抜け出したんだ。
あたしは、すぐさま畳に視線を投げた。
薄緑色した畳の目に視線を流すと、その中に暗い銅のような色合いが見える。
あたし達からは離れるように動くそれは、間違いなくさっきのドウガネブイブイだ!
これを、あさぎちゃんに見せる訳にはいかないと、本能的に察知した。
あたしは急いで立ち上がり、あさぎちゃんの視界を塞ぐ。
「あさぎちゃん、いこっ!」
「えっ?」
そして、彼女の手を引いて、すぐさま居間を脱出した。
避難場所はもう決めてある。
あの童話も、あさぎちゃんが来るのを今か今かと待っているだろう。
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