ソースとケチャップ(2)

 結局、昨日の晩飯の時に浅緋が叫んだ理由はわからなかった。

 あの後、母さんが浅緋に何度か「どうしたの?」と訊いていたが、浅緋は「なんでもない」と言うだけ。

 俺が訊こうにも、今の俺じゃ浅緋は理由なんて話してくれないだろう。

 まだ、俺にできることは日常の挨拶程度なのだから。



 未だ解決してない昨日の顛末てんまつを思い返し、俺はベットから起き上って一階の洗面台を目指す。

 今日は大学が休みなので朝食だけでなく昼食も浅緋と一緒に執る時間があった。

 もしかしたら、その時に何か話が聞けるかもしれない。

 そんなことを考えながら洗面台に辿り着くと、先に浅緋が来ていた。

 顔を洗った直後なのか、薄水色のタオルを顔に押し当てるようにして水分を拭き取っている。


「おはよう、浅緋」


 ここ数日の間に、既に日常となりつつあるこのやりとり。

 俺がおはよう、と言ったら少しの間を置いて浅緋が答えてくれる。

 ……筈だったのだが。


「…………」


 浅緋は、丁寧におでこの水っ気をふき取ることに一生懸命なのだろうか?

 待っていても一向に、いつものような少しの間を空けての返答がない。

 浅緋が顔を拭き終わっても、タオルを壁に掛けても、終いには、俺の横を通る時も……。

 彼女は、一言の言葉もなく、そのまま洗面所を後にしようとしていた。


「あの、浅緋? おはよう」


 俺は何か不穏なものを感じつつも、もしかしたら聞こえていなかったのかもしれないという薄い望みに賭けて、もう一度浅緋の背中に向けて挨拶をする。

 すると浅緋は一度足を止めた――


「…………ちっ」


 ――が、舌打ちを一つ残し、俺に構うことなく洗面所を後にした。


「……もしかして、振り出しに戻ってる?」


 口に出してみると、その恐ろしさに寒気がする。

 今が夏だとしても、決して涼しくなっていいかも……なんてことにはならない。

 俺、何か浅緋にしたんだろうか?

 舌打ちをされた分、これまでよりも浅緋との関係は悪くなっているんじゃないか?





 顔を洗って出直す、という言葉がある。

 でも、実際に顔を洗ったとして、何が改善されるというのか。

 あれは、語源や由来も知らないどこかで聞いたことがある程度の言葉だ。

 だが今の俺は、この状況が改善できるというならどんな些細なことでも試したい気分だった。

 浅緋が洗面所から出て行って直ぐ、冷水を手に掬い何度も何度も水音を立てて顔を洗う。

 今が夏とは言え、朝一番。陽が低い時間帯にずっと冷水を手ですくっていればキンッと手が冷たくなり、一瞬凍る思いをした。

 その代わりに目は冴え、どこか頭の中がしゃきっとする。

 しかし、だからといって浅緋との間にある問題点が急にはっきりとわかったりはしなかった。

 何かしら、俺に問題があると言うのは察するのだが、霧がかかったように自分の中で何が悪かったのかということがはっきりしない。

 とりあえず、まずは目先のことから片付けねばと思った。



 俺は、朝食の準備をするために台所に立つ。

 鍋にお湯を沸かし、フライパンを一つ出してから、冷蔵庫、冷凍庫、調理棚から卵を三つ、味噌と白味噌、豆腐、カットされた冷凍ホウレンソウ、乾燥わかめ、あごだし、バター、コショウを招集しょうしゅうしテーブルに並べていった。

 ただでさえ俺と浅緋の今の関係は良好じゃないんだ。

 この上、朝食で手を抜いて嫌われるようなことは避けなければならない。

 食べ物の恨みは怖いと言うし。


「よし!」


 この掛け声で気合を入れ、俺は手を洗った。

 手を抜かないと言っても、作るものは至ってシンプルだ。

 冷凍ホウレンソウを電子レンジに解凍させながら、俺はひんやりと気持ちのいい豆腐に包丁を入れ手の平で一口サイズに切っていく。

 沸いてきた鍋の中へ手の平から豆腐を滑らせ、乾燥わかめにその後を追わせた。

 あごだしをさっと鍋の中に振り入れる際、水分を吸ってふやけていくわかめを見ていると、先程の自分の気合が作っている品目にそぐわないような気する。

 まあ、そんな感情は沸いて出たあくと一緒に掬って捨ててしまうのだが。

 料理で手を抜かないことが、手の込んだモノを作ることにはならないのだから。

 フライパンに少量のオリーブ油を垂らし、バターを投入しながら、そんなことを考える。

 ボールに落とした卵をかき混ぜながら、フライパンの火加減を見ていると、熱されれば簡単に溶けていくバターが、なんだか浅緋とわだかまっている自分とは対極の存在に思えた。

 そんなバターがパチパチと音を立てだしたのが、自分を嗤っているようにも思えて、急いでホウレンソウを電子レンジから取り出してフライパンの中に突っ込んだ。

 水気を含んだ、しなっとしたホウレンソウに黙らされたのか、バターは卵をかき混ぜるだけの間は大人しくなる。

 さあ、仕上げだ。沸いた鍋の火を止め味噌と白味噌をすくってお玉に乗せ、鍋の中の出汁をすくうと、まるで味噌を湯煎ゆせんするかの要領で溶かしていった。

 白味噌を含む優しい薄茶色が鍋の中全体に広がると、ほんのりと甘い香りが鼻口びこうから迎えられる。

 と、味噌の投入で終結に落ち着いたこちらは一旦置いて、コショウを手に取り、味付けにとボールの中の溶き卵と、フライパンの中のホウレンソウに振りかける。

 あとは、オムレツを作る要領で溶き卵をフライパンの中に入れ、ホウレンソウを卵で包むように炒めていくのだ。

 コンロの火を少し強くし、腕に力を入れてフライパンを持ち上げる。

 火とフライパンの底が付かず離れずとなる遠火の距離で熱し、橙色だいだいいろの溶き卵が、とろりとした半熟とふわりと固まった黄色になった所で火を止めた。


「よし」


 とりあえず、目下のおかずが二品目。これに、昨晩のコロッケを足して。白ご飯をよそえば形になるだろう。これが、手を抜かないということだ。

 ただ、少し心に引っかかることがあるとすれば、今の浅緋が俺の作った料理を食べてくれるかということだった。

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