11話 この時の彼女の顔は、誕生日かクリスマスの日に少女が見せるそれだった。

オムライスとケチャップ(1)

 真宋さんと初め夕食を一緒した日。

 あれから、真宋さんは当然のようにあたしの家庭教師になっていた。



 冷房の効いた涼しい部屋で、シャープペンを走らせ、紙を擦る音が生まれては消えていく。

 一歩部屋の外に出れば、セミの合唱に呑まれ人の耳には聞こえないだろうその音は、あたしの集中力の表れだった。


「それじゃあ、浅緋ちゃん。そろそろ採点しようか?」


 そんな静かな部屋で、勉強机に向かい背中を丸めるあたしの耳に先生の快活な声が入り込む。

 あたしは、それを合図に、ぐぅっと背中を反って伸ばし、椅子にもたれかかった。


「ふっ……はぁー……はい。先生」


 止めようもなく漏れるため息は二十分ほど続いた集中の途切れにほかならない。

 そんなあたしの左隣から、キュポンッと小さな空気音が聞こえる。

 音の下方向へ目線を向けると、先生がフタを取った赤ペンを握っていた。


「じゃ、始めるね」


 先生はそう宣言すると、右手を伸ばして自分へと問題集を引き寄せる。

 そして、すいすいと視線を泳がせるようにそれに目を通し始めた。

 視線の移動に合わせて、先生の手が流れるように動いていく。

 すると、綺麗な赤で問題の正解と不正解を示す印がさらさらと書き込まれていった。

 まる……はね……まる、はねはね……まる、はねはね。

 まるで、楽器でも演奏しているみたいに、先生はテンポ良くペン先で紙を擦って音を鳴らす。

 物音の少ない静かな室内だと、その摩擦音はより鮮明に耳に聞えた。

 それが心地よい反面、明らかに不正解を指す『はね』の多さに精神的な疲れがたまっていく。


「よし……」


 採点が終わったのか、先生は指揮棒を振るうのをやめるようにピタリと手を止めた。

 先程まで走らせていた赤ペンにフタをして、満足そうに口元を結んであたしに向き直る。

 彼女はあたしの顔をみるなり、にっと笑って嬉しそうに表情をくずした。


「四十六点。数学も少しずつ点数が上がってきたね」

「えっ? 本当ですか?」


 先生の言葉が信じられず、あたしは驚きで声をこぼしてしまう。

 採点が終わったばかりの問題集を自分に引き寄せ、書き込まれた点数を確認した。

 確かに、先生の言った通りそこには数字で『四十六』と書いてある。

 まだ満点の半分にも届いていないけど、これは夏休み前の自分と比べれば倍近い点数だ。

 あたしは、ぐっと胸にこみ上げるような小さな達成感を噛みしめながら――


「もっと、ダメな点数だと思ってました……」


 ――つい、抱いていた不安を吐露してしまった。

 その瞬間、あっ――と思って口をつぐむがもう遅く、達成感のために溢れだした弱音は、真宋先生の耳に届いてしまう。

 こんなにポロリと弱音を晒してしまうなんて……。

 いつの間にか、あたしはこの人に慣らされていたんだろうか?

 どこか達筆な雰囲気のある先生の書いた数字の点数。

 それから視線をあげ、そっと先生のことをうかがった。

 すると――


「これから、その点数はどんどん上がっていくよ、浅緋ちゃん」


 ――と、先生はあたしに聞かせて、かっこよく片目を瞬かせる。

 もう、この人のこれを見るのも何度目になるだろう?

 あたしは今、彼女のぱちんっと星が零れ出そうな綺麗なウィンクに、力強い励ましを感じていた。

 まだ出会って数日なのに、こうして同じ部屋に隣り合う時間が長いせいなのかだろうか?

 与えられた問題を解かされ、それが正解だったり間違いだったり……。

 そんなことを繰り返す度、じりじりと距離を詰められていたのかもしれない。

 いつの間にか、この人と二人で過ごす時間に対する苦手意識は、若い草の芽のように摘み取られていた。


「さて。じゃあ、浅緋ちゃんにも、疲れが出てきたみたいだし、休憩にしようか?」 


 先生は右手に付ける薄水色の腕時計をのぞき込んだ後、あたしにそう提案する。

 先生の腕時計はあたしの視界にも映り込み、その透明な丸いガラス板の中に閉じ込められた時計の針が、朝から三時間ほど勉強していたことを教えてくれた。

 それは、小休止をはさみながらだったけど、それだけ自分が勉強をしていたという証だ。

 これにまた、あたしの達成感がそうっとお湯を注がれるように満たされていき、 思わず気分の良いため息が「ほぅ」と、口から漏れ出る。

 体から張り詰めた糸を引き抜かれたような感覚がした。

 あたしはその感覚に身を任せ、ゆっくりと椅子にもたれたまま脱力していく。


「わかりました、真宋さん……」


 自然と、口から出る声色もやわらかくなった。

 その途端、集中することを忘れた体が急に空腹感を思い出してしまう。

 へこっと空いたおなかにそっと手を添え、あたしは『もう昼食時だな』なんて考えた。

 そんな時、コンコンとドアをノックする音が耳に入る。

 その音に振り返ると、あたしよりも早くに真宋さんがそれに応じた。


「大丈夫、入っていいよ。今終わったところだ」


 彼女が声を張って招くと、戸はキィと軋むように開き、トキが顔を覗かせる。


「ちょうど良かったみたいですね。もうお昼ができますよ。居間に来てください」


 彼はくたびれた白いエプロンを身に着け、戸の隙間から半身だけ姿を見せながら、昼食の招集を告げた。

 直後、空腹感でくぅくぅっとお腹が震え、あたしの胸は昼食に対する期待で膨らんでいく。

 誰にも聞こえないようにとお腹を抱えながら、あたしはトキに昼食のメニューを尋ねた。


「トキ、今日は何?」


 彼は、そんな言葉足らずなあたしの声を受け止めると――


「オムライスだよ」


 ――と、即座に答える。

 次の瞬間、そんなトキの声に何より早く彼女は反応した。

 ガタッと大きな音を立て、勢いよく椅子を引いて真宋さんは立ち上がる。


「この時を、ずっと楽しみにしてたんだ!」


 この時の彼女の顔は、誕生日かクリスマスの日に少女が見せるそれだった。

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