ドウガネブイブイ事件(4)

 トキに相談にのってもらった翌日。

 夏の暑さに寝苦しい夜を強要されたあたしは、寝覚めが悪く体が重い感じがした。

 しかし、体の調子とは裏腹に、心の内だけは妙にすっきりとしていて前向きな心境だ。

 それは、既に日が昇り部屋の温度が夏の暑さにのみ込まれつつある中、あたしがあさぎちゃんにまずは挨拶や、声を掛けることを積極的にしていこうと決意していたからだろう。



 昨日、トキから聞いた時こそ、挨拶なんてと思っていた。

 けど、夜の間、寝るに眠れずベッドの上でゴロゴロとのた打ち回っていたら、小学生時分のことを思い出した。

 一緒に暮らし始めた頃、確かにトキからしつこいくらいに挨拶をされた記憶があった。

 今思い返せば、連日飽きもせずトキと顔を合わす度に声を掛けられていたあれがあったから、人見知りだったあたしもだんだん彼に慣れていったのかもしれない。

 一応、成功した前例があるなら、試してみても良いと思ったのだ。


「よっし……」


 あたしは自分に気合を入れてベッドから起き上る。


「顔、洗お」


 そして、意気揚々と洗面所に向かった。



 しかし、自信を持ってはきはきと挨拶を実践できたのは、今朝の内だけだった。





 よくよく考えれば、あたしとあさぎちゃんは挨拶をすることはできているんだ。



 朝、顔を合わせて「おはよう」と言えば「お、おはよ……うございます」と、おっかなびっくりされ。

 昼前には「まだ、お腹空いてない?」と、声を掛けて「ま、まだ大丈夫、ですっ」と、おそるおそる返答され。

 三時になれば「何か食べたいおやつある?」と、お菓子を片手に伺い立てたたが「け、けっこうです」と、遠慮されてしまうけど……。



 ……お互い、まだぎこちなさが残ると言うだけで、挨拶はできているんだ。

 そんな風に一日を過ごしていれば、あたし達の関係は何の進展もないまま夕方を迎えていた。

 別に、昨日今日で仲良くなれると考えていた訳じゃない。

 けど、頑張ろうと決意した矢先、何も進展がないまま一日が終わりに向かっている。

 この状況は、気分が高揚するようなものではなかった。



 それからしばらくもしない内に日は完全に落ちてしまい、当然、辺りは急速に暗くなった。

 窓の外から入り込んでいた薄明るい陽光は、暗い微かな月明かりへと姿を変えていく。

 そんな中で、あたしはどんよりとした雰囲気を纏いながら家の雨戸を閉めて回っていた。

 すると、居間の近くに来た時、ふすまの隙間から明かりが漏れ出しているのが目に入る。

 たぶん、あさぎちゃんが中にいるんだろう。

 あたしはそう見当をつけて、雨戸を閉めに行くために居間のふすまに手を添えた。

 あわよくば、あさぎちゃんと仲良くなるきっかけでもつかめればと思う。

 そうっとふすまを開けると、予想通りあさぎちゃんが居間で本を開いていた。

 彼女はぺたんっと畳にお尻を付け、こちらに背を向けて本を読みふけっている。

 あさぎちゃんの居間でのこの姿は、既にあたしの中で定番の光景になりつつあった。

 あたしは人差し指の甲で、コンコンと軽くふすまを叩いて、自分の存在を知らせる。

 なんだか、この時は読書中の彼女に、急に声を掛けるのが悪いような気がしたからだ。

 すると、あさぎちゃんは音に気付いてくれたようで、ゆっくりとこちらを振り向いた。


「ねえ、あさぎちゃん。雨戸閉めに来たんだけど、いいかな?」


 あさぎちゃんは、チラリと雨戸の閉まっていない窓に目を遣って、またあたしに目線を戻す。

 そして、こくこくと無言で小さく首を縦に振った。


「ありがと」


 今、すごく円滑にあさぎちゃんと意思疎通ができた気がする。

 あたしはそれが嬉しくて、自然と口角が上がりそうだった。

 今日は、もう何も進展がないものだと思っていたけど、少し前進できた気分だ。

 あたしは機嫌良く居間に入ってあさぎちゃんの隣を通り、内側の窓枠に手をかける。

 窓を開くと、家のカベに張り付くように収まっているズシリと重い雨戸を掴んだ。

 そして、雨戸を引っ張り出すようにして閉めていく――その時だった。

 短い時間。耳元に、ブゥンッと扇風機のモーター音にも似た音が聞こえた気がした。

 暗い外に向けていた視界に、何か影のようなモノが映る。

 ただ、それは一瞬のことで、あたしは気にも留めずにガラガラと重たい雨戸を閉めた。

 その直後――


「いっ――いやあああああああああああああぁっ!」


 ――背後から、ものすごい悲鳴が聞こえた!

 頭ではすぐにそれがあさぎちゃんの声だとわかる。

 けど、初めて聞いた彼女の大声、もとい悲鳴に驚いて、一瞬理解が追い付かない。

 振り返ると、あさぎちゃんが羽を散らす小鳥のようにバタバタと暴れていた!

 読んでいた本も放り出されていて、彼女の悲鳴には泣いているような声が混じり始める。

 簡潔に言って、彼女はパニックを起こしていた。


「あ、あさぎちゃんっ?」


 慌てて駆け寄るも、あさぎちゃんは暴れる手を、足を緩めようという気配がない。

 ただ、あたしの耳には、泣き声に混じって確かに「とって」という言葉が聞こえた。


「と、とってぇ! とってえぇっ――」

「わ、わかったからっ――あさぎちゃん、落ち着いて!」


 一瞬、暴れるあさぎちゃんをおさえようかと思ったが、彼女が暴れ回す腕や足がぶつかって思うようにいかない。

 そんな中、あたしはさっき彼女が言った言葉へ頭を働かせる。

 あさぎちゃんは「とって」と言った。

 とって――取って?

 何かが、体にくっついた?

 そこまで思考が追い付けば、瞬時に先程耳に聞こえた音、目に見えた影が思い出される。

 虫かっ!


「あさぎちゃん、じっとして!」


 あたしは、暴れる彼女を抱きしめる形で抑え込んだ!

 あさぎちゃんの小さく細い腕が何度も胸に振り下ろされるが――構わない!

 あたしの目が、彼女の肩に小さな虫がくっついているのを捉える。

 それは、カナブン――いや、カナブンよりも暗い銅のような色合いが強い。

 これは――


「ドウガネブイブイッ!」


 ――カナブンの近縁種だ!

 思わず、昆虫の名前を叫びながら、あたしは右手でその昆虫を掴む。

 そのまま、あさぎちゃんからその子をマジックテープよろしく引きはがした。

 足の一本も千切れることなく、ドウガネブイブイはあたしの右手に収まる。

 直後、あたしは勢い余ってバランスを崩し、あさぎちゃんを抱きかかえたまま尻餅をついた。


「あたっ」


 どてっと、打ち付けたお尻に鈍い痛みを感じて声が漏れる。

 けど、それだけのことで幸いあたし達は大事に至るようなことはなかった。

 暴れまわっていたあさぎちゃんもすっかり大人しくなっている。

 あたしの胸にしがみ付いてすすり泣いてはいるけど、それ以外に問題はない筈だ。

 あたしは。右手を筒状にきゅっと握りしめ、虫が逃げ出すことのないようにした。

 とりあえず、これで一安心だ。


「あさぎちゃん、もう大丈夫、大丈夫だから」


 そう言って、あさぎちゃんの顔を覗くと、彼女の顔は泣いてぐずぐずになっていた。

 小刻みに大きな呼吸を繰り返しながら、あさぎちゃんはポロポロと涙を流していく。

 そんな顔を見せられたら、とても一安心だなんて思えなくなった。


「大丈夫、あさぎちゃん。大丈夫だから、ね?」


 あたしは空いた左手で彼女の背をぽんぽんと撫でるように擦る。


「もう虫取ったから、ね? 泣かないで、大丈夫だから……」


 あさぎちゃんは、ぎゅうっとあたしを抱きしめて耳元で「ほっ――ほんま?」と、囁いた。

 まだ小さい体で、大きく息継ぎをしながら会話を試みる彼女の瞳から、また涙が零れる。

 それは、不安な気持ちが涙に溶け込んでしまったような、そんな泣き顔だった。

 それを見て、安心させてあげたいと思った。

 この子の不安を、和らげられたらいいと思った。

 今、彼女に優しくしてあげたいと思った。

 いつか、トキがあたしにしてくれたみたいに。


「本当だよ、もう大丈夫だから」


 彼女の背をさすりながら、子守唄でも聞かせるように、あたしは言葉を紡いでいく。

 左手で彼女の背のぬくもりを感じながら。

 右手で、ギジギジと虫の脚が動くのを感じながら。

 あたしはあさぎちゃんの不安が溶けてなくなるまで、彼女の背を撫で続ける。

 ただその間、なんだかこそばゆいような違和感を抱いていた。

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