あたしが決めたこと(4)

 もう、かおるさんの車は視界に映っていない。

 あたしは、あの子を見送った後、短い時間、ただここに立っていた。

 それだけなのに、夏の日差しはあたしの体からじっとりと汗を誘発していく。

 けど、あたしはまだ、外に出ていたいような、もう少しだけ彼女がいた残響ざんきょうを心に聴かせていたいような、そんな気分だった。

 それは、あたしには珍しい感傷的な気分だ。

 けど、決して後ろ向きなセンチメンタルじゃなかった。


「そろそろ戻るか?」


 そんなあたしの背中にトキが声を掛ける。

 あたしを気遣ってのことなのか、それとも、このセンチな気持ちをみ取れていないのか。

 どちらにせよ、あたしの後姿を見ている彼には、あたしがにんまりと唇を薄く笑みに染めていることには気付けないだろう。

 あたしがトキに振り返り「そうだね」と答えると、彼は少々ふいを突かれたようだった。

 あたしがもっとしょげていると想像していたんだろうか?


「ちょっと、寂しくなるな……」


 トキの視線がもう見えなくなった車を目で追う。

 そして、遠くを眺めながら彼の口数は少なっていった。

 どうやら、トキが寂しいと言ったのはあたしに同調しただけって訳でもないみたいだ。

 きっと、彼なりに寂しいと感じて、ついそれをこぼしたんだ。

 たまに、こうやって自分の気持ちを隠さず吐露とろしてしまうトキのそういう所は、少しだけ可愛い。

 彼は、心にできた小さな隙間を埋める何かを探すように、彼方の景色を瞳に映す。

 そんなトキに、あたしは少しだけ明るい声色で「まあね」と返した。

 あたしも、彼と同じように寂しい気持ちは変わらない。

 ただ、彼よりも若干前向きなんだと思う。

 どこか名残惜しそうなトキと比べて、あたしは心持ち顔を上げていられる気がした。 

 トキは、そんなあたしに目線を向けると、しばらく顔を見つめる。


「……なに?」


 そう、あたしが訊ねると、彼は何か思い直したように薄暗く沈んだ表情に笑顔を浮かべ――


「浅緋?」


 ――と、そっと口を開き、問いかけるようにあたしの名を呼んだ。

 あたしは、それに呼応して「ん?」と短い声で次の言葉を誘う。


「あさぎちゃんと、仲良くなれて良かったな」


 その言葉と、彼に向けられた眼差し……それらは、あたしの頬をなでるように優しかった。

 これは、励ましであると同時に、きっとあたしへの褒め言葉だ。


「うん。ありがと……」


 トキの声に頷いたあたしの顔は、嬉しいような恥ずかしさでほころんでしまった。

 夏の暑さに負けないくらい、胸の奥が熱くなっていく。

 ひんやりしたせつない感情が、少しずつ、少しずつ溶けてなくなっていくのがわかった。

 今なら、あさぎちゃんのことで悩み落ち込んだ時のことも、ついさっきの別れの時間ですら、全部ひっくるめて、この夏の良い思い出だったなと、そう言って笑える気がする。

 そして、そのきっかけとも言える、久しぶりに彼に相談した時の事をあたしは思い出した。


「ねぇ、トキ。訊いてもいい?」


 そう、切り出すあたしは、どこかテストの答え合せをするような心境だ。


「トキは、なんであたしとあさぎちゃんが仲良くなれるって思ったの? 相談した時、何か内緒って言ってたけど、あれって……今も内緒のまま?」


 訊ねたあたしに向かって、トキは「うーん」と唸って首を捻る。

 それから、少し勿体もったいぶるように「もう、言ってもいいかな」と呟いた。

 それは、ほんの短い間のこと。

 けど、あたしはそのひと時の間に、答えを先送りにされた気がして焦れてしまった。

 睨むようにトキを見つめると、彼は慌てて口を開く。


「大した内緒話じゃないって。ただ前にあさぎちゃんから浅緋がどんな人か訊かれただけだっ」


 トキの口をついて出た言葉に「……それだけ?」と、あたしは疑いの眼差しを向けた。

 すると、彼は苦笑いを浮かべながら無言で何度か頷く。

 その仕草が……とても、嘘には見えなかった。


「えっ? 本当に、それだけ?」


 この時、あたしはトキの言葉に拍子抜けしたんだと思う。

 あと、同時に驚きもした。

 彼はあの時、あたしに向かって何度も無責任に「大丈夫だ」と言って聞かせた。

 あんなに確信めいて、あたしを後押ししていた根拠が、そんな理由だった?

 ただ、あさぎちゃんにあたしがどんな人か訊かれていたから……?


「そんな、そんな理由で…………」


 それだけの理由で、よくもあんな力強く、あたしに「大丈夫だ」なんて言えたものだ。

 あたしは、怒ればいいのか、呆れればいいのか、静かに心がかき混ぜられる感覚に苛まれる。

 ……少しの間を置いて、口からはため息が出た。

 体の力が抜けるような感覚。

 ため息に続いて「なんだぁ」と、言葉が漏れ出した。

 たぶん、あたしは……トキをもっとすごい人だと思っていたんだと思う。

 例えば、彼が言う「大丈夫だ」には、もっと確信めいた根拠があるんだと思っていた。

 彼は、あたしにできないことがたくさんできる人で、いつでもあたしを励ましてくれる人だと、思っていた。

 けど、すこしだけ違った。


「トキ……そんな理由で、よくあれだけ人に大丈夫だって言えたよね」


 この時のあたしの声はきっと、トキには拗ねているように聞こえただろう。

 言葉を返したあたしに、トキは「そうか?」と、悪びれる様子もなく答えた。

 責めるように「そうだよ」言うと、彼は反省するような素振りもない。

 今、あたしの彼に対する感情は、ちょっとばかり複雑だ。

 期待外れと言えば、言い方が悪すぎる。

 理想と違ったと言えば、なんだか自分がこどもっぽ過ぎる。

 がっかりしたと言う程、彼に失望もしていない。

 これはきっと……あたしは、彼が立派過ぎない人でいてくれて、ホッとしたんだと思った。

 目に見える彼の背中が、手を伸ばせば届きそうな所にある感覚。

 それに、あたしはただホッとしたんだ。

 彼を責めた目線に、別の感情が混ざり出す前に、あたしは目線をそらした。

 すると、どう受け取ったのか、トキは言い訳をするように素直な言葉をあたしに告げ始める。


「でもさ。俺なら、仲良くなりたい人のことは知りたいと思うから。あさぎちゃんは、浅緋と仲良くなりたいんだろうなって、思ったんだよ……それじゃ、ダメだったか?」


 一瞬、これを優しい声で聴かされると、一理あると思ってしまいそうだった。

 けど、あたしはすぐに思い直す。


「ダメ。だってそれ、ただの勘ってことでしょ?」


 すると、トキは「確かに」と、笑った。

 歯を見せて無邪気に笑う表情で、彼には反省する気なんてさらさらないんだなとわかる。

 この時ばかりは、トキが年上だということを忘れてしまった。

 そして、年のことを忘れた代わりに、あることをふと思い出す。


「まぁ、それはもういいよ……あともう一つ訊くけど。トキ、あたしに『あさぎちゃんをよく見てやれ』って言ったの覚えてる? あれってなんだったの?」


 それは、あたしの中でうやむやになりかけていたことだ。

 結局、彼の言葉の意味に気付けなくても、あさぎちゃんとは仲良くなれてしまった。

 今更と言えば、今更なのかもしれない。

 けどあたしは、トキの口からあの言葉の真意を聴きたかった。

 でないと、もどかしい気持ちを抱いたまま、あやふやな答えしか自分の中に生まれない。

 そんな気がして、だから知っておきたいと思った。

 けど。


「あれか? ああ。あれはもういいんだ」


 言葉を投げかけた本人は、もう終わったことだと言わんばかりだ。


「……気になるよ」


 不満の色味が濃くなった声が、あたしの口から漏れる。

 すると、トキは眉根を寄せて苦い表情を浮かべ、申し訳なさそうに語り始めた。


「あの時の浅緋はさ。自分とほのかちゃんを比べてばかりで、あさぎちゃんのことが目に入ってなかったんじゃないかと思ったんだよ。自分のことでいっぱいいっぱいになってたら誰かの大切なことを見逃すと思ったんだ」


「だから、よくみる?」


 自分なりに解釈しようと問い直すと、トキは少し考えるような間を置いて言葉を紡ぐ。


「そう、だな。でも、今思えば『自分のことばかりじゃなく、あさぎちゃんのことも考えてやってくれ』くらい言った方がわかりやすかったかな?」


 彼は、自分が「よくみてやってくれ」と言った時のことを後悔するかのように、遠い目をしながら告げた。

 そんな後ろ向きなトキの言葉に耳を傾けながら、あたしは、あさぎちゃんを抱きしめた時の事を思い出す。

 あの時、あたしはあさぎちゃんを安心させたいと心の底から思っていた筈だ。

 そこに、自分がどうだとか、ほのかと比べるとかの考えはまるでなかった。

 自分のことばかりを気にして、あさぎちゃんに何かしてあげたいと思わない。

 そんなあたしは、あの時は確かにいなかった。

 あの時のあたしは、トキが言う『あさぎちゃんのことをよくみる』自分に、当てはまるだろうか?

 自分の中の答え合せに、ようやく納得できそうな所まで来たところで、トキがまた口を開く。


「でもまあ、あれは余計なお世話だったな」


 彼の口からこぼれた言葉。

 それは、今まであたしが聞いたことがない……。

 いや、トキがあたしに向けたことのない声色だった。


「浅緋は、きっと俺が何も言わなくてもあさぎちゃんとちゃんと仲良くなれたと思う。久々に浅緋に相談されたのが嬉しくて、ついえらそうなこと言った。浅緋、悪かった」


 トキが、あたしに低く沈んだ、でもどこか優しげな声色で謝る。

 それはまるで、夜を前に沈んでいくような、夕日のような声色で。

 彼は謝っている筈なのに、その顔はとても満足げで、嬉しそうに見えた。

 それに、謝られたあたしも、彼の謝罪を嬉しいと受け入れてしまう。

 だってこれは、この謝罪は……あたしを、認めてくれたということだと、そう思った。

 今、トキはあたしをこども扱いしていない。

 あの言葉は、あたしがきっと一人でできたと、そう認めてくれたものだ。

 たぶん初めて、トキが、あたしを庇護の目で見ることを、やめてくれた瞬間だった。

 それが、心の底からじわじわと染み入るように喜びとして実感できる。

 あたしは、そんな感情を噛みしめながら、彼の謝罪に首を振った。

 だって、この嬉しさとは別にあたしはトキに謝ってほしくなんてないと思っていた。

 トキが、えらそうなことを言っただけだなんて、とても思えなかった。

 あたしは、トキに「大丈夫だ」って、その一言をもらえただけで、前向きになれる気がしていたんだから。

 それは、今だって同じだった。

 あの時、トキに相談して良かった。

 今、彼が傍に居てくれて、良かった。

 けど、こんなことを、彼に伝えるのはとても、とてもとても恥ずかしい。

 だから――


「トキは先生なんだから、ちょっとえらそうなくらいがちょうどいいよ」


 ――あたしは、そんな風にちゃかして告げた。

 その自分の声に、嬉しさが滲んでいるような気がして言った傍から恥ずかしくなる。

 けど、トキはあたしの感情の機微に気付いたような様子はなく、ただ「そっか」と、返した。

 今、嬉しいような感情と、恥ずかしいような感情で、自分の心が満たされているのがわかる。

 抑えきれない嬉しさとも違う、溢れだしそうな恥ずかしさとも違う。

 ただただ、過不足なく満たされた、落ち着いた心持ちだ。

 こんな今なら、あたしは彼に伝えられる気がした。

 この想いを、トキに告白できると思えた。

 夏の暑さのせいだけではない口の渇き。

 唾をのみ込み、あたしは彼に向かって声を出す。


「ねぇ、トキ……これで最後だから、もうひとつ聴いてくれる?」


 日の熱さに肌が焼ける感覚が遠のいていく。

 あたしの話を聴こうと体を向けてくれる彼に、どう切り出そうかと迷う。

 でも、今言っておきたい気持ちは変わらない。

 ここで引っ込んだら、これ以上ないくらいにカッコ悪い。


「あたしに、ほのかみたいになりたいのかって、訊いたことあったよね」


 トキの唇が小さく動き「ああ」と、声が放たれる。

 その唇の動きを目で見て、彼の声を耳で聴いて、あたしは自分の気持ちをトキに向け直す。

 一歩踏み出すような気分で、言いたいことを言ってしまおうと、決心した。


「あたし、あさぎちゃんがあたしを頼ってくれてすごく嬉しかった。ちょっと不純かもしれないけど、誰かに頼ってもらえたり、誰かを安心させられる人にね、なりたいと思ったの」


 あさぎちゃんがあたしに向けてくれた笑みを思い出す。

 そして、あたしに「大丈夫だ」と言って、彼があたしにくれた気持ちを思い出す。


「あたしね――トキみたいになりたい」


 気付けば、想いは言葉に変わっていた。

 そして、これから口に出すことは、きっとあたしの目標になるだろう。

 そう、不思議なくらい確信できた。


「あたしね、先生になりたい」



 この瞬間、あたしの夢に、少しずつ鮮やかな色が付き始めたんだ。

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