オムライスとケチャップ(2)

 冷房の効いた自室から一歩外へ出ると、むわっとした熱気に一瞬目が眩んだ。

 居間に向かうまでは三十秒と掛からない距離なのに、この短い時間で背中に汗が滲みそうだ。

 きっと、汗を搔くことを忘れていた体が夏の陽気にそそのかされたんだろう。

 あたし達は、熱くなったフローリングの床を素足で踏みしめ、急いで居間を目指した。



 ◆



 ふすまの引手にぐっと力をこめると、指のはらに滑るような重みを感じる。

 それを指先で横に引くように開くと、居間からぬるい空気が漏れ出た。

 冷房がまだ効ききっていないもわっとした空気。

 あたし達は、それに顔を撫でられながら、暑さから逃げるように居間へと入った。


「冷房、すぐに効いてくると思いますから」


 そう言ってトキは居間の丸テーブルの傍に座るようあたし達を促し、台所に戻ろうとする。


「じゃあ、すぐ持ってきますから、ちょっと待っててくださいね」


 そんな彼の額に、流れる一筋の汗を見つけ、あたしはトキを呼び止めた。


「トキ! あのさ……その、何か手伝うことない?」


 彼はその場で足を止め、閉めようとしたふすまに手を掛けたまま「うーん」と考え込む。

 けど、すぐに答えが出たらしく、一人で頷きあたしの顔を見て答えた。


「いや、浅緋は勉強で疲れてるだろ? 昼食ぐらい俺に任せてくれよ。休む時はちゃんと休まないとな」


 保護者然とした明るい表情を向けられ、あたしは何も言えなくなる。

 ただ――


 トキだって、今日みたいな休みの日に休んでないじゃない……。


 ――そう、心の中で文句を燻らせ、そっと静かにふすまを閉める彼を見送った。





 次にふすまが開いた時、トキは右手にオムライスを一皿持って現れた。

 あと少しでもフライパンの上に載っていたら失われていただろうやわらかそうな艶。

 口の中に入れた瞬間、ほろろとたまごが溶けていくのは、誰が見ても明らかだ。

 だんだん、ゆっくりと立ち昇る湯気までおいしそうに見えてきた。

 そんな、ふわっふわで、とろっとろな黄色いベールに包まれたケチャップライスが、皿の上であたし達に食べられるのを待っているのだ。

 記憶に残る淡いバターの味が脳裏を過る中、あたしはこくりと唾を飲み込んだ。

 普段からトキのオムライスを食べているあたしでさえこうなるのだ。

 なら、念願叶う真宋さんは、一体どうなってしまっているだろう?

 いたずら心がシロップみたいに好奇心に絡んでいく中、あたしはそぅっと隣に座る真宋さんの様子を窺った。


 つい先程まで、彼女はしゃんと座っていた。

 正座に近いような――けど、ゆったりと膝から下をくずす、楽な姿勢で座っていた。

 両手をひざ元に添え、あるいは指を組んでテーブルの端に置くようにして、真宋さんはちゃんと座っていた。

 しかし、オムライスの登場で彼女は変わってしまったのだ。

 真宋さんは、ちょんっと両指をテーブルに立てて添え、膝立ちになっていた。

 彼女は、顔に『おいしそう!』と、期待のこもった表情を貼り付け、じぃっとオムライスを見つめている。

 半熟のたまごが焦げ付いてしまうんじゃないかと心配になるくらいの熱視線。

 それを、真宋さんは皿がテーブルの上に置かれてからも送り続け、終いには「わぁ……」と、幼子のように感嘆の声を漏らした。

 これは、家庭教師をしている彼女だけを見ていれば、想像もできないような姿だ。

 そんな様子を眺めながら、トキは嬉しそうに片膝ついてケチャップをテーブルに置く。

 そりゃ、あれだけ嬉しそうな顔をされたら作った当人としては嬉しいだろうと思う。

 そして彼は、その嬉しそうな顔を向け、照れくさそうにあたしに目線を合わせてきた。


 流石に、この状況でその目配せの意味がわからないあたしじゃない。

 彼はあたしに『真宋さんに一皿目を譲ってあげてほしい』と言いたいんだろう。

 目であたしに『いいよな?』と断るトキに、しょうがないなと首を縦に振った。

 あたしだって、あんなにも素直に喜びを態度で示している真宋さんの前で、彼女より先にオムライスを食べてやろうとは思わない。


「それじゃあ、一皿目は先輩に」


 トキはあたしから目線を真宋さんに移し、そう名指しながら、彼女の目の前にオムライスの皿を寄せた。

 すると――


「いいかっ?」


 ――真宋さんの顔は、これ以上あるのかというくらい笑顔で溢れていく。

 しかし、オムライスの皿に添えられていたスプーンを手に取ろうとした瞬間。


「あっ――」


 と、急に短く声を漏らした。


「――でも……」


 その直後、真宋さんは花が散ったような顔をする。

 彼女はスプーンに伸ばした指先を宙で止め、視線を伏せた。

 その後、ピタリと止めた手をじっと見つめ、何かを我慢するように表情を固くする。

 そして、ちらっとあたしへと目線を移した。

 それは、前に圧さえ感じた筈の真宋さんの力強い瞳。

 けど、今回はばっちりと目が合っても、あたしは圧など感じなかった。

 今、彼女のまなざしは消え入りそうなろうそくの火のように黒々と迷いに揺れている。

 そんな真宋さんの瞳の中に、あたしは彼女の意図することを見つけられた気がした。

 だから――


「えっと、その……真宋さん、あたしに遠慮とかいりませんから」


 ――半ば、答え合わせをするようにあたしはそっと口にする。

 正直、こういう場面で真宋さんが人に遠慮するなんてつゆほども思っていなかった。

 『でも』と、あたしは一度、思いを巡らせてみる。

 この人は、こういう時にあたしに――年下に譲ってしまうのかもしれない。

 きっと、先生と生徒だからという理由もあっただろう。

 たぶんこの人は、自分の分とわかる用意のされ方だったり、明確に誰かの分というのが決まっていないと一歩引いてしまうんじゃないか?

 もしかしたら、トキ相手にだったら遠慮なんかせずに受け取ったのかもしれない。

 けど、彼の従妹で、自分の生徒であるあたしには遠慮してしまったんだ。

 そして、これはたぶん……あたしの勘が正しいなら――この遠慮には、少なからずこども扱いが混じっている。

 きっと、真宋さんはなんだかんだ言って年下の面倒見が良いんだろう。

 でないと、後輩からの頼まれごとで、あたしみたいな不愛想の家庭教師なんて引き受けないと思う。

 でも、だからと言って、こんなオムライスの順番ぐらいで遠慮されるようなこども扱いを受ける程、あたしはこどもじゃない。


 それに、あんなに楽しみにしていた真宋さんの様子を散々隣で見せられた後なんだ。

 こんな状況で、彼女にオムライスを譲られて食べることになるあたしの身にもなってほしい。

 きっとあたしは、捨て犬を拾えず、見捨てていくのと同じくらいの気まずさを味わいながらトキのふわっふわとろっとろなオムライスを口にする羽目になるだろう。

 そんなのは御免だ。

 しかも、ようやくあたし自身が真宋さんにも慣れてきたところなんだ。

 今更、そんなみょうちくりんな遠慮を受けながら一緒に食事をするのは嫌だった。

 この人は、自分がどれだけあのオムライスを楽しみにしているのか、もう少し自覚すべきだ。

 まだ、遠慮の意思が抜けきらない真宋さんの瞳を、あたしはじぃっと見つめ返した。

 そして、心持ち背伸びしながら、努めて落ち着いた声をしぼり出す。


「あたしも、真宋さんにはその、お世話になりっぱなしですし、オムライスくらいで気を遣わないでほしいです。それに――」


 前に真宋さんが話したことを、頭の中で思い出した。


 『学生時代食べ損ねた、君の出来立てふわとろオムライスをごちそうになりに来た』


 初めて聞いた時は冗談だと思った言葉。

 けど、今は少し違うように思う。


「――真宋さん……学生時代に食べ損ねたトキのオムライス、食べるために来たんでしょ?」


 たぶんあれも、真宋さんの本心だった。

 あたしの口からこぼれたのは、以前に彼女が口にした言葉の掛け合わせだ。

 それを、この瞬間に耳にすることになった真宋さんは面食らったとばかりに目を瞬かせた。

 そんな彼女の瞳を見据え、あたしは念押しする。


「目的、ちゃんと果たしちゃってくださいね」


 これは、あたしなりの精一杯の気遣いのつもりだった。

 真宋さんが、気兼ねなくオムライスを食べられるようにと。

 しかし、そうやって人が懸命に話をしているのに――


「……っく」


 ――と、いう短く空気を吹き漏らすような声が聞こえ、あたしはその声がした方へと目を向ける。

 するとそこには、目をパチパチさせる真宋さんの傍で、唇を噛むように閉ざすトキがいた。

 彼は俯いて畳に視線を落とし、時折肩を震わせる。

 それは、どうにも笑いを堪えているらしかった。

 ひとまずあたしは『刺され!』と祈りを込めてトキをきつくにらみ付ける。

 あたしが真剣に真宋さんにオムライスを食べてもらおうと考えていたのに、その様子を見て笑いを堪えるなんて信じられない。と言うか、そもそも言い出しっぺはトキの筈なのに、彼は途中から口添えするそぶりさえ見せなかったじゃないか。

 ぐちゃぐちゃとスクランブルエッグみたいに、熱く焦げ付きそうにも不満がまとまっていく。

 自然と眉間にしわが寄り、あたしは不機嫌を頬に詰め込んで膨らませた。

 けど、トキはそんなあたしに気付くことはなく、未だに畳とにらめっこしている。

 するとしばらくもせず、こんがりと不満のスクランブルエッグは焼きあがった。

 あたしは、つつましやかに太ももに添えていた両手で拳を作り、自分の服の裾を彼の胸倉のつもりで思い切り掴む。


 その時――


「ふっ、ふふ」


 ――トキの声よりも明らかに高い、女性の笑い声が吹き漏れた。

 あたしは、ばっと真宋さんに向き直り、彼女の口元を見る。

 案の定、真宋さんの形の良い唇はくすぐったそうに形が歪んでいた。

 それに、彼女の視線までいつの間にかあたしにではなく、畳の目に向けられている。

 あたしがトキをにらみ付けている間に、真宋さんは堪え笑いで身を震わせていたのだ。


「な、なんで二人とも笑うの!」


 トキに対してのイラつきも相まって、二人への不満が止めようもなく溢れてしまう。

 拗ねた声に姿を変えたそれは、情けない一言として二人の耳に届いてしまった。

 そして、きっとそれが……二人のスイッチになったのだろう。

 次の瞬間、二人は堪え笑いをやめ、短い時間、息を吐き出すように思い切り笑い始めた。

 あたしは気持ちよさそうに笑う二人に、息を吹き込まれるみたいに頬を膨らませていく。

 そんなあたしに構うことなく、二人はひとしきり笑った後、呼吸を整えながら各々まだくすぐったさが抜けきらないような声で言い訳を語り出した。


「いや、俺はつい……浅緋が口で先輩を圧せるとは思わなくて、それがなんだかおかしくて」

「あたしは、ふふ。あたしは、そうだな……――」


 落ち着き始めたトキとは違い、真宋さんはまだ声色に笑みが差している。

 未だに何に笑いを誘われると言うのだろう。

 あたしの顔を見て、彼女は可笑しそうにやわらかく頬をくずしていた。


「――うん。出会った日に、君の前であんなおねだりするもんじゃなかったと、今さら反省してた、からかな」


 それは、トキ相手に気を緩め切っていたことを、前向きに自嘲したということだろうか?

 真宋さんは、もう一度あたしから目線を外し「ふふっ」と声を漏らして笑った。

 その後、彼女は「ふぅ」と、細く短く息を吸い、あたしの目を見つめ直す。

 次に真宋さんが口を開く時、笑いは治まり、彼女に快活な声が戻ってきていた。


「そうだね。なるほど……君にあんなところを見られてたんじゃ、このオムライス。遠慮や気遣いして年上らしく格好つけられる筈もなかったね」


 そう、あたしに聞かせながら彼女は「うんうん」と大仰に頷く。

 きっとこの言いぐさは、真宋さんがあたしに遠慮しないために必要なことなんだと思った。

 だからこそ、オムライスを先に食べるだけのことで、そんなポーズがいる彼女に少し呆れる。


「……そうですよ」


 口を衝いて出た言葉の後に、ゆっくりとため息が続いた。

 「はぁ」っと口から漏れ出るそれに合わせ、あたしは両手を後ろに回し、そっと畳に着ける。

 手の平にひんやりと気持ち良い畳のざらざらを感じながら、あたしは脱力していった。


「それに、あたしは今までにもたくさん食べさせてもらってますから。一回や二回、食べる順番を譲るくらいで拗ねる程こどもでもないです」


 最後にそう締めくくって、あたしは真宋さんの背中を押す。

 けどこれには、あたしへのこども扱いに対するささやかな抗いも混ぜていた。

 そんな意図を、真宋さんは受け取ってくれただろうか?

 あたしは、彼女が苦笑しながら『あいわかった』という具合に応答してくれたらいいなと考え、ちらりと様子を窺う。

 けれど。


「そうか……」


 真宋さんは苦笑もせず、長いまつげを触れ合わせるようにして目を細めた。

 うつむく顔はどこか憂いを帯び――


「それは、うらやましいな」


 ――彼女は、そう言って切なげに唇を震わせる。

 けど、そんな表情を見れたのはほんの一瞬だった。


「なら、君に遠慮することもない。さっそくいただこうかな」


 真宋さんはスプーンを取りながら、ぱっと明るい表情を取り戻す。

 ついさっき目にした筈の光景が、見間違いじゃないかと思う切り替えようだった。

 でも、決して見間違いではなかった筈と、あたしは彼女が見せた陰りの正体を知りたくて真宋さんの視線の先を追ってみる。

 しかし、今さら追ってみても、そこにはおいしそうなオムライスがあるだけだった。


「はい、冷めないうちにどうぞ。早くしないと、せっかくの半熟たまごが固まりますから」


 そして、トキのこの一言をきっかけに、あたしは即席の探偵ごっこを終了する。

 たった一度、真宋さんがあたしに遠慮していることがわかったからって、この人の言動全部を詮索するつもりはないし、遠慮してるのがわかったのだってたまたまだ。

 それに、あえて何でもない風に真宋さんが自ら振る舞っているのだとしたら、その装いをひっぺがえすのは途方もなく大変そうだと思った。

 あたしには、もう真宋さんが何を考えているのかわからない。

 いや、たぶん『オムライスおいしそう』くらいは考えていると思う。

 でも、ふとした瞬間に切なげな表情を浮かべたり、今、楽し気にオムライスを見つめる真宋さんの本音――心の奥底で意図して考えていることなんてわかる筈がないと思った。


「あ、先輩はケチャップ付けますよね?」


 そう言ってトキは持って来たケチャップを手に取り、白いフタを指で弾くように開ける。

 そのまま真宋さんにケチャップを差し出す彼の指先を何となく見つめながら、あたしは相手がほのかだったらもう少し何を考えているかわかったかもしれない……なんてことを考えた。

 その時。


「あの、先輩?」


 ぼんやりと考えにふけっていると、訊ねるようなトキの声が聞こえて、あたしはふっと意識が現実に戻る。

 すると、何となくで見つめていたトキの手が、未だに宙でケチャップを手にしたままだった。

 まだ、真宋さんがそれを受け取っていないという状況はわかる。

 何故? と、疑問が浮かぶ前に彼の手から視線を上げると、トキは『主人の言葉がわからない』と、戸惑うわんこみたいな顔をしていた。

 ここで、ようやくあたしは『何故?』と、この状況に疑問を抱く。

 けど、見えない疑問符を頭上に飾るトキの視線を追った先で、疑問は嫌な予感に変わった。

 彼の視線の行き着くところには真宋さんがいて、彼女はにいっと笑みで唇を歪めている。

 スプーンの先でビシッと、トキを指す真宋さんは良いことを思い付いたと全身で語っていた。


「トキ君、ちょっとお願いしてもいいかな?」


 この瞬間、あたしは嫌な予感……その結末を、とんでもないことだと確信する。

 彼女は『お願い』と、口にした。

 けど、その『お願い』の先を――成就することを見越しているかのようなわくわく感が声から滲み出ている。

 察するに、おそらくこの『お願い』を拒否することを真宋さんは良しとしないだろう。

 何を言っても自分の要求を押し通らせるぞ! という強い意志をひしひしと感じる。

 そんな、隠す気もなく胸にしまわれた彼女の本心をきっとわかった上で、トキが「お願いですか?」と、その内容を尋ねた。

 真宋さんの言うことだ、たぶん叶えられないような無理難題じゃないと思う。

 けど、あたしとしては、むしろ実現可能な叶えられる範囲であるからこそ、彼女の『お願い』に嫌な予感を確信してならなかった。

 そして――


「んっ。ほら、ケチャップでオムライスに文字を書いてほしいんだ」


 ――その予感は、確信したとおりに的中する。


「なっ「なんっ――」


 真宋さんのお願いに、あたしとトキは同時に声を上げた。

 けど、うめくような彼の声は、ぱんっと金ダライを叩いたようなあたしの声に上塗りされる。

 そんな素っとん狂な声を上げた拍子に、あたしは後ろ手着いていた体を起こし、勢い余ってテーブルに頭をぶつけそうになりながら前のめった。

 その始終――あたしは混乱する自分の頭で『やっぱり、この人が何を考えているかなんて、あたしに全くわからない』と再確認する。

 この人は、ほんっとうに何を言い出すんだろうっ。

 ケチャップで字を書いてほしいっ?


「なっ――んぐっ」


 あたしは、必死で『なに言ってるんですか!』と言いたいのを、唇を噛んで抑えた。

 本心はそりゃ、やめさせたい一心だ。

 けど、そんなことで喚いたら、それこそ何よりこどもっぽいと、あたしに言い聞かせる冷静な自分が、かすかに心の片隅にいた。

 それに、どんなことを書くかによっては、別になんてことないお願いじゃないか。

 と、静観する冷静なあたしもいる中、冷静じゃないあたしはトキをじっと見つめながら、ことわれぇと、呪うような本心を、決して声に出すまいと喉に留めるので必死だった。

 そんなあたしの割り切れない心情を知ってか知らずか……トキは、真宋さんに「何を書いたら?」と、照れくさそうに訊き始める。

 それは、困ったような声ではあるけど、満更でもなさそうな声だった。

 真宋さんの思惑通り、この『お願い』は彼に、叶えられる範疇として承諾されたらしい。

 彼女はそのことにご満悦なようで、頬杖ついて喜々と歯を見せて笑った。


「君が書くなら何でもいいよ。ほら、早く。せっかくのオムライスが冷めるぞ?」


 そんな二人の様子を眺めながら、あたしは言葉にできない感情を奥歯で噛みしめていた。

 別に、ケチャップで文字を書いてもらうこと自体が羨ましい訳じゃない……。

 むしろ、あたしの場合、ケチャップをオムライスにかけられてトキを怒ったことがあるくらいだ。

 だから……うん……きっとそうだ。

 あたしは、オムライスにケチャップで字を書いてもらうことができない。

 そんな、自分には真似できない『やってもらったことがない』ことをやってもらえる真宋さんに、負けたような気持ちになってしまうんだ。

 でも、ならいっそ、あたしも真宋さんみたいにトキにお願いしてみようかとも、一瞬考える。

 そしたら、きっと、トキはあたしのオムライスにも何か字を書いてくれるだろう……。

 でも、そんなことをしたら、あたしのオムライスはおいしくなくなってしまうのだ。

 だからあたしは、負けたようなくやしさを噛みしめながら、それを決して口には出すまいと奥歯を食いしばり、テレビや漫画で見るようならぶらぶしい『ハートマーク』の類だけは書いてくれるなと、心の底から祈った。

 そして、ついに――


「わ、わかりました」


 ――そう言って、トキはフタを開けたケチャップの容器を逆さにし、オムライスへと構える。

 彼がふにっと指で容器を押し込むと、白い注ぎ口から赤いケチャップが押し出されていった。

 あたしは、オムライスの上をケチャップとトキの大きな手が滑るように動いていく様子をひてすら目で追う。

 もし、トキが『ハートマーク』なんて書いていたらどうしよう。

 完成した文字を見た瞬間、そんなものが書かれてあったらあたしはそれをスプーンでぐちゃぐちゃにしてしまうかもしれない。

 そんないけない思考が頭の中を巡り始めた頃、彼は「ふぅ」と、細い息を吐いた。


「こんなんで、どうですかね?」


 トキはオムライスの上からケチャップを引っ込め、カチッという音を立ててフタを閉じる。

 それがケチャップ文字の完成を指すことは言うまでもなく、あたしと真宋さんは、彼が何を書いたのかと、オムライスを上から覗き込んだ。


「ほ、ほぅ……」

「へぇ……」


 それを目にした瞬間は、あたし達は似たような声を上げる。

 そこには、赤いケチャップで書かれた音符記号があった。

 しかも『おたまじゃくし』の中で、一番かわいい感じのあざといやつだ。

 トキが書いたのは、何かとデザイン等で重宝されるしっぽが付いたみたいな八分音符だった。

 それは、ハートマークに比べれば見る分には心穏やかではある。

 けど、どうせなら星マークとかの方が好ましかった。

 だって、何というか……可愛くて――ずるい。

 このあざとい音符オムライスを見た後に、あたしは黄色い無地のオムライスを食べることになるのだと思うと、尚更その気持ちは強くなる。

 そして――


「これ、自分で頼んどいてなんだが……だいぶ気恥ずかしいな」


 ――こんな台詞を耳にした瞬間、あたしの心情は悔しいから羨ましいに完全にシフトした。

 今、あの真宋さんが気後れするように照れと恥ずかしさで身をすくめている。

 それも、甘いシロップを溶かし込んだような声色で、だ。

 あたしに英語を教えていた時の綺麗でカッコいい発音はすっかり鳴りをひそめ……彼女はつたなく、はにかみながら口ごもって話した。

 そんな様子を目の前で見せつけられたんだ。

 オムライスに音符一つ描かれたくらいで、そんなにも嬉し恥ずかしいものなのか、と。

 興味がわかない筈がなかった。

 やっぱり、後であたしもやってほしいと頼んでしまおうかと一瞬考える。

 けど、トキが真宋さんにしたのを見た直後なのだ。

 今、あたしが普段使わない、しかも好きでもない事を彼が知っているケチャップを使ってオムライスに字を書いてと頼むというのは……あんまりにもあからさまだろう。

 それはもう、やきもちなんて通り越している。

 人がしてもらったのを見たから自分もやってほしいだなんて……それこそ、こどもっぽさ以外の何物でもないと、自分に必死で言い聞かせた。

 その途端、羨ましさと悔しさは混沌としていき、胸の内で同居し始める。

 言いようもない言葉は舌の上でくすぶり、固く閉ざした口をあたしはつんっと尖らせた。


「先輩、気恥ずかしいからこそ早く食べてちゃってください。おなかに入れば、描いたのもわからなくなりますから」


 トキは、そう言ってケチャップの開け口を逆さまにしてテーブルの上に立てる。

 彼は畳に片膝を着きながら、直ぐにでも立ち上がれそうな体勢だった。

 きっと、真宋さんの一口目を見届けたら、台所に戻る気なんだろう。

 真宋さんもそれを察したのか、トキに「確かに」と笑って頷くとスプーンを握り直した。


「食べてしまえば愛らしい音符もただのケチャップだ。恥ずかしがる必要もないな」


 いよいよ彼女はオムライスをスプーンで切り崩しに掛かる。

 けど、真宋さんはケチャップの音符マークから少し離れた所にスプーンをあてがった。

 あたしがそれをとても微笑ましくない気持ちで見守る中、彼女はスプーンをナイフのように扱い、音符マークをなるべく壊さず残そうと、優しく一口分を切り崩していく。

 半熟のたまごはスッとステンレスに切り入られていくと、中からオレンジがかった赤のケチャップライスを覗かせた。

 真宋さんはそれを、混ぜ込まれた細かい野菜と一緒に掬い上げ、顔の近くまで運んでいく。


「それじゃあ、遠慮なく。いただきます」


 そして、あーんと開いた口の中に、甘く香るケチャップライスをふるふると震えるたまごに包ませたまま迎え入れた。

 すると、早々と満足そうに彼女の口角が上がっていく。

 ついには、口に含んだスプーンを引き抜き――


「ふっ、んんぅっ」


 ――きゅっと唇を結んだまま鼻を鳴らした。

 短い間を空け、こくりと真宋さんの喉が動く。

 その直後、開かれた彼女の口から、どんな言葉が飛び出すかは簡単に予想できた。


「おいしい!」


 弾んだ声で感想を言うと、真宋さんは継いでオムライスを掬い、口へと運んでいく。

 真宋さんに握られたスプーンはテンポよく彼女と皿の間を行き来し、その様子を見るトキに「おいしい!」と、いう感想の裏付けを示した。


「それは良かったです」


 そう言って彼は立ち上がると、あたしへと目線を落とす。


「じゃあ、浅緋の分も直ぐに持ってくるな」

「あ、うん」


 あたしが短い返事をする間に、彼はふすまに手を掛け再び台所へと足を向けた。

 トキが通れる分だけの隙間が空き、エアコンから吐き出された冷気と、むしむしと匂い立つ外気が混ざり合う。

 擦れるような音と共にふすまが閉まるのを見送ると、あたしは真宋さんへと視線を向けた。

 すると、彼女はそれに気付いたらしく、手を止めてあたしを見つめ返す。


「どうかしたかな? 浅緋ちゃん」


 食事する内に落ち着いたのだろうか?

 ついさっきまでオムライスにはしゃいでいた真宋さんは今、満足そうに微笑みながら落ち着きを取り戻した声であたしに尋ねた。

 けど、ケチャップで薄く赤に色づいた口元が、見ていてなんとも締まらない。

 そんなおいしい紅を差した口で、彼女は急に「あっ」と声を上げ――


「やっぱり、先にオムライスを食べられたのがお気に召さなかったかな?」


 ――と、声を弾ませ、したり顔を披露した。

 楽しそうに歪む口元には、あざとい八分音符を見た時のような恥じらいがない。


「ちがっ――違いますからっ」 


 上擦った声で即座に否定の言葉を発した後で、真宋さんにからかわれたことに気付いた。

 あたしは、これ以上おもちゃにされてなるものかと、彼女からテーブルへと視線を逃がす。

 視界に入った真宋さんのオムライスは、もう半分近く音符マークがなくなっていた。

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