オムライスとケチャップ(3)

 念願叶ってオムライスが食べられたからと言って、真宋さんは教鞭を緩めたりはしなかった。

 彼女――いや、先生はそういう人なんだ。

 先生は、家庭教師として真宋るりと、後輩の従妹に接する真宋るりを見事に使い分ける。

 そういう切り替えのはっきりした人だから、あたしも距離感が取りやすかった。

 だからきっと、あたしが先生に慣れるのが早かったのは、そんな要因も大きかったんだろう。


 先生との授業は、本日も滞りなく辺りが暗くなっても続いていた。

 昼間あれ程聞こえた蝉の声はすっかり静まり、代わりにコオロギの鳴き声が聞こえ始める。


 そんな中、あたしは先生がやるようにと指示した英語の小テスト――その問題、最後の一問の解答を書き終え、プリントから顔をあげた。


「お、終わりました」


 もはや気力だけで握っていたシャーペンを放り出し、あたしは先生にそう報告する。

 利き手を離れたシャーペンはコロコロと机上を転がり、普段はメモ帳や服に留める為にある筈の留め具を机につかえさせ、ピタリと動きを止めた。

 そんな筆記用具の遊行を尻目に、あたしは「ふうっ」と、深い溜息を吐く。

 そして、油粘土みたいに固くなった腰の筋肉に手を当て、座ったままぐいっと腰を伸ばした。

 折り曲げていた体の筋肉は音もなく震え、背筋が伸びていく感覚が心地良い。

 思わず息が鼻孔を通り抜け、あたしは静かに鼻を鳴らしてしまった。

 そうして、ひとしきり体を伸ばした後で手元のプリントに視線を戻す。

 しかし、ある筈のプリントは、知らぬ間に姿をくらましていた。

 あたしはその行方を追って、迷うことなく先生の座る左隣の椅子へと視線を移す。

 すると案の定、それは先生の手中にあった。

 先生は机にプリントを置き、あたしが書き込んだ解答に黙々と目を通していく。

 それと同時に、彼女はテンポ良く赤ペンを振るい解答に丸印を付けていた。

 その様子を見守りながら、あたしは一つでも解答に間違いがあってくれるなと祈る。

 もし、解答に間違いがあれば、今でさえ遅くまで続くこの個人授業は終わることなく、間違い直しへと移行していくだろう。

 誤った問題の正しい文法をおさらいさせられ、ゆっくり丁寧に時間を掛けてやり直しさせられるのだ。

 そうなると、また時間が長いのだが……今回は全問正解の自信があった。

 何故なら、今さっき仕上げた問題は今日、数学を勉強していた時間も含め、勉強の合間合間、ことあるごとに何度も反復して解かされた問題だからだ。

 朝一番の開口一番に「小テストだ」と手渡され、採点の後、プリントに二十問か そこらの間違いを示す『はね』印を付けられた。

 そこから、間違った問題の正しい解答、正しい文法、正しい単語の綴り等を、耳をなめるようにじっくり丁寧教え込まれたのだ。

 間違い直しが終わる度に同じ問題、あるは似た傾向の問題を解かされ、その集大成がさっきの小テストなのだ。

 本日の締めくくりとして出されたそれを、明日明後日ならともかく、今日はもう間違う筈がない。

 そんな確信的な自信の中、少しの不安を織り交ぜたような気持ちで――


「よし、完璧。全問正解だ」


 ――あたしはその声を聴いた途端、空気の抜ける風船みたいに脱力しなおした。

 その間、先生は右手に身に着ける腕時計――その文字盤をのぞき込む。

 そして、へたれるあたしを見て「じゃあ、今日はここまでにしようか」と、告げた。

 あたしはそれに無言で頷き、今日の授業を締めくくるためにと、最後の気力を振り絞る。

 力の抜けきった体に鞭打ち、先生に向き直ると「ありがとございました」と、お礼を言った。

 へこりっと頭を下げ、真宋さんにつむじを向ける。

 すると、あたしの視界は自分の太ももでいっぱいになった。

 その時。


「ああ、お疲れさま」


 そんな、労いの言葉をあたしは聞き取る。

 ぱっと顔を上げると真宋さんが満足そうに頷きながらあたしを見ていた。

 彼女はにっこりと笑うと帰り支度を始めるために、手提げかばんを膝の上にのせる。

 そして、筆記用具に手を伸ばしながら口を開いた。


「今日――そして、今さっき君が解いた問題は、英語の期末テストで君が全問バツを食らっていたところだ」

「そ、そうだったんですか……」


 持参した筆記用具をしまいながら淡々と話す真宋さんの声を聴きくあたしは、道理で難しかったはずだと乾いた笑いを出す。

 けど、その直後――


「もう少し掛かるかと思ったけど、今日一日でものにしたね」


 それはまるで、固く閉じたつぼみがくすぐられて花びらを緩めていくような笑みだった。


「がんばったね、浅緋ちゃん」


 ――彼女は、そうあたしに小さく笑って見せた。


 からかうでもなく。

 可笑しがるでもなく。

 あざけるでもなく。

 その笑い方を、あたしは知っていた。

 人の頭を撫でるような、やわらかいまなざし。

 これは、人を褒める時に向けられるものだ。

 これは、以前、トキにも向けられたものだ。

 そんな、あたしを認めてくれる笑い方に、つい胸が弾んでしまった。

 その瞬間、しまったと思う。

 脱力し切っていた体……あたしの口元はにっと笑みが差していた。

 ため息を吐くばかりだった口は静かに結ばれ、それだけであたしの感情が漏れ出る。

 あたしは今、この人に褒められたことを嬉しいと感じていた。

 これはもう……この嬉しさは、苦手な科目ができた達成感だけでは説明にならない。

 このことを、せめて彼女には悟られまいと、あたしはテキストが並ぶ勉強机の棚に視線を逃がし、顔を背けた。

 けど、遅かっただろうか。

 いや、この人に気取られなくても……既に、あたし自身が自覚してしまった。

 もう、あたしにとって真宋さんは、ただ『憎らしい』だけの人ではなくなってしまったんだ。


「でも、今日できたからと言って本番に同じことができなければ意味がない。これからも定期的に復習してくからね」


 続く真宋さんの言葉に、あたしはもにょもにょと口を動かした。

 『はい』と、返事をしたつもりだが、それが正しく伝わったかはわからない。

 あたしは避けていた筈のこの人に、いつの間にこんなにも心を許していたんだろうと、くやしいような、恥ずかしいような心持ちで、意味もなく本棚に並ぶ背表紙を視線でなぞった。

 しかし。


「そうだ! 来週の頭にでも、期末テストと同じ問題をやってみようか? きっと驚くくらい点数が上がっていると思うよ」


 あたしを褒めたその口から、『テスト』と言う単語が耳へと送り込まれた瞬間、嬉しさもくやしさも恥ずかしさも……みんな等しく萎えてしまい、心と体は疲労感を思い出す。

 本棚から再び真宋さんへと視線を戻すと、彼女は受け持った生徒の成長でも感じているのか、未だににこやかな笑みを浮かべていた。

 そんな彼女にあたしは「どりょくします……」とだけ答える。

 その後、ため息を吐く間もなく勉強机に突っ伏し、ごちんっとおでこを机にぶつけた。

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