あさぎ色とぴっく(2)

 ほのかと別れて家に帰ると、まだ夕刻なのにかおるさんの車がガレージに駐車されていた。


「珍しい……かおるさんもう帰ってるんだ」


 ひとまず門の前に自転車を停め、運びやすいカブトムシの虫かごを手に取る。

 乱暴に扱わないようにと注意を払いながら玄関の前まで歩き、戸を開いた。


「ただいまー。かおるさーん、家に水槽あげても……い、い?」


 と、断りを入れようと声を発したが、目に映る光景に、あたしの声は尻すぼみになっていく。

 戸を開くとあたしの目の前に、小さな女の子がいた。

 小学生低学年くらいだと思う。

 素直そうな印象の女の子で、肩口に切りそろえられた髪と、くりくりとした目が可愛らしい。

 着物でも着せたら、愛らしい市松人形のように見えるだろう……だけど。

 何故か、その女の子はあたしに目を向けたまま固まってしまっていて、ぴくりとも動かない。


「あ、あの……」


 何か声をかけようかと思ったのだけど、気の利いた台詞が何も思い浮かばなかった。


「……こ、こんばんは?」


 振り絞った挙句、そんな当たり障りのない挨拶をする。

 けど、女の子は固まったまま返事がない。

 人見知りする子なんだろうか?


「こ――こん、ばんわ……」


 あたしの挨拶から長い間を置いて、ようやく彼女の声が聞けた。

 遠慮が勝るような小さく控えめな声が、ひっくり返って聞こえる。

うっかりすると聞き逃してしまいそうだが、小鳥の鳴くような耳に心地の良い声だった。

 あたしは、彼女に何か返事をしようと思う。

 けど、そう思った瞬間、女の子は回れ右してダッと駆け出してしまった。

 彼女がどこへ向かうのかと目で追うと、台所へと入って行く。


「……お客さんでも来てるのかな?」


 ボソリと呟いて、玄関下に虫かごを置き、靴を履きかえるために腰を降ろした。

 座って靴とかかとの間に指を滑り込ませ、すっと靴を脱ぐ。

 その時、玄関に置いてある一足の靴が目に入った。

 一足だけ、見慣れない靴がある。

 小さな女の子が好きそうな、可愛らしいイラストで花やリボンがあしらわれた靴だ。

 何足も家族の靴が並ぶ中、その一足だけが見慣れない靴だった。


「……さっきの、女の子の靴だよね?」


 声に出た推論に、自分で納得しながら一つ疑問が浮かび上がる。


「なんで? 一足だけ?」


 首を傾げてみるが、正しいと思う回答は導き出せなかった。

 けど、この疑問も水槽の置き場所を相談する時にかおるさんに訊けばいい。

 あたしは、前向きに疑問の保留を決めて、かおるさんの姿を探し始めた。

 とりあえず、台所へ向かう途中に居間を覗き誰もいないことを知る。

 直後、台所から調理をする様な音が聞こえ、かおるさんがいるのだと直感した。

 台所へ続くドアを開き――


「かおるさ――」


 ――その途端、あたしは言葉を飲み込んだ。

 目に飛び込んで来たのは、普段と変わりなく調理に励むかおるさん。

 トキと共用のエプロンに身を包み、その裾を……さっき見た女の子にぎゅっと引っ張られながら、まな板の上の食材と包丁一本で対峙している。

 台所には、女の子以外のお客さんらしき人は見当たらない。

 あたしは、この女の子が『ただのお客さんじゃないような』予感がした。


「あ、浅緋ちゃんおかえり。今日の夕飯はシチューよ」


 あたしに気付いたようで、かおるさんはまるで普段と変わらない様子で声を掛けてくれる。

 けど、あたしは普段と変わらずにはいられなかった。

 今は、夕飯の内容よりももっと知りたいことがある。

 それに比べれば、水槽をどこに置くかなんてことも今は些細なことだ。


「えっと……あの、かおるさん? その女の子は?」


 あたしが女の子を指さして訊くと、女の子はさっとかおるさんの後ろに隠れた。

 かおるさんはエプロンを引っ張られ「おっと」と声を漏らしてからあたしに向き直り。

 そして。


「この子は、尼崎あまさきあさぎちゃん。夏休みの間、家で預かることにしたから」


 ……これを耳にした時、いつかトキから聞いた話を思い出した。

 かおるさんは、まるで金魚でも飼うと決めたみたいな顔で、簡単かつ唐突に、にこやかにほほ笑みながらあたしへ告げた。



 この夏、一緒に暮らす小さな家族が二匹と一人増えた瞬間だった。





 トキの帰宅を待って、あたし達は台所にて家族会議を開くことと相成った。

 あさぎちゃんの母親――尼崎さんは両親ともに亡くなっていて、しかも離婚しているらしく、離婚後はあさぎちゃんの父親とほぼ絶縁状態にあるらしい。


「で、母さんの同僚の尼崎さんが病気で検査入院してから手術することになったから、その間、頼る所のない尼崎さん家のあさぎちゃんを家で預かることにしたと?」


 あたしはこの話を再度聞く形になり、話を聞きながら頷くトキの様子を見ていた。

 そして、それはあさぎちゃんも同じなようだ。

 彼女はくりっとした瞳で、かおるさんから話を聞くトキのことをじぃっと見つめている。

 悩むように唸るトキは、かおるさんとあさぎちゃんを交互に見ながら口を開いた。


「正直、こういうのは個人の家庭で引き受けるよりもどこか施設にでも相談した方がい――」

「そんなことわかってるけど! 尼崎ちゃんは母さんの大事な大事な同僚なの! 困ってたら力になってあげたいじゃない! 尼崎ちゃんだって『千草さんが頼まれてくれるなら安心』って! 言ってくれたもんっ!」


 トキの声はギャンッと吠えたかおるさんに見事に一蹴される。

 あたしとあさぎちゃんはその声に驚いて、一瞬体がびくっ、と震えた。


「……そうは言っても、母さんだって遅くまで仕事あるだろう?」

「有休取った!」


 にこやかに言うかおるさんを見て、トキは言葉を失ったみたいだ。


「それに、今回のことはうちの職場は全面協力なのよ。何日かは有休取らせてもらえたし、仕事がある日も早く返してもらえることになってるの。持つべきは緊急時に融通ゆうずうの利く上司ね」

「だからって……よくそんな急に有休取れたな」


 半ば諦めが透けて見えるトキの皮肉が混じった感心の言葉。

 それが耳に入るなり、かおるさんはけろりとした表情で答える。


「いや、尼崎ちゃんの入院のこととか、あさぎちゃん預かることは結構前に決まってたわよ?」

「だ、だったら……相談しようよ、母さん……」


 かおるさんの言葉にあたしが愕然とする間。

 トキは隣で脱力しながら、突っ伏してそう訴えた。


「ちょ、ちょっとトキ、あさぎちゃんもいるんだからしっかりしなさいってば」


 ぐいぐいと彼の肩を揺さぶると、トキは頭を抱えながらも上体を起こす。


「前もって相談があったら、俺だって講習会や研究会の合間に一日くらいなら……休みがもらえた、かもしれないのに……」


 言いよどみながら、惜しむような言い方をするトキを、かおるさんは頬杖をついて笑い返す。


「ダメねぇ。働いて二年目の新米の教師の言葉じゃどこまで信用できるかわかったもんじゃないわ。忙しい時期なんだから、あんたは了承だけしてなさい。母さんがなんとかするから」


 それは図星に刺さる言い分だったのか、トキはため息を吐いて黙ってしまった。

 あたし達学生と違って、教師にとっての夏休みは忙しいみたいだ……。

 あたしはうつむくトキに目を遣り、その後ちらりとかおるさんを見ると、目が合った。

 すると、かおるさんはあたしに向けてぱちんとウィンクを返して再び口を開く。


「大丈夫よ。あんたが心配しなくても今は浅緋ちゃんも夏休みだから、あさぎちゃんの面倒みてくれるだろうし。ねっ?」


 心の中で「えっ?」と、思ったが、それが声に出るのをあたしは必死で抑えた。

 正直、自分より年下の女の子の面倒をみられる自信がない。

 小学三年生の女の子なんて、あたしにとっては悪戯好きな妖精――ピクシーみたいなものだ。

 かおるさんから目線をあさぎちゃんに移す。

 あさぎちゃんと目が合うと、彼女は驚いたように体をびくっ、と震わせた。

 ……彼女の場合は、悪戯好きなピクシーと言うよりも臆病なコロポックルかもしれない。

 とにかく、あたしにとって年下のこどもというのは伝承に出て来る妖精や小人のようなもので、どうやって接してやればいいのか皆目見当がつかない。

 けど今、不安そうな双眸をあたしに向けるあさぎちゃんを前に「あたしには面倒みれません」とは。とてもじゃないが言える気がしなかった。


「あ、あたしにできることなら……手伝うし」

「決まりねっ」


 言質げんちを取ったと言わんばかりにかおるさんは手をたたいて喜ぶ。

 その光景を見ながら「やっちゃったね」と、心の奥底で囁く自分自身を、あたしは黙殺した。


「なに、大丈夫よ。いざとなったら、あさぎちゃんを職場に連れて来てもいいって話にもなってるから、間違ってもあさぎちゃんが一人きりになることなんてないわ」


 かおるさんはそう言いながら隣に座るあさぎちゃんをぎゅうっと抱きしめる。

 あさぎちゃんは「わぁっ」と、声を漏らしながらもかおるさんに抱かれるままになっていた。


「はい! 決定! 今年の夏は家族が一人増えるのよ!」


 その様子を見て、トキも覚悟を決めたようだ。


「あさぎちゃん――」


 隣で、顔を上げたトキが困ったようにあさぎちゃんに笑いかける。


「――こんなうるさいおばさんがいる家だけど、自分の家だと思っていいからね」


 その意味が伝わったのか、あさぎちゃんはやわらかそうなほっぺたをふにゅっと緩める。

 そして、トキから目線を逸らすことなく「うん!」と、力強く頷いた。

 空かさず、かおるさんがあさぎちゃんの耳元に「私のことは『かおるさん』って呼んでね」と、耳打ちする。

 あたしと、トキとかおるさんとの出会いとは、ほど遠いはずの光景。

 なのに、目の前の光景が、あたしには懐かしく思えた。

 妙に心があたたかくなるようなむず痒い気持ち、あたしもあさぎちゃんに何か言葉を……。

 と、思いはした。思いはしたのだけど。

 けど……あたしはあさぎちゃんに、何の言葉も掛けられないでいる。

 だって。


「あさぎちゃ……」

「は、はいっ」


 あたしが声を掛けると、あさぎちゃんはかおるさんの腕の中でびくりとする。


「こ、これからよろしくね?」

「う――は、はい……」


 あたしはたぶん、彼女に怖がられているみたいだった。



 そんな家族会議を経て、あさぎちゃんとの生活がスタートした。

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