あさぎ色とぴっく(3)


 翌朝、あたしは玄関に置いたカブトムシにえさをやっていた。

 虫かごのふたを開け、朝食に食べたリンゴを一切れ中に放り込む。


「ほら、ごはんだよ」


 同じ釜の飯を食う、なんて言うけれど、こうして毎朝この子とリンゴを分け合っていたらお別れの時がつらくなりそうだ。

 ふたを閉めて虫かごが直接日光に当たらない日陰に置くと、ふと、あたしは視線に気付いた。

 あさぎちゃんが居間のふすまを半開きにして、隠れるようにこちらを覗いている。


「あ……あさぎちゃん」


 名前を呼ぶと、彼女はあたしから見える体の面積をより少なくしようとふすまの奥に逃げた。

 今は、かろうじて指先と頭が見えている状況だ。


「お、はようございます……」

「うん。お、おはよう」


 そうやって、あさぎちゃんから声を出して挨拶でも何でも話し掛けてくれるのは嬉しい。

 けど、ついさっき、朝食を食べる時もこれと全く同じ会話をしたのをまだあたしは覚えてた。


「…………」

「…………」


 あたし達の間にそのまま会話は生まれず、虫かごのカブトムシがプラスチックのカベを足で擦ったと思われるキュゥっという音が聞こえる始末。

 こんな昆虫との共生生活音、普通に会話をしていたらまず耳に入って来ない音だ。

 このままだと流れる汗の音すら聞こえてきそうな沈黙が続く。

 そんな無言の空間を、先に抜け出したのはあさぎちゃんだった。


「……な、なにしてたんですか?」


 か細い声が耳に届く。

 まさか、彼女の方から話し掛けてくれるとは夢にも思っていなかった。

 そのせいか、あたしは妙な間を空けて返答してしまう。


「――あっ、カブトムシにね、リンゴあげてたの」

「カブトムシさん……リンゴ、その、たべるんですか?」

「食べるよっ」


 言葉を選ぶように、丁寧に口を開いていくあさぎちゃんに私は即答した。

 それは、ほとんどあさぎちゃんの姿が見えないふすま越しでの会話だ。

 けど、この時ようやくあたしは彼女とコミュニケーションが取れた気がした。

 このチャンスは逃せないっ。

 自分の無愛想に、最大限のブレーキをかけながら、口から出す単語を選んでいく。


「あさぎちゃんはさ、リンゴ……好き?」


 あたしも、リンゴを話題にチョイスしながらあさぎちゃんに質問をする。

 すると、彼女がこくり……と、確かに頷いた。


「そっかぁ、あのね! カブトムシさんも、あさぎちゃんと同じで、リンゴが好きなんだよ?」


 一瞬、自身の喉から絞り出た猫撫で声に、自分でびっくりして口を押さえそうになる。

 カブトムシ『さん』だなんて、幼稚園の時にだって言ったことがない。

 けど、これが功を奏したのか、隠れていたあさぎちゃんの体がこわごわながらも見えてくる。


「そ、そう……なの?」

「う、うんっ」


 正直、カブトムシのリンゴが好きか、何が好きかだなんて、判断がつかないんだけど……。

 あたしは、自信満々に頷いた。

 そして、ここがチャンスだと、あさぎちゃんにある提案を持ちかける。


「そうだ。あさぎちゃん、良かったらカブトムシ触ってみ――」


 その瞬間、ピシャリと、ふすまは閉められた。


「――る……」


 もはや誰も聞く人がいなくなった空間に『る』が単音となって消えていく。

 今の、反応でなんだか気付いてしまった。

 たぶん、あさぎちゃんは虫が苦手なんだろう。

 昨日、初めて会った時に彼女が固まっていたのも、あたしが虫かごを持っていたからだ。

 それに、あたしが無愛想なのも、加味されるんだろうけど。


「はぁ……そっかぁ、あさぎちゃん虫苦手っぽいかぁ……」


 ほのかやかおるさんは虫が平気だった。

 最近だと生物部の虫に対して耐性の高い女子の先輩達とも過ごす機会が増えていたから……長らく、そういう女の子がいることと、その反応を忘れていた。

 ……もう、とっくに忘れていた声が、頭の中に蘇りそうだ。


「いきなり、触ってみる? はなかったなぁ」


 一人反省してみても、閉まったふすまは隙間一つ開く気配がない。

 ピクリとも動かないふすまから視線を逸らして肩を落とすと、自然とため息が出た。


「……カメに、えさをやろう」


 自分にそう言って聞かせ、あたしは靴を履いて外に出たのである。





 無気力に、世話をしなければという義務感だけでカメの水槽の水をかえてやる。

 汚れた水を捨て、カルキ抜きして常温になったバケツの水を流し込んでやった。

 後は避難させていたカメを水槽の中へ戻すと、ふよふよと水の中を泳いでいく。

 しばらくぼうっと眺めると、カメは水槽の中の大きな石にゆっくり登って行き、落ち着ける場所を見つけたのか、目をつむってじいぃっと日向ぼっこを始めた。

 あとは、二、三時間したらまた様子を見に来て、日陰に戻してやればいい。

 あたしは水際にえさのしらすぼしを数匹置いて、一旦家に戻った。



 カメに触った手を洗おうと、真っ先に洗面所を目指した。

 洗面所に着くなり、蛇口のハンドルを汚れた手で触れないように苦労して腕や肘でひねる。

 夏の陽に温められた出初めのぬるい水が、しばらくすれば冷水に変わっていく。

 その間にあたしは薬用せっけんのボトルを手の甲で押し込み、汚い手のひらにどろりとした液体せっけんを流し込んだ。

 後は、手を擦り合せて泡立て、泡で真白くふわっと包まれた手を水で洗い流していくだけだ。

 綺麗になった手で水道のハンドルを締め、あたしはタオルを求めて視線を泳がせる。

 けど、そこにあるはずのタオルがタオル掛けにはなかった。

 あたしは水を床に垂らすまいと、幽霊のように手を宙で漂わせながら、タオルを探すが、やはり見つからない。

 そこへ、かおるさんが空になった洗濯かごを携えて現れた。


「あ、かおるさん、タオルがなくって――」


 ゆらゆらと手を漂わせるあたしを見るなり、かおるさんは申し訳なさそう答える。


「ああ、ごめんごめん。出し忘れてたみたいね。乾いたのが居間にあるから――」

「あ、じゃあ、取ってきますっ」


 それだけ聞いて、あたしは急いで居間に向かった。

 洗面所から台所を通り、ちょっとした廊下を通って居間の前に辿り着く。

 けど今、居間にはあさぎちゃんがいるんだということをすっかり忘れていた。

 先程隙間なく閉まっていたふすまは、現在は見事全開にされている。

 きっと、あたしがカメの水槽の水をかえている間に開け放たれたんだろう。

 あたしは中の様子が気になり、ふすまの陰に隠れるようにして、そうっと居間を覗き込んだ。

 すると、乾いた洗濯物の小山の傍でぺたんっと腰を降ろし、こちらに背を向けたまま本を読むあさぎちゃんの姿が見える。

 あたしに気付いている様子はなく、なんともリラックスした状態で読書に集中していた。

 これは、再び巡ってきたあさぎちゃんと仲良くなるチャンスじゃないかな。

 小さく口を開き、静かに一つ深呼吸をした。

 今はカブトムシの世話もしていないし、カメのお世話をした手だって綺麗だ。

 よしっと、心の内で気合を入れ、あたしは彼女に歩み寄った。


「えっとぉ、タオルタオルぅ……」


 多少ワザとらしいのは承知の上で、歌うように声を出す。

 すると、あたしの存在に気付いたのか、あさぎちゃんが体をぴくりっと震わせて振り向いた。

 彼女の傍まで行くと、軽く屈んで洗濯物の小山からするりとタオルを一枚抜き取る。

 ふわりとやわらかい乾いたタオルで濡れた手を拭い、あさぎちゃんに目線を移す。

 そして、脅かさないようにと、努めて優しく声を掛けた。


「あ、あさぎちゃん、何読んでるの?」


 あさぎちゃんは一度あたしから目線を外して、あさっての方向に目を逃す。

 しかし、ちらりと目線を戻しながら、開いた本で顔を隠すように背表紙をあたしに見せた。

 そこには、読んだことのない本のタイトルが書かれてある。

 同時に目に入った表紙には、軽装の騎士らしい男性とドレスを着た少女が描かれている。

 タイトルと表紙の雰囲気から察するにファンタジー系の童話だろう。


「どんなお話なの?」


 本を持つあさぎちゃんの指から、内容について書かれたあらすじが見え隠れしている。

 けど、あたしは絶対にそれを読むまいと自分に言い聞かせながら、彼女に質問した。

 この質問ならば、話の取っ掛かりとして無難だろうと思ったからだ。

 けど、何故かあさぎちゃんは固まってしまっていて、一言も声を発しない。

 挙句、どうしたらいいのかわからないと言わんばかりに、瞳がうるうると潤み出す。


「あ、あさぎちゃん? ど、どうしたのっ?」


 そんなに答えにくい質問をしたとは思わなかったのだけど、と思ったが。


「ま、まだ……読み始めた、ばっかりで……い、いちページ目で……」

「あ……あぁー……それは、あはは……」


 無難だと思った質問は、今回はとんでもなくミスチョイスだったみたいだ。


「そ、そっか。おもしろそうな本だなって思ってさ。じゃあ、読んだら感想聞かせてくれる?」


 ……一時撤退しよう。

 あたしは時間を空けつつ、彼女と再び話せる機会の種を蒔くつもりでそう言ったのだが。


「あっ――か、貸してあげますっ」


 あさぎちゃんはそう言って本をあたしの胸にずいっと押し付ける。

 そのまま、さっと立ち上がると止める間もなく逃げ去ってしまった。


「あ、あさぎちゃん……」


 再び、あさぎちゃんに避けられ、あたしはぽつんと突っ立つことになる。

 手元には、湿ったタオルと、あさぎちゃんの読み始めていた本だけが残った。

 そんな自身の状況に、思わず自己嫌悪に陥りそうだ。


「あれ? あさぎちゃんは?」


 そこへ、洗濯物をたたみに来たのか、かおるさんが現れた。

 不思議そうに「さっきまで居たのに」と、続けて口にするかおるさんに、あたしは――


「……本を読んでたんだけど」

「だけど?」

「逃げられた……」


 ――と、正直に告げる。

 その途端、かおるさんは「ふっ――」と吹き出し、終いには笑い出した。


「……もう、笑い事じゃないよ」


 つい、口をとがらせて言うあたしに、かおるさんは「ごめんごめん」と謝る。

 けど、まだ笑いは収まらないようだ。


「ついね、浅緋ちゃんが来たばっかりの頃を思い出しちゃって」


 呼吸を整えようとしながら笑いを堪えるかおるさんに、あたしは首を傾げる。


「それって、あたしがあさぎちゃんみたいだったってこと?」

「ううん。そっちじゃないわ。浅緋ちゃんが来たばっかりの頃、トキがそんなのだったからね」

「そんなの……?」

「トキもね、浅緋ちゃんが自分に懐いてくれなくて落ち込んでた頃があるのよ」


 何とも楽しげに放たれた、かおるさんの言葉の意味……。

 それを理解した時、あたしはあんまりに恥ずかしくって体がかあっと熱くなった!


「かっ――かおるさんっ!」

「いやぁ、人の行いって、回り回って自分にかえって来るのねぇ」


 きっと今、かおるさんは思い出の中のトキとあたしを同時にからかっているんだろう。

 恥ずかしさで妙に体に力が入る。

 あたしは手に持った本を意味もなくぎゅうっと抱きしめた。 


「だから、笑いごとじゃないんだってば……もうっ」


 そう言いながら、あたしも昔のことを思い返す。

 あたしが家に来たばかりの頃、トキはあたしにどう接してくれただろうか?

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