3話 俺は、浅緋と一緒なら変だって言われたって頑張れると思う
本と工具(1)
休日が明け夏期講習が再開して数日。
大学から帰ってみるといつか見たことがある光景が眼前に広がっていた。
家の外に出て麦わら帽子を被り、白いワンピースに身を包んだ浅緋がうずくまっている。
ただ、今回はほぼ庭の中に入っており、前回の様に玄関先のアリを観察してはいないらしい。
それに、よく見ると前回より持ち物が増えていて水筒に加えて本を一冊持っている様だ。
しきりに、その本を開いて見ては庭にある何かと見比べ、目を凝らしている。
そんな浅緋を眺めていると、何をそんなに熱心に見ているんだろうと、気になった。
大きな麦わら帽子を唯一の日影とし、水筒まで下げて……。
この炎天下の中、滝のように汗もかくだろうに。
彼女は夏の日差しに当てられながら足元に丸い影を作り、凛とした目線を何かに向けていた。
……俺は、顔を伝う汗を拭うとガレージに停めるべき自転車をその場に留め置く。
「……ただいま、何見てるんだ?」
そして、浅緋の傍に寄って声をかけた。
「あっ――お、おかえり」
浅緋は俺の存在に気付くと、こちらに振り向きながら何故か慌てた様子で本を背中に隠す。
何をそんなに隠すことがあるんだろう?
俺は余計に気になって、目を凝らすが、彼女の体が上手い具合に陰になっていて見えない。
ならばと、俺は浅緋の傍に座り込み、彼女が何を見ていたのかを探ろうと試みた。
「なっ――」
浅緋が急に座り込んだ俺に向かって短い悲鳴を漏らすが、俺は気にしない。
浅緋の隣に座り、彼女が見ていたであろう所に目を遣った。
だが、残念ながら自分の目にはただの庭木が生えているようにしか見えず、浅緋が何を見ていたのか独力ではわからなかった。
「うーん……?」
首を
「……ねぇ、何見てるの?」
仕舞いには、逆に浅緋に質問され「木?」と、応える始末だった。
すると、浅緋は呆れたように、もしくは観念したかのようにため息を吐き、隠していた本を俺に向けて差し出した。
「別に、そんなおもしろいものじゃないから」
本を受け取る俺にそう声をかけて、浅緋は地面に視線を落とす。
その表情がどこか悲しげに見えて、俺はその理由を探すように受けとった本に目を通した。
浅緋の小さな手では開いて尚余りある程の大きい本だ。
表紙にはカラフルな綿菓子のような、かと思えばチョコミントのアイスのような、はたまた
「カビ図鑑?」
と、言うことは、この表紙にある写真は全部カビということだろうか。
思いのほか本の中身に興味を惹かれ、俺は進んで本を開いた。
中身をパラパラと読み進めてみると、『カビ図鑑』と書くだけあって、まさしく図鑑らしい内容だった。
様々な種類のカビが写真付きで紹介されており、中にはカビの汚いというイメージを払拭するような、思わず綺麗だと思ってしまうものまである。
そんなカビ達の種類や特徴、発生しやすい季節や見つけやすさなんてものまで書いてあった。
これは、取り扱っているものこそ奇抜かもしれないが、その実、昆虫図鑑や動物図鑑と大差ないように思う。
むしろ見慣れたそれらの本と比べれば、こっちの方が新鮮でおもしろいくらいだった。
「浅緋、浅緋はどのページ見てたんだ?」
こうなると、俺は浅緋がどのページを見ていたかが気になってしょうがない。
浅緋はこの図鑑と、『何か』をしきりに見比べていた。
つまり、この図鑑に載っているカビが彼女の視線の先に存在しているんだ。
「なあ、浅緋っ」
久々に忘れていた高揚感だった。
俺はまるで童心に帰ったような心持で浅緋に語りかけ、彼女の方を振り向く。
しかし、何故か浅緋は俺に対して驚いたような、いぶかしむような視線を投げかけた。
そうして、彼女はそっと口を開く。
「なんで? こういうの、引いたりしないの? カビだよ?」
静かな口調で紡がれた言葉が、俺にはまるで引かないでと言っているみたいに聞こえた。
そして、つい深読みしてしまう。
浅緋は、こういうの俺に引かれると思ったんだ。
きっと昔に、誰かに引かれたことがあったんだ、と。
自分でした勝手な深読み相手に、俺はムッとした。
浅緋にまだまだ他人だと思われていそうなことに。
あるいは以前に浅緋を引いた誰かに。
俺はムッとした。
「引かないよ」
だから、そう断言した。
耳障りなセミの声にかき消されないようにしっかりとした声で。
例え、声がかき消されても伝わるように彼女を見据えて。
そんなことで引いたりする他人とは、自分はもう違うんだと伝えたくて。
俺は断言する。
「本当に、引かない?」
刹那、浅緋は俺に疑いの目を向けた。
「引かない」
一時、浅緋は俺をじぃっと見たまま目を逸らさない。
「なんで、引かないの?」
短い間だった、まだ、彼女の瞳は俺を覗き込んで捉えたままだった。
「だって、おもしろいから!」
だから、真っ向から彼女に目線を返す。
この瞬間から、彼女の凛とした鋭い目が、少しずつほどけていった。
「こんなカビとか、知らなかったし、普通におもしろい。浅緋だって、おもしろいから見てるんだろ?」
そう言葉に出して、俺は浅緋に問い掛けた。
そうだ。浅緋だって、おもしろいからそうやっているんだろう?
じっとしてるだけで汗をかくような炎天下の中座り込んで。
白いワンピースとのコントラストがハッキリ現れるくらいに日で肌を焼いて。
麦わら帽子をかぶって、可愛らしい水筒をたすき掛けにして、本を抱えながら。
君は、いつまでもそれを見ていたいとでも言いたげじゃないか。
浅緋は、まだ言葉を発さない。
俺も、同様だった。
無言のまま、しばらく夏の時間が流れる。
ジリジリと肌を焼く日差しの暑さ。
小雨に降られた窓をすべる雨水のように、汗が体を伝う。
喉が渇く感覚に、乾いた口内から飲み込む空唾はがほんの少し痛い。
そんな中で、浅緋の双眸が俺から外れたのはふいのことだった。
「おもしろいとか、そういうの……たぶん、うざい」
語気の弱い彼女の言葉に、俺はなんと返せばいいか迷う。
けど、それで終わりではなかった。
「でもそれ、おもしろいなら、貸してあげるし。少しなら、教えてあげてもいい、けど?」
そう言うと、どうするの? とでも訊きたげに、浅緋はチラリと俺の様子を窺った。
ぱちぱちと、目くばせをしながら俺を見つめる浅緋の仕草に、思わず笑いそうになる。
こんな彼女は初めてで、微笑ましくて仕方がなかった。
「ありがとな」
だから、素直にそれを受け取って、また、彼女に質問する。
「それで? 浅緋は何を見てたんだ?」
「ここ、ここの木の葉っぱにくっついてる白いの。ふかふかの霜が降りたみたいになってる所があるでしょ?」
浅緋は人差し指で葉に触れないようにしながらある一か所を指さした。
なるほど、ふかふかの霜とは小学生ながらよく言ったものだ。
彼女の指差す部分を見ると、真白く薄いふわっとした霜のような膜が葉に張り付いている。
「へぇ……これって、霜じゃないの?」
「……こんな真夏の昼間に霜が降りる訳ないじゃない」
彼女にそうやって指摘される前に、自分で口にした瞬間同じことを考えていた。
「……だよな」
「うん。ばかみたいっ」
夏の暑さのせいだろうか?
頬を上気させ、俺をわらう浅緋の表情はやわらかく、彼女の機嫌がよく見える。
俺は、この時ようやく俺達の関係が走り始めた気がした。
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