22.『監視官の散歩』
夜が好きだ。
特に深夜。皆が寝静まった後で一人、目的地を定めずに歩く。それが心地良い。
石畳を踏みしめて、軽い音を鳴らす。昼間には大勢の声や足音を吸い込んできた街の石畳を、今は自分一人で歩いて踏んでいる。そこにどこか充実した独占欲のようなものを感じている自分がいる。
パトリツィアは深く眠ることができない。
監視官として肉体に施術と祝福を受けた結果、眠らなくても良い身体を手に入れたのだ。
ワインバーグ帝国の技術の到達点であり、かつてのツィタル正教の聖女が残した秘術の残滓。
激しい欲望は感じない。致命的な毒物も効かず。睡眠さえ取らなくても良い、超人の肉体。監視官としての職務を遂行する上で、パトリツィアはそんな自分の肉体を気に入っている。
いつもレクシスと一緒に周っていた街を、レクシスが寝静まったタイミングで観察するというのは、パトリツィアの数少ない趣味だった。
レクシスの行動パターンは二つ。街で口説いた相手のところで爛れた夜を過ごしているか、素直に宿屋で眠っているか。……今夜は後者のような気がした。
つまり、今は静かな時間を過ごすことができる。
露店が畳まれ、多くの声が賑わっていた市場には誰もいない。
「お借りします」
レストランに備え付けられた野外テーブル。隅に整えられている折りたたみ椅子を広げて、座る。満月には及ばない、少しだけ不格好な円の形をした月が見えた。
外套に縫われた黄金の刺繍を弄っていると、
「パトリツィアさん?」
目を上げると、向こうに小さな背の少女がいた。
「あら。こんばんは、キノミさん」
「こ、こんばんは……」
緊張した様子で近づいてくる。
顔は血色を失って、指は乾燥しており、ささくれている。右足に重心が妙にかかっている。直前まで膝をついていた証拠だ。唇も乾燥して皮が剥けている。極度の慎重とストレス、あるいは焦燥。治癒師の仕事が上手くいっていないのか。
そう、予想する。パトリツェアも視診においてレクシスに負けるつもりはない。
……となれば、自分に出来るのは誘導する事だけだ。
「治癒師の仕事が忙しいようですね。睡眠は大切だとレクシスが言っていましたよ」
「あはは……すいません。やっぱりバレちゃうものなんですね。はい、タリュム師に頼まれていた書物がまだ届かなくて、さっきカルデラン商会に問い合わせてきたところなんです」
キノミは白いローブを揺らして苦笑する。
「……やっぱり、違うようで似ていますね。医術と治癒術って。治癒師も、睡眠は肉体から魂を解放し、休める行いなので勧めているんです」
「あなたは寝ないのですか?」
「あたしは……まだ、眠れませんから。マティアスくんを助けられる方法が見つけるまで、寝てなんていられません」
疲れた口調ながらも強い意思を感じる言葉に、パトリツィアは目を細めた。
「……あの、パトリツィアさん?」
「あなたはそっくりですね」
「はい?」
初めてキノミを目にしたときから、既視感があった。
それが今確信に変わった。
キノミは、病で死んだレクシスの妻に似ているのだ。顔つきや性格はまるで違うが、身に纏う空気がそのものだ。
名をガリテア。レクシスに負けぬほど深い知見と並ならぬ洞察を備えた少女だった。
どうしてレクシスがキノミに対して、ぶっきらぼうな態度をとるのか。
疑問が氷解する。レクシスはキノミを通じて、ガリテアの影を見ているのだ。かつて守ると誓って、守れなかったもの。
キノミからしてみれば、なんとも理不尽でどうしようもないことだ。
パトリツィアは口を緩めて、呟いた。
「少しお話をしませんか? 幸いなことに、今夜は月明かりが街を照らしています。お互いの顔が見える夜はなかなか良いものですよ」
「その、あたしが関わっていいんでしょうか……監視官なんて、帝国の偉い人に……」
不安げな顔で尋ねてくる。
「そんなに緊張しないでください。監視官はただの職務であり、敬う必要はありません。それに今は監視官の職務中ではありません。一人の人間、パトリツィア・カールステッドとして接してください」
監視官の証である黒と黄金の外套を脱ぐ。白のノースリーブが風にはためいた。
キノミの視線がパトリツィアに向けられる。
「……きれい……引き締まってる……」
しばらくしてから不躾だと思ったのか、慌てて視線を外してそっぽを向いてしまった。耳が真っ赤に染まってる。
そんな可愛らしい反応に、パトリツィアは微笑んだ。
「仕事上、身体を色々と使いますから。でも大変ですよ? 最近は腹筋が浮いてきて気にしているのです」
慌てた様子で首をぶんぶん振る。
「そ、そんなこと……とても綺麗な身体だと思います!」
「ありがとうございます、キノミさん」
もう一つ椅子を引き寄せる。
「座ってください。僅かな休憩ならば、あなたの神は怠慢だと認めないはずですよ」
「……えっと、じゃあ……」
キノミは少し迷ってから、椅子に腰を下ろした。
椅子に座ったキノミは、地面に足がつかないでゆらゆらとしている。幼いな、と思う。
「あの、本人がいない前でこんなことを言うのはどうかと思うんですけど……レクシスさんって、どんな人なんですか?」
パトリツィアは眉を吊り上げる。
「意外ですね。レクシスのことが気になるんですか?」
「……え、あ、はい」
「あなたも隅に置けませんね。ずっと邪険にされながらもそのような感情を抱くだなんて、可愛らしくて良いと思います。つくづく顔だけは良い男ですからね」
パトリツィアの顔をぽかんと見て、自分の発言の意味がそう(懸想)とも取れるような内容だったことに気づいたキノミは慌てて否定する。
「そ、そうじゃないです、違いますからっ! あたしはただ、レクシスさんが使ってる医術……その仕組みとかが知りたくて……あ、いや、もちろん、レクシスさんのことも興味がないって言えば嘘に……」
パトリツィアが慌てるキノミの唇を人差し指で塞いだ。呆然とするキノミにパトリツィアは片目をぱちりとつむり、微笑む。
「冗談ですよ。キノミさんは、レクシスがいかにして医術を学び始めたのか……そして医術がいかにして人を癒やすすべとして認められているのかが知りたいのですよね?」
「そう、です……」
彼女は身を縮ませて、小さな声を漏らす。
「からかい過ぎましたね。ごめんなさい、キノミさん」
頬を膨らませて恨めしげに半目で睨んでくるキノミの視線を受け流しつつ、パトリツィアは細い指を頬に当てる。
「教えてあげることもできますが、キノミさんに一つ聞きたいことがあります。あなたはそれを知って、どうするつもりなのでしょうか?」
医者の情報を教会に伝えるつもりなのか。キノミに悪意がなくとも、止めなければ。
「……それは」
キノミは目を伏せて、小さな声で呟いた。
「あの人に……レクシスさんに、お礼を言いたいんです」
「……お礼ですか?」
少し驚く。表情には出さない。
「はい。あたし、まだ馬車で襲撃者に襲われたときのことを覚えています。あの時、レクシスさんはあたしの代わりに矢を受けてくれました」
少し思い出すのに苦労した。確か、あの矢は元々キノミの頭を射線が通っていたのだった。それをレクシスが受け止めたのだ。
自分が正しいという根拠のない自信から来る鼻につく物言いに、子供らしい不安的な感情の機微、そして女癖の悪さ。それらに隠れていたが、あの時は確かにレクシスがキノミを庇わなければ、彼女は死んでいた。
……あのとき。レクシスがキノミを庇うだなんて思いもよらなかった。レクシスの人柄は、そういう風には出来ていない。
ガリテア。やはり、レクシスはキノミにガリテアの影を見ているのだろうか。
「それと医術を知りたいということの関係は──」「あのっ、医術の話だったら……レクシスさんとお話できると思って……」
途端に理由が子供らしくなった。
約二秒の沈黙。思わず笑いが口をついて出る。
「ど、どうして笑っているんですかっ⁉」
レクシスとキノミ。この二人を見ていると背中の奥がむず痒くなってくる。
子供の世話は、いつだって大変だ。
笑いを収めるのに、これほど苦労したのは監視官となってから久しぶりのことだった。
パトリツィアは人差し指を口元に一本立てた。そして小さく笑う。
「これから話すことは、私たち二人だけの秘密ですよ」
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