最終章 高校生編 -瑠璃色-

10話 学生時代食べ損ねた、君の出来立てふわとろオムライスをごちそうになりに来た

追う夏、来る夏(1)

 去年の夏、あたしは一大決心をした。


『あたしね――トキみたいになりたい』


 あの時の感覚は、今でもはっきり覚えている。


『あたしね、先生になりたい』


 あたしは、不明瞭な熱い想いがはっきりと言葉として形になったあの瞬間を忘れてない。

 なんなら、あの時の首筋を伝った汗の感覚や、あつく乾いた土と空気の匂いも覚えていた。

 あの時、あたしは紛れも無く覚悟を決めたんだ。



 けど、こういうのは覚悟を決めたからって、達成できるものでもない。

 現に、あたしは一つの壁にぶち当たっていた。



 まだ日は高く、陽光は目に眩しく地面を照り付ける。

 その光から瞳を逃そうと、うつむきながら歩く人がちらほらと視界の端に入った。

 そんな中、あたしも自転車を右手で押しながら、がっくりとうつむいて歩いている。

 けど、あたしがうつむくのは『太陽が眩しいから』なんて幸せな理由じゃなかった。

 伏せた視線の先には、左手の中で扇のように広げられた数枚のテスト用紙。

 見慣れた自分の『字』がいくつも書きこまれたこの紙の右上には、赤いインクで百未満の数字が書きこまれている。

 あたしは、この数字に一喜一憂しながら今朝を過ごし、終業式を終えた今、最終的に気分は落ち込む方向に落ち着いていた。

 というのも、苦手な英語と数学のテストが致命的に悪かったからだ。

 英語は欠点こそ免れたものの、正解した問題は日本語訳と英単語ばかりで、文法や英作文といった問題の解答欄には、斬りつけるような印がつけられていて、それがあたしに『減点』や『不正解』を容赦なく言い渡す。

 また、そんな英語よりもひどいのが数学で、これに関しては、あと一点足りなければ欠点という惨状だった。

 数学のテスト用紙は、書きこんだ数式のほとんどに赤ペンで間違い印が付けられている。

 解答欄に縮こまって、赤ペンで『逆への字』を付けられた数式達は、まるで血飛沫でも流しながら倒れているようにも見えた。

 まさしく、死屍累々といった感じだ。

 でも、数学はこの現状ですらひどいのに、さらにあたしに追い打ちをかける事実があった。

 実は、このテストには教師の採点ミスがあって、間違った解答に丸印が一つついている。

 つまり、この採点ミスがなければ、あたしは本来、数学のテストは欠点だったんだ。


「はぁ……」


 もはやあたしは自分自身に言葉を失い、口からはため息しか出てこない。

 せっかくの高校最後の夏休みだというのに、ひどい点数のテストを抱えている所為で、手放しに喜ぶこともできなかった。

 再三、口からでるため息を、一つくらい夏を満喫するための「どこに行きたい」や「なにしたい」という言葉に変えてみたい……。

 けど、年が明ければ大学入試も控えている身だ。

 遊びたい想いはぐっと我慢し、「どこに行きたい」「なにしたい」なんて言葉は飲み込んだ。

 でないと、来年の受験は敗色濃厚だ。

 それを避ける為にも、あたしは今夏でなんとしても二つの苦手科目を克服しなきゃいけない。

 それが、差しあたって真っ先に取り組むべき最大の難題で、ぶち当たった大きな壁だった。

 正直、苦手過ぎて克服する為に何から始めればいいのかさえわからないのが本音だけど……。

 気合も覚悟も空回りして、焦燥感だけが募っているのがあたしの現状だった。

 あたしは何度見直しても変わることのないテストの点数から目を逸らす。

 そして、自転車の前かごで口を開くカバンの中に、テスト用紙を乱暴に突っ込んだ。

 その後、また口からため息が溢れ出す。


「はあぁ……」


 カッカと暑い夏の気候にどんよりとしたため息が溶け、水のように蒸発して消えていく。

 そんな中で額を流れていく汗は、夏の暑さによるものではなく、成績の悪さに焦ってかいた冷や汗のようにも思えた。

 ……トキみたいな先生になりたい。

 そんな目標――夢を掲げて直に一年になる。

 一応、ちゃんと志望大学というものも自分の中で定まっていた。

 けど、英語と数学の成績のせいであの時の目標は、夢どころか嘘になってしまいそうだ。

 去年の夏、確かに色付き始めたあたしの夢は現在、なんとも不安に満ちたおどろおどろしい色で彩られようとしていた。


「はああぁ……」


 自転車のハンドルを両手で握り直し、三度目のため息を吐く。

 その時になって、ようやく隣にいたほのかはあたしにかける言葉を見つけたみたいだ。


「深いため息だねぇ」

「まあね……」

「あんまり落ち込まないで。私も数学はダメダメだったよ?」


 ほのかは既にあたしのテストの点数を知っている。

 だからか、彼女は苦い笑みを浮かべながらフォローにならないエールをくれた。


「でも、英語は良いじゃない」


 じっとりと恨めしい目線を送ると、ほのかは顔を背けて「まあ、多少ね」と呟く。

 あたしと違って、ほのかは中学の途中から英語の成績がぐんっと伸びている。

 数学が苦手なのはお互いに相変わらずなのだけど、英語を一人克服した分、あたしはほのかに置いてきぼりを食らった気分を味わっていた。


「でもさ、浅緋は理科の成績は良いでしょ?」

「そっちが良くたって英語と数学が壊滅的なのは変わんないじゃない」


 明るい話題へ持ち込もうとしたほのかに、あたしは暗い声色で返す。

 あたしはほのかから目線を外して、通い慣れた通学路の地面に視線を落として続けた。


「行きたいところがさ。数学と外国語が入試に出るんだ」

「数学と英語だけ?」


 ほのかの質問にあたしはふるふると首を振る。


「確か、国語と外国語と数学。あとは選択科目。選択は理科にするつもりだけど」


 あたしが答えると、ほのかは「うへぇ」と、声を漏らした。


「じゃあ、勉強がんばらないとだね」


 その言い方が何だか薄情に聞こえて、あたしは思わずほのかに目線を戻す。

 すると、彼女は勉強の話はこりごり、とでも言いたげで、どこかげんなりと頬を崩して、疲れたように笑っていた。

 そんな曇ったようなほのかの笑顔を見て、あたしは声に出し掛けたものを飲み込んだ。

 きっと、ほのかもほのかなりに、受験について悩んでいるんだろう。


「勉強、がんばる……かぁ」


 ぽつりと呟くと、ほのかがあたしに向かってぱちぱちと瞬きをする。

 それが、まるで、あたしの独り言を拾おうとしてくれたように感じて、少しだけ嬉しい。

 あたしは、できる限りの笑顔をほのかに向けながら、口を開いた。


「言うだけなら、簡単なのにね」


 それを聞いたほのかは、一瞬、何を今更? と、きょとんとする。

 けど、クスッと細い笑い声を口からこぼした後で「そうだね」と、返してくれた。


「でもさ、最悪志望校変えれば無理に勉強しなくても良かったりするのかなぁ?」


 そんな身もふたもないことをほのかが言い出したのは、赤信号で足止めを食らった時だ。

 小さく伸びするように体を反らし、目線を宙に投げながら口走った彼女は、勉強したくないという本音を天高く打ち上げているようにも見えた。


「よっぽど勉強したくないんだね」

「んー……? 私は部活続けられたらひとまずどこでもいいかな」


 呆れるあたしに向かって、ほのかは伸びして気持ちよさげな声で返事をし――


「ねえ、浅緋はさ、今の志望校ってどうしても行きたい所なの?」


 ――あたしに向き直って、そう問い掛ける。

 予想しなかった切り返しに戸惑い、あたしは、ほのかにどう答えようか迷ってしまった。


「どうしてもって訊かれると……そりゃ、絶対そこじゃなきゃ嫌だって訳じゃないけどさ」


 語気が弱くなるあたしを見て、ほのかの好奇心が膨れていくのがわかる。

 彼女は「じゃあ、どうして?」と問い直して、まじまじとあたしの瞳を見つめた。

 そんな状況も手伝って、あたしは改めて理由を話すのが恥ずかしくなっていく。


「……その、笑わないでよ?」


 うんうんと、元気に首を縦に振るほのかは芝居がかっていてわざとらしい。

 それでも、馬鹿にするように笑ったりはしないだろうと、親友を信じてあたしは口を開いた。


「あのね。今の志望校さ……昔、トキが行きたくて諦めた所なんだって」


 それは、以前に教育関係の大学に進みたいとトキに相談した時に知ったことだ。

 最初、あたしは、進学する大学はトキと同じ所にしようかとも考えていた。

 家からも近いし、何より好きな人が通っていたキャンパスというのにも興味もあったし。

 けど、トキが行きたくて行けなかった場所がある。

 その話を聴いた瞬間から、あたしの中に小さな対抗心のようなものが芽生えたのだ。

 憧れの人の――好きな人の行きたかった場所に行ってみたい。

 好意と対抗心は混ざり合って、あたしの目指す進路をトントン拍子に決めていった。

 と、こんな話、あたしのトキへの好意を知っているほのかに話せばどんな顔をされるか。

 馬鹿笑いとは行かないまでも、ニヤニヤと「やっぱりね」みたいな、したり顔をされるんじゃないか……なんて、予想をしていたんだけど。

 言い終えてから、チラリとほのかの顔を見ると予想に反して、彼女は真顔だった。

 いや、驚いて言葉を失っているようにも見える。

 頭の中に描き想像していた反応とまるで違うほのかの表情に、あたしは思わずぎょっとした。


「な、なによ。なんか言いなさいってば」


 おずおずとあたしが声を放つと、ほのかは一度どこか遠くの方に目線を投げてから、再びあたしへと目線を戻す。

 そして――


「あのさ……トキさんが行きたくて行けなかった所なんでしょ? その……浅緋、大丈夫? 学力的に」


 ――ほのかは大変真面目な顔で、心底心配そうな声を出しながら、自転車を押すあたしの手に自分の手を重ねた。

 そっと重ねられた手のひらのぬくもりや優しさが、今は心の底から憎らしい。


「……言っとくけど、トキが行けなかった理由だって、学力云々じゃなくて、そこが女子大だったからだからね」


 思わず、こめかみに力が入り、目付きが鋭くなる。

 あたしがぐっと自転車を押す手に力を込めながらそう告げると、ほのかはふいっと顔を背けて信号機に目をやった。


「あ、青になったよ!」


 ほのかはわざとらしく明るい声をあげるとさささっと横断歩道を渡って行く。

 そんな彼女の後姿を目で追って、少し間を置いてからあたしは横断歩道を渡った。

 あたし達の間に大した距離もなく、あたしはすぐにほのかに追いつく。

 すると、彼女の口から小さな声で「ごめんね」と言う謝罪が聞こえた。

 その言い方が、まるでいたずらを反省したこどもみたいでちょっとおかしい。

 あたしは、すぐには返答せず、いじわるをするつもりで少しだけ間を置いてから「別にいいよ」と、答えた。

 続けて、冗談っぽく聞こえるように「それに、あたしの学力がやばめなのは事実だしね」と、付け加える。

 この後に期待していたのは、悪びれる様子もなく笑うほのかの姿だった。

 あたしはまるで、仕掛けたいたずらの結末を気にするような心持で、ほのかに目線を向ける。

 けど、視界に捉えることが出来たのは、どこか寂しげな表情をしたほのかだった。


「ほ、ほのか……?」


 それはたぶん、ほのかのことを知らない人が見れば、きっと大したことじゃなかったと思う。

 彼女は、何か言いたいことを口ごもるような、何かを我慢するような、そんなちょっとのせつなさを胸に秘めているみたいな顔をしていた。

 例えるなら、今日が自分の誕生日だと、初対面の人に言い出せない子どもみたいな、なんでもない風に振る舞うような表情。 

 そんな顔を、ほのかがあたしに向けるなんてことは、あたし達にとって大問題だった。

 だから。


「っ……――」


 何か言いにくそうにするほのかにつられて、あたしまで言葉を失ってしまう。

 気付けば、あたし達は歩みを止めていて、二人の間にどちらからともなくお互いの言葉を待つような静かな時間が流れた。

 会話のない時間。

 いつでも言葉を発せるように、準備を整えるみたいに口の中の唾を飲んだ。

 でも、心の準備はちっともできやしない。

 そんなあたしを置いて、先に口を開いたのはほのかだ。


「正直言うとね。浅緋はトキさんと同じ大学行くと思ってたんだ。でね。私も、同じとこ行こうかなって。ちょっとだけ考えてた」


 そう言うと、ほのかはにっとあたしに笑って見せた。

 けど、その笑顔は小さい花のつぼみみたいで――


「あそこなら陸上部もあるし、教育学部意外におもしろそうなのがあったからさ。だから、また浅緋と同じ学校に通うのもいいかなって。ちょっとだけ考えてたんだ、私」


 ――そんな、今にもしぼんでしまいそうなほのかの笑顔に、あたしは戸惑ってしまう。

 そうやって、あたしが返す言葉を探している内に、ほのかは目を伏せた。

 まるで、日の眩しさから逃げるように。

 まるで、視線をあたしから逸らすように。

 彼女はうつむいて熱されたアスファルトの地面に視線を落とす。

 けど。


「でも――」


 ほのかは手を軽く髪に添えて、ゆるくかき上げながら顔を上げた。


「――違ったね」


 うつむいていたほのかの前髪が作っていた影に隠れていた黒い瞳があたしを捉える。

 そのまなざしと、紡がれたほのかからの言葉にあたしは、突き放されたような気がしてドキリとした。


「ほのか……」


 あたしは、あたし達を繋ぎ止めたくて声を絞り出す。

 胸の奥からさびしさが込み上げてきて、ゾクリと背筋が冷え肌を焼くほどの真昼の暑さを忘れそうになった。

 今更ながら、思い知る。

 あたしは、わかっていなかった。

 高校を卒業したら、ほのかとは別れ別れになる。

 そんな当たり前のことを、今の今までちゃんとわかってなかったんだ。

 急に実感をもって迫ってきた先の未来……。

 ふいに、ほのかのいない季節が脳裏を過った。

 まだ通ってもいないキャンパスを思い浮かべ、ほのかのいない風景がイメージされる。

 季節感も曖昧な頭の中の妄想。

 それにつられて、今感じている季節さえあたしから遠ざかったような気がした。

 代わりに寄り添ってくるのは、マイナスな感情――近い未来に対する寂しさや不安だ。

 あたしは、少しでも心を強く持ちたくて汗が滲む手で自転車のハンドルを握り直す。

 でも、季節を失ったような時間が長く続くことはなかった。


「やっぱさ! 友達が行くからなんて、そういう決め方良くないよね!」


 吹切れたようなほのかの声が耳に飛び込み、あたしはハッとする。

 同時に、まるで火でも付けられたみたいにあつさを思い出した。

 ほのかの声も、そこら中で鳴いている蝉の声も、しっかりと耳に届く。

 沁みた汗が冷えて背中に張り付くシャツの冷たさより、降り注ぐ日光のあつさを強く感じる。

 そんな気候の中で、再びあたしの瞳に映るほのかは、ひまわりみたいに笑っていた。


「大学くらい。自分の行きたいとこくらい、自分で決めないとね!」


 ほのかの熱いくらいの明るい声色が、耳に心地いい。

 あたしは、さっきまで絞り出すのがやっとだった声をほのかに引っ張り出されたような気がして――


「そうだね」


 ――なんて、すごく簡単に彼女に返事をした。

 あたしは、どれだけ単純なんだろう。

 親友の一声で……こんなに簡単に、あたしの夏が戻って来た。

 あたしの返事に満足したのか、ほのかは嬉しそうに短い距離を駆け寄ってくる。

 そして、ぐっと引き寄せるようにあたしの肩に手を回した。


「ちょっ――ほのか、あついって」

「『あつい』のは、夏だから今更だよっ」


 ほのかから逃れようともがいてみるも、自転車を支えながら彼女を振り切れるはずもない。

 あたしは夏の暑さとほのかの体温に蒸されながら、彼女にされるがままになっていた。

 すると、耳元でほのかの声がよく響く。


「ついに、春からあたし達も別々の大学だね!」


 それは、楽しげにも聞こえて……。

 でも、半ばやけくそにも聴こえた。

 そうやってくっついていると、ほのかの髪があたしの頬をかすめ、くすぐっていく。

 親友と気候のせいで重ね塗られていく熱、熱さと暑さ。

 それを文字通り肌で感じながら、あたしはふと考える。

『ほのか、髪伸びたなぁ』

 その直後――


「ほのかさ。髪、結構伸びたよね……」


 ――考えたことをぽつりと口にしていた。

 すると、ほのかは「ん?」と、不思議そうな声を発して、するりとあたしから離れる。

 指先で前髪をいじり、間をとるように「うーん……」と、うなった。


「そう、だね。部活引退してからなんとなくそのままにしてたからかな。結構伸びたかもね」


 言いながら、ほのかは伸びた髪の毛を指先でつまみ上げてあたしに見せる。

 あたしとしては、髪の長いほのかってのが新鮮で大人びて見えるなんて思っていた。

 けど、目の前で自分の髪の毛をつまんでいる様子は、積み木をつまみ上げるこどものような幼い仕草に思えて、笑いそうになる。

 だけど、こどもっぽいって言ったら、きっとほのかはむくれるだろう。

 だから。


「なんか、今のほのかは大人っぽく見えるよ」


 最初に抱いた感想だけを口に出し、残りは胸にしまった。


「そう? 大人っぽい?」


 あたしの声はしっかり届いたようで、ほのかは聞き返しながら頬が緩んでいく。

頷きながら「うん」と再度あたしが肯定すると、ほのかは歯を見せてにかっと笑った。

 そして「そっかぁ」なんて言いながら、あたしを置いて一歩二歩と歩を進める。

 その足取りは、自分の影を踏みしめて遊ぶこどもみたいに楽しげで、ゆっくりだった。

 その後、自転車一台分の距離が開いたところで、ほのかはぴたりと歩みを止め、くるりと振り返る。


「ねえ、いっそ私も伸ばしてみよっか? 浅緋みたいに」


 良いことを思いついたと、そう言わんばかりにほのかは嬉しそうに笑い、髪をなびかせた。

 けれど、彼女の言葉が耳に入るなり、あたしは思わず「えっ?」と、短い声を漏らす。

 心の中に、ほのかの思い付きをいやだと思ってしまった自分がいた。

 本来、あたしにほのかの髪を伸ばしたいって気持ちを止める理由も、権利もない。

 だから、どうしようもなく湧き上がってしまったこの気持ちは、あたしのわがままだ。

 この先、来年になって、春になって、ほのかは、あたしとは別の大学に行くんだろう。

 そうしたら、あたしの知らない人と仲良くなるだろう。

 もしかしたら、服の好みとかも変わったりするかもしれない。

 色んなことに興味が湧いて、やったこともないスキーとか、スキューバダイビングとか、あたしの知らない世界にぐんぐん突っ込んでいくかもしれない。

 そうやって、あたしの知っているほのかが、どんどん変わっていくのを……。

 あたしの知らない誰かが見られるというのが、くやしいと思ってしまった。

 それなら……せめて髪の長さくらい、ずっと知っている、あたしが慣れ親しんだほのかのままでいてほしい。

 そんな風に、思ってしまった。


「……ねぇ、ほのか? 髪、また短くしない?」


 ずるいと思いながら……寂しさを声に乗せるように、そう告げる。

 それを聞いて、ほのかは一瞬不思議そうな顔をした。


「浅緋?」


 わがまま言った自分を後ろめたく思う時間が訪れる。

 ふいっと目線を伏せて、あたしはほのかの言葉を待った。

 足元の自分の影。

 日が高いせいか、丸く短い影だった。

 あたしは、その影を後ろめたい自分を閉じ込める檻のようにも思って、縮こまって両足を収める。

 自分の心の狭さが憎らしくて、気分が沈んだ。

 けど。


「うん。わかった。いいよ」


 沈んだ気分を、ほのかは簡単にすっと拾い上げてくれる。

 あたしは、伏せていた目線を自然とほのかに合わせていた。


「浅緋のお願いなら、聞いてあげるよ」


 ほのかは後ろ手に、じっとあたしへ優しい眼差しを向ける。

 その言い方も、きっと、この後向けてくれるだろうひまわり笑顔も……全部、あたしの寂しさを見透かしたみたいに思えた。


「浅緋、いっぱい思い出作ろう! 四年分くらいさ!」


 ぱっと咲いた彼女の笑顔が、とても眩しく、それが心地いい。

 せつなさと嬉しさを混ぜ合わせたような感情が瞳から溢れそうになるのを、あたしはぐっと我慢した。

 そして、自転車を押しながら、彼女に追いつこうと一歩踏み出す。

 歩み出してしまえば檻のように感じていた影が、あたしの後をついて来るので精一杯になったのが若干清々しい。

 あたしはもう、足元には目もくれず、自分の影に構うことなく顔を上げて親友と肩を並べた。

 こうやって帰る帰り道は、あたし達にとって変わらないいつも通りだ。

 昨日も。

 今日も。

 そして、明日も。

 いつか……先の未来であたし達の帰り道も、あたし達も変わっていくんだと思う。

 だけど、だからこそ今は、このいつも通りを踏みしめて、噛みしめていたい。

 しっかりと、このいつも通りを絶対忘れないように、この今をあたし達の思い出にする為に。

 それに、なにも変わっていくばかりじゃない筈だ。

 この先、色んなことが変わっていくんだろうけど、変わらないものもきっとある。

 例えば、ほのかの髪とか、ね。

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