6話 あたしは、今この人にどれほど安心を感じているんだろう?

夏祭り(1)

 夏休みも折り返しに差し掛かる八月の中頃。

 庭先でカップアイスにスプーンを突き刺し、冷たいアイスを口に運びながら、あたし達は今後の夏休みの予定を和気あいあいと話していた……のだけれど。


「そう言えばさ、青丹さんは夏休みの課題どれくらいやった?」


 ふいなあたしの一言で、青丹さんが氷のように固まってしまった。


「……えっ? まさか、やってないの?」


 続けて訊ねたあたしに、彼女はでろっと溶け出したアイスクリームのようにだらりと頷く。


「ちなみに、どれくらい? 課題、結構あったと思うけど……」

「……ぜんぜん」


 蚊の鳴くような声で青丹さんが告白した時点で、今後の夏休みの予定が決したのだった。





 後日、お昼過ぎに青丹さんは夏休みの課題を抱え込んで家にやって来た。


「いらっしゃい」

「はいっ、今日はよろしくお願いしますっ」

「よし、じゃあ、今日は一緒に夏の課題を片付けるからね!」

「はい! 一緒にねっ!」


 変にかしこまる青丹さんを和式の居間に通して、あたし達は課題を持ち寄る。

 居間にある大きな木目のテーブルに課題と筆記用具を広げ、さっそく取り掛かることにした。

 ……けれど。


「ねえ、向坂さん……ここなんだけど」

「えっと、あたしもそこは苦手な分野で……ちょっとわかんないや」


 思いの外、課題がはかどらない。


「……私、数学ってちょっとカッコつけ過ぎだと思うんだよ。こんなややこしい計算、絶対日常生活で使わないよ」

「そうだよね。あたしの目の前で、大人がXなんて使ってる所を見たことないしね」

「英語もさ、日本語でさえわからないところに二カ国語仕込もうってのが贅沢なんだよ」

「中途半端に教わっても後々活きないとあたし思う」


 その一つの要因があたし達の不得意科目が見事に一致していることだ。

 二人で課題に取り掛かって一時間ほど経っただろうか?

 あたしが既に得意科目の課題を終わらせていたこともあって、二人が共通して終わっていない英語と数学からやっつけようという話になったのだが、教科に対する不満がこぼれていくばかりで、課題の終わる兆しがまるで見えない。

 あたしが片腕で頭を抱える一方、青丹さんは両手を広げて畳の上に大の字で寝転がっていた。

 そこに――


「調子はどうだ?」


 ――居間の戸を開けて、おぼんを片手にトキが入って来る。


「全然進んでません……」

「なによ、からかいに来たの?」


 弱音と文句が口々に飛び出すあたし達に、彼はおぼんに載せたお茶と菓子を見せながら笑う。


「お疲れさまの意味を込めて差し入れに来たんだよ」


 小さな白い皿が二枚、その上にちょんっと可愛らしい動物をかたどった和菓子が見えた。

 その途端に、青丹さんはすっと起き上り、あたしはぴんっと背筋が伸びる。

 そのまま、あたし達は休憩することになった。



「それで、どこでつまづいてるんだ?」


 緑茶をすすりながら甘い和菓子を口にするあたし達に、トキはズバッと訊く。


「英語と数学」


 ボソリと答えると、トキはどれどれと、数学の課題に目を通し始めた。


「あー……こんなんやったような記憶があるな」


 なんとも頼りない一言をこぼして、トキは英語の課題へと視線を移す。


「……何よ、情けないなぁ。大学生なのに中学生の課題もできないの?」

「復習すればなんとかなると思うけど……そうだな明日からなら教えられるかもな」

「本当ですか?」


 悪態を吐くあたしとは正反対に、青丹さんは喜んでトキの言葉に食いついた。

 よっぽど、数学が苦手なんだろうか?

と、思いつつ、あたしも自分の数学の課題へ目を落とす。

 解答欄には空白が多く、書き込んだ解答は正しいかどうかもわからない。

 あたし、他人のことは言えないみたいだ。


「じゃあ、トキ、明日からあたし達の家庭教師やってよ。今、夏休みでしょ?」

「おう、いいぞ」

「じゃあじゃあ、明日から本格的にスタートってことで、今日はもう勉強おしまい?」


 トキの快諾を聞いて、青丹さんは待ち切れないと我慢の効かないわんこみたいな声を出す。


「そんな訳ないでしょ! 今日はあたし達だけで、英語、ちょっとでも進めとかないと」

「ええぇっ……絶対無理だよぉ」


 英語の課題に心でも折られたのか、青丹さんは泣き言を吐いてぐにゃりと体を脱力させた。


「あ、英語なら今すぐにでも見てやれると思うぞ」


 やる気の抜け切った青丹さんと、あたしの耳に、そんなトキのやや自慢げな声が聞こえた。

 思わず、あたし達は二人声を揃えて「えっ?」と、訊き返す。


「何だよ。俺が英語できたらそんなに不満か?」

「いや、そうじゃないけど……」


 正直、トキが英語得意だなんて思わなかった。意外というか、少しだけカッコいいと思う。


「ちょっと意外だったなって思って」

「まあ、俺も昔からできた訳じゃないし、難しいこと言われたらわかんないけど、二人の課題の範囲くらいならなんとかなると思う」

「お兄さん頼もしいです! ちょっと座っていってください! そして教えてください!」


 青丹さんは歓喜の声を上げながら、トキを座らせると身を乗り出して課題に向かっていった。


「あの! ここの訳文の問題なんですけど! 訳を教えてください!」


 と、思ったんだけど。青丹さんは答えを訊き出しているだけのように見える。

 わからない問題をぱっと指さして答えを訊くだけじゃ、一緒に勉強する意味がないじゃない。


「もう、青丹さん! ちゃんと自分でやる努力はしようよ、一緒に頑張ろうって言ったのに」

「あ、そうだよね。ごめんなさい」


 青丹さんはぺこりと小さく頭を下げてサッと引いた。


「一緒にやるって言ったもんね」


 そう言いつつ、どこか口惜しそうな声色で笑って見せる所が正直な彼女らしい。

 あたしは、青丹さんのそういうストレートな性格が好きだった。


「そういうこと、ズルしないでがんばろっ」


 青丹さんは「うんっ」とあたしに向けて頷いた後、トキに顔を向ける。


「お兄さんも、ごめんなさい。改めて教えてもらえれば嬉しいです」

「別に構わないさ。よし、部屋から英和辞典とか取って来る。戻ったら一緒に片付けていこう」


 青丹さんの謝罪を受け入れるとトキは立ち上がって、居間を出て行く。

 そして、トキが辞典を片手に居間に戻って来ると、勉強会は再開した。



 半信半疑だったが、目の前でスラスラと訳されていく横文字を見ると、認めるしかない。

 意味の解らなかった英文が、トキの解説のおかげで意味のわかる文章へと変わっていく。


「本当に、英語できたんだ……」


 カリカリと日本語訳を書きこみながら呟いたあたしの一言に――


「信じてなかったのか……」


 ――彼は英和辞典のページをぺらぺらとめくって単語を探しながら答えた。


「お兄さん、昔は英語できなかったんですよね? いつから出来るようになったんですか! コツとかあるなら知りたいです!」


 青丹さんは、課題の山場を越えられたようで、明るい声色で興味津々とばかりにトキに訊く。


「コツって言うか、大学の一回生の時に先輩に仕込まれたんだ。結構むちゃくちゃな人でさ。卒業したら世界一周の旅に行くんだって言ってお金貯めてて、昼飯代浮かせるために俺のおかず取りに来るような人でな。けど、面倒見も良くてさ、俺が英語ができないって言ったらスパルタで教えてくれた。それが今も残ってるって感じかな?」

「それ、あたし達には何一つ参考にならないじゃない……」


 つい、げんなりとしてそう口走ってしまった。

 けど、トキは気にした様子もなく、英和辞典の開いたまま手が止まっている。

 そして「そうだな」と呟いて、その横顔は何かを懐かしんでいるみたいに見えた。


「でも、先輩さんとは違うかもしれないですけど、お兄さんの教え方とても上手だと思います。わかりやすかったですし、なんだか先生みたい」

「まあ、それは確かにね……」


 青丹さんに乗っかるような形であたしも同意する。

 すると、トキは照れたように笑ってまたページをめくる指先をゆっくりと動かし始めた。


「ありがと。一応、本職を目指す俺にとっては嬉しい言葉だ」

「って、ことは、お兄さんって先生になるんですか?」

「なれるように今頑張ってるとこ、って言うのが多分正しいかな。去年は浅緋が卒業した小学校に実習も行ったんだけど、二人とは入れ違いだな」


 そうなのっ? と、青丹さんがあたしに目線で訊くので「まあね」と答え、その時のことを少し思い出す。

 あたしとしては、トキを学校で先生と呼んだり、勉強教えられたりと、なんだか恥ずかしい思いをしそうだと思っていたから、あたしが卒業した後で本当に良かったと思っていたっけ。

 ランドセルを背負った自分が、トキを「先生」と、呼んでいる所を想像してゾッとする。

 これ以上トキにこども扱いされるような要素が増えるのが嫌だったのはよく覚えている。

 と、あたしが去年のことに思いを馳せている間に、二人は仲睦まじく会話を進めていた。


「お兄さんってすごいなぁ。本当に先生になれちゃうと思います!」

「ありがと。でも、二人ののみ込みも早くて、そのおかげもあると思うよ」 


 トキはいつの間にか持っていた英和辞典を閉じて青丹さんの声に耳を傾けているし、青丹さんは青丹さんで筆記用具をテーブルの上に置いてしまっている。

 あたしはシャーペンを握ったままぼうっと二人の会話眺めていた。


「青丹さん、はじめはわからない単語が多くて苦戦してたみたいだけど、一回単語の意味さえわかったら覚えるのは速かったし、スペルミスもすごく少なかった」

「そうですか?」

「ああ。文法問題もすぐに理解できてたし、これなら中学の時の俺よりすごいと思うな。青丹さん、単語は苦手みたいだから、そこさえ覚えれば英語克服できると思うよ」

「あたし、英語でそんなこと言ってもらえたの初めてです」


 なんだか、トキが目の前で青丹さんを褒めているのを見ると、もやもやとした気分になる。

 トキには青丹さんを、青丹さんにはトキを取られたような気分だ。

 それが、蚊帳の外に居るようで落ち着かない。だからだろうか。


「あ、あたしも……頑張ったと、思うんだけど」


 つい、そんな言葉が口を吐いて出た直後、こっちを向いたトキと目が合う。


「おう。だから俺言ったろ? 二人ののみ込みが良いって」


 その言葉で、妙な気分になって口を滑らせたことが急に恥ずかしくなってきた。

 トキは、はじめからあたしのことも褒めていたのに……い、言わなきゃよかった。

 あたしはもう書きこむ場所のない課題に目線を落とし、シャーペンを構える。

 やばい、と。次のページをめくらなきゃと、思った時だった。


「でも、珍しいな。浅緋、いつもは俺が褒めようとしたら怒るかむくれるのに」


 指先を引っかけたページが破れそうな勢いであたしは課題をめくる。


「なっ! バカっ! そんなことないしっ!」


 気付けば、バシンッとシャーペンをテーブルに叩きつけ、膝立ちになって叫んでいた。

 すると、青丹さんの方から「ふぐっ――」という笑いを堪えたような声が聞こえる。

 彼女の方を見ると、今にも笑い出しそうな口を押さえ、明後日な方向に目線を落としていた。


「あ、青丹さんっ!」

「ご、ごめんっ、でもわかるよ。向坂さんも褒められたかったんだもんねっ」


 今の状況で違うとも言えず、羞恥に震える思いでシャーペンを握りしめる。

 そんな中で「あっ」と、トキが何か思い出したように声を上げた。


「でも、そう言えば。浅緋、昔から得意分野を褒めたら怒るのに、苦手なことが出来た時は褒めてもそんなことなかったな」


 トキは、昔と言いながらいつの何を思い出したのか、ポンッと納得したように手を叩く。


「中学に上がってから英語苦手だってよくぼやいてたもんな。今日、短い時間でちゃんと理解できたんだ。文法もミス少なかったし、すごいな」


 正直、今の状況で褒められても、嬉しいと言うよりは恥ずかしい気持ちの方が強かった。

 そんなあたしに青丹さんは畳の上をすりすりと移動しながら近寄ってくる。


「浅緋、わかられてるねぇ」


 こそっと耳打ちする彼女に「こども扱いされてるだけだよ」と、返した。

 トキは、「昔」と言ったけど、たった三年前のことじゃない。

 一緒に住むようになったばかりの頃、あたしのことは何にもわかってなかった癖に、今の彼はまるであたしのこと何でも知ってるみたいな顔をする時がある。

 うつむけていたい顔を上げ、チラリとトキに目を遣ると、彼もあたしを見ていた。

 けどきっと、彼はあたしの見方を三年前から変えていないんだろう。

 図鑑が好きで、何かを観察するのが好きな、無愛想なこどものまんまなんだ。

 こんなんで良いのかな?

 女の子って、男の人にとってもっと複雑で、わかりにくくて、不条理で……簡単に理解できない存在な筈だ。

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