2話 「あのさ……部屋にいないんだけど。あたし」

ソースとケチャップ(1)

 先輩のアドバイスのおかげか、ここ数日、浅緋あさひと会話をする機会が増えている。

 まだ、何が好きだとか、どんな趣味があるとか、彼女についての深い話はできていないのがもどかしい気もするが……。

 けど、そこはおいおい、もっと仲良くなってからできればいい。

 まずは浅緋に、もっと俺の存在に慣れてもらって、日常生活を円滑に進められるようにする。

 これが目下もっかの目標だと、俺はこの時思っていた。



 二階の自室で漫画でも読もうか、携帯でもいじろうかとイスに座って逡巡しゅんじゅんしていると。


「トキ、晩ご飯できたよ」


 夕飯の支度を済ませた母さんが俺を呼ぶ。

 声のする方へ顔を向けると、部屋のドアをノックし、母さんがひょっこりと顔を出していた。


「今日の夕飯は?」

「あんたが作ってくれたお昼の残り物」


 何が楽しいのか、母さんは俺の質問にまるで歌う様にリズムを付けて返答し、その直後に「冗談よ」と笑って見せた。


「ちなみに、今晩はコロッケだから。浅緋ちゃん好きなんだって」


 浅緋の好物を作ったからご機嫌なのだろうか? 本当に母さんは浅緋のことを気に入ってるんだな。

 母さんは、俺が物心ついた頃にはもう既に「女の子がほしい」と繰り返し言っていた。

 そんな母さんにとって、今の生活はそれこそ待望していたものなんだろう。

 年甲斐もなくはしゃぎながら部屋を後にする母を見送り、俺はイスから立ち上がる。

 その時、出て行ったと思った母さんがまたドアから顔を覗かせた。


「そうだった! トキ、浅緋ちゃんにもご飯出来たって声掛けてくれない?」


 母さんの申し出に、俺は一瞬首をひねる。

 浅緋の部屋は一階にあり、それも二階へとあがる階段の真向かいにあるからだ。


「なんだよ? ここに来る途中で声掛けなかったのか?」


 素直に疑問を口にすると、母さんは可笑おかしそう俺に告げる。


「あんた、最近浅緋ちゃんと話せてきてるでしょ? この調子でがんばんなさいって言ってんのよ」


 こういうのは、老婆心ろうばしんとでも言うんだろうか……。

 余計なお世話だ! と、言おうとした時には、既に母さんはドアから顔を引っ込めていた。



 階段を下りると直ぐに浅緋の部屋のドアが目に入る。

 俺の目線の高さより少し低い位置に猫の形をした『あさひのへや』と書かれた木製のプレートが掛かっていて、それが結構目を引いた。

 俺は手の甲でコンコンと軽くドアをノックする。

 日常生活の中でのこういったやり取りはもう問題はない。


「浅緋、ご飯出来たってさ。すぐ来れるか?」


 声を掛けると、室内から何かを動かすような物音がして俺は耳を澄ませた。

 だが、その途端に音が聞こえなくなる。

 代わりに、短い間を置いて、ドア越しに浅緋のくぐもった声が聞こえてきた。


「す、直ぐ行くからっ」


 浅緋がそう言った後、また何かを動かすような音が聞こえだした。

 浅緋は「直ぐに行く」と言ったが、彼女が部屋を出るのは、まだ時間が掛かるかもしれない。


「先に行って待ってるからな」


 返事の代わりにガサゴソと音が鳴る部屋を背に、俺は夕飯の待つ食卓へと向かった。



「あら? 浅緋ちゃんは?」


 食事の待つ台所へ着くやいなや、母さんそう訊ねられる。


「直ぐ行くって本人は言ってたけど、部屋の中でバタバタしてたみたいだから、もう少しかかるんじゃねぇかな」

「そう? じゃあ、浅緋ちゃんが来る前に色々並べてくれる?」


 母さんは「来い来い」と俺を手招きすると、コロッケが山盛りの大皿を一枚手渡した。

 ざっと見ただけで二十個以上はある。とても三人で食べきれそうな量じゃなかった。


「母さん、これは流石に張り切り過ぎだろ……」

「余った分は明日食べればいいじゃない? それに、浅緋ちゃんが満足いくまで食べさせてあげたかったの!」


 満面の笑みを浮かべながら、母さんは俺にソースも持って行けと言わんばかりに差し出す。

 今でこそ昼間は働いているため、母さんは朝食と昼食作りを俺に任せているのだが。

 これがもし、専業主婦なんてやっていたら、来年の今頃には浅緋の体系はまるまると肥やされていたかもしれない。


「あんまり猫可愛がりすると、かえって浅緋の為にならないぞ」

「そんなこと言ったって、浅緋ちゃん猫よりずっと可愛いんだもん」


 俺は片手に大皿を持ち直し、空いた手でソースを受け取るとそれを食卓に運んだ。

 その間、鼻を芳ばしい油の香りがくすぐって行ったのは言うまでもない。

 ゴトッと重量感のある音を立て食卓に置いた大皿を前に、食欲が今か今かと踊り始めていた。

 たまらずソースを利き手に持ち替え、カパッというプラスチック音を鳴らしふたを開ける。

 今の俺には、熱々のコロッケがソースをかけられることを心待ちにしているように見えた。


「母さん、先にソースかけといてもいいかな?」


 逸る気持ちが抑えきれず、なけなしの理性で母さんに許可を求める。

 そんな息子を見て母さんは肩を竦めると「はいはい、いいわよ。ご自由に」と言った。

 待ってました! 思わず声が出そうになったのを必死に抑え、俺はソースの容器を傾けコロッケの山に垂らしていく。

 注ぎ口からどろりとした黒い液体が姿を現す。

 それは、重力に逆らうことなく一筋の線となってコロッケに降り注いでいった。

 芳ばしい油の香りと、濃いこってりとしたソースの香りが溶け合って混ざり合う。

 次第にきつね色した衣には、じんわりと黒い線が格子模様に染みてくる。

 全体にまんべんなくソースがかかるよう手を動かしていくのに、二十秒も掛からなかった。


「よしっ」


 カチッと音を鳴らしてソースの注ぎ口にふたをすると、妙な達成感があった。

 いや、達成感よりも、今からコロッケを食べられるんだと言う、期待感なのかもしれない。

 そんな、ちょうど俺がコロッケにソースをかけ終わった時、ドアが開き浅緋が顔を出した。


「ごめんなさい。ちょっと遅れちゃった」

「あ、浅緋ちゃん。今夜はコロッケ作ったわよ、かおるさん張りきっちゃった」


 母さんは浅緋に「おいでおいで」と手招きして食卓へ向かい入れる。

 その声色は明るく、今すぐにでも浅緋にコロッケを食べさせたい気持ちが伝わってきた。

 そんな母さんの口から出た『コロッケ』という言葉に、浅緋はピンッとアンテナを立てたみたいに反応する。

 凛とした目はへにょっと緩み、表情がやわらかくなるのが目に見えてわかった。

 だが。


「えっ! コロッ――あああああぁっ!」


 ゆるり表情が緩んだのも束の間。

 食卓に鎮座ちんざするコロッケを見た浅緋は悲鳴のような声を上げると、きっと俺の方をにらんだ。


「あ、浅緋? どうした?」


 手に持っていたソースの容器を食卓に置き、俺は内心の驚きをできるだけ見せないように浅緋に声を掛ける。


「うざいっ! なんでもないからっ!」


 しかし、そう言って浅緋は俺から目線を逸らすと箸を取りに行き、食卓につくなりすごい剣幕でコロッケの山をにらみ始める。

 そして、コロッケ一つ一つを凝視し、何か違いを見出すかのように選び取っていった。

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